• 締切済み

「愛」とは何を表現したものか

「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

みんなの回答

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.26

>生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を >総まとめにした詩的表現でしょうか。 >親和欲求でしょうか。 >いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 とっても難しい問題だけど、種の保存の為に、 親和欲求はやはり必要かと思います。 実際、本当の孤独に人間は耐えうることができるのだろうか? 小野田さんや、横井さんは、やはり人間の存在を信じ続けていたと 思います。でなくては生きていけない気がします。 「愛は死んだ」と言われる時代が来るとするならば、 きっとその時代は、絶対的な永遠の種の保存が実現可能であり、 それに対する何ら人間の本能的な働きかけも必要となくなる 科学技術が完成する時代なのでしょうか?

the_hours
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すみませんが、私と皆さんの感覚が思っていたより全然違っていたのと、皆さんのほうが考えられているため私はもはやわかりません。 しかし、やはり来ると思います。

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回答No.25

No.11です。 「神は死んだ」 については、他の方からの指摘がありますが、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2821689.html での良回答や http://oshiete1.goo.ne.jp/qa75125.html?ans_count_asc=20 の、No.6 での記述も参考になるかも知れません。 また、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%86%E8%AA%9E%E3%81%A3%E3%81%9F も、もし、読んでおられないのでしたら、一度は読んでみるべき本だと思います。 上記背景をしっていたならば、下記のジョークは面白いものになります。 >>> http://www.tsu.ac.jp/tagblocks/ouyou/news/sportsNews/0000002056.html トーマ(西川訳) 「ドイツ人のバカ笑い」   集英社新書 2004   \700 小話 2:  「神は死んだ。―――ニーチェ」と、だれかがベルリン動物園駅の壁にスプレーで書いた。  「ニーチェは死んだ。―――神」と、別の誰かがその下に書き加えた。 <<< また、「愛」についてですが、お示ししたリンク先にも取り上げられている「愛の無情について」(亀井勝一郎)も、一読されることをお勧めします。部分的には、下記にて見ることができます。 >>> http://www.fit.ac.jp/~y-tanaka/ http://www.fit.ac.jp/~y-tanaka/ainomujoh/aino-mujoh.htm  汝の隣人を愛せよと聖書は教えています。自己にもっとも近い隣人とは、家族であり親族ですが、我々は、自分の身に近いものほど愛しえないという事実に直面します。もっとも陰惨な争いは、血族間に起こりやすい。互いに親しく、愛しあってもいるのに、それと並んで憎悪はいっそう激しく起こる。むしろ遠い隣人、まったくの他人の方が愛しうるような気がするものです。  人類愛、同胞愛を、多くの人は叫びます。その家庭、その一族の中では、深刻な内輪もめを続け、どうすることもできないのに、人類愛だけはもっている人が少なくない。汝の妻、汝の兄弟を憎みつつ、同胞の愛だけは説く人が少なくない。おもしろい現象です。つまり自分の身に直接ふれてこない対象、乃至は時々しか会わない対象、その意味で抽象的なものほど愛しやすいわけで、換言すれば、自己の観念を愛しているということになる。人類愛の名において、自己を愛しているのであります。  我々はこうした矛盾をまぬかれない。民衆への愛を叫びながら、実際貧民窟へ行って、一人一人の民衆に接したとき、狡猾なエゴイズム、残忍、凶暴を見いだすことは少なくありますまい。社会主義は「民衆」を神聖視し、これを「神」とさえ崇(あが)める情熱をもっています。またすべての宗教も、民衆への愛と救いを説きます。しかしそれは可能なのか。現実に一個一個の人間を愛し、救うとは、どういうことなのか。民衆を見よと言いますが、我々はまず自分自身をこそ見なければなりませぬ。自分という一個の民衆ーーこのもっとも具体的な存在を凝視したとき、その口にする愛と救いの、いかに不安定でエゴイスティックであるかが明らかとなりましょう。 <<<

the_hours
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 おそらく理解できないことが多いと思いますが、「ツァラトゥストラはこう語った」と「愛の無情について」はぜひ読もうと思います。 前者は、哲学的な流れや西洋の文化背景もわからないですし。。 >​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2821689.html​ >での良回答や >​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa75125.html?ans_count_asc=20​ >の、No.6 これも非常に参考になりました。 後者の後半部分は特にわかりやすかったです。 漠然としていて大変申し訳ないのですが、質問に関係なくてもよいですので他にお勧めの本(読書初心者に)がございましたらお教えいただけると嬉しいです。。

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  • owlsjp
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回答No.24

