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西郷隆盛の辞世の漢詩を書き下し文に
sonfuhshiの回答
肥水豊山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公 肥水(ヒスイ)豊山(ホウザン)路(ミチ)已(スデ)に窮(キワ)まる 墓田(ボデン)に帰(カエ)り去(サ)りて覇(ハ)を図(ハカ)ること空(ムナ)し 半生(ハンセイ)の功罪(コウザイ)両(フタツナガラニ)般(ワタリテ)跡(アト)す 地底(チテイ)何(ナンノ)顔(カンバセ)ありて照公に対セン 小説「気張りもんそ」(大西郷の生涯)の作者の鷲尾村夫子ですが、本物の辞世の漢詩のように思います。斉彬公の遺志を叶える事だけに人生を捧げた西郷隆盛の痛恨の思いが胸に満ちて、涙がこぼれそうになります。 簡潔な表現、韻の踏み方など西郷の癖が認められます。
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