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我は有る。この事は動かし難い。(仕切りなおし)

前回質問。↓これと完全に同一趣旨です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5606505.html 前回の質問では質疑応答が変態SMプレイ発表会みたいになってしまい、世の中には辱めてしかるべき団体さんがいるのだなと、学ぶのみでした。 改めて掲載します。 我は有る。この事は動かし難い。 仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。 無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。 無いものとは煩悩である。 生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。 しかしこれは、はるか昔のインド社会に身を置いたお釈迦様の口癖でしかない。 実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。このような実感を備えた状態での我とはケンケンガクガクの論議がある自我ではない。我の所在を求めるとブラフマンに行きつく。ブラフマンとはインドの哲学の源流に現れる神の名である。生活日常に現代でも色濃く仏教文化の片鱗を残す日本社会では、仏教を突き抜けて我の所在をブラフマンに当てはめることで存在は揺るぎないものとなる。 そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。 思索の完成度を上げてより簡潔に表現することと、この作文からさらに思索を進展させるためのご批評をお願いします。 宗教のくくりならばあまり聞いたことのない独創性もあると思いますが、宗教の内側からのご批評とは、私には考えもつかない要素なので歓迎します。 なお、私は責任と尊厳ある一個人を無下にはづかしめる趣味は持ち合わせておりません。SMプレイでなく人間の答えをお聞きしたいです。

noname#117439
noname#117439

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noname#135843
noname#135843
回答No.3

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。Hidocchiです。 > 無いものとは煩悩である。 「実態に現れる負の要素を、それのみによって本質ととらえたり、本質に内在する性質ととらえたりするならば、そこには煩悩に阻まれた感性の濁りがある。」 おそらく表現法だけが問題点で共通しているでしょう。  確かに、仰いますように、合致していると存じます。 > “無を認めない=煩悩”と理解している
私の思索では拒否する感情として感覚的に理解したのみの事柄ですね。
私の感覚では伝心してくる他者の心がけに煩悩に引きずり込まれるような事があります。それは確かに「無を認めない」でありますが「有るを認めない」でもあります。このどちらでもない状態は自らの信仰に目覚めていない状態でもあり、もっとわかりやすく(その人が)自らを誤解しているような状態です。  了解致しました。 > 我の所在を求めると(ヴェーダ聖典におけます)ブラフマン-アートマンに行きつく。 そう言う事なんですね。でも当時のインド社会と絡めたお釈迦様の信仰心の研究ならアートマンも登場しますが、私自身は「我」をブラフマンに当てはめた方が思考がまとまりやすいです。「我」は独我論的「我」で無く自然界と調和してこそ存在する。そんな感じです。  確かに、ブラフマン-アートマンの融合化(同一化)の観点から鑑みますと、ご質問者様のご意見も十分理解できます。 > 最後の御意見に関しては「無常」はそれほど重視しなくてもいいのではないかと考えました。過去の事柄が置き去りにされる苦痛を振りほどく処方箋として娑婆では機能しますが、「時わたり」というESPを引っぱり出している私には論理はそのようには展開できないんです。「時わたり」により確かな信仰心に目覚めた現在より過去を俯瞰して、過去の各現象に立ち会った「我」が我に非ず畜生のごときであったのを、心をもたらすかの如く転生させる。これが輪廻の解消で、観念世界「涅槃」の死の無い世界なのに死んだふりをした、オバケを正気にさせる特技です。このやり方で観念世界を遊泳する限りにおいては「無我」と「無常」はいらないんです。だから「有無を明白にさせる」これ以外の無の観想は私には無いんです。  そうでいらっしゃいますか。  少し論点がずれてしまうのですが、1つだけ、ご意見をお伺いしたく存じます。 「一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるとする。」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91 からの引用でございます)  つまり、釈尊は、“慈悲”の実践家の側面もあったとも推察しております。これは愚見ではございますが、日々の生活のなかでの実践の役割もまた、重要と考えております。ご質問者様におかれましては、“観念”の他、この“実践”につきまして、どのように解されていらっしゃいますでしょうか。ご意見の程、賜れば幸甚に存じます。  駄文ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 喧嘩が過ぎてIDの一時停止がされていました。審査の合格できたので質問再開です。 誰か他者の信仰心を代弁することはできない。 このようにわきまえていますが、お釈迦様の生きた時代に思いをはせてみます。 当時インドは世界に中で文明先進地域だったでしょうが、安定した農耕を営むにあたって苦悩はあったと思います。 地を耕し命をはぐくむことは、自らが生きるために他者おも生かす事です。収穫は共同体の中で平等に分配され、翌年を種がまかれ命をはぐくむための共生が行われます。 ここまでの私の見解には現代ですら異論が挟まります。 他者の命を奪う事でしか命をつなぐことはできない。 このような異論に阻まれたなら、私はそのままほっときます。 慈悲は無しです。 それからこの私の農耕に関する見解は愛に基づく見解です。 全てを非思考に預け切った無の観想からはこのような生きるための知恵は生まれません。 お釈迦様がやりそうな事に思いをはせると、(バラモンかもしれませんが) はぐくんだ命を収奪するから輪廻に巻き込まれるのだ。 業ある故であり苦を甘受して生きるよりない。 バラモンはこんな脅しのみだったでしょうが、お釈迦様はそれを「そんなもんありゃしねー」と、無の観想でふっ飛ばしています。 おととしでしたか「そんなのかんけーねー」と裸踊りをしたお笑い芸人がいましたがふっ飛ばし方は似たようなもんです。 私はこのような場合「ほっとく」と言いましたが、そうすると非思考において時わたり発動です。 お釈迦様は「無」を語り慈悲でいさめました。 「ほっとく」と「いさめる」の共通項は唯一、(その)対象がある、要するに自ら以外への働きかけであると言う事です。 縁起が流れとして手に取るようにわかるとこのように働き掛けが関係性を維持修復するために図られます。これらは本来非思考です。