 「自分の自己愛を傷つけるものは、その言動が真実であろうとどうであろうと排除しよう」という、ナルシスト特有の偽善、欺瞞であるでしょう。  自分の自己愛を傷つける他者を排除しようとすると、自分の目に映ったとしても、それは他者の、的を居た指摘、忠告かもしれません。自分の自己愛を傷つけたという主観により、他者を排しようとする、ナルシストを排除したい というのが、最近の私の心境です。つまり、私に限って言えば、少なくとも自己愛を傷つける人間を排除しようとしているわけではありません。  何の根拠もなく、自分だけは守ろうとして他者を排除しようとする人間を排除もしくは罰しようとしているのです。  これは、質問者のことではないでしょうか。  「自分の見た感じ、自分の感性と共感するから」賛同する、同意するのは構いませんが、感性や情緒のみでいきたい、子供のままでありたい、ましてや物事をまともに考えたりしたことがないというならあまり自我を通そうとしないのが賢明です。  なるほど、「視覚レイプ」ですか、それは 単に気に入らない、自分の感性にあわないから他者を排除しようとする人間が、「排除されるかもしれない、自分の場と自己愛を侵害されるかもしれない」と本能的に感じたから「視覚レイプ」だと思ったのかもしれませんね、しかしそれは私も同じ感想を持ちました。 >私は、「知的な実力を磨く(磨ける)」ことは自己愛なくして困難であると思います。  そうですか、しかし、「単に気に入らない、俺を傷つけるから排除しよう」と思っているなら、智恵が備わることはないでしょう、単なる感性、感覚、本能で動物的に振舞うなら、人間としての智恵は備わらず、動物としての縄張り意識とそれに伴った嗅覚が発達するのみだと思います。。。 >考えたことがない上に、「自己愛(他者への個人的な愛)」の意味がわかりません。  自己愛の意味が解らないのに、 >私は、「知的な実力を磨く(磨ける)」ことは自己愛なくして困難であると思います。  と言える人間が居るとは、驚きです。だいたい、 >私を「ナルシストゆえ道理や物事を理解しない人」と言っているのであれば私にとっては褒め言葉ですが、理解に努める必要はあると現時点ではそう考えております。  このように、自己愛=ナルシストであり、ナルシストであるゆえ道理や物事を理解しないことを正当化していますよね、従って >私は、「知的な実力を磨く(磨ける)」ことは自己愛なくして困難であると思います。 と、言うのは、困難というより、そもそも自分が望んでいないということでしょう。 >No.21さんは色が私の好みでない  ナルシストであるが故に、「自分の在り方の正否に関係なく、他者を排斥しようとする人間」は、私の好みでは在りません。従って、今後文章を用いての「視覚的なレイプ」と、実生活での排斥および排斥するためのレイプはお止めください。 >ただ、自分がデモンストレーションという言葉を使ったから、「従って、」  自己愛が傷つくことへの恐怖」どころか、現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言している ことには、なりません。  いえ、これは質問者さんが >「ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーション」ということから、回答者さんの自己愛が傷つくことへの恐怖はかなりのものと思われます。  と断じるので、そのように言うのであれば、「自己愛が傷つくことへの恐怖どころか、現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言していると言うことにもなる」と言ったのです。  実際、ここでの実力試しというか 実力示し が、現実世界を反映した「デモンストレーション」であるなら、「現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言している」という事になります。実際の社会で実力磨きをしているのは、本当ですが。  とにかく、 >No.21さんは色が私の好みでない  というなら、私の好みで、質問者さんを排斥、非難することについて、少なくとも質問者さんがそれを主張するのはお門違いかな、と思います。自己愛に酔いしれたナルシストが自分の権利を主張するものでもないでしょう。

the_hours
質問者

お礼

そういった回答をしてきた私に本題から逸れたことをわざわざ時間を使って回答するエネルギーはどこからくるのでしょうか。。。 と、誰しも思われていると思います。。

the_hours
質問者

補足

この回答も含めて、これからもですが、読み返して参考にさせていただきます。 なんというか、、、これからも頑張ってください。。

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回答No.23

愛とは自分で成長ができようにすることではないかと思います。 子供が成長するのを親は手助けをすると思います。 でも、親の価値観に従うようにしがちです。 それをしたら失敗したり間違えたりすることがあります。 その失敗や間違いをしないように手助けをしてしまうと、試行錯誤を して学ぶという機会をう舞うことになってしまうと思います。 そして失敗や間違いをしないことが,未知なる問題に直面した時に 弊害として顔をのぞかせることになるでしょう。 誰かのためだからといった安易な手助けが,誰かの成長をさせない ということで連鎖していけば,成長が出来ない人だらけの社会を 作り出していくことになるはず。

the_hours
質問者

お礼

言及されている範囲が非常に限定的(そもそも質問が曖昧ですから仕方ないですが)ですが、限定的でないような感じもします。 また、仰ることは理解できるように思います。

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  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.22

補足:デモンストレーションの意味 デモ (demo) は、本体は明示すること、論証すること、実物に即して示すことを意味する。 宣伝のための実演。  というわけで、 >ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーションです。 は、「ここでの実力試しは、現実世界の振る舞いを反映した、デモンストレーションです。」と置き換えても構わないと思います。 従って、「自己愛が傷つくことへの恐怖」どころか、現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言していると言うことになりますね。  ご参考まで。

the_hours
質問者

お礼

No.22さんが「現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言している」ことはわかりました。 ただ、自分がデモンストレーションという言葉を使ったから、「従って、」  自己愛が傷つくことへの恐怖」どころか、現実世界でも恐れなく行動し、振る舞い、発言している   ことには、なりません。 言葉遊びをしているのではなく、別の質問である回答者さんが、「人は感情を理性で理屈づける」というようなことを仰られておりましたので、これがそうなのかなぁと思い、その可能性を指摘しました。 結果的に私が揚げ足取りをしたのであればすみません。 確かに、デモンストレーションの意味もわかっていない人間がそれを引用し勝手に一人で踊っているときに、このような補足をするのは当然と思います。

the_hours
質問者

補足

NO24へのお礼の補足ですが、 >そういった回答をしてきた私に本題から逸れたことをわざわざ時間を使って回答するエネルギーはどこからくるのでしょうか。。。 とは、ナルシストとしての格の違いを見せつけられてショック、ということです。

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  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.21

