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続 価値の哲学 蛇足 生産論
以前「続価値の哲学」の質問を、慌てて締め切った為、気になる点がありましたので再度ご質問させていただきます。 価値について考えている者が、生産や消費について質問するのは、先走りのそしりを受けるかもしれませんが、先走ったお礼をしてしまい、生産について、皆様のご意見を伺えないかとの、お願いです。 生産=生活の資を作り出す仕事。なりわい。生業。出産。 自然物に人力を加えて、人にとって有用な財を作り出し、もしくは獲得すること。 消費=費やしてなくすこと。つかいつくすこと。費消。 欲望の直接・間接の充足のために財貨を消耗する行為。生産と表裏の関係をなす経済現象。 辞書は、上記のように説明していますが、私見ではさらに、物質に対する観念的な欲望の、生産消費があるのかもしれません、もつとも、このことが、私にとって「価値」の難解な問題ですが。 それでも、現在、エネルギーの保存則や、作用反作用の法則が自然の法則として認められる以上、エントロピー経済を待つまでもなく、自然の一部として人間が自然の法則から免れるとは考えられないのですが、「生産と消費」に関して、何を作り出し、何をなくすことが出来るのか、「本当の事を教えてください」(歌の真似。 「価値」を生産・消費していると言う回答はなしにしてくださいね。 私の非常識は、いつか常識になる可能性は有るのでしょうか? 前回の質問番号は、821408です、ご参考にしていただければ幸いです。
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お礼
お礼が大変遅くなり、失礼致しました。ご回答者様の「無限の愛」に応えられる方法を見つけるのに時間がかかってしまいました。初めに言い訳をさせてください、私は文章力が貧弱で自分の言葉で文章を構成する力に欠けています、そこで、先人の言葉をお借りする方法が今のところ、私にできる最善の方法と考えました。 著作権とマナー関連で不安がないわけではありませんが、この方法でしか応えられない責任はすべて私にあります。 また、質問の内容に関する事柄より、哲学のカテゴリーでの「価値」「生産」「消費」「交換」「所有」などの経済学の概念を持ち込むことの理由を説明することの方が、ご回答者様の「無限の愛」に応えられるのではと考えました。以下は、私にすれば異例の長文になりますので、この一点をご説明することにより、お礼に代えさせて頂きたいと考えています。 生産は直接にまた消費でもある。(1) 最初はマルクスの言葉です、私は、唯物論者でもマルクス主義者でもありませんが、こんなところにも、お尻に大きな尻尾が残っている証拠かもしれません、しかしこの言葉の生産・消費は経済学上の生産・消費であって、一般的な生産・消費とは違うようです。この時点で、すでに別の道があったのではと私は考えています。 資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえわれわれの研究は商品の分析から始まる。(2) これは私的企業の経済体系の理論的分析として考えられる理論経済学の書物であって、制度的統制への論及をいっさい含んでいない。わたくしはこの制限をかなり厳格に解するであろう。というのは、わたくしの考えるところでは、資本主義の純粋論理的分析はそれだけで一つの仕事であるのに対し、経済制度の概観は(それが現代の制度であるときでさえ)経済史家の方法のごとき別の方法によって処理されるのが最もよいからである。(3) 上記の二つの言葉は、経済学の限界をものがたっています、勿論、個別の諸科学は限界又は外延を確定して、精密な研究に進むのは当然の事でしょう。しかしながら、そこから漏れてしまったもの方が、私には重要に感じられるのです。
補足
