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「愛」とは何を表現したものか

「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

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  • owlsjp
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回答No.46

訂正: >◇派手な虚飾をつけて(ネオンに=電気エネルギーを使った増幅 ⇒◇派手な虚飾をつけて(ネオン =電気エネルギーを使った増幅 @しかし、こういう受け取りや認識を続けてきた人間が、蓄えた何かを使って「自然と」表現するのは、愛でもあるのかな と思ってもいます。極まれば逆もまた真なりですからね ↑これは、もちろん私のことです。(自己礼賛)

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  • owlsjp
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回答No.45

@全て読み返してみました、という訳で、気になった点だけもう一度. >ここで引き芸の例として「真理」などといえばまたカボチャの生ですから、さすがに温厚な私でも店長を呼ぶことになります(「排除」、の一歩手前です)。 ◇「真理はそのままで食えるだろうから、カボチャの生ではないでしょう、トマトの生ではないですか、あるいは果物か... >個人的な愛情を表す形としてハート型がありますが、完全を表すのが真円であるとすれば、それに比べて歪んでいます ↑こういうやり方は「引き芸」です。 この回答に限りませんし弱者崇拝のくだりもですし「引き芸」は「真実」ですのでNo.27さんが引き芸を多用するのは当然ではありますが。 ◇いえ、気の利いた引き芸ではなく、単に解りやすいたとえだと思うんですが、虚飾のない表現だと言うことは確かに言えますが. >「私は誠実であったので想像力を殺してしまいました」 ◇「私は不誠実であったので真実を殺してしまいました。 >年を取ることで理解できるのでは いずれにしても、自分を呪う、のであれば問題は無いですし、むしろよい兆候です。 ◇自分を呪うというより、悔悛するという表現のほうが良いですね、むしろ一般的に「呪う」と言えば、他者や世間をそうする場合に使います。 >なぜなら、「引き芸」でスベる人間ほど醜い人間はこの世にいないからです。  いえ、本気の、憮然とした表情を見るのは、痛快な気もします、いや、気のせいかな... >ヨハン・クライフ フットボールにスペクタクルを持ち込んで芸術にまで高めた人ですが、まあ、現実にはこのスタイルでやっているチームは200チームあって3チームもありません。 ◇うん、そうですね、これを自分の実生活でやれる人は、万人に一人いるかいないか でしょう。  それが出来るか出来ないかの違いは、経験と、思考と、覚悟など、あらゆる条件がそろい、いつも冷静でいることに在るのでしょう。「頭じゃわかってるけど、実際にはできない」人がほとんとでしょう。勝ち負けに執着すると、プレーが荒くなり、結果として質が落ちる(実力が備わらない)のは、当たり前ですよね、私が高校生のときにすでに思っていました。 >なおかつ、美しいスタイルでやるには創造力という特殊なタレントを持った選手が複数人必ず必要となります。 ◇なるほど、サッカーについては同じ考えを持っているようです。 >1~2年前からは、世界で最も美しいチーム(クライフの美学を継承するチーム)がクラブレベルでも代表レベルでも最も大きな大会で優勝(結果論は本来意味は無い場合もあります)し、かつ地力でも最強という今までになかった事態が起こっておりますが、こんなことは何年も続かないのであって、続く必要もありません。 ◇多分、「何年も続かない」のは、美しさを続けることで、美が美でなくなってしまった(例えば執着や理屈や理論で、その美を続けることになってしまった等)ためであり、「何年も続かない」のは当然でしょう。 >「レイプされた」という概念は存在している ということですか 「レイプされた」などと言ったことはありません。センスがないなら大人しくして、作品をベタベタしないでください。「視覚レイプ」です。「チカチカする」くらいの意味です。 ◇「チカチカする」くらいの意味なのに、「レイプ」などとは、相当私も貶められましたね >これは回答者さんの嫌いな言葉と思います。 なぜなら私に飛んできたイメージはネオンや蛍光色です。それこそ先に挙げた現代画家のアートのような。 ◇しかし、「チカチカする」程度を、増幅し、派手な虚飾をつけて(ネオンに=電気エネルギーを使った増幅、もしくは蛍光色を使った、素の印象を不当に変質させるようなこと)表現をされるのは、誰でも嫌いだと思うのですが。 >ちなみに、回答者さんは「ネオンや蛍光色」が“理解できない”だけであって、本来の意味の“嫌い”とは区別しなくてはなりません。 ◇いえ、理解できました、自分の主観的な印象で必要以上に他者を貶めていたということが。これもナルシストのなせる業でしょうか。 @しかし、こういう受け取りや認識を続けてきた人間が、蓄えた何かを使って「自然と」表現するのは、愛でもあるのかな と思ってもいます。極まれば逆もまた真なりですからね

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  • owlsjp
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回答No.44

>教養無く、 ◇笑いの教養はともかく、その志向性があるのだけは認めます。 思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 ◇質問自体がナンセンスと言うより、見事に何事かを表すものでもあると思います。 わざとらしい おおぎり より、漫才(レベルの高い)のほうが面白いのではないですか... 楷書体は、他の字体よりも洗練された字体です。 フランス料理(とその類)よりも刺身、寿司(など)のほうが美味しいのです。 オペラは論外として、歌モノよりもインストゥルメンタルのほうが洗練されていて、飽きないのです。 絵画はほとんど興味ありません、自然の風景や動植物、及びそれらの写真のほうが、百倍 美しいですよね、しかしこれもセンスの問題でしょうか... ◇「愛とは何かを表現したものである」とすることは、表現されていないものは愛ではないという事になります。  まっさらなキャンバスに、何らかのシンプルな表現があってこそ、美しい絵画として認識できます。  99%の、何もない空間があってこそ、1%の物体が意味を持ちます。  混沌、虚無があってこそ、光が発生します。虚無がなければ、何事も生み出されません。無は、悪ではありません。  無は全てであり、光は部分と言ってもいいでしょう。一般に言われていることとは逆かもしれませんが。 ◇で、人は、自分が最もこだわっていること、それこそが克服すべき課題でしょう。 sense (感覚器官による)感覚, 五感の一つ;感覚作用[機能]  とあります。感覚だけでなく、理念とか道理などを養うことが、留意すべき点ではないでしょうか。

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  • owlsjp
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回答No.43

 要は、質問者さんの主催する、「ジ・アワーズ」劇場の主役を食ってしまって、質問者さんの「時間」を台無しにしてしまったから、怒っているのですね。いえ、気の利いたことを言っているのは質問者さんであって、私ではありません。単に、素直な 観想 による、感慨です。  とにかく、質問者さんのプライドと自己愛をいたく傷つけてしまったようですが、しかしそれも良い経験、人生の糧となるでしょう、人間同士の下世話な情緒の読みあいは、単にそれだけのものであり、いざという時役に立つものでないと言うのは、身にしみて解ったのではないでしょうか。。。とにかく、深読みによる過剰な反応は、それらが悪しき作用となることもある ということは、実感できました。  ナルシスト、自己愛的な装飾過剰な美 の、醜くなりようは、とりわけ派手で、盛大で、ブザマなものでしょう。これは今でも変わり無い思いです。できるだけ、美しく老い、去って生きたいものです。「オレは楽しめればいいんだ、ブザマに死のうが、死体を「これでもか!」とさらして、他者に面倒を見させ、迷惑掛けても知ったこっちゃねー」と言うなら、それも本人の自由ですが、それをここで体現するのは止めましょう。

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  • owlsjp
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回答No.42

