• ベストアンサー

ひとは やわらがしめられうるか?

ri_rongの回答

  • ベストアンサー
  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.6

 恩恵というものは――それが何なのかよく考えてみると、何となくそのようなものがこの世にはあるのかもしれないと、――それについて、生まれて初めてよく考えたとき、  そのときにはすでに、恩恵を受け取った後だったのではないかと僕は思います。  だから慌てて見直してみて、受け取った分だけはせめてお返ししたい――人間として真面目にそう思えたとき、自分は負った者だったのだと定義されるのだろうと思うんです。つまり人間は、(誰でもそうだと思いますが)気付いたときにはすでに、自らが負った債務に対して「赦されたい」という望みを抱く存在となっている、つまり債務者となっているはずです。  信仰というものをひとまず置いて、自らの経験だけで真面目に自分を定義してみようと考えたとき、「自分は債務者である」という前提は、極めて重要な公理であり、この公理を抜きにしては社会人としての営みのほとんど全てが説明できないものになってしまうと僕は考えます。  恩恵という言葉の意味をもしも知ったなら、そのとき、その人間は、債務者となっている筈なのであり、もしもそうではなく、自分が0から始められると思っていたのなら、その人は恩恵の意味を知らないというふうに言い換える事ができる。  この短いセンテンスである古い時代の存在論が、「赦し」あるいは、「学び」、そして「労働」、これらのような全ての社会的営みの基礎となっている。ある・なしという極めてシンプルな存在論は、いつの時代かはわかりませんが、少なくとも自分の生まれる遥かむかしからずっと続けられており、このような掟があるなどとは終ぞ知らないうちに、ふと気付いたときには、どうやらそんな世界に自分は紛れ込んでいた――という状況です。  誰かから受けた恩恵に対し、その価値に値するか否かはわからないまでも、自分の持つ力(すなわち労働力)を、自分と世界の境界線である肉体の行動によって提供する――これが労働の(そして赦しの)基本だと思います。  その行動が、果たして受けた恩恵の価値に見合うかどうかはわからない。  人と人との係わり、これは一種の交易だと思いますが、そうであれば尚のこと、より原初的なニューギニアの人々の交易に原型を見ることができるだろうと思います。10月に亡くなったレヴィ・ストロースの受け売りですが、海辺の住人たちは、隣村との境に漁で得た魚を置いて立ち去ります。すると、山の住人たちは魚を受け取った代わりに山芋を置いて立ち去る。  このような言葉を介さない交易の習慣が古い時代にはあって、賢明な彼らは、来月はエビにして欲しいとか、蕎麦を食べたいとかいう要望を決して相手に要求したりはしない。交易の基本は恩恵であり、恩恵の基本は相手が何を求めているかわからない状態でなければ、意味がないからだと思います。決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。  人間は言葉と通貨を用い始めたとき、この交易の基本を少しだけ限定したものにしたのだろうと思います。勝手に質問を閉じてしまった質問者に対し、少し書き残したことを補足する意味で、答えてみました。赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。