noname#117439
質問者

補足

時わたりに関して一度はっきりさせておきます。 輪廻の話よりです。 過去世、現世、来世、問われるのは生き様で無くあくまでも世です。 執着の多きものはあくまでも、過去生、現生、来生、を求めます。 そんなもんありません。ばかげた話です。 この場合現生すら幻となり、よって無の観想が必要になります。 幻の現生にさまよう者は、現実世界で生きている実感を味わうもので無く、観念上の娑婆世界で悪夢を見ながら徘徊する亡者です。 娑婆世界は幻です。 創始者自らがそんなもんありゃしねーと言っているじゃありませんか。 ここで話が戻り「世」を問う事について話しますが、いわゆる空観になじみ、縁起が忠実に判るようになると、実質的に時わたりが出来ます。 アラーヤ識の検証で記憶の持つ性質について、私はやったんですが、観念世界には未来の記憶すらも眠っており、それらの記憶は検索可能です。 これはポケモンマニアならではの説明で、私固有のESPと言う事になりますが、しっかりとした説明ができるようになりたいものです。

その他の回答 (3)

回答No.4

そもそも「我は有る。この事は動かし難い」と言う問いとは、自分が自分に仕掛けた問いです。言い換えるなら、あなた自身があなた自身に問いかけた問いと言えます。言い方を替えたなら、貴方が貴方の実存に逆に問いかけられています。 したがってこの答えは、あなた自身が自分で答えを見つける以外には無い問いと言えます。他人の答えは何にもならないという事になります。その答えを探すヒントだけを提供したいと思います、 貴方の疑問は、「心の矛盾」がその大元になっています。貴方が心で自問自答しているどちらも貴方という事になります。矛盾した考え、或いは解消できないほどの隔たりが両者の間には存在するはずです。 この疑問と一つになる時に、貴方はその疑問を根こそぎ氷解出来ます。「意識の根底から」その疑問が出ているはずです。自分の意識の底まで沈むことです。疑問を提出しているものがもう既に答えを用意しています。自分の出した問題に自分が答えるときに自分を知ったと言うことになります。 その時には、2,500年前の釈迦の気持ちが分かります。自分の頭の半分が仏で出来ていたと言う事が、です。その時は、禅の考案が解けるはずです。自我意識が降参した時に、もう一つの意識が顔を見せます。あくまでも自分の心の中を掘り下げる他には今言ったことは、成就できないと思います。もう一つ分かると思います。仏教は宗教ではなくて、究極の癒しの心理学と言った趣があったということ気が付くと思います。人間の生きる意味も分かると思うからです。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私はIDの一時停止をくらってしまった前科者なので今後はお礼も慎重に記したいと思います。 ありがとうございます。 それのみです。

