• 締切済み

「愛」とは何を表現したものか

「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

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  • owlsjp
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回答No.36

訂正: > さあ、どうでしょう、しかし智恵のない、気の利いた人間の、情緒に関する機知 を表現する能力にのみ富んだ回答者が自分の及ばないことに不安を覚えるのかどうかは知りません。 ⇒ さあ、どうでしょう、しかし智恵のない、気の利いた人間の、情緒に関する機知 を表現する能力にのみ富んだ<<質問者さん>>が自分の及ばないことに不安を覚えるのかどうかは知りません。  自分の与り知らないところで物事が動いているのは当然であり、仕方のないことではあると思いますが、知らないことについて安心すると言うことはないですね 「引き芸」の意味がわかりました、しかし、引かせようとして書いたのではなく、ましてやウケ狙いで投稿したわけでもありません、それにしても、いたく質問者さんのプライドもしくは自尊心もしくは自己愛を傷つけてしまったようで...(???)

the_hours
質問者

お礼

>「引き芸」 すみません。。これは言葉でなく「▲」や「■」でもよかったです。

the_hours
質問者

補足

(No37へのお礼) >なにか理由がなければあれほど行間を使ったおおぎり?は書かないでしょう いえいえ、、「イメージが浮かんだら」以上の理由は私にはありません。 「パステルの透明のカバーをつけたかったからつけた」これだけです。 カバーですから取り外しできます(誰かに何かを言っているようで、誰に何を言うでない)。 あれは全体のイメージが瞬間的に入ってきたからやったのであって、あとはピントを合わせるだけですからキーボードを打つ以外の時間はほとんどなく、口でアドリブでやれば5、6分です。 過去のお礼文のほうがだいぶ時間がかかっています。 “もし一般の方でこの質問を見るという事故に遭ったときに一人でも「あっ得した」と思ってくれれば”という下心が無かったわけではありませんが。 それは発信源が私である必要はなく、誰か退屈しているそいつを楽しませてやってくれ、ということです。 ちなみに、いちいち理由なんてことを考えていたらその例の現代画家なんか障害者です。 30年以上、ひたすら衝動、ひたすら衝動、です。 もちろん美的バランスが整っているということは完全に理性が働いているわけですが >質問者さんを引かせてしまったのであれば、 私が「引き芸」なる言葉を使ったのが間違いでした。 ああいった思考状況に入った際に回答者さんのような性質の方は「引き芸」の例で示した手法を好む、ということです。 両方を持っている人間で「引き芸」を好む人もいますが、「引き芸」は結果が見えています(後でも言及します)ので私はよりリスキーで攻撃的、装飾的な「引き芸」でない例、で示した手法を好みます。 >人為的な虚構 確かに、「引き芸」に長けてもいない人間が「引き芸以外の例」が好きだからといってそのやり方で暴れていますかたそう感じても無理はありません。 私もそれこそ「視覚レイプ」を感じます。 ただ、要所を押さえているものを“人為的な虚構”というならば、「センスがない人は帰りなさい」以外の言葉がありません。

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  • owlsjp
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回答No.35

 ナルシストを気取られて質問者さんの場を荒らした と思われたのでしょうか、「引き芸」が何を意味するのかわかりませんが、このまま引くのも 質問者さんのナルシスト度合いの削減と私のナルシスト度合いを増すためにはよろしくないかな と感じたので「ニーチェ」のニヒリズムを賞賛したサイトを見て、それに対しての反発をエネルギーとして使い、書いたんですよ。自分をもっと愛せるようになるための活動です。そのためには、自分だけが好きなナルシストである故に、少しの自己紹介に過剰に反応するような質問者を利用させてもらったのです。  しかし、人は老いますが、ナルシストの「老後」の行く末が哀れであることは間違いありません、ナルシストで在るゆえ、真実から遠く、故に醜くおいて、人生を呪うしかないでしょう。  さんざん自分を愛して、それ故醜く老い、絶望の中で死んでいくのは道理です。 >No25さんの回答で私も勉強させてもらいましたので仰ることは実に的を射ていると思うのですが、この場でニーチェ(どういう人か知りませんでした)をもてはやしている人だけを狙う理由は何なのでしょうか。  狙う、ですか、「狙う」と思ったことは、相当自己愛が強い故、道理や真理から遠く、結果としての恐れが多い証拠です。  理由としては、ニーチェとそのニヒリズムを否定したいと思ったからです。「狙った」のではありません。昔の偉大な?哲学者より現在の凡人のほうが優秀でしょう。 >意地は自己愛、ナルシズムだと思うのですが、違うのでしょうか。  難しいところです。最後にわずかに残ったナルシズムを捨てれば、普通の人間社会ではもう生きていけないから、ぎりぎり残っている、残りたいと思っての意地 かも知れません。いずれにしろ文字が違うから意味も違ってくるでしょう、当たり前ですよね。 >なぜいちいち書くのかというと私はNo.27さんをある意味尊敬しておりますので、自らが別格のナルシストであることを前面に押し出して頑張ってもらいたいと個人的に思ったからです。  はい、そう思ったからこそ、前回の解答を投稿したんですよ。ナルシストでなければ自分のことを考えて生きることは難しいので、それを少しは育もうと言う意図の元に書いた文章に対して「別格のナルシスト」という印象を持ったのは、まさに自分がそうであることの証明ですね。 >私は人為的な2度塗り3度塗りは好きではない ナルシストはナルシストの誇りとして「好きではない」と「2度塗り3度塗りの良さが汲み取れない」をすり替えるようなことをしないで頂きたいです。  なるほど、安易に「好きではない」と書いたことがまずかったですか、では「そういった芸術や考え方が蔓延ると生きにくくなるので本能的に排除したくなります」と言い換えれば納得してもらえるでしょうか >「インテリは自分の理解の及ばないことに安心する」という言葉もありますし回答者さんがそうなのかは知りませんが。  さあ、どうでしょう、しかし智恵のない、気の利いた人間の、情緒に関する機知 を表現する能力にのみ富んだ回答者が自分の及ばないことに不安を覚えるのかどうかは知りません。 >↑こういうやり方は「引き芸」です。  まだ、「引き芸」の意味がわかりません(本気)、説明願います。  もし、「さんざん私をレイプしておいて、執着させておきながら、去っていこうとするなんてヒドイ」と言うなら、まんざら悪い気もしません、人は自分をぞんざいにあつかい、ないがしろにした人間に対して 執着するものです。  質問者の行間を多くとった、気の利いた漫才?は執着というよりも、少しウケました。 >いくらシンプルが好きでもゆでるか焼くかくらいはしなければならないと個人的には思います。  音楽で言えば、いわゆる「歌モノ」は基本好きではありません、楽器のみの、なおかつ、音と音の間の無音の部分の余韻を感じられる音楽が好きです。そういう意味において、例えば、オペラなど「論外」です。  いずれにしろ、すでに欺瞞の中に落ち込んでしまった回答者さんが、私に対して不快感を覚えるというのは、ある意味理解できなくもないですが、結局 ナルシストを正当化して人間礼賛し、尚且つ他者を排した人間は最終的には「神は何処へ言った、死んだのか」などと見当違いのことをのたまって、自分が醜く去っていくことになるのではないでしょうか