>そういうことではなく、「創造される可能性になるならばなんでもよい」ということです。そういう人生なのであれば、その人がなにか創造してくれることを私は望み、かげながら応援しますよ、ということです。 ◇では、質問者さんが私を呪うことで新たな何かが創造されれば、私も他者も歓ぶと言えるでしょう。しかし、質問者さんが、それを正当化するのは「大」問題ですよね。 >今でも「狙う」で正しいと思います。 ◇では、新たな言葉を与える。 意見 指摘 あげつらう 批判 批評などなど。。。(←小学生レベル) >>被害妄想が強い ですからこれこそが私がナルシストをよく思っている理由のひとつなのです。内的創造のエネルギーになれば何でもよいわけです。そんな彼らには「まあまあ」と言ってあげればよいじゃないですか。それとも回答者さんはそんな余裕すら持たないのでしょうか。もし“評価と好みが同じ”であれば、そうかもわかりませんね。私には理解できませんが。 ◇「まあまあ」。 >>混沌から引き出している というイメージ それは混沌というより言語世界からということでしょうか。ただ左脳優位であるというふうに聞こえます。ですから私のあの程度の大喜利を大変だと思われたのでしょうか。回答者さんの脳に限らず、他者の脳の癖ほど理解できないものを知りませんから、そういった想像はナンセンスですが。 ◇いえ、言語世界からと言うよりも、なんというか  、 思念世界?抽象世界?形而上世界? というべきか  いずれにせよ、左脳と右脳有利であると思う。 >私が「引き芸」として出したのは回答者さんに合わせたものであり、誰が見ても「塩以外に使っていない料理」です。あとは火にかける時間の違いです。それをコテコテ、とは、美的センスがないという言葉以外にありません。  はあ、そうですか、私は刺身と寿司は好きですが(←自己アピール)。  しかし、確かに犬に「これ食え」と丸投げしたのは私の不徳のいたすところであります。 >回答者さんが理解できないであろうイタリアンドルチェなども出しました。 ◇イタリアンドルチェ=イタリアの食後のデザートという認識です。誤りがあれば、指摘願います。 >ですから、これはセンスがなければ判定できないのですよ。。あらゆる味(ニュアンス)を理解できる方が、「これが好き!」と言わなければ意味が無いのです。もしかして回答者さんは“評価と好みが同じ”なのでしょうか。そうだとすれば大事故です。 ◇楷書体を正しく見れるようになってから センス を謳ってください。おそらく、過剰な刺激で麻痺してしまっているのではないかと思います。 >>ナルシストの美しさは継続する美しさ、真の美ではない ですから、ナンセンス、です。。。廃墟の魅力すら理解できないのでしょうか。話にならないですね。。。 ◇廃墟に魅力は感じません、もっとも、歪んだ茶坊主は、歪んだ茶器を好んだということです。江戸末期のことらしいです。退廃し、腐った文化の中で、それが好まれ、そういった志向を持っているのは、自然なことであり、それを批判はしていますが、否定はしていません。 >コテコテと装飾したモノの、醜くなり様は、また派手で、盛大でしょう、想像力を駆使してください ◇これは、例えば、植物の死骸よりも、人間の死骸のほうが醜いという意味です。「ババア、死んだら化粧できないぞ(、どうするんだ)」という、私の心境を部分的に表したものです。 >「想像力を駆使してください」とありますが回答者さんは「醜くなる前」の状態についての想像すら及んでおりません。センスがないならば理解できないですから無駄な努力はお勧めしません。 ◇>コテコテと装飾したモノの、醜くなり様は、『ひときわ』派手で、盛大でしょう、想像力を駆使してください に、訂正します。。。 「盛大」 のところで、笑ってください、センスがあれば、笑えるはずです。 >だからコテコテに嫌気が指した人間の衝動が爆発するのですよ。 楷書が好きなのにコテコテが嫌いとは、理解ができません。 ◇楷書を「コテコテ」と評する、その感性、センスがわかりません。楷書体は、最も洗練された書体だという認識があります、「そうでない」というなら驚かざるを得ません。 >「罰におびえている人間による、 ◇これは間違い、 >その罰を受ける覚悟ができて踊っている人間への見解」ですね ◇これは、おそらく正解でしょう。しかし、自分が罰を受ける覚悟が出来ているなどと白状し、開き直ると共に、ほかの人間もそうであるという、色眼鏡で見るのは問題ですね。質問者さんが七十八罰を受けるとしたら、私は2~3 位でしょうか? >もっとも、覚悟ができていない阿呆も大量にいますが、ニーチェよりも優れていらっしゃり、「見たことも無い老人」になろうとしているのですから、底辺を「狙う」ようなことはせず、最上部のそのまた最上部の人たち以外は見る必要が無いと思われます ◇では、見たことのある老人 に、今までどおりなりますか、諦めてしまったんですか >>いつも思うのですが、質問(タイトル)が間違っていると、なかなか良い答えは引き出せないような気がします。 こういうことは先に言いましょう。 ◇いえ、何度も言ってきました、このサイトでもね。 >なぜなら、「引き芸」でスベる人間ほど醜い人間はこの世にいないからです。 ◇いえ、ウケ狙いは、「引きウケ」もふくめて、「派手で盛大でしょう」(これはブラックユーモアでしょうか)だけで、それ以外は本当にウケ狙いではないんですよ。 その罰を受ける覚悟ができて踊っている人間への見解」ですね。 >いえいえ、、「イメージが浮かんだら」以上の理由は私にはありません。 ◇妄想がすぐに浮かぶ人もいます。 >口でアドリブでやれば5、6分です。 ◇かい~の は、2、3秒でしょう。 >それは発信源が私である必要はなく、誰か退屈しているそいつを楽しませてやってくれ、ということです。 ◇そうでしょうか、ほかに何か意図、動機があるでしょう、自分の胸に手を当てて良く考えてください♪ >ああいった思考状況に入った際に回答者さんのような性質の方は「引き芸」の例で示した手法を好む、ということです。 ◇いいえ、そもそも「説教」されるのは好まないし、「説教」もしくは「指導」されるレベルにありません。どうも、勘違いしているように思います。 >要所を押さえているものを“人為的な虚構”というならば、「センスがない人は帰りなさい」以外の言葉がありません。 ◇楷書体を「コテコテ」と表現する人が、自分で言うほど まとも なセンスを持っているとは到底思えませんね、ナルシストの課題としては、自分に対する要以上の過大評価を見直すことだろうと思います。「コテコテ」はむしろ古印体やほかの字体に当てはまる表現でしょう。 センスを声高に訴えても、それこそナルシストの主観 ですからねぇ、いえ、嫌味ではありません、本気です。 >回答者さんは「醜い」と言いますが、ナルシスティックに美学を通して敗れてもよいのです。美しいから。 ◇つまり、 >「愛」とは何を表現したものか >◇愛とは、何かを表現したものなんでしょうか?(生カボチャ食え) >◇何らかの表現や存在を認める、「表現」とは 逆、反対のものではないですか。(生カボチャ食え) >質問者さんと私で正反対であるようにね。(生カボチャ食え) 以上の言を、自らの負けを潔く認めるという事ですね。でも、それだけだと悔しいから「センスは私のほうがありますよ~」と言いたいのですね? 捨て台詞です。敗者のいいわけです。潔く認めるのも、敗者の美学ではないですか。 >亜流、邪道、外道、サブカルチャーが嫌いなんです 良さを理解するセンスが自分に無いだけであるのにすごいレッテル張りです。印象派以降の絵画は全て「亜流、邪道、外道、サブカルチャー」ですよ。まあ、わかってもないのにセンスがある風をしたいだけで認める根性の腐った人間に比べればよほど信頼できます。 ◇絵画のことは知らないんですよ、ですので、「レッテル」の「張り」ようもありません。亜流~などの言は、印象派以降とか以前のことを言ったものでないことは小学生でも解るはずですが >>「いつもここに居座っている、去って下さい」 どれだけおめでたいのでしょうか。。。 ◇私は、お呼びではない という表現を良く使いますが、それはつまり「来ないで下さい」と言う意味です。それとは反対に、去ってください と言うというのは 対照的ですね と言いたかったんですよ。 >回答者さんには理解できないでしょうが、私は他者への関心が薄いようで、 ◇いえ、ナルシストですので、自分を否定、非難、存在価値を薄くすると感じる人間に対しての執着、妄想と、それに対しての非論理的な文章を使っての排除に及ぶということは十分理解できております。 ◇もう一度問います(というのも、本題の解答であると思われますので)  質問タイトル: 「愛」とは何を表現したものか ◇愛とは、何かを表現したものなんでしょうか?  愛が何らかの表現や存在を認識、認める事だとすれば、「表現」とは 逆、反対のものではないですか。  「オレを見ろ」(質問者)でなく、「その人を観察する人」(ここでの、それ以外の人)ではないですか。 ◇◇◇「みっともない」(←これ重要)自慰行為は、人に見られないところで、隠れてするがよろしいでしょう、ここは公の場なのだから(私がいるのだから)。◇◇◇

the_hours
質問者

お礼

すみません、、、イメージに関するところから一部だけ。。 >イタリアンドルチェ=イタリアの食後のデザートという認識 その視覚イメージを言語変換したということです。 理解できない、とは、視覚イメージを得られない、です。 >楷書を「コテコテ」と評する、その感性、センスがわかりません。楷書体は、最も洗練された書体だという認識があります、「そうでない」というなら驚かざるを得ません。 実際に見てもわからない人に語っても「洗練」がわかるはずがありません。 見てもわからないことは不思議なことではありません。 見てわかるなら誰でもファッションセンスがよいことになりますから。 >「みっともない」(←これ重要)自慰行為は、人に見られないところで、隠れてするがよろしいでしょう 他者の自慰行為が気になるのであれば日々大変でしょうが、頑張ってくださいとしか言えません。 「私は誉められて不安を感じなかったことがない。けなされて不快に感じたことも無い」 ↑ すでに同じことを伝える機会は回答者さんにいくらでもありましたので、今さらこれは引用しないで下さい。 バーチャルの世界とは引き芸の世界であることに今回の質問で気づかされました。それも興味を失った要因のひとつです。 楷書が最も洗練されていると仰る方に本気で「あなたの自慰行為はエレガント」となど言われたなら、それこそ究極の不幸です。 >いえいえ、、「イメージが浮かんだら」以上の理由は私にはありません。 自分を行動にかきたてる要因として「イメージが浮かんだら」、という理由ほど自分を突き動かすものが無いというだけです。 それが自慰行為であることは自分が一番知っております。