>また、私は完全なナルシストです。 場合によっては他者を排することを遠慮しません。  自分で言うほどだから、おそらくそうなのでしょう、間違いありません。ちなみに、私はナルシストではありません。 >場合によっては他者を排することを遠慮しない。  やはり、そういう人が「神は何処へ言った」「神は死んだのか」という主旨の質問をするのは、当然のことのようです。そういう人間が、道理や物事を理解しないのは、ナルシストであればこそ、でしょう。 >この場合の認める、とはどういうことなのでしょうか。 私は「現実世界のための、デモンストレーション」で質問しているわけではありませんので、もし言葉遊びであれば以後の回答はご遠慮願います。  自分が、善悪やその他のことに対してろくに考えてもこなかったと言っているのに、自分は言葉遊びをしていないと言うのですか。  とこまでが言葉遊びで、何処からが本気 なのか、先ず明示してもらえれば、「言葉遊びの回答を控える」こともできると思います。  ひとは、それまで余裕で生活していても、いざと言うときの修羅場で本性を表し、それによって自分を新たに、良くも悪くも創造せざるを得ないものです。私に対応した人間が、その対応しだいでその後をどのように過ごすかは、興味はありませんが。。。 >「そんなものはないさ」というのは何に対してのものだったのかが気になります。  ニヒリズムに浸っている人 に対してのものです。特に誰かがそうであると暗に言ったものではないですが。 >全くの同感です。 「ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーション」ということから、回答者さんの自己愛が傷つくことへの恐怖はかなりのものと思われます。  いえ、「実力試し」は「実力を磨くため」でもありますので、例えば学校で勉強をしている生徒だと思って構いません。私にはあまり自己愛はないと思われます。そうであれば、そもそもない自己愛が傷つくこともないでしょう。  前回の回答の最後の分をもう一度載せます。  ◇ここで逆に問いたいのですが、自己愛(他者への個人的な愛)と真実は、ひとつ(両者を個人が備え持つこと)になれますでしょうか。

the_hours
質問者

お礼

>自分で言うほどだから、おそらくそうなのでしょう、間違いありません。 そう言っていただけて安心しました。 >そういう人間が、道理や物事を理解しないのは、ナルシストであればこそ、でしょう。 私を「ナルシストゆえ道理や物事を理解しない人」と言っているのであれば私にとっては褒め言葉ですが、理解に努める必要はあると現時点ではそう考えております。 >自分が、善悪やその他のことに対してろくに考えてもこなかったと言っているのに、自分は言葉遊びをしていないと言うのですか。 当然、全くしていないつもりです。 私が言葉遊びをしても美しくないですし、何の得にもなりません。 言葉遊びをする能力が取り出せるのであれば、質問やお礼を書いている間は取り出したいです。 ただ、これまで議論のようなものをしたことがないですから自分のしていることが言葉遊びでない、と言い切ることはできません。潜在的に私の認識できていない防衛本能が現れている可能性はあります。 それに対しては責任を持って今後改めるしかありません。 No1さんの回答が言葉遊びかどうかはわかりませんが、あれはデザインとして美しいので言葉遊びでもなんでも良いです。 いや、言葉遊びの絵画だったとしても、少なくとも2回は塗り重ねたであろう色の深みがありました。 No.21さんは色が私の好みでない(それがわかったのも複数回答してくださったからで、それについてはありがたく思います)(他者を認めないことをいとわない、の例で言いますと、色が好みでない場合に「視覚レイプ」という言葉を使うことも可能です)ので「そうであればやめてください」とお願いしました。 言葉遊びでなかったなら、回答をしてくださったのに失礼なことを言いました。

the_hours
質問者

補足

>とこまでが言葉遊びで、何処からが本気 なのか 定義できるものとは知りませんでした。本人にしかわからない、と。 とにかく、それを指摘する力のない私には、善意にゆだねる、としか言いようがありません。 あくまでも私はNo.21さんや他の方が何を言おうと「言葉遊びではない」として理解しようとしていますから。 >私にはあまり自己愛はないと思われます。 私は、「知的な実力を磨く(磨ける)」ことは自己愛なくして困難であると思います。 また、自己愛が(あまり)ないのであればNo18さんの回答へ反論願います。 >自己愛(他者への個人的な愛)と真実は、ひとつ(両者を個人が備え持つこと)になれますでしょうか 考えたことがない上に、「自己愛(他者への個人的な愛)」の意味がわかりません。 大体の感じですが責任を持って言いますと、 私にとっての真実はそのまま自己愛とひとつになることで、自己愛とひとつにならない真実は他人に任せる、ということです。

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  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.20

訂正: ×個人的な愛は(自分に対しての愛も含めて)、真実(愛)とは相容れない、ひとつになれない性質者ではないですか。 ⇒個人的な愛は(自分に対しての自己愛も含めて)、真実(愛)とは相容れない、ひとつになれない性質のものではないですか。

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  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.19