bragelonne
質問者

補足

 よう モテモテ男。文学音痴(!! へへっ)の ri_rong さんにしては しゃれたご見解で。ご回答をありがとうございます。  まづ 結論において使われている用語の定義の問題があります。半ば重箱の隅のほじくりですが でも必要だろうと考えます。  ★ 赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。  ☆ もしこの《赦し》を 仮りに〔母や父の恩などを含めて〕もっぱら経験行為にかかわる債権債務関係をめぐってのものだとすれば 《信仰》とは――と言っても 信仰は結果的にその経験行為をつつむことになるようですが―― 次元がちがうと考えます。そういう定義です。  ぎゃくに言いかえます。いわゆる《人生は貸しを与えたり その借りの返しっこの連続である》という意味での《負い目》についての《赦し》の問題であるとすれば 《信仰》とは直接にかかわらないと言っても――信仰は生きる姿勢のようなものですから―― 大きく同じ主題だと捉えなければならないでしょう。  このげんみつさを据えてみるならば なるほどと合点のゆく――なみだのちょちょぎれる――すばらしいお答えであると思います。  ★ 決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。  ☆ つまり 赦し合い――やわらがしめられたこころどうしの――としてのおつき合いが続く。スサノヲ市民社会( die Susanowoschaft )は歴史のかまどである。(えっ? なんでマルクスなの?)( krya1998 さんの世界ですね。浅草下町だそうです)。  長期の展望としての理論を提出していただきました。これが――つまりなお 現場における現実のやわらがしめられや臨床の応対実践がひかえているとも言わねばならないからですが―― 思想内容を別としたファビアン主義だと思いますし いわばハンニバルがジブラルタル海峡を渡って長期遠征に出るといった気構えであると思います。  しかも いまここでただちに やわらがしめられる。と言ってしまうのは 信仰という安易な奥の手です。非思考というのは ときを超えていますから。  レヰ゛ストロースの主義思想はおもしろくなさそうですが その個別の研究成果は生かされましたね。そう言えば トロブリアンド諸島で各島の各ムラのあいだで 円環貿易をしていたとか。Aムラから始まって Nムラまで交易の流れがたどりつくと このNムラは Aムラに品物を提供する。環が完結する。  ということは あれですか つまり この円環をどこででも破ってもよいから 重層無尽に世界中に交通網を張り巡らせばよいとも考えられます。ま いまもそうなっていますかね。あとは こころだけでしょうか。  あとは 《掟》などと言われると いわゆる《律法》のにおいがするので 過剰反応しときます。しかも安易な奥の手によって。  《正義や善悪や裁き》などの律法規範は モーセによってもたらされたけれども 真理と恩恵とはかのイエスによって指し示された。そのときには 石の板に記された規範やムラムラの慣習法としての掟をとおしてではなく きみたちのむねに刻まれた愛のちからとして 真理がはたらき 恩恵は 恩恵の上に恩恵が与えられるというところまで――暗示のごとく――示されたようなのです。  書き残したことがあるような感じですが いまは放っておきましょう。

関連するQ&A

  • ひとは やわらぎを得ることができるか

     (あ) あやまちを犯したひとを 存在としてとうとび あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき ひとは やわらがしめられる。か。  (い) 赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。 (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。    (う) 社会との――世間との・そしておのれみづからとの――根本的な和解が成るか? ということ。  この不案内のまま 問います。自由なご見解をお寄せください。

  • ひとは やわらがしめられうるか?(つづき)

     あやまちを犯したひとを 存在としてとうとび あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき やわらがしめられる。かも知れない。  赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。  (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。  おのれと社会との根本的な和解が成るか? ということ。  あるいは  聖なる甘えは 自然に成ると思われるが いかに?  すなわち やわらがしめられるか否かを問う前に 成るものと思うが いかに?  次のような事件を経れば 《成る》と言えましょうか?  ◆ (詩編 57:7&9)~~~~~~~  わたしの魂は屈み込んでいました。  かれらはわたしの足もとに網を仕掛け  わたしの前に落とし穴を掘りました  その中に落ち込んだのはかれら自身でした。  目覚めよ  わたしの誉れよ  目覚めよ  竪琴よ  琴よ。  わたしは曙を呼び覚まそう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いかようにもご見解を述べられたし。

  • 人は 人のあやまちを赦すことができるか

     同じおもむきの質問をしたことがあります。ふたたびみたび問いたいと思います。  ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  さらに この主題の内実が明らかにされて行くことをのぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?

  • 人が 人のあやまちを赦すことができるか?