the_hours
質問者

補足

>口でアドリブでやれば5、6分です。 お礼文(大喜利、というのはNo27のお礼文のことです)全文のイメージが入った瞬間から、口頭であれば5,6分(考えてみればそんなにもかからないですね..)であの全てを表現できたけれど、キーボードに打ち込む作業にその数倍の余計な時間がかかったということです。 口やイラストであれば時間などかからない「視覚イメージの言語化」をキーボードでする手間をお伝えしました。 すみませんが後は好きにやってください。 回答者さんが男性であれば、自慰行為(や、セックス)を終えた時にどうなるか想像していただくとわかるでしょう。セックスであっても射精後すぐに服を着る人間もいれば女性を追い返す人間もいますから自慰行為ならどうなるかは明白と思います。 回答者さんが女性であれば話が早いのですが、ある男性への興味を失ったときのことを想像して下さい。以後は視界に入りません。 すでに想像していた以上のものが得られましたのできりのよい時に締め切ります。 回答者さんもありがとうございました。

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  • kigurumi
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回答No.41

kirugumiです。 読んでいて軌跡の人をイメージしました。 奇跡の人といえば、ヘレン・ケラーと言う人が多いですが、アン・サリバンのことです。 ヘレン・ケラーは生まれつき目が見えず・耳が聞こえない人だった。 彼女の有名なエピソードに「ウォーター」があります。 アンに井戸につれていかれて「オォーター」と言った場面です。 彼女は水という言葉は知っていた。 だけど、コップに入っている状態の液体をウォーターだと思っていたそうなんですね。 ヘレンは非常に頑固で、こうと思ったら認識を変えなかったので、アンのヘレンに真実を教えることの困難さは、相当なものだったと推測します。 一つわかってそれ以降、どんどん他のものもわかっていったそうなんですね。 そのエピソードを聞いて、「水の中に入っている水」と「水」の違い・・・ うーん って思いました。 今そのエピソードを思い出して、「入れものにはいっている愛と愛そのものの違い、うーーーん」 って思っています。 わかるには愛そのものに触れるしかないんじゃないか と。 テレサちゃんが愛とは何かを知っていたのかは、私にはわかりません。 といいますのも、うっすら曖昧な記憶ですが、テレサちゃんは晩年 「神はいなかった」とまでは言わなかったでしょうが、「神は助けてくれなかった」みたいな事を言ったそうなんです。 落ち込んでいたとき、つい口が滑って失言してしまったのかもしれないが。 彼女は容器に入っているものを愛だと思っていたのかもしれない。 前回書いたように、息子の好物を仕送りした親。 息子が「かあさん キンピラゴボウは、近くのスーパーでいつでも買えるよ」と思ったら、この息子は母親の愛を知覚しなかったことになると思う。 おかさんだってそんなこと十分知っている。 だけど息子を気にかけているという表現として送ったわけで、息子に愛を示したわけで、、、、 テレサちゃんに興味が無いそうですが、私は「神は助けてくれなかった」(神はいなかった じゃなかったと思う)と言ったテレサちゃんが気になりました。 自信に満ちた活動ではなく、神の愛を求め続けた人だったんだって。 つまり、彼女は神の愛の存在を捜し求めていたので、神から愛されたという完了の後の行動ではなく、追い求めた人だったんだって。 聖書、知らないと思いますが、有名なイエスの言葉に、「神の義により迫害された人は幸いである」がある。 キリスト教を布教して迫害される人々は、この言葉にふるいたったと思います。 迫害されるほどに、神の国に近づけると、社会不穏をバンバン起こして、ネロに迫害されたキリスト教徒たち。 ネロにしてみれば、社会で問題を起こして情勢を悪化させるキリスト教徒は悪ですよね。 だから、平和をかき乱すキリスト教徒をとりしまって、市民の平和を確保しようと賢明にやっていたわけです。 で、実はこれ誤訳なんです。 「神の義を追い求めるものは幸いなり」がヘブライ語のニュアンス。 同じじゃないか? いえ、神の御前に立って神の義を希求するってのは、ヨブのような人。 ヨブってわかりませんよね。 えっと、サタンはヨブが幸福という見返りを得ているので、信仰が深いのであって、なんのみかえりもなく不幸であれば、信仰しないに違いないって神に言ったんです。 で、神はサタンに試すことを許した。 結果、ヨブは家畜も家も息子も全部失い、自らも思い皮膚病にかかり、もがき苦しむようにさせられた。 全てを失って自らももがき苦しむことになったヨブは、ついに神の前に立った。 ここまでされないと神の前に立たなかったわけです。 「てめー このやろう 俺が何したってんだーー ばかやろーーー」というのを、もっと丁寧な言葉で神に文句を言った。 テレサは教会を出たとき、確かに神の前に立ったと思うんですね。 そして神の愛に触れることができたので、人々は彼女に関心を持ち協力をしたわけです。 その神の愛を知覚した彼女が「神は助けてくれなかった」とどうして発言したのか。 謎です。 テレサちゃん なにがあったの? って思いました。 神の愛を失った つまり神に愛されているという感覚の喪失かな?って思いました。 (あ、、、卒論 なににしようかなぁ と思ったのですが、これ取り上げようかなぁ・・・・ ハンナ・アーレントが博士論文でアウグスティヌスの愛の概念を論じたらしい。) で、 >「他人を気にかけるという能力を神聖化してしまい、他人を気にかけられなくなった障害人間ばかりだ」 神聖化しているわけではなく、当然のこと。 テレサちゃんが、「日本は物質的に豊かだが、世界一貧しい国だ」って言った意味は、物質に頼りお互いで助け合うということをしない国だって指摘したのかもしれない。 国は当然の助け合うってことを巷でしない国民をどうするかと考え、他人を気にしないという障害を持つ国民から、税金を強制徴収し、そのお金を助けがいる人に配るという方法を取っている。 結果、他人を気にしない人が、困っている人を助けている構図になっているわけです。日本は。 だから稼ぎ出す人ほど、税金取られるので、貧富の差がそう多くなく、自覚なきお互い助け合っている共同体になっているわけです。 障害を持って他人を気にかけない人に、気にかけろと無理なことを言うより、「はいはい 払ってね」と徴収して必用な人に配る。 ぽっけないない しているわけじゃない。 日本の倫理観は世界に誇れます。 だから 私は何もしらず日本を批判するテレサたんに苦言を呈したくなったわけです。 他の国のことを気にせず、自分の共同体に目を向けろ って。 >ある中学校の生徒が卒業式の国歌斉唱で学校関係者の中で“唯一”起立して国歌を歌ったそうです。 あなたにはできないでしょう。 できませんが、心では「素敵」って思ったでしょうね。 他人に知られていることだけが真実じゃあない。 >助けると殺されそう」という状況でも私は助けます。 私はそれはしません。 自己犠牲を払うことが美だと思っていないから。 正しい人だと他人から賞賛されることを生きがいとしていないから。 生きてできることをするまでです。 殺されそうな状況でも他人を助けるってのは、自分のためですよね。 それも愛ですが、自己愛がものすごく強いから、そういう行動に出たまででしょ? 自己犠牲をする例。自分の近親者の場合、「孫は助けてくれ そのかわり」と訴える。 自分の遺伝子を残すため。 働き蜂は、何故自己犠牲を払い巣を守るのか? 自分より女王蜂の娘の方が遺伝子が濃いから。 女王蜂から生まれた働き蜂の遺伝子がマザーの遺伝子の50%だとすると、巣の中にいる女王蜂の娘たちは70%。 だから働き蜂は自己犠牲を払い、濃い方を助ける。 遺伝子にプログラミングされているので、思考して事後犠牲を払っているんじゃなくて自動でやっている。 人間の場合もそう。近親者の場合は、自己犠牲を払う。 自爆テロもそう。 したがい、あなたも遺伝子のより助ける相手が赤の他人なら、実際そういう状況になれば、自分が殺されてまで助けようとはしない。 >また、私は自殺を止める人間の神経が理解できません。 痛みの共有。 私は「そんなに辛かったらもういいのよ」という見解も持っています。 私の言葉で、共有が起ったとわかりやすらぎを得るんじゃないかと。 「自殺してはダメ」は相手を理解していない。 >金を出すのは虚栄心です。 >これはラ・ロシュフコーの言葉です。 なるほど、ユングのヨブ批判に対する批判を思い出しました。 カトリック信者は金持ちが多い。 値札をみずに買えるクラスの人が多い理由は、キリスト教は地域を取り込むとき、その地域の地主に貴族など特権を与えたから。 働かずに農奴が働くわけで、農奴が働いている間、優雅にお茶会をする人種なわけです。 その人たちの子孫は、先祖からの遺産を引き継いでいるので、ものすごい金持ちで、暇なのでチャリティーパーティーをやる。 「○○さんがチャリティーとしてこれだけ出しました」とかなるわけです。 金を出すことで、はぶりがいいと他人にわからせる。 虚栄心ですよね。 私に知り合いのカトリック教徒の人は、教会にいけなくなった。 どうしてかというと、チャリティー活動に担ぎ出され、その経費がものすごく、とても付き合っていられず、ボランティア活動をしないのは、信者としてよろしくないという認識がその教会にあるので、金は続かないし、参加しないとよろしくない信者として批判されるので、教会に行けなくなった。 ボランティア活動は、それをやる人たちの自己愛を満たすものでしかないとしたら、それは虚栄心の表れ。 というわけで、ボランティア活動を活発にやる人の中には、他人への愛ではなく、自分を愛するあまりにやっている人もいるので、いくら誘われても、「それって他人にありがとうと言われて、自己満足度を上げて自分が幸せを感じるためでしょ。やだな そういうの」って思う。 以前、電車の中で妙な動きをする人がいた。 体を前後にゆらしていたので、知的に問題がある人かなって思っていた。 そのうち、ふっていた頭を床につけだしたので、「ちょっとそれ危険」と思って、やめさせようと近づいた。 誰も他の人は見てみぬふりで、関わりたくないって思っていたみたい。 声をかけて頭を下から支えるが動きをやめない。 発作だ! とわかり、後ろからかかえて、電車が止ったので、彼女をひきずってドアの外に出そうとしたら、わらわらと周りの人たちが集まってきた。 「救急車呼んでください」 発作で暴れ狂っていた。 歯をかみしめ うーーーーーーって野獣のようにうなり声をあげ、体を激しくばたつかせていた。 ぶつけたら怪我するので、みんなで抑えてた。 私は、「がんばれ がんばれ がんばれ」って声をかけた。 まわりの人も「がんばって がんばって ばんばって」と言い出し、暴れ狂うその人に声をかけた。 仕事の途中と思える人たちも、一緒になって何かできることは無いかと助けに入った。 これって当たり前のことですよね?