the_hours
質問者

お礼

>自分だけが好きなナルシスト 「自分だけが好き」ということを自分で知りながら自分が好きになる人間がいるのでしょうか。 私に対してならばよいですが他のナルシストも含んでいたおつもりであればその方々に失礼です。 >ナルシストで在るゆえ、真実から遠く、故に醜くおいて、人生を呪うしかない そうであればそれらが芸術が創造されるきっかけになるのを願うばかりです。 呪う、という概念が理解できません。 私のなかでは芸術という言葉は限りなく真実という言葉に近づいている、と言っているナルシストの現代画家がいますがその方に一言お願いします。 >「狙う」と思ったことは、相当自己愛が強い故、道理や真理から遠く、結果としての恐れが多い証拠 私を指していたんですか? 他の回答者さんをさしていると思って、「なぜその方々をそんな風に言うのですか」と書いたのですが。。。 私はニヒリズムという言葉もニーチェという言葉も数日前に知ったばかりで、正直どうでもよいです。 他のお礼において私は全ていおいて「誰を指しているのかわからない」と書いています。 逆に回答者さんはいつも自分が指されたと思われて回答されていますので自己愛の強い方だなあと思っただけでした。 勘違いであれば申し訳なく思います。 >育もうと言う意図の元に書いた文章に対して バーチャルの世界はこれなので苦手です。 >「引き芸」の意味がわかりません 「引き芸」でなく、「●」でもかまいません。 回答者さんのような思考(←褒め言葉、ですよ)周辺からものを取り出すやり方、でしょうか。 書道で云う中国の古代の楷書のお手本のようなものです。創作ではなく。 ピラミッドであってエッフェルやカサ・バトリョではないともいえます。 カカーであってロナウジーニョではない。 >「さんざん私をレイプしておいて、執着させておきながら、去っていこうとするなんてヒドイ」 私には想像できない発想です。。。 >人間に対して 執着 というものが何なのか(今の私なのか)、理解できません。 また、他の方にもはじめから一貫して言っておるように、いつ去っていただいてもかまいません。 よく、暴言を吐く、という言葉がありますが、あれは「吐かれた」と感じる人間がいなければ成立しませんので、私に対しては成立しにくい概念です。

the_hours
質問者

補足

>質問者の行間を多くとった、気の利いた漫才?は執着というよりも、少しウケました。 少し、ですか。。。 大喜利の回答を見たときの瞬発的な想像力というのはある意味自己本位なものですから、回答者さんが、少し、しかウケないのも無理はありません。 「私は誠実であったので想像力を殺してしまいました」 しかも、何も考えず楽しめばよいだけの大喜利を「執着」ととるとは、おそるべき歪みです。 「アイディアへの執着」は必要ですし、あの大喜利形式を思いついたから実行したという点においては確かに「執着」です。 衝動、というには時間がかかりましたし、確かに「執着」のほうが近いかもわかりません。 >私に対して不快感を覚える 今までに回答者さんに覚えた不快感の全てを10とすると、あの大喜利で「少し」と言った人間(回答者さんに限らない)への不快感は40です。 不快感1000でようやくパン一斤、という感じですので取るに足らない不快感ですので気になさらないでください。 そもそも他者を認めないのであれば他者から不快感を感じるということはないと思います。 >「さんざん私をレイプしておいて、執着させておきながら、去っていこうとするなんてヒドイ」 もです。 回答者さんに不快感を感じていなかったとしても感じた、と書くのがマナーであるように思います。 パン一斤のためのポイントも実際は貯めておりません。 >ナルシストを正当化 正当化も何も、周りにナルシストがいなくなれば私は非常に困ります。 回答者さんのように瞬発的な想像力のない方ばかりだと会話も一切しなくなりますし、他者との関係が断然です。 容姿やスタイルとも云われる美的調和の取れた人間は程度の差こそあれたいていナルシストですから、彼ら彼女らがいなくなれば美しいビジュアル媒体もなくなります。 世界的モデルなんてナルシストじゃないとやっていけないですから、それらが消える世界など私には想像もつきません。 サッカーではモリーニョ監督の出現で監督が主役になることさえ珍しくなくなりました。 >自分が醜く去っていくことになるのではないでしょうか ナルシストが醜く去る、とはどういうことなのでしょうか。。。

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  • heartmind
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回答No.34

再びすみません。質問者様はkjinen様の考えに少し共感を持たれたと いうことですね。 では、kjinen様に向けても私は今ひとたび、、、 >その意味で抽象的なものほど愛しやすいわけで、換言すれば、自己の観念を愛しているということになる。人類愛の名において、自己を愛しているのであります。 この部分についてですが、 個人的な意見だと思ってもらってけっこうです。 「愛」は、つまるところ自己の生存欲求の為と思わざるを得ないのですが、 人の為? 自己犠牲? そういうことを声高に主張することは、好き嫌いで言えば、 あまり好きではありません。 自分の生きがいの為、の人の為です。人の為になることで満たされる のです。 客観的にものをとらえようとする努力は好きだけど、 客観的にとらえているなどと考えることはおごりです。 主観が集まり統計的に多数決で客観があるぐらいと思った方が、 いいぐらいです。 なので主観は嫌いではありません。 なので老人は主体的に自分の生きがいの為に、人を見て関係性を 見出そうとしているだけです。 この場合の老人は、この公園のだれにも利益をもたらしていません。 自分がただ、ほほえましく、少しの興味を持ってみているだけです。 そんな行動は、誰の利益にもなりません。老人の為にだけあるだけです。 褒められた行動ではないと思いますか? 私はそうは思いません。 他人に興味を持つふりをして、他人が自分をどう見ているかばかりを気にしている事などよりはよっぽどましです。 自分の為に主体的に行動する事、 それは、他を他として認め、自己を主張する、健全性にもつながると 思うのだろうがどうだろうか?

the_hours
質問者

お礼

このお礼を後回しにしたのはいったんおいておいて見返したためで、他のお礼ではそういうことをしていない場合もあります。 この回答に最も興味があります。 >質問者様はkjinen様の考えに少し共感を持たれた はっとさせられた、理解ができた、ということかもわかりません。 私の「共感」は自己肯定である可能性があるため当てになりません。 その回答から考えてくださるという方法はとてもためになります。 それ以下の文はよくつかめません。。 >褒められた行動ではないと思いますか? すみません、だいぶ考えましたが老人がなぜそのような人生を送っているのか理解ができないためわかりません。 そして、理由を聞くのも野暮に思います。 ただ、 >自分の為に主体的に行動する事 が、なぜ >他を他として認め ることになるのか、できる範囲で補足願います。