     この問いをなお問います。  1.   まづ前身の質問の趣旨説明をかかげます。    ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。  ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  この主題はその内実として まだ分からないところがあるかも知れません。それが明らかにされて行くことをものぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?      _________    2.  さらに趣旨説明を継ぎます。  早い遅いはあるでしょうが 誰もが自分の与えてしまった迷惑や危害については いかにオモテ向きは低姿勢であやまり続けていたとしても 内心では《取り返しがつかない。けれども 詫びようがない。どうしようもない》というところに落ち着いて自分を赦していると思われます。  もっと言うならば たとえばそのあやまちを犯してしまったそのあとの人生をすべてその害をこうむった相手のためにささげて生きるのみだと考え じっさいにそう生き切ったとした場合 そうだとしても オモテ向きは自分を赦していないけれども そのようなつぐない人生を送るというかたちで自分との和解は成り立たせていると思われるからです。  つまり たいへんな負い目を負いそれをすべて払いきるというきびしい人生ではあるのですが たとえばそのようなかたちで けっきょく自分を赦している。こう思われます。  そしてちなみに 昔は 死んでおわびしますという言い方(および実行?)がありましたが 死んだからと言って 自分を赦さなかったということにはならないように考えられるのではありませんか?  そのように 自分を赦すかどうかについて考えるなら たいていは赦すのであり おそらく赦さない能力は 人間にはないのではないでしょうか?  でも 被害者やその近しい人たちから見れば その加害者については とうぜんのごとく《おのれを赦す能力も資格もないに決まっているではないか》というふうに扱うはずです。  そうして もしこの被害者やその身内の人びとが 仮りに自分たちがそれぞれ加害者になったとした場合を考えるなら どうなりましょうか。  つまり 世間の相場から行けば 加害者である自分については遅かれ早かれ赦すでしょうし かつて自分が被害者であったときにはその加害者に対しては こんなことを言っていた。(あるいは思っていた)。と思い出す。つまり 《どんな面をさげて おまえは自分を赦せたのか? 自分を赦したなどと言えるのか。オモテにはその気配も出さないからと言って その内面でいったいどんなことを思っているのか? わたしは知っているのだ あんたは内心ですでに自分を赦してしまっているということを》と。  だったら――つまりそんな内心の探りっこをしているくらいなら―― けっきょく人間には《赦す資格も能力もなく 同時に赦さない能力も資格もない》 こう考えをあらためるなら きわめて人間的な共生のための方程式が得られるのではないか?  3.  さて このように趣旨説明をさらに伸ばしてみたのですが なお言い方を変えて説明します。  すなわちぎゃくに言えば 《赦すことができず赦さないことも出来ない》という能力を人間は 持っている。のではないか?   《赦す・赦さない》にはかかわりを持たないという能力が 生まれつき人間にはそなわっている。のではないか?  わたしは人間として 能力によって人を赦すことも赦さないことも出来ない。のだと。  つまり 或る人 A が或る人 B を死なせてしまった場合などを例として考えるとき それでも A は・つまりわれわれの おそらく 誰もが 自分を赦すようになると思われます。  これは いかにつぐないを続け 残りの人生がすべて償いの時間であったとしても その内心は自分を赦しているものと思われます。  むしろ そうであるゆえに(つまり やがて時とともに自分を赦してしまったと或る日悔いたことがあった ゆえに) つぐないをして 自分の不甲斐無さのつぐないをしようと思うものなのでしょう。  自分を赦していないという姿勢を採り その心を持ち続け つぐないの人生を送るという外形と 片や内心とは 果たして同じでしょうか? 舌を出して笑っているわけではないとしても 心はと言えば もうとっくに自分を赦しているのではないでしょうか?  もし自分が加害者であって 想うにそのような外面と内面とを合わせ持つポスト加害の人生を送らざるを得ないのだと決めた場合 果たして《つぐない》ということは もしそうすべきだとして どうすればよいのか?   おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  4.  この質問が問うこととしては あやまりの言葉 おわびの言葉を申し述べること これは問題ないと思うのですが 問題は そこに《赦す・赦さない》が入ると ことは人間存在の一大事にかかわっているのではないかということにあります。  きわめてぶしつけで挑戦的な言い方をすれば 《ごめんなさい》のひと言で ことは全部終わったということ これが 人間たちのあり方なのではないか?   あとは 法律上の――あるいは法律に準じた考え方の上での――かたちあるモノによるつぐない これは それとしてしかるべく伴なわれるだろうとは思います。心身のあるいは生活上の損傷を埋めるだけとしてでも 助け合いは必要でしょうから。  5.  いかがでしょう?   そして 問いの出し方や問題点の切り口がずれていたり間違っていたりしていましょうか? 主題そのものの認識がつたないでしょうか?

