• 締切済み

「愛」とは何を表現したものか

「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

みんなの回答

  • ken9684
  • ベストアンサー率2% (1/40)
回答No.56

感謝の意などを幅広く。

回答No.55

愛するって実は、面倒で大変なことを、コツコツ実行することが愛なのです。 精神分析では、愛の定義があります。 それは、『愛とは、相手のために、相手本位に時間を与えることである』というもの。 そうです。自分がして欲しいと思っていることを、相手が相手の体と時間をかけて、自分のために何かやってくれたとき。私たちは愛されていると感じます。 相手のために膨大な時間を使う。それこそが愛だと、その行為にこそ愛は存在しているのだと、精神分析ではいいます。 相手が何を望んでいるのか、それを知るためには膨大な時間、相手のことを考える必要がある。そして相手が本当に求めるもの、それを与えるためには膨大な時間、手間と暇をかける必要がある。日々の仕事で忙しい私たちにとって、それは非常に面倒で大変なことです。 また、愛はかまわなくても育ち、恋はかまわないと育たないとも言われます。 いろいろと定義はありますが、基本的になやめばなやむ程、なやんだ人は人間的に成長する傾向があるようです。http://tama.reinnovation1.info/ 修羅場を解決したなら小躍りしてもいいくらい。 http://tama.kirei5558.com/ 「大丈夫!!!!」 前をむいて歩きましょう。

回答No.54

私の中で愛とは以下の表現「コリントの信徒への手紙―13章」が最も相応しいと感じています。 特にキリスト信者でもありませんが、母校がカトリック系の進(神?)学校だったこともあり、生徒手帳にも最初に記載されていましたし。いくら光(知識)があったとしてもその真価が問われるのは愛であると指導されました。 幸い日本の最高学府と呼ばれるらしい大学に合格し学問・光の道を進みましたが、この言葉は折に触れて私の脳裏に浮かびます。アインシュタインが発した「神はサイコロを振らない」という言葉と同様、例えそれが本当の光に対する蒙昧であったとしても、ニーチェが言うような「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。」という時代を生きなければならない私たちは、神による愛は死んだかもしれませんが、人間には愛する力が存在すると思います。 神を殺したのは、人間が万物の霊長であり理性的存在であり理性万能的である思想によって神を殺してしまったからです。 しかし、理性には愛を説明する担保がありません。それは生物学的なことかもしれませんし、人間の実存・根本関することかもしれません。 つまり「愛」とは宗教的なものではなく「生物学的」なものであると同時に「人間社会」の本質的なものであるということです。 もし、この「愛」を破壊できる可能性のあるものとしては、市場原理主義・契約主義がありますが、アメリカでの代理母の判例を見る限り、お金で買えるもの買えないものが存在します。 神は信仰によって権威付けられるものですが、愛は人間の生物学的・知的な根源的な欲求によって意味づけれられ物るです。 それ故「愛」が世界的に死ぬことはありません。(ごく一部の価値観体系の異なる人の間では愛は死ぬ、あるいはその担保を失うことがあるかもしれませんが) コリントの信徒への手紙―13章  たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。  愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

回答No.53

存在するものすべてが幸せになってほしいと願い実践する心、良心の働きですかね。 五井昌久氏や江原啓之氏の書籍を読むことをお薦めします。

回答No.52

愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。 主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。 しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。 そこに於て、真の愛は、完全なる科学(原理認識)である。

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.51

 ニーチェの写真をウェブなどで見ましたが、澄んだ、良い目をしていますね。人気があるのも分かります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7  馬がこき使われるのを見て、駆け寄り、それが原因で...というが真実かどうかはともかくとして、その気持ちは分かります。 http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/7978/%83t%83%8A%81%5B%83h%83%8A%83q%81E%83j%81%5B%83%60%83F/5/  シュタイナーの見解?です http://www.asahi-net.or.jp/~TF2Y-KWI/karuma.htm

