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続 価値の哲学 蛇足 生産論

welovekobeの回答

回答No.3

私の書いた回答に対して、いろいろ補足やお礼をたく さん頂きまして至極恐縮です。 私は某有名大学の経済学科を卒業しておりますが、経 済学がその当時大嫌いでして、ほとんど成績は可や不 可でした・・・おかげで留年しましたが。 ですから、貴殿が書かれている内容を完全に理解でき ていないことをお許し下さいませ。 ただ、漠然とですが、今の貴殿に何か補足させて頂け ることがあるとすれば・・・ それは、「自然界というのは、善なる世界だ」 と言うことだけです・・・ 神様が創造された自然界には、原理・法則・秩序が最 初からプログラムされております。 それは、「全体目的と個体目的の調和」という原理な のです。 良く人間は、勝手に、自然界は弱肉強食だ・・・とか 言って競争を良しとしますが、ライオンは、シマウマ を襲い食べても、お腹が減っていなければ、たとえす ぐ横をシマウマが通りすぎても見向きもしないそうで す・・・ これは何を意味するかといえば、足ることを知ってい るということです。過分な欲望は動物にはないのです。 全体目的を破壊する欲望がすなわち悪なのです。 彼らにはそれがありません。 ライオンが、もし、シマウマを襲わず、周辺がシマウ マだらけになれば、シマウマは滅んでしまうのです。 シマウマが滅べばライオンも滅びる・・・結局、弱肉 強食の世界なのではなくて、 「調和の世界」なので自然界がちゃんと成り立ってい けるのです。弱肉強食なのではないのですね。 人間だけが、勘違いしているのです。 人間だけが悪なる競争を良しとしている変な生き物な のです。 つまり、自然界は神様の原理で創造されているので、 善なる世界なのです。全体目的と個体目的が調和した 世界・・・これが善なる世界なのです! しかし、人間は、哀しいかな、堕落したので、自己中 心的な欲望、すなわち過分な欲望を持ち、自己の位置 を離れるという堕落性を持つに至ったのであります。 これが悪なのです。 人間の欲望が問題なのです。哲学、主義、思想はどう でもいいのです。 人間の欲望が問題です。 経済学は、善なる経済学とか悪なる経済学とかを問い ませんね。だから、経済学では、この世を救えないの です。なぜでしょう・・・? それは、人間が、神様の創造理想から外れて自己中心 性を持って堕落したからです。これが悪の根元なので、 この善悪の問題を抜きにして、世界を元通りに平和に 復帰すことはナンセンスなのです。 人間は神様によって創造されたか、単なる偶然に発生 したかの2つに1つなのです。 これ以外にはありません。絶対にありません・・・ だから、問題なのです。 神様は、我々堕落人間が勝手に信じる信じないとか言 う前に、実在するかしないかなのです! 2つに1つなのです・・・ もし、神様がいらっしゃらないのなら、哲学なんて止 めなさい、というのです。まるであたかも「ぼうふら」 のように偶然に発生して、突然変異のなれの果てが、 我々人間なら、最初から、全体目的である神様の人間 創造の目的もなければ、存在目的もないんだから、存 在価値があるはずがないでしょ!!  だから、「産まれながらの人権」も「尊厳性」もナン センスなんですね。価値のない物を捕まえて、善だ悪 だ・・・?? ナンセンスなのです・・・ 人間始祖アダムとエバは、神様の全体目的・創造目的 を無視した過分な欲望により、自己の位置を離れ、堕 落して、血統的に、自己中心的な欲望を持つに至りま した。善なる欲望=本心もありながら、しかし、悪な る欲望を抑えられないでいるのです。これが人間の矛 盾性なのです。本来の状態から外れているので、矛盾 なのですね。最初からそのような状態なら、「矛盾」 とは言いませんね。  堕落したのです。 ですから、過剰な生産、過剰な消費、過剰な分配が歴 史上いつも止まないのです・・・ 欲望が問題です。 神様は、ご自身に似せて人間を創造されましたが、理 想の世界も、また人間一個人に似ているのです。 ですから、理想の経済体制も、人間の体がヒントにな るのです。 生産と分配と消費とは、あたかも、人体における胃腸 と心臓と肝臓のように有機的な関係を保たなければな らないので、生産過剰による販路競争や、不公平な分 配によって、全体目的に支障をきたすような蓄積や消 費があってはならないのです。 必要に基づく十分な生産と、過不足のない公平な分配、 そして、全体的な目的のための合理的な消費をしなけ ればならないのであり、そのために、ちょうど、人体 における肝臓のように、機能全体の円滑な活動のため に、適宜な貯蓄をしなければならないのであります。 このようなことは、自然界では当たり前のことなので す。が、しかし、人間世界では、当たり前ではなくな ってしまったのです。 この問題を解かない限り、哲学だなんだかんだ言って みたところで始まらないのです。 何度も言うようですが、人間が単なる偶然に産まれた のなら、哲学してみても、何も答えは出ません。最初 から人間の存在自体に何の意味・価値もないんですか らね・・・ しかし、もし、人間が神様によって創造されたのなら、 人間は結果的存在なのです。 そして、神様は原因的存在なのです。 原因的存在を無視して、結果的存在である人間だけに 目を向けているのが今の哲学なのです。 結果的存在である人間をいくら調べても、 どうして、人間が存在しているのかは分かりません。 神様が作者で人間はその最高傑作です。 作品をいくら眺めていても、なぜその作品を創造した のかは、分からないのです。 作者を無視していたらね・・・・ 永年に分かりません。 原因的存在である神様に目を向けないで、何が善だ何 が悪だと言ってみても所詮意味がないのです。 神様は実在するかしないかなのです。 あなたが信じる信じないの前にです・・・!! しかし、それを信じるのはあたなの責任分担です。 あなた次第なのですね。 それでは、今日はこの辺で・・・

noname#15238
質問者

お礼

ご回答者様と私では、根本的に違つているのですが、ご回答の内容には、驚くほどのシンパシーを感じます。 私は神に付いては、あまり話したくないのですが、神に触れなければこのアドバイスのお礼にならないような気がしますので少しだけ。 二つに一つ、その通りです、絶対です。 問題は、「始まりがあったのか、無かったのか」の二つに一つです。始まりがあれば神は実在しますが、始まりが無ければ、私たちはただ目的を探す無為な存在です。 誤解しないで下さい、私は神を信じる方を、羨ましく思っても批判などしません、ある人が、神を信じているか否かを本質的問題にしていないということです。 逆に申せば、神を信じる方にとって、神を信じない私のような存在はじゃまなのでしょうか、そんなことは無いですよね(笑。 お礼の内容には自信なし、有難うございました。

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