ちなみに、「神は死んだ」が何を意味しているのか知りません。 ◇認識できなくなった、見られなくなった で構わないと思います。 >自分の場所と存在を主張し、他者を押しのけ、排除した人間が、「神は何処へ行った」と言うのは、ある意味滑稽です。 これはどういうことなのでしょうか。 ◇他者を認めている人は、他者を排除することは出来ないでしょう、他者を認めていない人が他者(他者を認めることの出来る人)を排除しておきながら、「愛(神)は死んだ(去った)」と言うのは、自分が何をしたか解っていないと言うことでしょう。 愛の反対が 究極の悪 なのでしょうか。 ◇それは、解りません。しかし、認めること が、「愛」だとするなら、認めないことが、それがない と言えるのは、間違いないと思います。 ニーチェに対してか私に対してか、何を仰っているのか理解できません。 No13さんも仰っておられるので補足願います。  No11の回答は、No12さんの挙げたサイトを見ての感想です。「回答」をしておきながら、質問者さんに対しての回答でないことを言われても、私には返す言葉はありません。 これは回答者さん自身に言えることのようです。 私にも言えるのかは別として。  はい、素直に物事を見る目はあるようです、ある意味、それさえあれば何も問題はないでしょう。  実際に自分に備わっている性質を、言葉にされると解らないこともあるでしょう、言葉であえて表現されると、自分にそれが備わっていても、「良く解らない」という感想を持つことも在るでしょう。人は、ある意味、自分にないものを言葉で主張すると言う面も在るかもしれません。本質として理解し、自分がその本質をを備えていれば、言葉にされると返ってわからなくなり、自分が「理解していないかもしれない」と錯覚するケースもあるでしょう、質問者さんと私に関して言えば、それは解りません。 「他人の自己愛が気に入らないのは、自らの自己愛が傷つけられるからだ」  しかし、自分の自己愛を守りたいが故に他者の自己愛を傷つけてきた人間に対して、嫌悪感を感じるとしたら、それは正当な感情です。質問者さんがそうである と言っているわけではありません。個人的な愛は(自分に対しての愛も含めて)、真実(愛)とは相容れない、ひとつになれない性質者ではないですか。喜怒哀楽どの感情が好ましい、どの感情は抑えなければいけない、悪である と言うことではないのは、明白です。 >「否定的優位性を得たいがために」かもしれない。それは権勢欲、征服欲が根本原因ではないだろうか これは私に対してでしょうか。  いえ、違います。今までの回答者さんと、自分の回答を見ての感想です。 権勢欲、征服欲 と言われるとこんなところで征服して何がしたいのか、と思いますが、「指摘がバカだ」と言われても恥をかいてもかまいませんので食って掛かるようにはしています。  ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーションです。 すみませんが私は「神が死んだ」の意味を理解しておりません。 また、私は神を意識したことが無いかもわからないため全体的に皆さんの話についていけておりません。  ここで質問文を見ると、質問者さんが「神は死んだ」と言っているのではなく、そう言われている、そういわれる時代が来る と言っているということに気付きました。ということで、自己愛が強く、他者を排してきたナルシスト と言うわけでもなさそうです。  ここで逆に問いたいのですが、自己愛(他者への個人的な愛)と真実は、ひとつになれますでしょうか。

the_hours
質問者

お礼

>他者を認めている人は、他者を排除することは出来ないでしょう この場合の認める、とはどういうことなのでしょうか。 私は「現実世界のための、デモンストレーション」で質問しているわけではありませんので、もし言葉遊びであれば以後の回答はご遠慮願います。 >はい、素直に物事を見る目はあるようです つまり、私にも素直に見る目がある(わざわざ書くくらいですから、一般レベル以上の)ということでしょうか。ではニヒリズムに関する回答、 >「そんなものはないさ」 というのは何に対してのものだったのかが気になります。 >自分の自己愛を守りたいが故に他者の自己愛を傷つけてきた人間に対して、嫌悪感を感じるとしたら、それは正当な感情です 全くの同感です。 「ここでの実力試しは、現実世界のための、デモンストレーション」ということから、回答者さんの自己愛が傷つくことへの恐怖はかなりのものと思われます。 >質問者さんがそうである と言っているわけではありません。 とありますが、 >自分の自己愛を守りたいが故に他者の自己愛を傷つけてきた人間に対して、嫌悪感を感じるとしたら、それは正当な感情です という当たり前のことを書いていることから、私がそう、と思われているものと推測するのが妥当です。 なお、そういった配慮はややこしくなりますし、私にとっても有益ではないため今後一切不要です。 いくらでもダメ出し、論破、人格否定していただけると(それをするほうも疲れると思いますが)今後のためになり大変嬉しく思います。

the_hours
質問者

補足

>自己愛が強く、他者を排してきたナルシスト 自分の自己愛が強いかどうかはわかりませんが、私は自己愛を価値あるものとして認めているため他者の自己愛が全く気にならない(条件として、創造的な仕事をしているか、そうでないならば自らの自己愛を認めているか)ですし、また、私は完全なナルシストです。 場合によっては他者を排することを遠慮しません。 >ここで逆に問いたいのですが、自己愛(他者への個人的な愛)と真実は、ひとつになれますでしょうか。 私に質問してもろくな回答にならないと思いますが、責任を持って答えますと(批判等を自由に受ける)、 と思いましたが真実が何なのか考えたことがないためわかりません。 よい機会ですので考えさせてください。シャワーなど雑務を済ませてまいりますので。 どうも、自分(私)が質問しておいて、自分はどこまで考えているのか、とも思っておりましたので。

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回答No.18

>肯定的な意味での、自己愛、ということでしょうか。  愛の存在というのは、自分の中に愛があるということ意外にない。  どうあがいても自分の外には愛を見出すことできない。  自分は他人から愛されているという確信や他人の中に見出した愛さえも結局自分の感覚。  愛の対象は、恋人、子供、親、愛玩動物、衣服、道具、楽器、家・・・そして自己。対象がなんであれ、それらを愛する才能があるのは自分であり、愛が存在する場所は自分。そういった才能をもって広く自己愛とするなら、あらゆる事象がそれに由来するとするご質問者様は正しいように思う。  