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回答No.33

No.11,25,28です >>No.25でのお礼欄 漠然としていて大変申し訳ないのですが、質問に関係なくてもよいですので他にお勧めの本(読書初心者に)がございましたらお教えいただけると嬉しいです。。 << お勧めすること自体やぶさかではないのですが、一番いいのは、図書館などに行って、自身が読みやすそうな本から、何冊かづつ読んで行かれるのがよろしいかと思います。 私の場合、本屋などでパラパラめくって、「読みたい」と思った本以外は、読むことはありません。 最近、ネットで注文できますが、ざっくりと内容を確かめないと買う気にならないのです。 高校時代に先生に勧められて(あるいは推薦図書としてあげられて)いた本を購入し、1頁みただけで「これは、俺には読めない」と投げ出した本があります。また、生理的に受け付けない内容だったり、分かり切ったことが書かれている本なども、読む気にはなれないでしょう。 とりあえず、私の読書リストの一部(おそらく10年以上前のものですが)を挙げておきます。参考になれば幸いです 「カミとヒトの解剖学」、養老孟司、(ちくま学芸文庫) 「脳から心へ」-心の進化の生物学- G.M.エーデルマン著/金子隆芳(新曜社) 「風の谷のナウシカ」(原作本、全7巻)、宮崎 駿(徳間書店) 「宗教と科学の接点」河合隼雄(岩波書店) 「ユング-現代の神話」 M・L・フランツ/高橋巖訳 (紀伊国屋書店) 「ヨブへの答え」、CGユング、林 道義 訳 「臨死体験」ブルース・グレイソン、チャールズ・P・フリン 「利己的な遺伝子」リチャード・ドーキンス 「生きものの世界への疑問」、日高敏隆、朝日文庫 「新約聖書」 「ムハンマド」(かれの上に平安あれ)、イスラーム入門シリーズNo.6 「聖書の旅」、山本七平、文集文庫 「旧約聖書物語」、山本七平、徳間文庫 「ブッダの言葉」-スッタニパータ-,中村 元訳(岩波書店) 「人はなぜ神を創りだすのか」ヴァルター・ブルケルト/松浦俊輔訳(青土社) 「いま、なぜ民族か」、蓮實重彦、山内昌之編(UP選書、東京大学出版会) 「現代日本の新宗教」、沼田健哉(創元社) 「ゲーデルの哲学」-不完全性定理と神の存在論-、高橋昌一郎(講談社現代新書) 「風土」、和辻哲郎(岩波文庫) 「愛の無常について」、亀井勝一郎(角川文庫) 「日本的霊性」、鈴木大拙(岩波文庫) 「知性について」、ショーペンハウエル、細谷貞夫訳(岩波文庫) 「はじめての現象学」、竹田青嗣 「世界の宗教がわかる本」、ひろ さちや監修(主婦と生活社)

the_hours
質問者

お礼

アドバイスと著書リストありがとうございます。 参考にさせていただきます。

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  • heartmind
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回答No.32

すみません。たぶん詩的表現がいきすぎたのでしょう。 それで、嫌悪感をおぼえられたのかと思います。 「愛はいらない」ではなく「愛は死ぬだろう」ですね。 そして、愛についてのメカニズムをここで答えよと、 そうすると愛が死ぬことの証明が明らかになるであろうと。 老人が自殺しない理由は、毎日が運動会でないからでしょうか。 金木犀を話題にあげたのは、何か時期だしぐらいです。 あまりたいした意味もないのですが、 そこに対して稚拙さがかいまみえたのでしょう。 どうもお気に召さなかったようで、ご立腹さようせてしまったみたいで、面目ない。しかし稚拙であるとの指摘はありがたいかぎりです。 思うに、誌的表現が行き過ぎてしまったのは、愛という表現がやはり 誌的表現だと私自身が感じているからでしょう。 ですから、説明も詩的になってしまいました。 では、わたしなりに愛について今一度考察してみますと、 繰り返しになってしまいますが、やはり、 人間との関係性そのもののような気がします。 「愛は死んだ」と言われる時代が来るとするならば、 関係性が必要でない時代ということになりますが、、、 >もし、孤独に耐えるためのものが愛ならば、完全に死んでいます。 この部分が何を意味するか私なりに考えるとすると 本当の意味での孤独に耐える人(つまり他の人間の存在を 一切感じることのない人)が存在するということだと思いますが、 それは例えばどんな人でしょうか? 教えていただければ幸いです。

the_hours
質問者

お礼

>嫌悪感 紛らわしくてすみません。これはNo.32さんではなく他の複数の回答に対してです。 私の今の理解ではNo29さんの回答は正直申しまして危ないと思うのですが、、 その真意に私の頭が追いついていないですから、その私が一人で踊るのはNo29さんに失礼ではありますが、今はそう思います。 もしかしたらNo29さんやマザーテレサならそれでよいかもしれませんが、他の方(No.32さん曰く、“自己の観念を愛している方”)がそれを言えばどうでしょう。 迷惑千万、恐怖です。 >稚拙であるとの指摘 これも、お礼を見てもらえばわかりますが私より稚拙な返答はありませんし、少しでも高いレベルでやり取りさせていただきたいですが私にはその力量がまるでありませんのでそうすることはないでしょう。 また、詩に関しては嫌味は書いておりません。 >人間との関係性そのもののような気がします。 これであれば、愛は「死なない」です。 >本当の意味での孤独に耐える人(つまり他の人間の存在を 一切感じることのない人) 揚げ足取りはしませんが、他の人間の存在を一切感じることのない人、は孤独も感じないと思うので耐える必要はないと思います。 すみません、何も提示せず申し訳ないです。 わかりません。考えます。 何を愛とするかは人それぞれのようですし。

the_hours
質問者

補足

>No.32さん曰く、 No.25の間違いです。

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  • heartmind
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回答No.31

>とっても難しい問題だけど、種の保存の為に、 種の保存などとざっくりしたことでまとめすぎてしまいました。 皆さんの意見を見て恥ずかしくなりました。 しきりなおします。 例えば、生まれつき不能で天涯孤独な老人がいたとします。 仕事は、派遣の草むしりで生計をたてています。 休みの日は、お気に入りの公園に行って、子供達や、あらゆる人々が、 会話やいろいろな心和むコミュニケーションをしています。 老人はそれらを遠巻きに見るだけで心が癒され、生きる活力になって います。 公園には金木犀の木が一本あり、老人はその開花も毎年心待ちにしています。金木犀の開花は秋口のある日、突然強烈な香りとともにやって 来て、その期間は短いため老人はその到来を、逃さぬように、心を配っ って注意深く待ち望んでいるのでありました。 さて、金木犀の開花の日がやってきました。金木犀さんは老人に喜んでもらいたいと、香りを辺りをいっぱいにして待っていました。 しかし、その日はちょうど町内の運動会で住人の方は、一人もその公園にはいません。 老人が来て涙をながしていいました。 ああ、この絵にも言われぬ香りの中で、この天涯孤独な何の値打も ない老体が独り、なんと残酷な現実をつきつけるのだ。 くそっ、金木犀に何も罪もないのはわかってはいるが、今はこの香り が憎らしくてたまらない。 人間は、自然美、あらゆる芸術、あらゆる神秘的なものから、何かを 感じ、感動し、時には癒されているているのは間違いないとは 思いますが、 そこにはやはり、人間の生命を投影していることも忘れてはならない とも思います。 私にとって神とは、神秘的なもの全般つまり、芸術や自然美もそのうち ぐらいの認識しかありませんが、 愛とは、人間との関係性そのもののような気がしてしまいます。 この老人は本当の孤独では無かったと思います。 他の人間の存在が救いだったのです。 オオカミ少女だって、自分が同じオオカミと思えればこそです。 本物の孤独に耐えられるのなら、愛はいらない。 そういうことでしょうか?