the_hours
質問者

お礼

>おかさんだってそんなこと十分知っている。 おかあさんがそんなこと十分知っていることを息子も十分知っていると思います。 >だけど息子を気にかけているという表現として送ったわけで、息子に愛を示したわけで、、、、 愛の名の下では、表現の方法を問うことはできないということでしょうか? 息子がそれを問えば、「知覚していない」ですか。 まるでカルトです。 >「神の義を追い求めるものは幸いなり」がヘブライ語のニュアンス。 キリスト教が奴隷に広まったというのが理解できました。 ヨブの幸せは創価学会員の幸せに似ているように思います。 いや、宗教全般にいえるのかもわかりません。 >テレサちゃん なにがあったの? って思いました。 神の「啓示」を受けたくらいですから、なにがあってもなにも不思議ではないでしょう。 「啓示」を受けたことを心配すべきです。 >他人に知られていることだけが真実じゃあない。 この先入観がある限り不毛です。 >できませんが、心では「素敵」って思ったでしょうね。 私の個人的な考えでは、「心では素敵と思う人」は「心でも素敵と思わない人」よりもよほど醜いですね。 >自己犠牲を払うことが美だと思っていないから。 そうですか、あれは「自己犠牲」といわれるのですか。 私は自己犠牲を美などといったことはないですが、私は美を価値にしておりますから、「自己犠牲」なる野暮な言葉を使われてしゃくに障りました。 (ということを書きますが、これはいわゆる方法論で書いていて、実際はしゃくにも障っていないかもわかりません。例の障害者の話を考えてみると)

the_hours
質問者

補足

>正しい人だと他人から賞賛されることを生きがいとしていないから。 あの、、ですからこの先入観を捨てなければ不毛です。 私は他者への関心が極度に薄いですから他人からの賞賛に価値を感じません。 だからむしろ邪魔になるため、救出した人に恩人のように思われるのが迷惑なのです。 >生きてできることをするまでです。 そうですか。。それが、 >私は「そんなに辛かったらもういいのよ」という見解も持っています。 ですか。 たんに死にたくないだけなんじゃないでしょうか。 「自己犠牲を払うことが美だと思っていないから」のところも。 どういう価値観でもよいですが後付けはよくないと個人的には思います。 「他人に知られていることだけが真実じゃあない。」のところもそうですね。 まあ、それが「愛」のようですので頑張ってください。 >私の言葉で、共有が起ったとわかりやすらぎを得るんじゃないかと。 他人の言葉でやすらぎを得るくらいの動機で自殺する人間を私は軽蔑しておりますし、それが可能だと考えている人間も性質は同じということになります。 ぬるい。 「自殺防止の運動員はかつて自殺直前で思いとどまった方」という話を思い出しました。 >自分の遺伝子を残すため。 私は子どもを生む人間の神経が全く理解できません。 子を可愛がる親のことを子の立場から物心ついて以来ずっと違和感を感じ続けておりましたので、 >したがい、あなたも遺伝子のより助ける相手が赤の他人なら、実際そういう状況になれば、自分が殺されてまで助けようとはしない。 こういうのは全く当てにならないですね。 人は自己の体験を超えられない。 あなたがその典型です。 自殺する人に「そんなに辛かったらもういいのよ」という見解も持つのも無理は無いですね。 それが「愛」のようですので、いいんじゃないでしょうか。 繰り返しますが私はアイディアへの執着(快楽)はありますのでアイディアがあれば死なないですよ。 私のアイディアを人の命と比べる気にもなりません。 それが数億人でも一人でも親族でも変わりません。 >金を出すことで、はぶりがいいと他人にわからせる。 >虚栄心ですよね。 これは極論です。 >これって当たり前のことですよね? 何が、でしょうか。 私は「がんばれ がんばれ がんばれ」と声をかけるようなことは絶対にしませんし、発作ならば、私は100%の確率で「うわ気持ち悪っ…」と思いながら介護するでしょう。 自分が一番先に助けたとしても、方法論的にもう大丈夫そうであれば用事があればそれが小さなものでも「用事があるので後はお願いします」と行って無理やり誰かに任せて去りますし、用事が無ければ恩を持たれないところまで付き添うでしょう。 いずれにしても、「気持ち悪かったなぁ…」という感覚と「貴重な体験をした」という感覚が残るでしょう。 聖書については勉強になりました。

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  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.40

>ただ、 >自分の為に主体的に行動する事が、なぜ他を他として認め >ることになるのか、できる範囲で補足願います。 人間関係の原点ではないでしょうか。 自分が相手からどう思われているかばかりに目がいってしまい、相手には何も興味も関心がないということでは、 他と自分が健全な関係性を持っているとは思えず、閉鎖感さえ感じます。 相手におもねくことなく、自分は自分として、他は他として、違いを認め合うことは健全な関係だと思えませんか。 赤の他人ではなく、他人同士という関係が望ましいのでは、と言いたかったのです。 蛇足ですが、コテコの芝居がかった人生劇場は、確かに私の失策でした。しかし真理から遠ざかったとはいまだ思えないのです。 >人間は、自然美、あらゆる芸術、あらゆる神秘的なものから、 >何かを感じ、感動し、時には癒されているているのは間違いない >とは思いますが、 >そこにはやはり、人間の生命を投影していることも忘れてはなら >ないとも思います。 >私にとって神とは、神秘的なもの全般つまり、芸術や自然美も >そのうちぐらいの認識しかありませんが、 >愛とは、人間との関係性そのもののような気がしてしまいます。 この部分だけを端的に書いただけで、通じるかな?と疑問に思いコテコテを作ってしまいました。本当に気分を害された方ごめんなさい。 私は、この後、誰かの反対意見が欲しいかぎりなのですが、 どうか真正面からばっさりお願いします。

the_hours
質問者

お礼

>通じるかな?と疑問に思いコテコテを作ってしまいました。 私の理解力の乏しさで事故に遭わせてしまい申し訳ございません。。 >赤の他人ではなく、他人同士という関係が望ましいのでは、と言いたかったのです。 これでとてもよくわかりました。 ありがとうございます。