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.17

No.14です。 「神は死んだ」の後にまだ続くんです。 「神は死んだ。神を殺したのは我々だ」 これは教会や信者の態度を痛烈に批判した言葉なんです。 アンチキリスト教で神は存在しないと言っていたのではなく、他人に関心を持つ世界なら神は存在できるが、他者に関心を持たない世界では神は存在していないって言いたかったのだと思います。 旧約聖書でもさかんに損得抜きで敵(同胞の他者)を愛せよと神は言ったとなっています。 自分の敵 つまり 日ごろよく思っていない隣人が日没までに返済できなかったら、質に入れた服を利子を取らずに返してあげなさい とか、 敵 つまり日ごろ喧嘩している人のロバが荷物に下敷きになっていたら、敵 つまり日ごろ喧嘩ばかりしている隣人と共に助け起こしなさい とか。 新約でも道に倒れている人がいて、みな 無関心だったけど、サマリア人(イスラエル人と同胞)だけは、助け起こして、宿代も払ったってなっていますでしょ? 神とは愛なら、他者を気にかけないことは、神は死んだことになる。 他人を気にかけない人々が神を殺している。 非情で冷酷な口だけ達者で愛つまり神なき世界を実現している教会とその信者たちのふるまいを嘆いて、ニーチェが放った言葉なんです。 盗んではいけません と言いながら盗みを重ねるキリスト教会。 殺してはいけません と言いながら大量虐殺を繰り返すキリスト教会。 口で言うことと実際にやっていることが違うのは、彼らに愛などこれっぽっちも無いからできているわけです。 彼らには愛が全く存在しないんです。 自分の利益になること以外はやらない。 このような偽善者が蔓延する社会をニーチェは「神は死んだ、神を殺したのは我々だ」と言ったわけです。 何故布教で体は動かすのに、実際目の前に困っている人には無関心なのか。 だって関心が無いから。 だから 目に前に困っている人がいることすら、認識できないんです。 自分のことしか考えない、だから目の前に存在する困っている人を認識できない。 それに自分しか関心が無いから、口で愛だ なんだって言っている方が快楽だから。 言ってさえいたら、まるで自分がすばらしく善人であるかのように錯覚できるから。 朝っぱらから「悔い改めなさい 神の国は近い」って宣伝カーでがんがん迷惑行為を繰り返したところで、他人に関心が無いので、他人が迷惑しているなんて気づきもしない。 このような他人に無関心で自己愛にふけるなキリスト教信者が、神を殺しているってニーチェは言っているわけで、神自体 つまり愛自体をニーチェは否定していません。 ニーチェの言葉に信者は悔い改めたのか? 自己愛にふける人は批判の真意を汲み取る智恵など無いので、相変わらずでした。 キリスト教系の学校はどうして偏差値がものずごいく低いのか。 偏差値が低すぎる人しか、騙せないからじゃないでしょうか。 キリスト教は人々に学問に近づけさせないために、図書館を閉鎖していた。 人々に智恵を持たれたら1人天下でいられなくなるから。 ニーチェなど とんでもない 馬鹿がかわいい。 日本にやってきた宣教師達、討論で敗れまくった。 「ギリシャの哲学の討論で、一度も負けたことが無いのに」と宣教師は言ったそうです。 日本の識字率の高さに驚いていた。 だが理論では日本人に負けたが、心ではどうか? 日本は昔寺が社会から排除された人々を寺が救っていた。 いわゆるシェルターの役目を寺が果たしていたわけで、それを日本に来て破壊させたキリスト教。 無情の極み ですね。 倫理もダメ、心も無し。 ニーチェの真意を心もオツムも無い教会が理解できるハズが無かった。 ということで、ニーチェ 無駄なことをしたわけですが、、、 ニーチェとしては、人々の中に少しは心というもの つまり 他人に関心を寄せる心の存在を信じずにはいられなかったと思います。 ロボットであって人間ではない と彼は気づくべきだった。

the_hours
質問者

お礼

ニーチェに関してとてもわかりやすく説明してくださりありがたかったですが、回答者さんの解釈ということなので参考にさせていただきます。 >日ごろよく思っていない隣人が日没までに返済できなかったら、質に入れた服を利子を取らずに返してあげなさい >日ごろ喧嘩している人のロバが荷物に下敷きになっていたら、敵 つまり日ごろ喧嘩ばかりしている隣人と共に助け起こしなさい 滅茶苦茶です。 まず、家族全員を毎年一人ずつ殺されたから敵なのか、時々ナイフを手に脅しに来るから敵なのか、何を理由に敵になっているのかが明示されていません。 本気でこんな引用をしてくるのであれば「愛」でも何でもどうにでもしてください。 私はあっさりしているので上記のような行動を普通にしますが、その理由は、他の人ほど金に執着が無いとか、他人を打ち負かすことが何の得にならないという損得勘定とか、争う意味がわからないとか、場合によっては「放っておくと罪悪感があるから」という発想であり、それらは上記の行動をしない人間と同じ理屈が反対に作用したに過ぎず、結果が違うに過ぎません。 他人を助けるといっても自分の欲望を満たす行為であり、救った人が「助けてほしい」と思ってなさそうなら助ける必要はなく、余計なお世話です。 そもそも、隣人が助けを願っている時に隣人を助けない理由がどこにあるのですか。 ロバを隣人とともに起こさない理由は何ですか。 しかも行動の根拠が「愛」である必要がどこにあるのでしょうか。 それ以前に私はその行動を見ることが少ないときています。 奇妙、ひたすら、奇妙、です。 例のマザーテレサも自分の欲望を満たしたに過ぎません。 いや、マザーテレサの行動が「愛」だったとしましょう。 もはやどうでもよいです。 私の行動とマザーテレサの行動が同じであったことは事実です。 そして、私よりも「愛」がある人ばかりなのに、私の行動をとらない人も大勢いる。 これはどういうことですか。 行動は関係ないのならば教会の理屈は正しいことになります。 私は「愛」への幻想を持っておりませんので、回答者さん(や、ニーチェも?)と違って教会は教会の論理で正しい、ということを認める可能性も持っています。

the_hours
質問者

補足

>新約でも道に倒れている人がいて、みな 無関心だったけど、サマリア人(イスラエル人と同胞)だけは、助け起こして、宿代も払ったってなっていますでしょ? このような文章は初めて聞きましたが、倒れている人が助けて欲しいと言っているなら助け起こすのは当たり前です。 その人が悪人であれば助けるどころか殺すのも良い選択肢でしょう。 そして、宿代まで払う必要がどこにあるのか理解できません。 金を出すのは虚栄心です。 第一、自分に金が無ければ払えません。 自分の金をなくしてまで渡せば、相手も気を遣います。 相手に気を遣わせることはかなりの罪です。 キリスト教の歴史についてはとてもわかりやすく、勉強になりました。