noname#135843
noname#135843
回答No.2

 こんばんは、Hidocchiです。  実を申しますと、自分でも明確なる回答は持っていないのですが、”対話”を通して、何らかのお役に立てればと思い、筆をとらせて頂きました。 > 仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。  意見を等しく致します。 > 無いものとは煩悩である。  愚見ではございますが、「実体性のあるものが、実は有るのではないか」、と探し求めることが煩悩と思うのですが、いかがでしょうか。  生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。  結論「我は無いとも言いえたのかもしれない」となりますと、既に“悟り”の境地に達してしまったような観がございます。primeape様におかれましては、既にその境地に達せられたかもしれません。ですが、“無を認めない=煩悩”と理解している愚生としましては、幾分疑問が残る言葉でございます。  実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。 > 我の所在を求めると(ヴェーダ聖典におけます)ブラフマン-アートマンに行きつく。  勝手ながら、加筆させていただきました。上記ご意見ですと、賛同致します。 > そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。  基本的に、同意見でございます。 「我は有る。」-釈尊(仏教)におけます“存在論”について、愚見を述べたく存じます。  一般には、デカルトによる「我思う、故に、我あり」、つまり、かような文章を考えている(“思う”)モノは存在している。つまり、“思う”という行為が在る以上は、その“思う”行為者(我)も存在する。という一種の存在論も西洋哲学にはございました。つまり、仮想世界かどこにいるのかは不明ですが、現実世界といわれるこの世に、我は確かに存在しているということでございます。  一方、仏教の方でございますが、釈尊も我という存在自体は認めていると考えています。“無常”、“無我”なる言葉は仏教の根幹を成す言葉かと存じます。この“無常”という言葉におきましても、主体が存在するという前提の上に立っていると思われます。ただ、その主体なるものは絶えず変化し続け(無常)、“実体”なるもの・“本質”なるものは否定しているのかと考えています。  ご参考になれば、幸いでございます。

noname#117439
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 今回の作文は論理としてみると検証が足りないようですね。 >> 無いものとは煩悩である。  >愚見ではございますが、「実体性のあるものが、実は有るのではないか」、と探し求めることが煩悩と思うのですが、いかがでしょうか。 ここでの無いものとは煩悩であるとはかなり乱暴な言い回しなんです。 「実体性のあるものが、実は有るのではないか」 この言い回しを以下のように解釈すれば意見は同一です。 「実態に現れる負の要素を、それのみによって本質ととらえたり、本質に内在する性質ととらえたりするならば、そこには煩悩に阻まれた感性の濁りがある。」 おそらく表現法だけが問題点で共通しているでしょう。 >、“無を認めない=煩悩”と理解している 私の思索では拒否する感情として感覚的に理解したのみの事柄ですね。 私の感覚では伝心してくる他者の心がけに煩悩に引きずり込まれるような事があります。それは確かに「無を認めない」でありますが「有るを認めない」でもあります。このどちらでもない状態は自らの信仰に目覚めていない状態でもあり、もっとわかりやすく(その人が)自らを誤解しているような状態です。 > 我の所在を求めると(ヴェーダ聖典におけます)ブラフマン-アートマンに行きつく。 そう言う事なんですね。でも当時のインド社会と絡めたお釈迦様の信仰心の研究ならアートマンも登場しますが、私自身は「我」をブラフマンに当てはめた方が思考がまとまりやすいです。「我」は独我論的「我」で無く自然界と調和してこそ存在する。そんな感じです。 最後の御意見に関しては「無常」はそれほど重視しなくてもいいのではないかと考えました。過去の事柄が置き去りにされる苦痛を振りほどく処方箋として娑婆では機能しますが、「時わたり」というESPを引っぱり出している私には論理はそのようには展開できないんです。「時わたり」により確かな信仰心に目覚めた現在より過去を俯瞰して、過去の各現象に立ち会った「我」が我に非ず畜生のごときであったのを、心をもたらすかの如く転生させる。これが輪廻の解消で、観念世界「涅槃」の死の無い世界なのに死んだふりをした、オバケを正気にさせる特技です。このやり方で観念世界を遊泳する限りにおいては「無我」と「無常」はいらないんです。だから「有無を明白にさせる」これ以外の無の観想は私には無いんです。