the_hours
質問者

お礼

皆さんが仰ることが「愛」なのであれば、私にも「愛」はあることになりますので、「死なない」ですし、それならそれが一番よいです。 が、やはり愛は死ぬ、と思いますし、少なくとも「瀕死」になると思います。 根拠が無いため締め切ったほうがよいのはわかっておりますが、まだ参考ご意見を頂戴させていただきます。 >くそっ、金木犀に何も罪もないのはわかってはいるが、今はこの香り が憎らしくてたまらない。 回答者さんはどうしてこのような文章を書いた(書ける)のでしょうか。 私はこの感覚が理解できません。 また、老人がなぜそこまで自殺をせず生きていたのか個人的に不思議に思います。 また、彼は詩を書くべきです。 私は詩人になりたかった。 >他の人間の存在が救い そうであれば運動会以外の日は大丈夫でしょう。 しかしその運動会の日やそれ以後は詩を書くべきと思います。 >本物の孤独に耐えられるのなら、愛はいらない 私の意図はそうではありません。 では何なのかと説明する義務がありますが、考えていないですから書けないのです。 「愛はいらない」と思ったことも書いたこともありません。 ただ、「それは死んでいつじゃないですか」と感じることはあります。 深いことは考えておらず、「恋愛のメカニズムが解明されると恋愛は死ぬ」と考えており、それと同じ感じです。 正直に申しますと、回答を見ているうちに「愛」への嫌悪感を感じつつありますが、そういった理由は関係ありません。 また、だからといって偏見を持ってみることもいたしません。

the_hours
質問者

補足

>本物の孤独に耐えられるのなら、愛はいらない もし、孤独に耐えるためのものが愛ならば、完全に死んでいます。 「人は一人で生きることができる。しかしそれでは生きることしかできない」と言われれば、私は黙り込むしかないですね。 >その期間は短いため老人はその到来を、逃さぬように、心を配って注意深く待ち望んでいるのでありました。 余談ですが私も全く同じ一人です。 そういう人は結構いるため美容室などで息苦しいときにスタイリストさんに話すと「えっ!私もあそのこ金木犀楽しみにしているんです!」と一瞬で盛り上がることもありますが、金木犀の話がおもしろくないことなど目に見えていますので一時の苦しみから逃れるためために話題にするのは絶対に避けたほうがよいです。

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回答No.30

 こんにちは。  ○ 愛とは 生きることです。もしくはその生きるちからが 愛です。  ○ もしほかのひとが生きることにちからを与えることが出来るとすれば それも愛です。そしてこの愛のちからのみなもとを 神と言っているのだと考えます。  ○ 神を 人間の精神だとかその力であるとか あるいは 道徳や倫理規範であると捉えている場合があります。これは 観念の神であり 偶像です。  ○ 観念の神は もともと――相対的にして経験的であり移ろい行くものであるゆえ その行き着くところは死ですから―― 死んでいます。ということを 《神は死んだ》は確かめただけのことです。  ○ もしこの人間の心のよきところを神として――つまり観念の神として――これを同じく愛だと言うとすれば その偶像崇拝においてはこの愛もすでに死んでいます。  ○ 神もその意味での愛も なぞです。わかるわけがありません。しかもひとは この神そして愛を想定するようです。  ○ 神はなぞですが 特に愛となると なぞとして知っているとさえひとは思っているのではないでしょうか。このような心の伸びは きわめてふつうであるように思います。  ○ このこころの明けもしくは伸びを放ったらかしにして考えるから 《神は死んだ》と言いっ放しにしてしまったし まづしい人や弱い人たちは 恨みのかたまりでどうしようもないひねくれ者であると見ることしかできなかったのでしょう。   ○ 共生 と言いかえるとよいのではないでしょうか?

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  • kigurumi
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回答No.29

No。25さんが「神は死んだ」に対する良回答をリンクしておられますが、<参考になった>のボタンをかつて押したことのあるkigurumiです。 それがなに?と言われそうなので、説明をさせていただくと、ツァラトゥストラはかく語りき の内容を知っているってことです。 >>この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。寧ろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事 >これは、必要とされたい、という欲望の強い方、また、親和欲求の高い方の発想です。 <愛の反対語は無関心、この世で最大の不幸は自分は誰からも必用とされていないこと> テレサちゃんの語録ですが、後者の方は自分は存在価値が無いと思って、自殺したりすることを含むのではないでしょうか。 誰からも必用とされない、自分はいなくていい、自殺。 したがい、誰かの役に立ちたいという人は、活発に活動していますので不幸でもなんでもないです。 誰からも必用とされていないと思っている人、自分には存在価値が無いと思っている人が不幸だって言っているわけです。 言葉そのものを読み取るとそうなりますよね? ちなみにあなたは権威とかで人を判断するみたいなので、、、 権威もなにもないですが、、、私は読解力を必要とする科目でA+の評価をもらっていますので、読解力に関してはそれなりの能力を持っていると思っています。 >滅茶苦茶です。 >まず、家族全員を毎年一人ずつ殺されたから敵なのか、時々ナイフを手に脅しに来るから敵なのか、何を理由に敵になっているのかが明示されていません。 旧約聖書にはぬかりがありません。 的を助けなさいの前に、どのような人を敵としているか書いてあります。 隣人です。同胞です。 旧約聖書は、その民族内における法律が書かれています。 民族の振舞い方が書かれています。 民族外の人向けの法律ではなく、民族内の人に向けた法律です。 神はどれでもなくエジプトで捕囚されたこの民族に目をとめて、彼らを解放した。 ゆえに神に関心を持たれて開放された民よ、同胞を神がやったように気にかけなさい  つまり愛しなさい って旧約聖書では明示してあります。 神のやることが律法に書かれたこと。 だから律法を守ることは、神と同じふるまいをすることになり、律法を守ることは、神の心にかなうってなるわけです。 >マザーテレサに影響されて「反対語」の意見を出されたのであれば、根本から見つめなおす必要があるように思いますが、思われないのであればそれはそれで個人の価値観ですから正しいでしょう。 その発言を読み、「神は死んだ。神を殺したのはあなたです」とニーチェなら言いそうだなって思いました。 例えば親が1人暮らしの子供に食べ物を送る行為。 子供に関心を持っているので、心配して食べ物を送るわけです。 関心を持っていなければ、そういうことはしないから。 つまり親の愛情表現の一つが仕送りとして現れているわけです。 これは親のエゴではないです。自分以外の他者への愛の表れです。 >このような文章は初めて聞きましたが、倒れている人が助けて欲しいと言っているなら助け起こすのは当たり前です。 旧約聖書を知らないので、誤解されたようですが、この倒れている人は、ある人から見ると死んでいるかもしれないと思えるほど、全く動いていなかったんです。 ですから助けて欲しいと訴えることはできません。 幾人もの人が素通りあるいは、わざと敬遠して通過する人たちがいる中で、サマリア人のみが助け起こした。 <イエスの善き隣人のたとえ話>あたりを検索すれば、どういう状況かわかると思います。 >そして、宿代まで払う必要がどこにあるのか理解できません。 >金を出すのは虚栄心です。 はぁぁぁ・・・・ すさまじい自己愛ですね・・・ 「愛は死んだ あなたの世界から愛を抹殺したのはあなたです」とテレサちゃんなら言いそうですね。 えっと愛という概念があなたの世界には無いと思えるんですね。 ある障害を持つ人とコミュニケーションを取るとき、非常に困難だと思うことがある。 ある障害を持つ人は極端な表現をすれば「心」が無いんです。 人は言葉以外に心で通信しあいます。 その心の能力を使うことが相手にはできない。 相手に心が無いとわかっていれば、ストレートな表現をします。 「これあげる」と。  目上の人に対して、とても失礼なお願いの言い方ですが、「よろしかったらどうぞ」だと通じないので、ストレートな言葉を選んで使う。 そういわれた相手は「目下のものがなんて失礼な」と思うことは無い。 そのやりとりを聞いた他者は、「随分乱暴な対応をしている」と思うだろうが、そうやって特別な対応をしないと、相手とコミュニケーションが取れない。 その人は他人に気を配るという概念も無い。 その人がお菓子を持っていたとする。 人からもらったから持っているわけです。 で、私は「あの人たちにもあげなさい」とストレートに言う。 するとその人は箱から取り出して、1人1人に渡し、「わー ありがとー」と言われる。 「ふーーーーっ、ひとまず このグループでは「いい人」って印象を彼以外の人は持ったようだ。第一段階突破。」と思うわけです。 知的問題はないが、心が無いので、他人と円滑な関係を築くことができない。 この気配り、心配りが、人間関係を円滑にするのですが、説明しても心が無いので理解できないので、「お菓子をもらったら 他人にそのうちのいくつかを全員に渡す」とルールで教える。 そうすれば、ルールとして毎回やる。 他人にケチと嫌われ、仲間はずれにされなくて済む。 彼愛とはどういうものか理解することはできない。 心が無いから。 でも、結婚はできますよ。 プロポーズの内容は「君がいない人生なんて考えられない」じゃないです。 「僕は年収500万で、マンションも持ってます。 結婚してくれたら、外に働きにいかなくていいです。 習い事をしたいのなら月2万まではやっていいです。次男ですから親の面倒を見る必用がありません。この条件でどうでしょうか」です。 いくつか質問されているようですが、返信している途中で、それにいくら応えたとしても、あなたは愛 つまり他人を気にかけるという能力において、ものすごい障害を持っている可能性があると文章を読んで思えることから、不毛の質疑応答になりそうな予感がしたので、それらのことは答える必要性が無いと判断させていただきました。 できないものをしろということの愚かしさを十分知っています。 あなたには別の優れた面があると思うので、そっち方面を延ばしていけばいいと思います。