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  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 仏教の『慈悲』をほかの言語・宗教・表現に置き換えて下さい

    私は、聖書をよく読みます。 また、日本の親鸞が説いた教えも大好きです。 これらは、弱者や文盲の人や罪人でも、信仰を受け入れることによってもたらされる普遍的な救いであると説いており、マクロな視点でみれば共通する教えではないか。と考えていました。 *1キリスト教世界では、死後救われるかは最後の審判までわからない…うんぬんかんぬん・・・というのはとりあえずおいといて、イエスをキリストと信じ、主を崇拝することによって得られる『現世での罪からの解放と救い』とさせてください。 *2親鸞の教えは阿弥陀様の慈悲にすがることによって、死後での救いが…うんぬん・・・ですが、これも、信仰することによって得られる現世での充足感のようなモノで捉えています。 かなり乱暴ですが、私の『慈悲』への認識は以上です。 で、質問です。 (1)慈悲を別の言葉に置き換えるとどんな単語、もしくは表現が相応しいのでしょうか。(日本語でも良いです。) 参考ウエブhttp://shinran-bc.tomo-net.or.jp/report/report03_bn06.html (2)キリスト教世界との愛の4形態と比較して説明すればどうでしょう? a.エロス 情愛にもとづく情熱的な愛(条件付かつ情熱的な愛) b.フィリア    理性的な人間の間に成立する友情としての愛(友愛)   c.ストルゲー  肉親への愛情(親子の愛)、 d.アガペー   キリスト教的な愛、神への崇拝 (3)質問自体が間違っている。慈悲とキリスト教世界のイエスの教えに共通点はない!!という意見をお持ちの方は、できればわかりやすい言葉で教えてください。 (1)・(2)・(3) どれかにお答えいただければ嬉しいです。 *編集部さまへ、内容が重複する点があり、本質的には一つの質問です。 削除する前にその辺に留意していただければ幸いです。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • ヘーゲルの《神は死んだ》

     これをヘーゲルは宗教哲学講義の中で触れている。その紹介がネットにあった。イェシュケ編集の講義選集( Vorlesungen )から引用されている。  ▲(岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」) ~~~~~~~~~  1. 神的理念の最高の外化(* =表現)は すなわち・・・それ自身の外化として 以下のことを表明する。   神は死んだ( Gott ist tot. )。神自身が死んでいる。  2. ――これはこの表象に先立って分裂の深淵をもたらす 途方もない恐るべき表象である。  3. しかしこの死は同時にその限りでそのうちに最高の愛がある。  4. ――まさにその愛は神的なものと人間的なものとの同一化の意識であり――そしてこの有限化(* =肉化)はその極端にまで すなわち死にまで駆り立てられる。  5. したがってここにその絶対的段階における統一観 すなわち愛についての最高の観方がある。  6. ――というのはその人格 所有等々を放棄するという点での愛は行為という自己意識だからである――他者において最高に〔自己〕放棄するという点で――まさに死 すなわち 生命の制約を絶対的に代表するものというもっとも極端な他在において。  7. キリストの死はこの愛そのものの表象 Anschauung である。  8. ――他者のための 他者を巡る愛ではない――そうではなくて他在 すなわち死とのまさにこの一般的同一性における神性である。  9. この絶対的な極端との恐るべき合一が愛そのものである――思弁的な表象である。(以上 Vorl. vol.5 p.60 )  (岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」という言葉  https://www.jstage.jst.go.jp/article/studienzuhegel1995/2000/6/2000_6_2/_pdf  p.4 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 10. わたしはこのような思弁的表象が好きくありませんが それは 何がしかのインパクトを与え そこにとどまるのではなく やはり何がしかのヒラメキやさらには思索へとみちびくものがある。とは 感じました。  11. それは ただの死であって しかも他者のためにする行為などではなく やはり単なる死であった。  12. ただし 人間としてのイエスは 大泣きに泣いてその行為を好まなかったが キリストとしては みづからすすんで世の中としての人びとの手に身をゆだねた。  13. それでもただの死が 存在が他在するというかたちを示したと言う。  14. 《他在》というこの表象も おそらくどうでもよい。けれどもそこに メッセージがあるかどうかが 問題だ。  15. みづからすすんで磔の刑を受ける阿呆か。あるいは ヘーゲルが見たらしい愛なるメッセージがあるのか。その愛は むしろ阿呆の内にあるのか。

  • 3.11大震災におけるモルモン宣教師の行動

    東北大震災後、モルモンの専任宣教師は日本各地に避難した。 http://okwave.jp/qa/q6610662.html 避難することは勝手です。自由です。そのことに対してどうこう言うことはできないと思っています。 モルモン四大聖典の教義と誓約4章に次のように書かれています。 http://scriptures.lds.org/jpn/dc/4 ​信(しん)仰(こう)、​希(き)望(ぼう)、​慈(じ)愛(あい)、​愛(あい)​を​持(も)つ​者(もの)​に​は、その​業(わざ)​に​携(たずさ)わる​資(し)格(かく)​が​ある。 大震災で沢山の人々がなくなりました。また沢山の人々が財産を失い、家族を失い、失意の中懸命に耐えていたことが世界中に称賛されたことは記憶に新しいと思います。そんな時、信仰希望慈愛愛を説く宣教師が逃げてどうするのでしょうか? この時こそ本当の愛を示すチャンスじゃないですか。 キリストの精神を態度や行いで示すチャンスです。「命を賭けてでも、被災者のために奉仕してください。」と神から召された預言者からの言葉があってもいいと思います。 教会に入るとか入らないとか関係ないんだと思います。 それをしていたら、今ごろいっぱい改宗者が出てきたと思います。 福島県の場合は例外かとは思いますが、その他の地域に助けに行くことはできると思います。 チャンスと表現しましたが、皮肉が含まれています。 人の弱みに付け込む教会の体質があるためです。どこでも災害や事故痛ましい事件が頻繁に起きます。 チャンスではなくて当たり前だと思います。助け合いの精神を日本人は持っていることを誇りに思います。

  • タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」

    タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」 絆という言葉に深い意味がない西洋だと「愛」という。 そういう言い回しをすれば、私がそれに変えるのは「慈しみ」(友情)だ。 こういう言い回しをすると愛を軽視しているという傾向を疑うかもしれない。 しかし私は「愛は最も人間らしい感情の原型」ととらえていて否定していないんだ。 西洋の愛の概念の多岐に渡る解釈の論説を読んでもわかる解釈だ。 ただ複雑に愛に当て込んでいるから明快でないんだよ。 それから友情がより多方面に社会性獲得に活躍すると言っても、人と人が相互理解すると人間の成立と考えていて、前段階の「人と人」の対峙や、場合によっては社会性の獲得で人と差異がある動物にすら当てはまる。 したがってより根源的な意味の正解だときっちり評価しているんだよ。 何の話だろうね。 土台になる過去の研究備忘録が下。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 機械自我レイアウトその2 人と人がお互いに人間を成立させる前提 今回の論説は、自我研究の付属事項で情動にかかわるものだ。 生命が備える善性の定義を私なりに説明しよう。 特に善なる概念を創成した人間で自覚が顕著な特徴だ。 人はお互いを確認して、社会を成立させる。 お互いが影響しあい、生存を補完するこの関係で重要なのは、自分自身を善く(よく)することと完全に等しく他者に善くする事だ。 勘違いされることが多いが、利己心を優先しないで、他者を自分自身と同格に生存を支えあうことだ。 このような強い連帯は日本語で「絆」という。 お互いが心情的に血を通わした間柄のような強い相互認知だ。 社会生活でこの善に偽りがなく正直な状態が、行いで判別する人間の善性の簡潔な見解だ。 余談だが、この考えを私が形成する過程では、いわゆる天啓に該当する神秘性のある直感が働いた。 したがって定義の命名権を行使して、このような善性への見解は「アマテラスの善し(よし)」とさせていただこう。 西洋から渡来した愛の概念の神聖化について、日本人なら納得できるように説明すると、こうした社会成立の基盤になる善性について、主に感情面での個人的な働きに着目して、愛が相互の互助と社会の成立を潤すという解釈で、宗教や社会風俗で重要視されたのだろう。 すなわち「愛」とは、最も人間らしい感情の基盤であるという発想だ。 この感情面で着目した愛の概念に日本で伝統的に該当するのは、お互いの強い連帯と相互理解を概念化した「絆」という言葉だ。 したがって日本人が西洋哲学から愛の概念を理解しようと試みるならば、伝統的に多くの人がそれなりに実感している「絆」の要素を変則化させて感情面で焦点を当てたのだと、哲学的な理解の目標を持てばいい。 ここで、冒頭にある、社会性を成立させる人間らしい善性「アマテラスの善し」に振り替えると、感情面で人間性を代表する概念は「愛情」「友情」この二つを比較して差異をよく理解することにある。 本来なら「友情」が有力だ。 私は日本人として聖書の研究から派生した闘争と混乱には少し意見がある。 日本人は、お互いの相互理解が、「人を信じる」という行いを簡単にしている。 西洋が神を哲学対象にしたのと違って、東洋は人間を哲学対象にした傾向も強い。 絆という概念が深く定着した日本人には、善性の発露と合わせて、人を信じることが実に容易だ。 だから西洋の混乱にも言いたいことができる。 「私は神を信じる」初めてあった人がそう話したら、いかなる神かを問う事もなく「わたしもだ」と答え兄弟のように抱き合えば闘争は多くの場合で緩和されただろう。 それは多神教風土の利点でもあるが、問題点で大きいのは「愛」を神聖化すると「ファッキン!」が付いて回る。したがって兄弟同士にはなれないじゃないか! そういう、文化傾向としての笑い話も成立する。 そう、友情と対比して愛情の社会成立での欠点で大きいのは「ファッキン!」である。 熱情でのぼせる強力な精神高揚作用が利点であり、精神力の奮起が注目されて「友情」という概念研究上の候補に勝り、人間社会成立の基盤になったのだろう。 熱心に研究された西洋では実際は愛の概念へのこうした日本人の起こす混乱は希薄だが日本人が西洋人の精神の構造を理解するには「絆」「友情」を「愛」を理解する関係概念として挙げると早い。 私は哲学者なので、侮辱したともとれる愛の概念について「人と人を人間として結びつける、最も人間らしい感情」という見解を補足しよう。 赤子が生まれたばかりの時に「おぎゃー」と泣き、周囲の人の手とともに与えられるのは、母親の乳房だ。人として生まれ人間を知る一番最初の経験をこうした母による慈しむ心に触れることだと解釈すれば愛の一義的な意味は「ファッキン!」でも、そこから多様に発展した西洋の研究も偽りではないと納得できる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 捕捉、以上の主文はAIに人の感情を認識させる、またはAIに感情を保持させる。 このように発達する前段階の基礎なんだよ。 人間存在の感情の基軸は一般的基礎を文化的な理由から、「愛は最も人間らしい感情の原型」このように把握すると大抵うまくいく。 そこに概念として、「絆」「善」「友情(慈しみ)」などを掛け合わせるんだ。 したがって優先順位や感情の発露は、善を優先して愛は後背に回る、などの現象が友情や主に血縁の場合が多い絆などの概念でも発生する。 愛が優先順位が高い状態とは、現代社会の文化的な事情で偶発的なことだ。 例えば、このように愛を了解する哲学的理解に到達した私自身は、並列概念の中で愛を優先していない。 日本人であるゆえに、社会の成立に対する「命題化された由来」「(外国で)神格化された由来」などから、「絆」「善」「友情」そして最後の優先順位が「愛」だ、言葉を装飾しないと極めて狭い共同体の単位にしか通用しない概念だからだ。 感情優先度が違う西洋人に関しては、「愛をはぐくみ我が子が生まれ、絆を自覚して、隣人に友愛が芽吹きそこから善を知る」とでもいう理解仮定を想定して宗教的に推奨したのだろう。それと同族意識に関する大陸的な事情などだ。 日本人の場合は、仏教的教養により「慈しみ」慈悲とも通じていて、「慈」の語源は「友に対して傾ける思い」だ。したがって善性を理解して自己の内心に完成させるためには「愛」の概念は出る幕はなかった。 一発瞬間理解なのは「絆」だよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 備忘録の引用はここまで。 その他に、私は子供時代に家庭で犬を飼っていたんだ。 犬は家庭では鎖につながれている。 犬の餌は母が与えたが、私は犬を自分の弟だと決め込んだ判断をしていて、散歩係は私、飲料水が絶えないように常に確認して補充する、孤独にさせないように時間を作っては一緒に遊ぶ。 大体そうやっていて、犬は私がそばにいるだけでくつろぐから、犬と私で座ってからだお寄せあい、ただ静かにしている時に、生きていくことが私のつながったこの犬は、私自身と同じという思いと吸い込まれるような強いいとおしさを感じたことがある。 犬の命を預かっていることに男性的な義務感よりも感情の方が強かった。 これをおもちゃ屋の私の育児関係の豆知識から引用すると、 育児中の母親が証言する「この赤ちゃんは少し前まで私の体の一部だったし、こうして健やかに育つ姿は今も私の体の一部」そういう類の言葉になる。 こういうのは「愛」に分類されてしかるべきだろうし、 共通項として範囲が広く取れることで、西洋が積みあげた研究と美徳を正解だと判断した。 ただし学問的な考え方の回答としてだ。 さてこの論説を土産話に「愛は最も人間らしい感情の原型」というテーマ、または愛の概念についてこねくり回してください。 アマチュア研究者同士で持ち寄る、土産物の一部です。