  • yayuh
  • ベストアンサー率16% (7/42)
回答No.50

二人の間、もしくは、観察する人と対象の間(距離、違い、相対)の中から生み出される何かです。実在といってもいいのではないでしょうか。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.49

>確かに、カボチャそのままで十分でした。ようは、回答者さんへの料理は誰でも出せる、ということです。ミシェル・ブラスは嫌味ではありませんでした。 ◇まあ、そうですね、弄った料理でなければ、大体素材の美味しさを感じることは出来ますから、その素材がよっぽど悪いものでなければ、確かに何でも良いといえるかもしれません。 >私が勝手に回答者さんを買いかぶりすぎていました。 ◇もち上げておいて、落とすというやり方でしょうか. すみません、一気に興味を失いました。 ◇はい、例えば(例えばです)犬は人間(個人としての)に興味は無いでしょう。ですから、構いません。 まあ、蓼食う虫も好き好きということです.

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.48

>◇そのイメージが幻視でなければよいのですが.幻視でなかったとしても、それは単に窓から「覗いた」だけでしょう。 ◇あ、そうそう、江原さんも窓から覗くのが得意なようで。 >楷書が最も洗練されていると仰る方 ◇では何体が最も洗練されていると思われるのか、非常に興味深いところです.示すことは出来ないでしょう? 「あなたの自慰行為はエレガント」となど言われたなら、それこそ究極の不幸です。 ◇エレガントな音楽であればいつも聴いています。そうでないものは誰でも嫌なはずです。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.47

>回答者さんが女性であれば話が早いのですが、ある男性への興味を失ったときのことを想像して下さい。 ◇いえ、女性しか(性的には)興味はありませんので解らないですね。 >以後は視界に入りません。 ◇楷書体を正しく認識できなければ、視界に入ってはこないでしょう、入ってきたとしても目に毒です。 >実際に見てもわからない人に語っても「洗練」がわかるはずがありません。見てもわからないことは不思議なことではありません。見てわかるなら誰でもファッションセンスがよいことになりますから。 ◇楷書と楷書体に違いがあるのでしょうか、楷書体にもいろいろ在るようですが、一般的には楷書体はすっきりとした、無駄のない洗練された字体である と言う認識があるはずです.見た目もそうですよね.ファッションセンスはそれこそ主観の問題であり、質問者さんが実際に「観た」のであったとしても、それはやはりセンスがないと言う事になりませんか >楷書が最も洗練されていると仰る方に本気で「あなたの自慰行為はエレガント」となど言われたなら、それこそ究極の不幸です。 ◇一般的に言われている楷書体 は、洗練された字体です。「エレガント」ではないから、人に見られないところでやってください、と言ったのです。 >いえいえ、、「イメージが浮かんだら」以上の理由は私にはありません。 自分を行動にかきたてる要因として「イメージが浮かんだら」、という理由ほど自分を突き動かすものが無いというだけです。それが自慰行為であることは自分が一番知っております。 ◇そのイメージが幻視でなければよいのですが.幻視でなかったとしても、それは単に窓から「覗いた」だけでしょう。

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    東北大震災後、モルモンの専任宣教師は日本各地に避難した。 http://okwave.jp/qa/q6610662.html 避難することは勝手です。自由です。そのことに対してどうこう言うことはできないと思っています。 モルモン四大聖典の教義と誓約4章に次のように書かれています。 http://scriptures.lds.org/jpn/dc/4 ​信(しん)仰(こう)、​希(き)望(ぼう)、​慈(じ)愛(あい)、​愛(あい)​を​持(も)つ​者(もの)​に​は、その​業(わざ)​に​携(たずさ)わる​資(し)格(かく)​が​ある。 大震災で沢山の人々がなくなりました。また沢山の人々が財産を失い、家族を失い、失意の中懸命に耐えていたことが世界中に称賛されたことは記憶に新しいと思います。そんな時、信仰希望慈愛愛を説く宣教師が逃げてどうするのでしょうか? この時こそ本当の愛を示すチャンスじゃないですか。 キリストの精神を態度や行いで示すチャンスです。「命を賭けてでも、被災者のために奉仕してください。」と神から召された預言者からの言葉があってもいいと思います。 教会に入るとか入らないとか関係ないんだと思います。 それをしていたら、今ごろいっぱい改宗者が出てきたと思います。 福島県の場合は例外かとは思いますが、その他の地域に助けに行くことはできると思います。 チャンスと表現しましたが、皮肉が含まれています。 人の弱みに付け込む教会の体質があるためです。どこでも災害や事故痛ましい事件が頻繁に起きます。 チャンスではなくて当たり前だと思います。助け合いの精神を日本人は持っていることを誇りに思います。

  • タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」

    タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」 絆という言葉に深い意味がない西洋だと「愛」という。 そういう言い回しをすれば、私がそれに変えるのは「慈しみ」(友情)だ。 こういう言い回しをすると愛を軽視しているという傾向を疑うかもしれない。 しかし私は「愛は最も人間らしい感情の原型」ととらえていて否定していないんだ。 西洋の愛の概念の多岐に渡る解釈の論説を読んでもわかる解釈だ。 ただ複雑に愛に当て込んでいるから明快でないんだよ。 それから友情がより多方面に社会性獲得に活躍すると言っても、人と人が相互理解すると人間の成立と考えていて、前段階の「人と人」の対峙や、場合によっては社会性の獲得で人と差異がある動物にすら当てはまる。 したがってより根源的な意味の正解だときっちり評価しているんだよ。 何の話だろうね。 土台になる過去の研究備忘録が下。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 機械自我レイアウトその2 人と人がお互いに人間を成立させる前提 今回の論説は、自我研究の付属事項で情動にかかわるものだ。 生命が備える善性の定義を私なりに説明しよう。 特に善なる概念を創成した人間で自覚が顕著な特徴だ。 人はお互いを確認して、社会を成立させる。 お互いが影響しあい、生存を補完するこの関係で重要なのは、自分自身を善く(よく)することと完全に等しく他者に善くする事だ。 勘違いされることが多いが、利己心を優先しないで、他者を自分自身と同格に生存を支えあうことだ。 このような強い連帯は日本語で「絆」という。 お互いが心情的に血を通わした間柄のような強い相互認知だ。 社会生活でこの善に偽りがなく正直な状態が、行いで判別する人間の善性の簡潔な見解だ。 余談だが、この考えを私が形成する過程では、いわゆる天啓に該当する神秘性のある直感が働いた。 したがって定義の命名権を行使して、このような善性への見解は「アマテラスの善し(よし)」とさせていただこう。 西洋から渡来した愛の概念の神聖化について、日本人なら納得できるように説明すると、こうした社会成立の基盤になる善性について、主に感情面での個人的な働きに着目して、愛が相互の互助と社会の成立を潤すという解釈で、宗教や社会風俗で重要視されたのだろう。 すなわち「愛」とは、最も人間らしい感情の基盤であるという発想だ。 この感情面で着目した愛の概念に日本で伝統的に該当するのは、お互いの強い連帯と相互理解を概念化した「絆」という言葉だ。 したがって日本人が西洋哲学から愛の概念を理解しようと試みるならば、伝統的に多くの人がそれなりに実感している「絆」の要素を変則化させて感情面で焦点を当てたのだと、哲学的な理解の目標を持てばいい。 ここで、冒頭にある、社会性を成立させる人間らしい善性「アマテラスの善し」に振り替えると、感情面で人間性を代表する概念は「愛情」「友情」この二つを比較して差異をよく理解することにある。 本来なら「友情」が有力だ。 私は日本人として聖書の研究から派生した闘争と混乱には少し意見がある。 日本人は、お互いの相互理解が、「人を信じる」という行いを簡単にしている。 西洋が神を哲学対象にしたのと違って、東洋は人間を哲学対象にした傾向も強い。 絆という概念が深く定着した日本人には、善性の発露と合わせて、人を信じることが実に容易だ。 だから西洋の混乱にも言いたいことができる。 「私は神を信じる」初めてあった人がそう話したら、いかなる神かを問う事もなく「わたしもだ」と答え兄弟のように抱き合えば闘争は多くの場合で緩和されただろう。 それは多神教風土の利点でもあるが、問題点で大きいのは「愛」を神聖化すると「ファッキン!」が付いて回る。したがって兄弟同士にはなれないじゃないか! そういう、文化傾向としての笑い話も成立する。 