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回答No.39

>>> No.34お礼欄 >質問者様はkjinen様の考えに少し共感を持たれた はっとさせられた、理解ができた、ということかもわかりません。 私の「共感」は自己肯定である可能性があるため当てになりません。 その回答から考えてくださるという方法はとてもためになります。 <<< 何か誤解があるようで、申し訳ないです。 私がNo.25で引用させていただいた、亀井氏の「愛の無常について」の部分は、「愛」についての一つの見方(抽象的な見解の一つ)でしかありません。 質問者様が、引用させていただいた箇所に共感を持たれたとするならば、亀井氏の論に共感を持たれたのでしょう。 それゆえ、No.28では、 >>> 愛(情)は、主体を排除しては存在し得ない概念であり、「主体・関係・対象」を関連づけ続けようとする(結び続けようとする)動的な概念になると思います。 主体や対象を排除し、「関係」といった概念のみを切り出して抽象的に捉えようとするならば、まさに「愛は死んで」しまうでしょう。 実のところ、「愛」についてお勧めすべき本は本当は無いのです。お読みになられたら分かるかとは思いますが、どこかに違和感が残るものです。その「違和感」を感じ取ることこそが、「愛を死に至らしめない」一つの手段なのかも知れません。。。 <<< としております。ご留意願います。 つっこんでいうならば、 >>>「愛の無常について」 その意味で抽象的なものほど愛しやすいわけで、換言すれば、自己の観念を愛しているということになる。人類愛の名において、自己を愛しているのであります。 <<< において、そのことが如実に表れていると思います。 一見正しい理論の様に見えるのですが、「対象」をバッサリと切り落としているために、関係を結びつける先が見えなくなってしまい、やむを得ず「自己」へと関連性を結びつけてしまっています。 「抽象的なもの」は、自身の脳裏に映し出された影であり、「愛」はその「影」を素通りした向こう側(対象、対象への側、さらにいえば、対象を越えた更に向こう側、永遠といった概念があれば、その更に向こう側)へと注ぎ込まれようとするものでしょう。 人類愛とか自己愛などの、限定された○○愛は、「愛」の一断面を論ずる手段にはなりえても、そこから「愛」の本質を捉えることは不可能なのかも知れません。

the_hours
質問者

お礼

申し訳ございません、理解に乏しく、誤解しておりました。 回答者さんのような能力が無く、自己を肯定することにつながりかねませんため亀井氏の本は読まないこととしました。 >実のところ、「愛」についてお勧めすべき本は本当は無いのです。お読みになられたら分かるかとは思いますが、どこかに違和感が残るものです。その「違和感」を感じ取ることこそが、「愛を死に至らしめない」一つの手段なのかも知れません。。。 この真意も理解できました。 私には到底到達し得ないであろうご指摘で、自分がこういうことを考えるのに明らかに向いていないことがわかりました。 再度のご回答ありがとうございました。

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  • owlsjp
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回答No.38

 で、コテコテの、芝居がかった人生劇場を堪能すれば、それだけ真理から遠ざかったわけだから、醜く老い、死んでいくのは当然かと思われます。実際、「美しく老いた」人を、私は見たことがありません。老いは、それが人間にとって、欺瞞と虚構にいるが故の、罰なんだと思うのですが、どうでしょうか、愛?がないからこその、当然の結果ではないでしょうか。  いつも思うのですが、質問(タイトル)が間違っていると、なかなか良い答えは引き出せないような気がします。 >「愛」とは何を表現したものか ◇愛とは、何かを表現したものなんでしょうか?(生カボチャ食え) 何らかの表現や存在を認める、「表現」とは 逆、反対のものではないですか。(生カボチャ食え) 質問者さんと私で正反対であるようにね。(生カボチャ食え)

the_hours
質問者

お礼

>はい、楷書体が好きなんです!良く解りましたね 結果論であって、その例を出していなくても本質は大喜利で書いています。 >印鑑も、こだわって何度も楷書体を修正して、作ってもらいました こういうことは小学校低学年のときにしている子もたくさんいます。 そのなかでも突き詰めていった子がある時覚醒して創作をやり始めるのです。 その創作とはあなたの云う以下のことですが >亜流、邪道、外道、サブカルチャーが嫌いなんです 良さを理解するセンスが自分に無いだけであるのにすごいレッテル張りです。 印象派以降の絵画は全て「亜流、邪道、外道、サブカルチャー」ですよ。 まあ、わかってもないのにセンスがある風をしたいだけで認める根性の腐った人間に比べればよほど信頼できます。 >人間に対しての執着しかない人は、逆に解らないかも 私はアイディアへの執着があることから相対的に見ることは可能と思いますが、どうでもよくなりました。 >「レイプされた」という概念は存在している ということですか 「レイプされた」などと言ったことはありません。 センスがないなら大人しくして、作品をベタベタしないでください。 「視覚レイプ」です。 「チカチカする」くらいの意味です。 「視覚レイプ」というのもアイディアであり、飛んできたイメージを言語に変換して使っただけです。 これは回答者さんの嫌いな言葉と思います。 なぜなら私に飛んできたイメージはネオンや蛍光色です。それこそ先に挙げた現代画家のアートのような。 ネオンや蛍光色を「視覚レイプ」と感じたのではなく、ネオンや蛍光色を変換しただけです。 ちなみに、回答者さんは「ネオンや蛍光色」が“理解できない”だけであって、本来の意味の“嫌い”とは区別しなくてはなりません。 >「いつもここに居座っている、去って下さい」 どれだけおめでたいのでしょうか。。。 回答者さんには理解できないでしょうが、私は他者への関心が薄いようで、前回答とこの回答が同一人物だという認識すらまともに持っておらないくらいです。 お礼を書いた後はそれこそ射精した後のように一瞬で断絶してしまいます。 現実世界ではそこまでではないですが。 ちなみに、繰り返しますが私は回答者さんをある意味尊敬しておりますから去ってくれと言うまでは去っていただかないほうがよいです。

the_hours
質問者

補足

私は私の都合でいつでも自由にやめます。 一時間後にやめるかもわかりません。 私は面倒くさいと感じれば、回答者さんに限らず、「あなた面倒くさいので回答しないで下さい」と言いますから、それを言わない限りは回答をしてくださることを嬉しく感じている、ということです。 ただ、以前にもお伝えしたように私には見抜く力が無いため言語遊びや否定のための否定、理由の後付などは時間の無駄であるため遠慮願います。 これは回答者さんに限りませんが、回答者さんはレベルが高いため余計にやめていただきたいです。 >コテコテの、芝居がかった人生劇場 大喜利で示しました通り、「引き芸で無い例」のほうは予測不可能、アドリブの連続、台本なし、です。 コテコテなのは「引き芸」のほうです。 だからコテコテに嫌気が指した人間の衝動が爆発するのですよ。 楷書が好きなのにコテコテが嫌いとは、理解ができません。 >欺瞞と虚構にいるが故の、罰 「罰におびえている人間による、その罰を受ける覚悟ができて踊っている人間への見解」ですね。 もっとも、覚悟ができていない阿呆も大量にいますが、ニーチェよりも優れていらっしゃり、「見たことも無い老人」になろうとしているのですから、底辺を「狙う」ようなことはせず、最上部のそのまた最上部の人たち以外は見る必要が無いと思われます >いつも思うのですが、質問(タイトル)が間違っていると、なかなか良い答えは引き出せないような気がします。 こういうことは先に言いましょう。 >生カボチャ食え すみません、センスがない、以外の言葉がありません。 イメージを所有していないことが丸裸です。 「梅」のつく日本の政治家がアメリカで「僕をチェリーボーイと呼んで下さい」と言って失笑をかったそうですが、そっちのほうが遥かに優れています。 なぜなら、「引き芸」でスベる人間ほど醜い人間はこの世にいないからです。 特に根っからのその性質である回答者さんは、サッカーの試合で云うところの「勝利だけを目指したつまらない戦い方」なのですから、勝たないと存在価値は消滅するのですよ。 全くナンセンス、退屈千万です。 回答者さんのような退屈な方がいるから「引き芸でない例」を好む人間が増えるのです。 私もそれに迷惑しているのです。 「引き芸」もできない人間が容易に「引き芸でない例」を好むと私にとって「視覚レイプ」が増えますから。 しかし、回答者さんを見ていると「引き芸」を好まない人が増えるのも無理はないと思ってしまいます。 「美しく敗れる事を恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え」 「守り切って勝つより、攻め切って負ける方が良い」 ヨハン・クライフ フットボールにスペクタクルを持ち込んで芸術にまで高めた人ですが、まあ、現実にはこのスタイルでやっているチームは200チームあって3チームもありません。 このスタイルでやるには「引き芸」を最高レベルでこなせる能力が要求されますが、その時点でほとんどがふるい落とされ、その「引き芸」を最高レベルでできる力があればたいがいの試合に勝てますから、美学を共有している一部のチーム以外は勝利至上主義になります。 なおかつ、美しいスタイルでやるには創造力という特殊なタレントを持った選手が複数人必ず必要となります。 1~2年前からは、世界で最も美しいチーム(クライフの美学を継承するチーム)がクラブレベルでも代表レベルでも最も大きな大会で優勝(結果論は本来意味は無い場合もあります)し、かつ地力でも最強という今までになかった事態が起こっておりますが、こんなことは何年も続かないのであって、続く必要もありません。 美しさはプレーの哲学にあるわけですから、勝利と同義ではありません。 回答者さんは「醜い」と言いますが、ナルシスティックに美学を通して敗れてもよいのです。 美しいから。 もちろん、全力で勝利を目指すことはその美しさの条件ですが。 「私は間違いを起こす前に、その間違いを起こさない」 「私は間違ったことがない。間違うことは私にとって難しいからだ」 同上 今気づいたのですが、 >爆笑問題が好きです 見落としておりました。 これを先に言っていただければ「引き芸」の回答のレベルをもっと下げることも可能でした。 散々レベルを合わしたつもりでしたが、ついてこれないのも、美的センスがないのも無理はありません。 確かに、カボチャそのままで十分でした。 ようは、回答者さんへの料理は誰でも出せる、ということです。 ミシェル・ブラスは嫌味ではありませんでした。 私が勝手に回答者さんを買いかぶりすぎていました。 すみません、一気に興味を失いました。