回答No.1

 意味がよく分からないのですが わたしなりに交通整理してみます。というお応えをここにも張ります。  1. 神を立てる場合それは なぞであると言っておくと分かりやすいのではないでしょうか。  2. なぞをいろんなふうに表現することを人びとは行なってきた。  3. 見えるものでたとえて言う場合 太陽が多かったでしょうね。または 火でしょうか。その系譜に アマテラスオホミ神があります。神話では その子孫が 人間となってアマクダリしてきます。  4. 《我=アートマン》は 人間存在について言っているはずです。その《たましい》を言うとしてもです。宇宙のほうの霊魂は ブラフマンですから。  5. 《我=アートマンは無い》という説は ブラフマンと一体でもはや何ものからも影響を受けず独立して存在するという場合の《我》は無いと言うのだと思います。  6. 《我は有る》というのは そのように《何によっても影響を受けずひとり存在するもの》は無いと見ている《わたし》という存在は――限りあるものながら――有る。と言っているものと思われます。  7. 同じことで言いかえると 《諸法無我=すべての現象も存在も 自存する実体としての我は無い》と見ている人間つまりわたしは いま・ここにいる。というとき ブッダが言ったことは《無我》ではなく《非我》だという説です。  8. これらすべてなぞの何ものかのもとに そして人間としては非思考という状態のもとに 世界として起きていることだと知る存在は 人間でありわたしであり そこには自由があるらしい。そこには束縛はないとひとは思っている。非思考ということが 信教の自由を意味すると思われます。  9. 同時にこの自由をそのなぞの何者かからのめぐみとして受け取る人間は そこに心の明けもしくは伸びとして 良心をもつと思っているらしい。  10. そうして この信教・良心の自由から発して 一般に表現行為の自由を 人間は――けっきょく何の根拠もなく=つまり なぞとしての無根拠によって――公理として主張しうたっている。  11. この自由のもとに共生するものと思っている。  12. 自由のもとに共生するということは その自由に 答責性をともなうということを意味する。説明責任を最後まで果たさなければならない。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 考えをまとめやすくなります。

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    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • 慈悲とは無の悟りを補う行いである。

    慈悲とは無の悟りを補う行いである。 お釈迦様の悟りに置いて「無」の内訳とは有無について明白な分別を養う事である。 にもかかわらづ、そのような分別を持ち合わせないで、無に属する事柄、無根であり、かないようも無い願いを傾けることは、幼稚園児でも納得する無い物ねだりである。 これこそは私を個人的に苦しめている取りすがりである。 私に言わせれば、良識のある方の引用した聖書に由来するイエスの信仰の様式ですら取りすがりであった。 「あなたの言葉から内心の信仰の在りようが見える。」 これは霊験を備えれば誰でも出来ます。 そして慈悲とはその信仰の有りようは無根である。 はっきりと、その信仰はかないようが無い。 そのように表すことである。 お釈迦様は当時のインド社会での信仰の有りように、このように無の観想を述べ、慰めるがのごとく慈悲をもって手向けた。 ただそれだけが慈悲なのに、仏弟子を気取り、無を恐れる背教者が宗教を組織して正当な釈迦の後継者のごとくふるまっている。 これこそが仏道の真相です。 何故悲しみを知らせる慈悲が必要なのか。 喜びを分かち合う事が出来ないからです。 以上は色々とご質問させていただいた仏教の問題点の集約です。 当事者よりアドバイスをお願いします。 最近煩わしているヤプーよりも信仰の当事者より意見を聞きたい。 あなたはそれでも仏道を歩めますか。 仏教文化の浸透した日本に置いて、信教で無かったとしても必ず潜り抜けるのが仏道です。 私もそうでした。 あなたは仏道を我が大道と自信をもって言えますか。