the_hours
質問者

お礼

お答えしてくだされば私は自分の認識が深まる、改まる可能性があると考えておりますが、10で1も理解しない(0かもしれない)私に返答する回答者さんの労力は以前にお伝えしたように私も理解しておりますので無視していただいてかまいません。 >誰かの役に立ちたいという人は活発に活動していますので不幸でもなんでもない 本人は幸せでしょうが、私はその方と入れ替われるとしても入れ替わりたくありません。 仮に私が借金まみれで何の楽しみも無い生活をしていても、です。 また、そういった自殺もあるでしょうが、自殺できない人間が自殺をあれこれ言っても意味は無いように思いますし、逆に「必要とされているから」という、自分が自殺しない理由を知ってしまった人間が自殺するかもわかりません。 また、私は自殺を止める人間の神経が理解できません。 >あなたは権威とかで人を判断するみたい 私の人生で発した言葉を振り返ってもそれを匂わす発言は誤解によるもの以外にありません。 >隣人です。同胞です。 前回答を参照すると、ああ確かに、と思いました。 これは理解できておると思います。 >「神は死んだ。神を殺したのはあなたです」とニーチェなら言い 全く追いつけていけず、理解できませんでした。 「神は死んでいない」であれば「なぜ?!」と思いますが「死んだ」のであれば理由も気になりません。 >これは親のエゴではないです。自分以外の他者への愛の表れです 旧約聖書に書いてある行為と類似していますが、これがなぜ親のエゴでないのか理解できません。 私が愛至上主義と感じたのはそういうことです。 >金を出すのは虚栄心です。 これはラ・ロシュフコーの言葉です。 回答者さんは違うかもわかりませんがこの言葉はだいたいの方に当てはまります。 ちなみに私は自分が当てはまっていると“踏み”、完全に当てはまっているのか少しなのかは全然わかりませんがいずれにしても私はこれに当てはまる人間であり続けたいと考えており、あてはまらなくても「私は当てはまる」と言い続けます。 また、私は自己愛ほど価値あるもの(価値あるものを生み出す要因となったもの)を他に知りません。 >「愛は死んだ あなたの世界から愛を抹殺したのはあなたです」 頭が追いつかないので、テレサちゃんにその真意を聞いてみたいです。

the_hours
質問者

補足

(つづき) 「そうですか」「どうでもよい」とは思いません。 テレサちゃんに興味は無いですが >愛という概念があなたの世界には無いと思える 愛に程度は無いのでしょうか。 あるか、ないか、なのでしょうか。 >他人を気にかけるという能力において、ものすごい障害を持っている可能性 これは自分でも常々感じております。 ただ、私の思う「他人を気にかける」人間はあなたにこう言っています。 「他人を気にかけるという能力を神聖化してしまい、他人を気にかけられなくなった障害人間ばかりだ」 愛の名の下に仕送りをして受け取る側の迷惑を考えられないとは「他人を気にかけるという能力において、障害」です。 >善きサマリア人 私ならば「強盗たちの手中に落ちた人」をおそるおそる手当て(襲い掛かってくるかもわかりませんので)し、「犯人が私でないことの証明してくれる人がいれば一緒に来てくれ~」と複数の立場の人へ呼びかけ、すぐに集まらなければさっさと患者を運び、金があれば出し(金額は状況によりますが)、一目散に去ります。 全く面識がないままが一番よいですが、その方が回復し私と意思疎通を図れるようになり私に過剰な恩を感じているようでしたら「助けておいてこう言うことが自己中心的であれば申し訳ないが、今回のことは早めに忘れて欲しい。私は自分にとって都合のよい行動をとっただけなので恩を買われる覚えもない。もし今後逆の立場になればあなたが私を助ける必要もない」と言い、近所にでもなる可能性があり気が合わないようであれば「これからはあまり関わらないでくれ」というニュアンスの言葉を言うでしょう。 いや、それ以前に、全く面識がないようありとあらゆる手を使って最善を尽くします。 また、何万人に罵倒されても私は全く気にしませんので助けます。 ある中学校の生徒が卒業式の国歌斉唱で学校関係者の中で“唯一”起立して国歌を歌ったそうです。 あなたにはできないでしょう。 「助けると殺されそう」という状況でも私は助けます。 「クズが」と吐くか好きな歌でも歌いながらさっさと歩み寄ります。 相当な魅力的なアイディアを持っていていたら助けません。 アイディアを実現した後に「私ほどのアイディアを持っていてあの場で救出する人間ほどのクズは思いつかない」とでも書いて自殺します。

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回答No.28

人間は生まれながらにして「知・情・意」といった概念にて捉えられうる「心」(という概念で捉えられる情態)を持っています。 「心」という概念が、どうして、そのような概念区分にて捉えられるのか?は、非常に興味深いところではありますが、少なくとも、(西洋における)「哲学」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6という語源が「智を愛する=philos(愛)+sophia(知、智)」であり、「愛する」を、「愛[情]+する[意]」といった概念にて捉えるならば、まさに哲学という概念に「知・情・意」の概念区分の全てが含まれていることになります。 知と情とが(境界が曖昧な部分もあり、重なるところもあるにもかかわらず)別々の概念区分、というより、「心」の中での中心がずれているといった感覚に近いように認識されるならば、哲学が求めようとするところの「知・智」をいくら探っても、「情」(および「意」)についての本質(全体・すべて)を捉えることが不可能なことは、自明のことでしょう。 すなわち、捉えようとする側の視点そのものが、盲点となって欠落しうることを意味しています。 >>> メルロー=ポンティ『知覚の現象学』第二部:知覚される世界 知覚というものを世界の中で生起する諸事実のひとつであるかのように記述する、などということは馬鹿げている。それというのも、われわれは、世界という画像の中から、われわれがそれであるところの空隙、すなわち、それを通して世界が或るひとりの人間にとって実在することになるところの空隙というものを、けっして消去するわけにはいかないからである。つまり、知覚こそがあの<巨大な金剛石>の<傷跡>だからである <<< ※上記にて、「知覚」を「情・意」(ないし「愛」)に置き換えて読むと、意味深く感じられると思います。 ※巨大な金剛石(完全な世界という概念) 愛(情)は、主体を排除しては存在し得ない概念であり、「主体・関係・対象」を関連づけ続けようとする(結び続けようとする)動的な概念になると思います。 主体や対象を排除し、「関係」といった概念のみを切り出して抽象的に捉えようとするならば、まさに「愛は死んで」しまうでしょう。 実のところ、「愛」についてお勧めすべき本は本当は無いのです。お読みになられたら分かるかとは思いますが、どこかに違和感が残るものです。その「違和感」を感じ取ることこそが、「愛を死に至らしめない」一つの手段なのかも知れません。。。

the_hours
質問者

お礼

>※上記にて、「知覚」を「情・意」(ないし「愛」)に置き換えて読むと、意味深く感じられると思います。 すみません。。意味深く感じられるどころか、理解できませんでした。 前後の説明は理解できました、おそらく。。 >実のところ、「愛」についてお勧めすべき本は本当は無いのです。 質問に関係なくてよいと書いたのは、「愛」についてや哲学でなくてよいということでした。 亀山さんという方を聞いたこともありませんでしたので。 自分でもなんの条件も設定できませんので挙げていただくことが無理でしたら結構です。 今までに頂いた回答で一番納得してしまいました。 理解できていないものに納得する、ということがどういうことなのか、 遠いものこそ愛する、の例とは違うのですが。 ご回答ありがとうございました。

