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「死」しか生産的で価値のあるものはない?

cyototuの回答

  • cyototu
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回答No.9

ここは哲学欄ですから、雰囲気ではなく、「学」として論じましょう。 生産的と価値という言葉で、それぞれ何を意味しているのでしょか。先ず、価値について論じてみます。この言葉を理解するには、「価値観の違い」が何を意味するかを考えてみれば判ります。価値観の違いとは、世界観の違い、あるいは、文化の違い、と言う意味ですね。貴方の育った国や環境や、貴方の経験して来た偶然な出来事が、その環境に属する人間達の共通な個性、すなわち文化を形作り、また、貴方自身の固有な個性を形作っております。ですから、文化の違った世界に入り込むと、自分では善しとすることが相手に通じなかったり、あるいはその逆の立場になったりで、何か場違いなところに来てしまった気になります。このように価値観の違いは、即、個性の違いを意味しますから、価値観、あるいは文化は必然的に多様であるはずです。このことから、貴方が「死は価値がある」と言う主張は、「私は、『死は価値がある』と言うことに同意する文化を持っている」とうことと同義語になっていると考えられます。上にも述べましたように、文化は必然的に多様ですから、貴方の主張を善しとする文化や個性も存在し、また、悪しとする文化や個性があって当然なのです。また、文化や個性は、歴史的な偶然の積み重ねで生まれてくるものですから、その歴史性を無視して、論理的に文化や個性の善し悪しを論じることに余り意味があるとは思えません。それどころか、この多様性を否定して、一方が他方に自分の価値観を押し付けると言う弊害があります。相手の文化の存在を認め、君子は和して同ぜず、というのが在りうべき態度だと思います。 次に、「生産的」とは何を意味するのか。これは、今上で述べた「価値観」の良い練習問題です。私は、自然科学者として生活をして来ましたが、私の属する文化では、「生産的である」とは、「創造的である」と同義語です。その文化に属する人間から見ると「死は創造的か」と言われても、「は~?」という反応しか出て来ません。従って、私の属する文化では、「死は生産的か」と言う質問は、質問として体を成していません。しかし、私のこの見解なり、価値観を敷衍して、皆に押し付ける気はありません。上にも述べましたように、違った文化に属すれば、その方にとっては、「死は生産的か」が体を成すのかもしれませんから。そして、私にはわけの判らない主張をするような多様性を許容しているこの世界が、私をしてこの世に生を受けたことに喜びを味あわせてくれているのだと言う文化に私は属しているからです。

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