  • 人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

     次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

  • なぜ人は おのが《固有の時》を大事にしない

     それが ターミナルであるのに。  つまり起点であり終点であり基地になり港になりしばしば他者に対して連絡船であり仲介所であり分岐点でもあるそのハタラキの泉を。  人間存在は 具体的な存在たる一人ひとりの《わたし》にあって やがて自己が自己に到来するという《固有の時》がおとづれる。  《なるほど存在とは こういうことだったのかとおのれが人間であることをさとり確認するとき》がおとづれる。  つまり 存在が存在でありわたしがわたしである自己還帰に到り 世界における自己の位置づけを確認し おのれが人間として生まれて来たことの自己了解を得る。  ただし この自己到来・自己還帰・自己了解は 自己が自己であるというコトのみであって そこに何かの理念や思想が伴なわれることはない。むしろ あたかも思考を超えて理念をも超えたところで その固有の時はおとづれる。  わが《固有のとき》とは 自己が自己に到来するときである。    自己到来というのは 世間と自分が和解しているという意味である。  じっさいにそういう心の状態にあることだ。  しかも 自分自身とも和解している。  おれは こうなのだ。これが おれなのだ。こうであって おれはおれなのだという境地。  そうして わたしが世界と和解し世界にしかるべく位置しているなら 何をやっても悔いが無い。    これは 何ものにも代えがたくとうとい。  はずである。    きみは この《とき》を見たか?  

  • みづからに立ち帰る・世間との和解

     《前史を終わらせる》問題を継ぎます。  1. 自己との和解そして世の中との和解 これが――さまざまなきっかけをとおして いかなるかたちにおいて起きるにせよ―― 個人にとっての《前史の終了 すなわち 後史への突入》だと考えられます。  2. では和解は どうすれば生まれるのか? いかにしてわが心におとづれるのか?  3. ひとつには どうもつらつら考えるに 《悪は存在しない》という命題に心から同意することと同時なのではないか?  4. 悪と呼ぶ行為ないし現象は実際に起きているが それは 善の損傷としてあるのであって 《悪》というイデアやモノが存在しているわけではないのだ。この認識と身における感性的な秩序のようなものが成り立つとき こころのわだかまりは解けて 《和解》が成る。こう考えました。  5. 人びとの中には 一生のあいだについぞこの和解を見ない場合もあるのだろうか?  6. 死を前にした心境において 和解の境地は得られるものだろうか? つまり人は遅くとも死の直前には 自己に立ち帰り世の中とも解け合い 結ぼれたしがらみは無くなっていると言えるだろうか?  7. 言いかえると人びとの中には 死んでも その無明のうちに過ごす前史が終わらないという場合もあるだろうか?  8. 死ぬまで 《悪》なる観念に悩まされつづける魂は 存在するだろうか?

  • 人は何故 同じ過ち を繰り返すのでしょうか?

    どうして人は「同じ過ち」を繰り返すのでしょうか? 政治家の失言で本人が辞職したり、お決まりのお詫び会見なども含め 飲酒事故であれほど社会問題となっているというのに・・・ 未だにあちこちで飲酒事故が繰り返されたり。 喉元過ぎたら、結局はその痛みも忘れてしまうのでしょうか? どうしてこのような同じ過ちを繰り返すとお考えになりますか?

  • 天国に入る人の数は、14万4千人と書かれているそう

    時々、この哲学カテを興味深く覗かさせ頂いております。ところで、 <こころは 果たして存在するか> という質問がありました。その回答に <最初に天国に入る人の数は14万4千人と書かれてます> という説明がありました。狭き門だな、という感慨です。 キリスト教にも不案内ですので、どこに書いてあるのか、教えて下さい。

  • どうしたら人を好きになれますか?

    20代後半のものです。 仕事がなくて困っています。それも、社会や人が好きじゃないことが原因のひとつだと思います。 小さいころは人が好きでした。色々あって、自分の殻に入るようになってしまいました。 根本的に自分が好きじゃないんでしょうか? どうしたら人を好きになれますか?