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  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.37

実際、瞬間的には笑いましたが、「大笑いした」と言えば、それはそれで勘違いされるではないですか、「笑うことを前提とした作文」にこめられた念力により、結構瞬間的に笑ったのは事実です。(爆笑問題が好きです) >しかも、何も考えず楽しめばよいだけの大喜利を「執着」ととるとは、おそるべき歪みです。 ◇確かに、  <<もし、「さんざん私をレイプしておいて、執着させておきながら、去っていこうとするなんてヒドイ」と言うなら、まんざら悪い気もしません、人は自分をぞんざいにあつかい、ないがしろにした人間に対して 執着するものです。>> と書きましたが、よく解らなかったから、「もし」と書いたのです、なにか理由がなければあれほど行間を使ったおおぎり?は書かないでしょう、従って相当のゆがみ~云々以下は自動的に却下となります。 >↑こういうやり方は「引き芸」です。 この回答に限りませんし弱者崇拝のくだりもですし「引き芸」は「真実」ですのでNo.27さんが引き芸を多用するのは当然ではありますが。 ◇そうですか、ほかの人は知りませんが、質問者さんを引かせてしまったのであれば、それはお気の毒でした。しかし、余りにも人為的な虚構の世界に嫌気をさしている人もいると思いますので。 >余談ですが、ここで「引き芸でない例」として、「本音」などというカボチャを生で出すようなことをすればゲンコツです。 ◇気の利いたことを言ってますが、コテコテにいじくったまずい料理よりも、生野菜や素材そのままを生かした料理のほうがよいですね、煮過ぎ、調味料入れすぎの素材の原型をとどめていないナルシスト料理を出して騙せるのは、ハンバーグを喜ぶ子供くらいでしょう。私であればお尻 叩いて叱りますが。 そこそこ火を通した料理であっても、それは相手が人為的過ぎれば、相対的に「生のカボチャ」を出されたと、確かに思うかもしれません。 しかし、本音を言ったのは事実です。生カボチャ喰え!ってね >容姿やスタイルとも云われる美的調和の取れた人間は程度の差こそあれたいていナルシストですから、彼ら彼女らがいなくなれば美しいビジュアル媒体もなくなります。  言っている意味は解ります。しかし人には好みというものが在ります。ナルシストの美しさは継続する美しさ、真の美ではないような気がします。 >ナルシストが醜く去る、とはどういうことなのでしょうか。。。 ◇コテコテと装飾したモノの、醜くなり様は、また派手で、盛大でしょう、想像力を駆使してください。 >>自分だけが好きなナルシスト 「自分だけが好き」ということを自分で知りながら自分が好きになる人間がいるのでしょうか。 ◇いまいち言っている意味が解りかねますが、自分が好きと言っている、ナルシストもいます。「腹痛が痛い」と言っていると思われましたか、確かに重複しているようです。しかし、自分以外のものも好きなナルシストもいるでしょう、おそらく。 >ナルシストで在るゆえ、真実から遠く、故に醜くおいて、人生を呪うしかない そうであればそれらが芸術が創造されるきっかけになるのを願うばかりです。呪う、という概念が理解できません。 ◇呪うが故に芸術が創造されるというわけでもないかと。呪うという概念は、ナルシストであれば年を取ることで理解できるのではないですか。 >私のなかでは芸術という言葉は限りなく真実という言葉に近づいている、と言っているナルシストの現代画家がいますがその方に一言お願いします。 ◇その人と、その人が描く絵画を知りませんので、なんとも言えません。また、「芸術という言葉は限りなく真実という言葉に近づいている」という言葉の意味も、正直解りません。 >他の回答者さんをさしていると思って、「なぜその方々をそんな風に言うのですか」と書いたのですが。。。 ◇他者に対してであろうと、「狙う」と感じたのは、少し問題ですね、「他者から、自分の息子に被害を受けた」と騒いでいるモンスター と同じではないでしょうか。被害者意識が強いのも、被害妄想が強いのも、ナルシストの極みであるという証明でしょうか... >逆に回答者さんはいつも自分が指されたと思われて回答されていますので自己愛の強い方だなあと思っただけでした。 ◇いえ、自分に対して言ったのではなくとも、意見や指摘をしたい場合も在るんですよ、それにもし自分と違う意見を言われたことで反論、指摘したとしてもそれと自己愛の強さとは直結しないのでは >回答者さんのような思考(←褒め言葉、ですよ)周辺からものを取り出すやり方、でしょうか。 ◇いえ、周辺というよりも、自分としては混沌から引き出している というイメージを持っています。 >書道で云う中国の古代の楷書のお手本のようなものです。創作ではなく。 ◇はい、楷書体が好きなんです!良く解りましたね、最近では、印鑑も、こだわって何度も楷書体を修正して、作ってもらいました。亜流、邪道、外道、サブカルチャーが嫌いなんです、性分ですのでしょうがないのです。 >>人間に対して 執着 というものが何なのか(今の私なのか)、理解できません。 ◇そのままの意味です。人間に対しての執着しかない人は、逆に解らないかもしれません。 >よく、暴言を吐く、という言葉がありますが、あれは「吐かれた」と感じる人間がいなければ成立しませんので、私に対しては成立しにくい概念です。 ◇しかし、「レイプされた」という概念は存在している ということですか、いまいち理解できません... >また、他の方にもはじめから一貫して言っておるように、いつ去っていただいてもかまいません。 ◇そうですか、もうすこしナルシストになる訓練をしたかったのですが... それにいつもここにいるわけでなく、たまに立ち寄っているだけなんですが、そう見えずに、「いつもここに居座っている、去って下さい」と言うことは、縄張り意識のようなものが強いようにも思えます。「来ないでくれ」と「去ってくれ」は、天と地ほどの認識の違いが在るでしょう、まるで私と質問者さんの違いのようですね。

the_hours
質問者

お礼

(No36の補足の続きです) >コテコテにいじくったまずい料理よりも、 私が「引き芸」として出したのは回答者さんに合わせたものであり、誰が見ても「塩以外に使っていない料理」です。 あとは火にかける時間の違いです。 それをコテコテ、とは、美的センスがないという言葉以外にありません。 ミシェル・ブラスと比べられているのなら「コテコテ」でしょうが。 「引き芸でない例」ではさまざまな食材を使ったりソースを使ったりして絵画を描くように盛り付けしましたし、あえて汚い屋台を出して料理もしましたし、回答者さんが理解できないであろうイタリアンドルチェなども出しました。 味がわからないからといってセンスの無さを棚に上げないで頂きたいです。 それとも、料理評論家が生野菜の味がわからないとでも思っていらっしゃるのでしょうか。 >人には好みというものが在ります。 ですから、これはセンスがなければ判定できないのですよ。。 あらゆる味(ニュアンス)を理解できる方が、「これが好き!」と言わなければ意味が無いのです。 もしかして回答者さんは“評価と好みが同じ”なのでしょうか。 そうだとすれば大事故です。 >ナルシストの美しさは継続する美しさ、真の美ではない ですから、ナンセンス、です。。。 廃墟の魅力すら理解できないのでしょうか。 話にならないですね。。。 廃墟を前提としたアプローチなどされれば理解不能(確かに、塗り重ねの良さも汲めませんでしたからね。塗り重ねといっても全く塗り重ねているようには見えないのですよ)、なおかつ継続しないことそれ自体を美しいと感じられない。 そんなにもセンスがないのに“美”に興味があると仰るのですからすごいです。 >コテコテと装飾したモノの、醜くなり様は、また派手で、盛大でしょう、想像力を駆使してください 上に書いた通りです。 醜いことが、醜くない。 時に、醜いほど、よい(引き芸ができる人は、です)。 「想像力を駆使してください」とありますが回答者さんは「醜くなる前」の状態についての想像すら及んでおりません。 センスがないならば理解できないですから無駄な努力はお勧めしません。