そう、友情と対比して愛情の社会成立での欠点で大きいのは「ファッキン!」である。 熱情でのぼせる強力な精神高揚作用が利点であり、精神力の奮起が注目されて「友情」という概念研究上の候補に勝り、人間社会成立の基盤になったのだろう。 熱心に研究された西洋では実際は愛の概念へのこうした日本人の起こす混乱は希薄だが日本人が西洋人の精神の構造を理解するには「絆」「友情」を「愛」を理解する関係概念として挙げると早い。 私は哲学者なので、侮辱したともとれる愛の概念について「人と人を人間として結びつける、最も人間らしい感情」という見解を補足しよう。 赤子が生まれたばかりの時に「おぎゃー」と泣き、周囲の人の手とともに与えられるのは、母親の乳房だ。人として生まれ人間を知る一番最初の経験をこうした母による慈しむ心に触れることだと解釈すれば愛の一義的な意味は「ファッキン!」でも、そこから多様に発展した西洋の研究も偽りではないと納得できる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 捕捉、以上の主文はAIに人の感情を認識させる、またはAIに感情を保持させる。 このように発達する前段階の基礎なんだよ。 人間存在の感情の基軸は一般的基礎を文化的な理由から、「愛は最も人間らしい感情の原型」このように把握すると大抵うまくいく。 そこに概念として、「絆」「善」「友情(慈しみ)」などを掛け合わせるんだ。 したがって優先順位や感情の発露は、善を優先して愛は後背に回る、などの現象が友情や主に血縁の場合が多い絆などの概念でも発生する。 愛が優先順位が高い状態とは、現代社会の文化的な事情で偶発的なことだ。 例えば、このように愛を了解する哲学的理解に到達した私自身は、並列概念の中で愛を優先していない。 日本人であるゆえに、社会の成立に対する「命題化された由来」「(外国で)神格化された由来」などから、「絆」「善」「友情」そして最後の優先順位が「愛」だ、言葉を装飾しないと極めて狭い共同体の単位にしか通用しない概念だからだ。 感情優先度が違う西洋人に関しては、「愛をはぐくみ我が子が生まれ、絆を自覚して、隣人に友愛が芽吹きそこから善を知る」とでもいう理解仮定を想定して宗教的に推奨したのだろう。それと同族意識に関する大陸的な事情などだ。 日本人の場合は、仏教的教養により「慈しみ」慈悲とも通じていて、「慈」の語源は「友に対して傾ける思い」だ。したがって善性を理解して自己の内心に完成させるためには「愛」の概念は出る幕はなかった。 一発瞬間理解なのは「絆」だよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 備忘録の引用はここまで。 その他に、私は子供時代に家庭で犬を飼っていたんだ。 犬は家庭では鎖につながれている。 犬の餌は母が与えたが、私は犬を自分の弟だと決め込んだ判断をしていて、散歩係は私、飲料水が絶えないように常に確認して補充する、孤独にさせないように時間を作っては一緒に遊ぶ。 大体そうやっていて、犬は私がそばにいるだけでくつろぐから、犬と私で座ってからだお寄せあい、ただ静かにしている時に、生きていくことが私のつながったこの犬は、私自身と同じという思いと吸い込まれるような強いいとおしさを感じたことがある。 犬の命を預かっていることに男性的な義務感よりも感情の方が強かった。 これをおもちゃ屋の私の育児関係の豆知識から引用すると、 育児中の母親が証言する「この赤ちゃんは少し前まで私の体の一部だったし、こうして健やかに育つ姿は今も私の体の一部」そういう類の言葉になる。 こういうのは「愛」に分類されてしかるべきだろうし、 共通項として範囲が広く取れることで、西洋が積みあげた研究と美徳を正解だと判断した。 ただし学問的な考え方の回答としてだ。 さてこの論説を土産話に「愛は最も人間らしい感情の原型」というテーマ、または愛の概念についてこねくり回してください。 アマチュア研究者同士で持ち寄る、土産物の一部です。