  • Credo,quia,absurdumについて

    タイトル中のラテン語を普通は 不合理ゆえに吾信ず と訳しますね。平たく言えば「不合理だから(だからこそ)私は信じる」ということでしょうか。 この「不合理だから信じる」については、手持ちの辞典等では (1)逆説[英paradox]-1)一般に認められている見解と背反する、あるいは少なくともそう見える見解、奇をてらって人を驚かすために大した根拠もなく逆説が語られる場合もあるが、神の経験は尋常の言語では表現できぬと考えて、それを逆説をもって語る宗教的思索家の場合もある。教父テルトゥリアヌス(Tertullianus)の「不合理なるがゆえに信ず」という言葉などはその例。2)は略 岩波小辞典「哲学」44p (2)不合理なるがゆえに信じる[ラ credo quia absurudum est]-〈(キリスト教の)信仰には理性にたよるよりもキリストのオシエと権威に信頼をおくことが必要だ〉〈不合理な、リクツに合わない事柄をマルノミに信じてこそ、合理的なコトばかり信じるよりも大なる信仰が得られる〉という意味の、信仰第一主義を示す命題。《合理的に考えてもどうせ分からないのだから、グズグズリクツをこねずに頭から信じこむほかはない》という長いモノにはマカレロ的敗北主義を意味するものではない、とキリスト教神学では説明する。(この命題は2世紀中頃に生まれたテルトゥリアヌスTertullianusの語と、17世紀以降考えられ、またアウグスチヌスの言葉ともされた。しかし二人の著作をあらっても、こうした文句は見出されない。もっともこうした考えを示す箇所はある)増補改訂「哲学・論理用語辞典」三一書房 226-7p とあります。 もっと調べればいいのでしょうが、思うに、この文言のキモは「信仰は合理を超えたところにある」という解釈でよろしいのでしょうか。 すれば、当方のように「信仰から遠い存在」者には逆立ちしても「信仰」を理解することはできぬ、と考えるべきでしょうか。 また、このことについて解説してある著作などをご紹介いただければ有難いです。

  • 我は有る。この事は動かし難い。(仕切りなおし)

    前回質問。↓これと完全に同一趣旨です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5606505.html 前回の質問では質疑応答が変態SMプレイ発表会みたいになってしまい、世の中には辱めてしかるべき団体さんがいるのだなと、学ぶのみでした。 改めて掲載します。 我は有る。この事は動かし難い。 仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。 無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。 無いものとは煩悩である。 生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。 しかしこれは、はるか昔のインド社会に身を置いたお釈迦様の口癖でしかない。 実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。このような実感を備えた状態での我とはケンケンガクガクの論議がある自我ではない。我の所在を求めるとブラフマンに行きつく。ブラフマンとはインドの哲学の源流に現れる神の名である。生活日常に現代でも色濃く仏教文化の片鱗を残す日本社会では、仏教を突き抜けて我の所在をブラフマンに当てはめることで存在は揺るぎないものとなる。 そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。 思索の完成度を上げてより簡潔に表現することと、この作文からさらに思索を進展させるためのご批評をお願いします。 宗教のくくりならばあまり聞いたことのない独創性もあると思いますが、宗教の内側からのご批評とは、私には考えもつかない要素なので歓迎します。 なお、私は責任と尊厳ある一個人を無下にはづかしめる趣味は持ち合わせておりません。SMプレイでなく人間の答えをお聞きしたいです。