お礼の続きです。 もし正統派経済学が誤っているとすれば、その誤りは、論理的整合性に著しく留意して構成された上部構造の中に見出されるべきではなく、前提が明確性と一般性に欠けている点に見出されるべきである。(4) 人間の幸福とはなんであるかは、科学とは無縁なのでしょうか、確かに経済の成長は、人々の幸福を増進させたことは事実です。しかし、何かを得れば何かを失うのは、この世の常。砂の上に建てられた上部構造は高くなればなるほど危険が増すような気がします。 「原子力についてはその管理責任の所在がなにより大切です。ところが、原発はいつのまにか国の手を離れて電力業界へと移ってしまっている。いまとなって、たとえわれわれが何らかの質問を試してみても、おそらく責任ある回答はどこからも返ってこないのではないだろうか。それに問題はすでにあなた方経済学者の側へと移されたようにも見える。エネルギー供給のいかんが『経済成長』や『完全雇用』のいかんに影響するのだといわれては、物理学者としてはこれ以上何ともいいようがないではないか」朝永振一郎(5) この言葉は、著者と朝永氏との会話の一部です。 自然科学の進歩が、逆説的に、人間の生命の不安を増大させた一面があることを、自然科学者の責任とすることは不可能でしょう。経済学は原子力廃棄物の長期にわたる不安を如何に評価することができるのでしょうか。個別諸科学の限界は、総合的な実践哲学とでもいえばよいのでしょうか、新しい方法論の模索を求めているのではないでしょうか。 本書は、枯渇性資源に関する正統派経済理論の批判に一章を当てている。そこでは「時間選好」について論じることになるだろうが、これは、経済理論を方法論的に特徴づけている、内省的・主観的個人主義と一致する「顕示選好」としてよく経済理論に導入されるものである。だが当然のことながら、まだ生まれていない経済行為者は今日の市場に入札することができないのだから、この方法論は少々不便なものである。(6) この本は、実はまだ読み終えていません、「私たちの子孫が、今日の市場に参加できないという事実に市場経済の大きな落とし穴がある」恥ずかしながら初めて気が付き、今回の一連の質問の動機といえます。この問題を経済学的に如何に答えるのか、興味の尽きないところですし、哲学に値すると考えています。 おお人間よ・・・・・おまえの不幸な子孫になおいっそう大きな不満を予告しているいろいろな理由のために、現在の状態に不満なおまえは、おそらく、もう一度むかしに返れればよいと望むだろう。そしてこの感情はおまえの最初の祖先への賛辞や同時代人への批判となり、不幸にもおまえの後に生きる者にとっての恐怖を呼び起こすにちがいない。(7) 難解です、哲学のカテゴリーで経済書の言葉ばかり借りていますので、飾りに付け加えました。 すべての研究領域には二つの限界があり、そこでは思惟の運動が精密な形式から哲学的な形式へと移行する。認識作用一般の諸前提はすべての特殊領域の公理と同じように、その叙述と吟味とをこの特殊領域から原理的な科学へと移し、この科学の無限の彼方によこたわる目標は、無前提に思惟することである。 この目標を個別諸科学は断念する。なぜならこれらの個別諸科学は証明なしには、それゆえ事実的および方法的な性質をもつ諸前提なしには一歩も前進しないからである。・・・ ・・・一般につねに分業的であるひとつの科学の立場が、けっして現実の全体をくみつくさないように、 二人の人間が彼らの生産物を相互に交換するということは、けっして国民経済的事実にとどまらない。なぜならそのような事実、すなわちその内容が国民経済学的な形象によってくみつくされる事実など、けっして存在しないからである。右の交換はむしろ心理学的事実として、風俗史的な事実として、さらには美学的な事実としてもまったく同じように正当に取り扱われることができる。そしてそれが国民経済学的事実として考察されるときでさえ、それによって袋小路の終末に到達したわけではなく、この形態のなかにさえこの事実は、その諸前提を非経済的な諸概念と諸事実において吟味し、その結果を非経済的な諸価値と諸関連にたいして検討する哲学的な考察の対象となる。(8) これまた難解です、ただ私の哲学の真似事にとつては、大切な「免罪符」です。 (1)「経済学批判要綱」マルクス (2)「資本論」マルクス (3)「価値と資本」ヒックス (4)「雇用利子および貨幣の一般理論」ケインズ (5)「生命系のエコノミー」玉野井芳郎 (6)「エコロジー経済学」アリエ (7)「人間不平等起源論」ルソー (8)「貨幣の哲学」ジンメル 現在の状態に不安をいだく私は、同時代人を批判することはできます しかし、私にいったい何ができるのでしょうか?