the_hours
質問者

補足

>自分以外のものも好きなナルシストもいるでしょう、おそらく いや、、、私の認識では99%以上のナルシストが「自分以外のものも好き」です。 イチロー選手のように同じプレースタイルでかつ同等の能力の選手がいないのであれば自らの理想像のみを追いかける求道者にならなければならないでしょうが、極めて特殊なケースです。 >呪うが故に芸術が創造されるというわけでもない そういうことではなく、「創造される可能性になるならばなんでもよい」ということです。 そういう人生なのであれば、その人がなにか創造してくれることを私は望み、かげながら応援しますよ、ということです。 幸せだろうが不幸せだろうが、感謝だろうが恨みだろうが、なんでもよいのです。 好き嫌いはまた別の話です。 >年を取ることで理解できるのでは いずれにしても、自分を呪う、のであれば問題は無いですし、むしろよい兆候です。 >モンスター と同じではないでしょうか 私は他者を認めていないんでしょう? ですから他者(子ども)のために腹を立てることもありません。 語彙が決定的に不足しているだけです。 今でも「狙う」で正しいと思います。 >被害妄想が強い ですからこれこそが私がナルシストをよく思っている理由のひとつなのです。 内的創造のエネルギーになれば何でもよいわけです。 そんな彼らには「まあまあ」と言ってあげればよいじゃないですか。 それとも回答者さんはそんな余裕すら持たないのでしょうか。 もし“評価と好みが同じ”であれば、そうかもわかりませんね。 私には理解できませんが。 >混沌から引き出している というイメージ それは混沌というより言語世界からということでしょうか。 ただ左脳優位であるというふうに聞こえます。 ですから私のあの程度の大喜利を大変だと思われたのでしょうか。 回答者さんの脳に限らず、他者の脳の癖ほど理解できないものを知りませんから、そういった想像はナンセンスですが。

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     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • ヘーゲルの《神は死んだ》

     これをヘーゲルは宗教哲学講義の中で触れている。その紹介がネットにあった。イェシュケ編集の講義選集( Vorlesungen )から引用されている。  ▲(岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」) ~~~~~~~~~  1. 神的理念の最高の外化(* =表現)は すなわち・・・それ自身の外化として 以下のことを表明する。   神は死んだ( Gott ist tot. )。神自身が死んでいる。  2. ――これはこの表象に先立って分裂の深淵をもたらす 途方もない恐るべき表象である。  3. しかしこの死は同時にその限りでそのうちに最高の愛がある。  4. ――まさにその愛は神的なものと人間的なものとの同一化の意識であり――そしてこの有限化(* =肉化)はその極端にまで すなわち死にまで駆り立てられる。  5. したがってここにその絶対的段階における統一観 すなわち愛についての最高の観方がある。  6. ――というのはその人格 所有等々を放棄するという点での愛は行為という自己意識だからである――他者において最高に〔自己〕放棄するという点で――まさに死 すなわち 生命の制約を絶対的に代表するものというもっとも極端な他在において。  7. キリストの死はこの愛そのものの表象 Anschauung である。  8. ――他者のための 他者を巡る愛ではない――そうではなくて他在 すなわち死とのまさにこの一般的同一性における神性である。  9. この絶対的な極端との恐るべき合一が愛そのものである――思弁的な表象である。(以上 Vorl. vol.5 p.60 )  (岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」という言葉  https://www.jstage.jst.go.jp/article/studienzuhegel1995/2000/6/2000_6_2/_pdf  p.4 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 10. わたしはこのような思弁的表象が好きくありませんが それは 何がしかのインパクトを与え そこにとどまるのではなく やはり何がしかのヒラメキやさらには思索へとみちびくものがある。とは 感じました。  11. それは ただの死であって しかも他者のためにする行為などではなく やはり単なる死であった。  12. ただし 人間としてのイエスは 大泣きに泣いてその行為を好まなかったが キリストとしては みづからすすんで世の中としての人びとの手に身をゆだねた。  13. それでもただの死が 存在が他在するというかたちを示したと言う。  14. 《他在》というこの表象も おそらくどうでもよい。けれどもそこに メッセージがあるかどうかが 問題だ。  15. みづからすすんで磔の刑を受ける阿呆か。あるいは ヘーゲルが見たらしい愛なるメッセージがあるのか。その愛は むしろ阿呆の内にあるのか。

  • 3.11大震災におけるモルモン宣教師の行動

    東北大震災後、モルモンの専任宣教師は日本各地に避難した。 http://okwave.jp/qa/q6610662.html 避難することは勝手です。自由です。そのことに対してどうこう言うことはできないと思っています。 モルモン四大聖典の教義と誓約4章に次のように書かれています。 http://scriptures.lds.org/jpn/dc/4 ​信(しん)仰(こう)、​希(き)望(ぼう)、​慈(じ)愛(あい)、​愛(あい)​を​持(も)つ​者(もの)​に​は、その​業(わざ)​に​携(たずさ)わる​資(し)格(かく)​が​ある。 大震災で沢山の人々がなくなりました。また沢山の人々が財産を失い、家族を失い、失意の中懸命に耐えていたことが世界中に称賛されたことは記憶に新しいと思います。そんな時、信仰希望慈愛愛を説く宣教師が逃げてどうするのでしょうか? この時こそ本当の愛を示すチャンスじゃないですか。 キリストの精神を態度や行いで示すチャンスです。「命を賭けてでも、被災者のために奉仕してください。」と神から召された預言者からの言葉があってもいいと思います。 教会に入るとか入らないとか関係ないんだと思います。 それをしていたら、今ごろいっぱい改宗者が出てきたと思います。 福島県の場合は例外かとは思いますが、その他の地域に助けに行くことはできると思います。 チャンスと表現しましたが、皮肉が含まれています。 人の弱みに付け込む教会の体質があるためです。どこでも災害や事故痛ましい事件が頻繁に起きます。 チャンスではなくて当たり前だと思います。助け合いの精神を日本人は持っていることを誇りに思います。

  • タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」

    タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」 絆という言葉に深い意味がない西洋だと「愛」という。 そういう言い回しをすれば、私がそれに変えるのは「慈しみ」(友情)だ。 こういう言い回しをすると愛を軽視しているという傾向を疑うかもしれない。 しかし私は「愛は最も人間らしい感情の原型」ととらえていて否定していないんだ。 西洋の愛の概念の多岐に渡る解釈の論説を読んでもわかる解釈だ。 ただ複雑に愛に当て込んでいるから明快でないんだよ。 それから友情がより多方面に社会性獲得に活躍すると言っても、人と人が相互理解すると人間の成立と考えていて、前段階の「人と人」の対峙や、場合によっては社会性の獲得で人と差異がある動物にすら当てはまる。 したがってより根源的な意味の正解だときっちり評価しているんだよ。 何の話だろうね。 土台になる過去の研究備忘録が下。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 機械自我レイアウトその2 人と人がお互いに人間を成立させる前提 今回の論説は、自我研究の付属事項で情動にかかわるものだ。 生命が備える善性の定義を私なりに説明しよう。 特に善なる概念を創成した人間で自覚が顕著な特徴だ。 人はお互いを確認して、社会を成立させる。 お互いが影響しあい、生存を補完するこの関係で重要なのは、自分自身を善く(よく)することと完全に等しく他者に善くする事だ。 勘違いされることが多いが、利己心を優先しないで、他者を自分自身と同格に生存を支えあうことだ。 このような強い連帯は日本語で「絆」という。 お互いが心情的に血を通わした間柄のような強い相互認知だ。 社会生活でこの善に偽りがなく正直な状態が、行いで判別する人間の善性の簡潔な見解だ。 余談だが、この考えを私が形成する過程では、いわゆる天啓に該当する神秘性のある直感が働いた。 したがって定義の命名権を行使して、このような善性への見解は「アマテラスの善し(よし)」とさせていただこう。 西洋から渡来した愛の概念の神聖化について、日本人なら納得できるように説明すると、こうした社会成立の基盤になる善性について、主に感情面での個人的な働きに着目して、愛が相互の互助と社会の成立を潤すという解釈で、宗教や社会風俗で重要視されたのだろう。 すなわち「愛」とは、最も人間らしい感情の基盤であるという発想だ。 この感情面で着目した愛の概念に日本で伝統的に該当するのは、お互いの強い連帯と相互理解を概念化した「絆」という言葉だ。 したがって日本人が西洋哲学から愛の概念を理解しようと試みるならば、伝統的に多くの人がそれなりに実感している「絆」の要素を変則化させて感情面で焦点を当てたのだと、哲学的な理解の目標を持てばいい。 ここで、冒頭にある、社会性を成立させる人間らしい善性「アマテラスの善し」に振り替えると、感情面で人間性を代表する概念は「愛情」「友情」この二つを比較して差異をよく理解することにある。 本来なら「友情」が有力だ。 私は日本人として聖書の研究から派生した闘争と混乱には少し意見がある。 日本人は、お互いの相互理解が、「人を信じる」という行いを簡単にしている。 西洋が神を哲学対象にしたのと違って、東洋は人間を哲学対象にした傾向も強い。 絆という概念が深く定着した日本人には、善性の発露と合わせて、人を信じることが実に容易だ。 だから西洋の混乱にも言いたいことができる。 「私は神を信じる」初めてあった人がそう話したら、いかなる神かを問う事もなく「わたしもだ」と答え兄弟のように抱き合えば闘争は多くの場合で緩和されただろう。 それは多神教風土の利点でもあるが、問題点で大きいのは「愛」を神聖化すると「ファッキン!」が付いて回る。したがって兄弟同士にはなれないじゃないか! そういう、文化傾向としての笑い話も成立する。 そう、友情と対比して愛情の社会成立での欠点で大きいのは「ファッキン!」である。 熱情でのぼせる強力な精神高揚作用が利点であり、精神力の奮起が注目されて「友情」という概念研究上の候補に勝り、人間社会成立の基盤になったのだろう。 熱心に研究された西洋では実際は愛の概念へのこうした日本人の起こす混乱は希薄だが日本人が西洋人の精神の構造を理解するには「絆」「友情」を「愛」を理解する関係概念として挙げると早い。 私は哲学者なので、侮辱したともとれる愛の概念について「人と人を人間として結びつける、最も人間らしい感情」という見解を補足しよう。 赤子が生まれたばかりの時に「おぎゃー」と泣き、周囲の人の手とともに与えられるのは、母親の乳房だ。人として生まれ人間を知る一番最初の経験をこうした母による慈しむ心に触れることだと解釈すれば愛の一義的な意味は「ファッキン!」でも、そこから多様に発展した西洋の研究も偽りではないと納得できる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 捕捉、以上の主文はAIに人の感情を認識させる、またはAIに感情を保持させる。 このように発達する前段階の基礎なんだよ。 人間存在の感情の基軸は一般的基礎を文化的な理由から、「愛は最も人間らしい感情の原型」このように把握すると大抵うまくいく。 そこに概念として、「絆」「善」「友情(慈しみ)」などを掛け合わせるんだ。 したがって優先順位や感情の発露は、善を優先して愛は後背に回る、などの現象が友情や主に血縁の場合が多い絆などの概念でも発生する。 愛が優先順位が高い状態とは、現代社会の文化的な事情で偶発的なことだ。 例えば、このように愛を了解する哲学的理解に到達した私自身は、並列概念の中で愛を優先していない。 日本人であるゆえに、社会の成立に対する「命題化された由来」「(外国で)神格化された由来」などから、「絆」「善」「友情」そして最後の優先順位が「愛」だ、言葉を装飾しないと極めて狭い共同体の単位にしか通用しない概念だからだ。 感情優先度が違う西洋人に関しては、「愛をはぐくみ我が子が生まれ、絆を自覚して、隣人に友愛が芽吹きそこから善を知る」とでもいう理解仮定を想定して宗教的に推奨したのだろう。それと同族意識に関する大陸的な事情などだ。 日本人の場合は、仏教的教養により「慈しみ」慈悲とも通じていて、「慈」の語源は「友に対して傾ける思い」だ。したがって善性を理解して自己の内心に完成させるためには「愛」の概念は出る幕はなかった。 一発瞬間理解なのは「絆」だよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 備忘録の引用はここまで。 その他に、私は子供時代に家庭で犬を飼っていたんだ。 犬は家庭では鎖につながれている。 犬の餌は母が与えたが、私は犬を自分の弟だと決め込んだ判断をしていて、散歩係は私、飲料水が絶えないように常に確認して補充する、孤独にさせないように時間を作っては一緒に遊ぶ。 大体そうやっていて、犬は私がそばにいるだけでくつろぐから、犬と私で座ってからだお寄せあい、ただ静かにしている時に、生きていくことが私のつながったこの犬は、私自身と同じという思いと吸い込まれるような強いいとおしさを感じたことがある。 犬の命を預かっていることに男性的な義務感よりも感情の方が強かった。 これをおもちゃ屋の私の育児関係の豆知識から引用すると、 育児中の母親が証言する「この赤ちゃんは少し前まで私の体の一部だったし、こうして健やかに育つ姿は今も私の体の一部」そういう類の言葉になる。 こういうのは「愛」に分類されてしかるべきだろうし、 共通項として範囲が広く取れることで、西洋が積みあげた研究と美徳を正解だと判断した。 ただし学問的な考え方の回答としてだ。 さてこの論説を土産話に「愛は最も人間らしい感情の原型」というテーマ、または愛の概念についてこねくり回してください。 アマチュア研究者同士で持ち寄る、土産物の一部です。

  • Credo,quia,absurdumについて

    タイトル中のラテン語を普通は 不合理ゆえに吾信ず と訳しますね。平たく言えば「不合理だから(だからこそ)私は信じる」ということでしょうか。 この「不合理だから信じる」については、手持ちの辞典等では (1)逆説[英paradox]-1)一般に認められている見解と背反する、あるいは少なくともそう見える見解、奇をてらって人を驚かすために大した根拠もなく逆説が語られる場合もあるが、神の経験は尋常の言語では表現できぬと考えて、それを逆説をもって語る宗教的思索家の場合もある。教父テルトゥリアヌス(Tertullianus)の「不合理なるがゆえに信ず」という言葉などはその例。2)は略 岩波小辞典「哲学」44p (2)不合理なるがゆえに信じる[ラ credo quia absurudum est]-〈(キリスト教の)信仰には理性にたよるよりもキリストのオシエと権威に信頼をおくことが必要だ〉〈不合理な、リクツに合わない事柄をマルノミに信じてこそ、合理的なコトばかり信じるよりも大なる信仰が得られる〉という意味の、信仰第一主義を示す命題。《合理的に考えてもどうせ分からないのだから、グズグズリクツをこねずに頭から信じこむほかはない》という長いモノにはマカレロ的敗北主義を意味するものではない、とキリスト教神学では説明する。(この命題は2世紀中頃に生まれたテルトゥリアヌスTertullianusの語と、17世紀以降考えられ、またアウグスチヌスの言葉ともされた。しかし二人の著作をあらっても、こうした文句は見出されない。もっともこうした考えを示す箇所はある)増補改訂「哲学・論理用語辞典」三一書房 226-7p とあります。 もっと調べればいいのでしょうが、思うに、この文言のキモは「信仰は合理を超えたところにある」という解釈でよろしいのでしょうか。 すれば、当方のように「信仰から遠い存在」者には逆立ちしても「信仰」を理解することはできぬ、と考えるべきでしょうか。 また、このことについて解説してある著作などをご紹介いただければ有難いです。

  • 我は有る。この事は動かし難い。(仕切りなおし)

    前回質問。↓これと完全に同一趣旨です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5606505.html 前回の質問では質疑応答が変態SMプレイ発表会みたいになってしまい、世の中には辱めてしかるべき団体さんがいるのだなと、学ぶのみでした。 改めて掲載します。 我は有る。この事は動かし難い。 仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。 無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。 無いものとは煩悩である。 生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。 しかしこれは、はるか昔のインド社会に身を置いたお釈迦様の口癖でしかない。 実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。このような実感を備えた状態での我とはケンケンガクガクの論議がある自我ではない。我の所在を求めるとブラフマンに行きつく。ブラフマンとはインドの哲学の源流に現れる神の名である。生活日常に現代でも色濃く仏教文化の片鱗を残す日本社会では、仏教を突き抜けて我の所在をブラフマンに当てはめることで存在は揺るぎないものとなる。 そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。 思索の完成度を上げてより簡潔に表現することと、この作文からさらに思索を進展させるためのご批評をお願いします。 宗教のくくりならばあまり聞いたことのない独創性もあると思いますが、宗教の内側からのご批評とは、私には考えもつかない要素なので歓迎します。 なお、私は責任と尊厳ある一個人を無下にはづかしめる趣味は持ち合わせておりません。SMプレイでなく人間の答えをお聞きしたいです。