  • Credo,quia,absurdumについて

    タイトル中のラテン語を普通は 不合理ゆえに吾信ず と訳しますね。平たく言えば「不合理だから(だからこそ)私は信じる」ということでしょうか。 この「不合理だから信じる」については、手持ちの辞典等では (1)逆説[英paradox]-1)一般に認められている見解と背反する、あるいは少なくともそう見える見解、奇をてらって人を驚かすために大した根拠もなく逆説が語られる場合もあるが、神の経験は尋常の言語では表現できぬと考えて、それを逆説をもって語る宗教的思索家の場合もある。教父テルトゥリアヌス(Tertullianus)の「不合理なるがゆえに信ず」という言葉などはその例。2)は略 岩波小辞典「哲学」44p (2)不合理なるがゆえに信じる[ラ credo quia absurudum est]-〈(キリスト教の)信仰には理性にたよるよりもキリストのオシエと権威に信頼をおくことが必要だ〉〈不合理な、リクツに合わない事柄をマルノミに信じてこそ、合理的なコトばかり信じるよりも大なる信仰が得られる〉という意味の、信仰第一主義を示す命題。《合理的に考えてもどうせ分からないのだから、グズグズリクツをこねずに頭から信じこむほかはない》という長いモノにはマカレロ的敗北主義を意味するものではない、とキリスト教神学では説明する。(この命題は2世紀中頃に生まれたテルトゥリアヌスTertullianusの語と、17世紀以降考えられ、またアウグスチヌスの言葉ともされた。しかし二人の著作をあらっても、こうした文句は見出されない。もっともこうした考えを示す箇所はある)増補改訂「哲学・論理用語辞典」三一書房 226-7p とあります。 もっと調べればいいのでしょうが、思うに、この文言のキモは「信仰は合理を超えたところにある」という解釈でよろしいのでしょうか。 すれば、当方のように「信仰から遠い存在」者には逆立ちしても「信仰」を理解することはできぬ、と考えるべきでしょうか。 また、このことについて解説してある著作などをご紹介いただければ有難いです。

  • 我は有る。この事は動かし難い。(仕切りなおし)

    前回質問。↓これと完全に同一趣旨です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5606505.html 前回の質問では質疑応答が変態SMプレイ発表会みたいになってしまい、世の中には辱めてしかるべき団体さんがいるのだなと、学ぶのみでした。 改めて掲載します。 我は有る。この事は動かし難い。 仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。 無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。 無いものとは煩悩である。 生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。 しかしこれは、はるか昔のインド社会に身を置いたお釈迦様の口癖でしかない。 実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。このような実感を備えた状態での我とはケンケンガクガクの論議がある自我ではない。我の所在を求めるとブラフマンに行きつく。ブラフマンとはインドの哲学の源流に現れる神の名である。生活日常に現代でも色濃く仏教文化の片鱗を残す日本社会では、仏教を突き抜けて我の所在をブラフマンに当てはめることで存在は揺るぎないものとなる。 そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。 思索の完成度を上げてより簡潔に表現することと、この作文からさらに思索を進展させるためのご批評をお願いします。 宗教のくくりならばあまり聞いたことのない独創性もあると思いますが、宗教の内側からのご批評とは、私には考えもつかない要素なので歓迎します。 なお、私は責任と尊厳ある一個人を無下にはづかしめる趣味は持ち合わせておりません。SMプレイでなく人間の答えをお聞きしたいです。