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  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.27

>そういった回答をしてきた私に本題から逸れたことをわざわざ時間を使って回答するエネルギーはどこからくるのでしょうか。。。  そうですね、いろいろ考えてみました。  たとえば、高原の、その中でも人家を見おろす高台で生まれた人間が、騒然とした社会にいつまで経っても慣れることができず、周囲から自分を守るため だと思います。最初に吸った一呼吸が、その人の在り方をほとんど決めると言っても過言ではないでしょう。かといってそこへ帰るつもりは、今のところはありません。意地もあります。  静かな環境に育った人間が、音に敏感であり、どう聞いても ニーチェ という音の響きが下品で、みっともない と感じる感性を持っていれば、他者の雑言に我慢が出来ないのは仕方ないでしょう。いえ、the_hoursさんのことではありません。  それにしても、狂気に陥った人がもてはやされるのは弱者崇拝ではないでしょうか... >No1さんの回答が言葉遊びかどうかはわかりませんが、あれはデザインとして美しいので言葉遊びでもなんでも良いです。 いや、言葉遊びの絵画だったとしても、少なくとも2回は塗り重ねたであろう色の深みがありました。  私は人為的な2度塗り3度塗りは好きではないです。シンプルで、なるべく弄っていないものが好みです。 愛 が、「神から死ぬ前に与えられたものだと思います。」 というなら、人間の人口が減れば減るほど神はよみがえると言う事になります。人間が、最もこだわっていることが、人間を苦しめているのであれば、繁栄存続への執着が、神を殺し、自分自身をも苦しめている結果を生んでいるのかもしれません。  で、個人的な愛と真実はやはり相容れないものだろうと、思います。 個人的な愛情を表す形としてハート型がありますが、完全を表すのが真円であるとすれば、それに比べて歪んでいます。とすれば、真実を取るか、個人的な愛情を取るか、究極の選択です。どちらかをとれば、もう戻れないだろうから

the_hours
質問者

お礼

>狂気に陥った人がもてはやされるのは弱者崇拝 No25さんの回答で私も勉強させてもらいましたので仰ることは実に的を射ていると思うのですが、この場でニーチェ(どういう人か知りませんでした)をもてはやしている人だけを狙う理由は何なのでしょうか。 また、 >意地もあります 意地は自己愛、ナルシズムだと思うのですが、違うのでしょうか。 No.27さんが違うと仰るのであれば私はおそらく納得するでしょうが、それらの観念に対して考え直すことになります。 なぜいちいち書くのかというと私はNo.27さんをある意味尊敬しておりますので、自らが別格のナルシストであることを前面に押し出して頑張ってもらいたいと個人的に思ったからです。 >私は人為的な2度塗り3度塗りは好きではない ナルシストはナルシストの誇りとして「好きではない」と「2度塗り3度塗りの良さが汲み取れない」をすり替えるようなことをしないで頂きたいです。 「インテリは自分の理解の及ばないことに安心する」という言葉もありますし回答者さんがそうなのかは知りませんが。 色の上塗りはしませんがパステルカラーの透明のカバーをつけます。 >個人的な愛情を表す形としてハート型がありますが、完全を表すのが真円であるとすれば、それに比べて歪んでいます ↑こういうやり方は「引き芸」です。 この回答に限りませんし弱者崇拝のくだりもですし「引き芸」は「真実」ですのでNo.27さんが引き芸を多用するのは当然ではありますが。 「麦を1.5倍使っているからコクがある発泡酒。では2.5倍使ったらどうなる?」 と聞かれた時に、 「CMの役者が変わる」や、「1.5倍に戻そうという意見が出る」 と答えるのが「引き芸」です。 「引き芸」でない例としては、 「桶屋が儲かる」や、「クララが立つ」 など、まあいくらでもあります。 「デパートの館内放送で言ってはいけないことは何ですか?」 と聞かれたなら、 「生い立ち」、と答えるのが「引き芸」。 「引き芸」でない例としては、 「はい、マージーカルバーナーナ♪」や、「4番サード富吉くん」 などです。 余談ですが、ここで「引き芸でない例」として、「本音」などというカボチャを生で出すようなことをすればゲンコツです。 いくらシンプルが好きでもゆでるか焼くかくらいはしなければならないと個人的には思います。

the_hours
質問者

補足

「タバコの箱に大きく書かれてある注意書き、喫煙は○○○、何が書いてある?」 では、 「喫煙は禁煙の一歩手前」 が「引き芸」。 「喫煙は喫煙、アンタはアンタ!さっ、行くで!」 が「引き芸」でない例。 キリンと樹木希林の違いがさっぱり解りません。キリンに無くて樹木希林にはあるものって何? では、 「演技の幅」 が「引き芸」。 「のりしろ」 が「引き芸」でない例。 「世界の車窓から」見たくないものは? では、 「奇妙な埃」 が「引き芸」。 「焦った工藤新一」 が「引き芸」でない例。 ここで引き芸の例として「真理」などといえばまたカボチャの生ですから、さすがに温厚な私でも店長を呼ぶことになります(「排除」、の一歩手前です)。 仕事や学校から家に帰ってきて、まず最初に何をしますか? では、 「服を着る」 が「引き芸」。 「ドラえもんに愚痴る」 が「引き芸」でない例。 ちなみに、ここで引き芸として「カボチャを茹でる」という例が一番よい(個人的に好き)と思うのですが、No.27さんのような方がこれを言ってもダメです。 それは例えばヴィヴィアンウエストウッドの服が似合うか似合わないかというようなものですので、一人で勝手に似合うと思って着ていたら「視覚レイプ」になり「排除」の対象、ALSOKが飛んできます。 「おれ、この言葉に弱いんだよね~」。どんな言葉? では、 「横文字」 が「引き芸」。 「あ~ドラえもぉ~~~ん助けてぇ」 が「引き芸」でない例。 うそ、出来杉君にも出来ないことがあるの? では、 「年をとること」 が「引き芸」。 「歌って踊る」 が「引き芸」でない例。 「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」。あれ、どうやって鳴かせたの? では、 「結局、鳴くまで待った」 が「引き芸」。 「接待した」 が「引き芸」でない例。 余談の余談ですが、No25さんの回答にあった「自己の観念を愛している」、他の質問にあった「論理は後からくる」が真実だとすれば、 「引き芸」を多用するのはスベるのが嫌だから、つまり「自己愛が傷つくのが嫌だから」ということです。 ここに書いていることもまた、論理は後からきたことになりますが。