  • 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである

    一連の知的SMプレイの最新版です。 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 無の悟りとは単純明快である http://okwave.jp/qa/q7612407.html 私は「わが信仰の大道を行け」と薦めているが、理屈が全く分からない人ばっかりだろうから、論理を整えてみたよ。 お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚し歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人間同士が共生する文明の芽吹きがあった。そのようなさなか人間同士の社会生活と個人の自然本性が共存する新しい生き方を歩むにあたって、その難問を仲介する神と表せる、人間の理性的資質の所在をめぐり、人々は様々な自説を述べ、神の案内する、人間の社会性の構築の理想像についてお互いに意見を戦わせた。 それは自らを知る行いが神をしる行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間の社会生活の発祥であろう。 そこにお互いに何を信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる悟りである。 2500年前ヒンズー教の源流を司るバラモンの僧たちは、神の姿を明白に定義しようと苦心していた。 そしてそれを成し遂げたのがお釈迦様である。 お釈迦さまが信仰に生きることを可能にしたのは彼自身が神の全てを受け入れたからだ。 すなわちお釈迦様は太古のインド社会の源流に現れる神の姿を受け入れたのだ。 他者の信仰をも許す、慈悲心の原点だ。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事も無いくせに、信仰を語ることが権力闘争と化した当時のバラモンの僧は現代の生臭坊主とかわらず、神はかくの如しという噂話が好きだ。 そんなうわさ話を、お釈迦様は「信仰心とはそうではない」と、神を尊ぶゆえに、過ちの多いバラモンの信仰にケチをつけた、神を損なわず人の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 すなわち君達バラモン僧は自らに信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 この無は「そんなのありゃしねー」の無であり、何年か前に「そんなのかんけーねー」と裸踊りをしたお笑い芸人がいたが、ふっ飛ばし方は同様であり、かのお笑い芸人こそが現代で最もお釈迦様の言葉を正しく実践する、聖人だ。 そして、ならばと、お釈迦様自の神への志、すなわち信仰を問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 すなわちこれは、「てめーのしったことじゃねー」の無であり、お笑い芸人の「そんなのかんけーねー」と一致する ここで果てしなく、押し問答が繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 そこで無の論理を心得るならば、すなわち目指すのは、自らのみの信仰心のの探究であり「救ってください」「助けてください」これは無い事になる。 彼らはそれを恐れるのだ。 仏教の迷走はここにあり、禁を破った大乗はむしろ日本版ヒンズー教である。 自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは無の悟りではなくて「信仰の我が大道を行け」これである。 てめーのしったことじゃねー。 てめーでなんとかしろ。 これである。 ありがたいだろう。 さて今回も一種の作文であるが、改めて無の悟りを掘り下げてみた。 信じると言う行為や心の働きをいかにとらえるかご意見をお願いします。 そのほかに私こそが無を悟っている。 君(私の事)の無はまちがいだ。 そんなつわものの、モンキーダンスも歓迎いたします。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。

  • 仏教で言う無分別を解説してください。

    無の論理と哲学はかようである。 神を語っておらず、無根の信仰だ」(まるっきり無い) 「神を語る言葉は無い。」(ありを隠し無と語る) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと世術である。 コレは有無の分別であり、彼我の分別である。 まるっきりない事に関しては、実はそれもあり得るのではないかとくよくよ悩んだりしない事。 有りを隠し無と語る事に関しては、何か確かな証明でもしない限りは無いも同然で無いかと悩んだりしない事。 このようにすっぱりと、有無の分別を付けることである。 無の悟りとは、このような分別がつく事である。 ところがこれを仏教では、分別でなく無分別と言うらしい。 仏ではなく仮面ライダーの私にはこの点がなかなか納得できない。 誰か説明してくれ。