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  • ヘーゲルの《神は死んだ》

     これをヘーゲルは宗教哲学講義の中で触れている。その紹介がネットにあった。イェシュケ編集の講義選集( Vorlesungen )から引用されている。  ▲(岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」) ~~~~~~~~~  1. 神的理念の最高の外化(* =表現)は すなわち・・・それ自身の外化として 以下のことを表明する。   神は死んだ( Gott ist tot. )。神自身が死んでいる。  2. ――これはこの表象に先立って分裂の深淵をもたらす 途方もない恐るべき表象である。  3. しかしこの死は同時にその限りでそのうちに最高の愛がある。  4. ――まさにその愛は神的なものと人間的なものとの同一化の意識であり――そしてこの有限化(* =肉化)はその極端にまで すなわち死にまで駆り立てられる。  5. したがってここにその絶対的段階における統一観 すなわち愛についての最高の観方がある。  6. ――というのはその人格 所有等々を放棄するという点での愛は行為という自己意識だからである――他者において最高に〔自己〕放棄するという点で――まさに死 すなわち 生命の制約を絶対的に代表するものというもっとも極端な他在において。  7. キリストの死はこの愛そのものの表象 Anschauung である。  8. ――他者のための 他者を巡る愛ではない――そうではなくて他在 すなわち死とのまさにこの一般的同一性における神性である。  9. この絶対的な極端との恐るべき合一が愛そのものである――思弁的な表象である。(以上 Vorl. vol.5 p.60 )  (岩波哲男:ヘーゲルの「神は死んだ」という言葉  https://www.jstage.jst.go.jp/article/studienzuhegel1995/2000/6/2000_6_2/_pdf  p.4 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 10. わたしはこのような思弁的表象が好きくありませんが それは 何がしかのインパクトを与え そこにとどまるのではなく やはり何がしかのヒラメキやさらには思索へとみちびくものがある。とは 感じました。  11. それは ただの死であって しかも他者のためにする行為などではなく やはり単なる死であった。  12. ただし 人間としてのイエスは 大泣きに泣いてその行為を好まなかったが キリストとしては みづからすすんで世の中としての人びとの手に身をゆだねた。  13. それでもただの死が 存在が他在するというかたちを示したと言う。  14. 《他在》というこの表象も おそらくどうでもよい。けれどもそこに メッセージがあるかどうかが 問題だ。  15. みづからすすんで磔の刑を受ける阿呆か。あるいは ヘーゲルが見たらしい愛なるメッセージがあるのか。その愛は むしろ阿呆の内にあるのか。

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    東北大震災後、モルモンの専任宣教師は日本各地に避難した。 http://okwave.jp/qa/q6610662.html 避難することは勝手です。自由です。そのことに対してどうこう言うことはできないと思っています。 モルモン四大聖典の教義と誓約4章に次のように書かれています。 http://scriptures.lds.org/jpn/dc/4 ​信(しん)仰(こう)、​希(き)望(ぼう)、​慈(じ)愛(あい)、​愛(あい)​を​持(も)つ​者(もの)​に​は、その​業(わざ)​に​携(たずさ)わる​資(し)格(かく)​が​ある。 大震災で沢山の人々がなくなりました。また沢山の人々が財産を失い、家族を失い、失意の中懸命に耐えていたことが世界中に称賛されたことは記憶に新しいと思います。そんな時、信仰希望慈愛愛を説く宣教師が逃げてどうするのでしょうか? この時こそ本当の愛を示すチャンスじゃないですか。 キリストの精神を態度や行いで示すチャンスです。「命を賭けてでも、被災者のために奉仕してください。」と神から召された預言者からの言葉があってもいいと思います。 教会に入るとか入らないとか関係ないんだと思います。 それをしていたら、今ごろいっぱい改宗者が出てきたと思います。 福島県の場合は例外かとは思いますが、その他の地域に助けに行くことはできると思います。 チャンスと表現しましたが、皮肉が含まれています。 人の弱みに付け込む教会の体質があるためです。どこでも災害や事故痛ましい事件が頻繁に起きます。 チャンスではなくて当たり前だと思います。助け合いの精神を日本人は持っていることを誇りに思います。

  • タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」

    タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」 絆という言葉に深い意味がない西洋だと「愛」という。 そういう言い回しをすれば、私がそれに変えるのは「慈しみ」(友情)だ。 こういう言い回しをすると愛を軽視しているという傾向を疑うかもしれない。 しかし私は「愛は最も人間らしい感情の原型」ととらえていて否定していないんだ。 西洋の愛の概念の多岐に渡る解釈の論説を読んでもわかる解釈だ。 ただ複雑に愛に当て込んでいるから明快でないんだよ。 それから友情がより多方面に社会性獲得に活躍すると言っても、人と人が相互理解すると人間の成立と考えていて、前段階の「人と人」の対峙や、場合によっては社会性の獲得で人と差異がある動物にすら当てはまる。 したがってより根源的な意味の正解だときっちり評価しているんだよ。 何の話だろうね。 土台になる過去の研究備忘録が下。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 機械自我レイアウトその2 人と人がお互いに人間を成立させる前提 今回の論説は、自我研究の付属事項で情動にかかわるものだ。 生命が備える善性の定義を私なりに説明しよう。 特に善なる概念を創成した人間で自覚が顕著な特徴だ。 人はお互いを確認して、社会を成立させる。 お互いが影響しあい、生存を補完するこの関係で重要なのは、自分自身を善く(よく)することと完全に等しく他者に善くする事だ。 勘違いされることが多いが、利己心を優先しないで、他者を自分自身と同格に生存を支えあうことだ。 このような強い連帯は日本語で「絆」という。 お互いが心情的に血を通わした間柄のような強い相互認知だ。 社会生活でこの善に偽りがなく正直な状態が、行いで判別する人間の善性の簡潔な見解だ。 余談だが、この考えを私が形成する過程では、いわゆる天啓に該当する神秘性のある直感が働いた。 したがって定義の命名権を行使して、このような善性への見解は「アマテラスの善し(よし)」とさせていただこう。 西洋から渡来した愛の概念の神聖化について、日本人なら納得できるように説明すると、こうした社会成立の基盤になる善性について、主に感情面での個人的な働きに着目して、愛が相互の互助と社会の成立を潤すという解釈で、宗教や社会風俗で重要視されたのだろう。 すなわち「愛」とは、最も人間らしい感情の基盤であるという発想だ。 この感情面で着目した愛の概念に日本で伝統的に該当するのは、お互いの強い連帯と相互理解を概念化した「絆」という言葉だ。 したがって日本人が西洋哲学から愛の概念を理解しようと試みるならば、伝統的に多くの人がそれなりに実感している「絆」の要素を変則化させて感情面で焦点を当てたのだと、哲学的な理解の目標を持てばいい。 ここで、冒頭にある、社会性を成立させる人間らしい善性「アマテラスの善し」に振り替えると、感情面で人間性を代表する概念は「愛情」「友情」この二つを比較して差異をよく理解することにある。 本来なら「友情」が有力だ。 私は日本人として聖書の研究から派生した闘争と混乱には少し意見がある。 日本人は、お互いの相互理解が、「人を信じる」という行いを簡単にしている。 西洋が神を哲学対象にしたのと違って、東洋は人間を哲学対象にした傾向も強い。 絆という概念が深く定着した日本人には、善性の発露と合わせて、人を信じることが実に容易だ。 だから西洋の混乱にも言いたいことができる。 「私は神を信じる」初めてあった人がそう話したら、いかなる神かを問う事もなく「わたしもだ」と答え兄弟のように抱き合えば闘争は多くの場合で緩和されただろう。 それは多神教風土の利点でもあるが、問題点で大きいのは「愛」を神聖化すると「ファッキン!」が付いて回る。したがって兄弟同士にはなれないじゃないか! そういう、文化傾向としての笑い話も成立する。 そう、友情と対比して愛情の社会成立での欠点で大きいのは「ファッキン!」である。 熱情でのぼせる強力な精神高揚作用が利点であり、精神力の奮起が注目されて「友情」という概念研究上の候補に勝り、人間社会成立の基盤になったのだろう。 熱心に研究された西洋では実際は愛の概念へのこうした日本人の起こす混乱は希薄だが日本人が西洋人の精神の構造を理解するには「絆」「友情」を「愛」を理解する関係概念として挙げると早い。 私は哲学者なので、侮辱したともとれる愛の概念について「人と人を人間として結びつける、最も人間らしい感情」という見解を補足しよう。 赤子が生まれたばかりの時に「おぎゃー」と泣き、周囲の人の手とともに与えられるのは、母親の乳房だ。人として生まれ人間を知る一番最初の経験をこうした母による慈しむ心に触れることだと解釈すれば愛の一義的な意味は「ファッキン!」でも、そこから多様に発展した西洋の研究も偽りではないと納得できる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 捕捉、以上の主文はAIに人の感情を認識させる、またはAIに感情を保持させる。 このように発達する前段階の基礎なんだよ。 人間存在の感情の基軸は一般的基礎を文化的な理由から、「愛は最も人間らしい感情の原型」このように把握すると大抵うまくいく。 そこに概念として、「絆」「善」「友情(慈しみ)」などを掛け合わせるんだ。 したがって優先順位や感情の発露は、善を優先して愛は後背に回る、などの現象が友情や主に血縁の場合が多い絆などの概念でも発生する。 愛が優先順位が高い状態とは、現代社会の文化的な事情で偶発的なことだ。 例えば、このように愛を了解する哲学的理解に到達した私自身は、並列概念の中で愛を優先していない。 日本人であるゆえに、社会の成立に対する「命題化された由来」「(外国で)神格化された由来」などから、「絆」「善」「友情」そして最後の優先順位が「愛」だ、言葉を装飾しないと極めて狭い共同体の単位にしか通用しない概念だからだ。 感情優先度が違う西洋人に関しては、「愛をはぐくみ我が子が生まれ、絆を自覚して、隣人に友愛が芽吹きそこから善を知る」とでもいう理解仮定を想定して宗教的に推奨したのだろう。それと同族意識に関する大陸的な事情などだ。 日本人の場合は、仏教的教養により「慈しみ」慈悲とも通じていて、「慈」の語源は「友に対して傾ける思い」だ。したがって善性を理解して自己の内心に完成させるためには「愛」の概念は出る幕はなかった。 一発瞬間理解なのは「絆」だよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 備忘録の引用はここまで。 その他に、私は子供時代に家庭で犬を飼っていたんだ。 犬は家庭では鎖につながれている。 犬の餌は母が与えたが、私は犬を自分の弟だと決め込んだ判断をしていて、散歩係は私、飲料水が絶えないように常に確認して補充する、孤独にさせないように時間を作っては一緒に遊ぶ。 大体そうやっていて、犬は私がそばにいるだけでくつろぐから、犬と私で座ってからだお寄せあい、ただ静かにしている時に、生きていくことが私のつながったこの犬は、私自身と同じという思いと吸い込まれるような強いいとおしさを感じたことがある。 犬の命を預かっていることに男性的な義務感よりも感情の方が強かった。 これをおもちゃ屋の私の育児関係の豆知識から引用すると、 育児中の母親が証言する「この赤ちゃんは少し前まで私の体の一部だったし、こうして健やかに育つ姿は今も私の体の一部」そういう類の言葉になる。 こういうのは「愛」に分類されてしかるべきだろうし、 共通項として範囲が広く取れることで、西洋が積みあげた研究と美徳を正解だと判断した。 ただし学問的な考え方の回答としてだ。 さてこの論説を土産話に「愛は最も人間らしい感情の原型」というテーマ、または愛の概念についてこねくり回してください。 アマチュア研究者同士で持ち寄る、土産物の一部です。

  • Credo,quia,absurdumについて

    タイトル中のラテン語を普通は 不合理ゆえに吾信ず と訳しますね。平たく言えば「不合理だから(だからこそ)私は信じる」ということでしょうか。 この「不合理だから信じる」については、手持ちの辞典等では (1)逆説[英paradox]-1)一般に認められている見解と背反する、あるいは少なくともそう見える見解、奇をてらって人を驚かすために大した根拠もなく逆説が語られる場合もあるが、神の経験は尋常の言語では表現できぬと考えて、それを逆説をもって語る宗教的思索家の場合もある。教父テルトゥリアヌス(Tertullianus)の「不合理なるがゆえに信ず」という言葉などはその例。2)は略 岩波小辞典「哲学」44p (2)不合理なるがゆえに信じる[ラ credo quia absurudum est]-〈(キリスト教の)信仰には理性にたよるよりもキリストのオシエと権威に信頼をおくことが必要だ〉〈不合理な、リクツに合わない事柄をマルノミに信じてこそ、合理的なコトばかり信じるよりも大なる信仰が得られる〉という意味の、信仰第一主義を示す命題。《合理的に考えてもどうせ分からないのだから、グズグズリクツをこねずに頭から信じこむほかはない》という長いモノにはマカレロ的敗北主義を意味するものではない、とキリスト教神学では説明する。(この命題は2世紀中頃に生まれたテルトゥリアヌスTertullianusの語と、17世紀以降考えられ、またアウグスチヌスの言葉ともされた。しかし二人の著作をあらっても、こうした文句は見出されない。もっともこうした考えを示す箇所はある)増補改訂「哲学・論理用語辞典」三一書房 226-7p とあります。 もっと調べればいいのでしょうが、思うに、この文言のキモは「信仰は合理を超えたところにある」という解釈でよろしいのでしょうか。 すれば、当方のように「信仰から遠い存在」者には逆立ちしても「信仰」を理解することはできぬ、と考えるべきでしょうか。 また、このことについて解説してある著作などをご紹介いただければ有難いです。

  • 我は有る。この事は動かし難い。(仕切りなおし)

    前回質問。↓これと完全に同一趣旨です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5606505.html 前回の質問では質疑応答が変態SMプレイ発表会みたいになってしまい、世の中には辱めてしかるべき団体さんがいるのだなと、学ぶのみでした。 改めて掲載します。 我は有る。この事は動かし難い。 仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。 無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。 無いものとは煩悩である。 生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。 しかしこれは、はるか昔のインド社会に身を置いたお釈迦様の口癖でしかない。 実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。このような実感を備えた状態での我とはケンケンガクガクの論議がある自我ではない。我の所在を求めるとブラフマンに行きつく。ブラフマンとはインドの哲学の源流に現れる神の名である。生活日常に現代でも色濃く仏教文化の片鱗を残す日本社会では、仏教を突き抜けて我の所在をブラフマンに当てはめることで存在は揺るぎないものとなる。 そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。 思索の完成度を上げてより簡潔に表現することと、この作文からさらに思索を進展させるためのご批評をお願いします。 宗教のくくりならばあまり聞いたことのない独創性もあると思いますが、宗教の内側からのご批評とは、私には考えもつかない要素なので歓迎します。 なお、私は責任と尊厳ある一個人を無下にはづかしめる趣味は持ち合わせておりません。SMプレイでなく人間の答えをお聞きしたいです。