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「ホ・オポノポノ」を知っている人だけ読んでください。

noname#92745の回答

noname#92745
noname#92745
回答No.1

ハワイの秘宝と銘打って紹介されたレン博士のホ・オポノポノの根源の 考えは特に目新しいものでもなく、すっごく昔から色んな哲学者や 宗教家なんかも考えてきた命題なんですよね。 (まあ、あの4つの言葉を唱えるだけという手軽さが万人受けしたんでしょう) どこかで真理をみつけた(悟った)人が言う共通のことに、 自我と真我の2つの存在が人の中にあるというものです。 仏陀は梵我一如で梵(宇宙を支配する原理)と我(自分)が一体であると 説明しています。 デカルトは「我思うゆえに我あり」と言いました。 (この時の前者の我と後者の我は別のものとみなします) 心理学者ユングもシンクロニシティの研究においてその説明を 潜在意識下での万物とのつながりで同時共鳴現象を科学的に 説明しようとしました。 同じくレン博士は人間の根源は万物一体であるワンネスの思想から 自分を癒せば自分でない(と思える)別の対象物をも癒せると言ったわけです。 非論理的だときめつけるにはあまりに多くの賢人が同じことに いきついてるように思えませんか? >けれども、それは論理的ではない。 そう思いずいぶん楽になったものです。 >なのにまた、同じような感覚を呼び覚ます物に巡り会ってしまったのです。 この感覚とはいったい何なのでしょうか。 その楽になった自分と感覚が呼び覚まされた自分は違う自分なんじゃ ないでしょうか。エックハルト・トールの『ニュー・アース』なんか読むと その辺りの不安感情の仕組みが説明されてる気がします。 つまり、一見論理的なものを肯定しようとする自我(エゴ)とエゴ以外の者の 自己の中での対立構造です。真の自分が実はエゴ以外の存在だと知ってしまったら エゴの存在意義がなくなるのであやゆる不安、拒絶を起こすんだそうです。 >「自分に起こることの全ては自分のせいだ」とひどく悲観的になっていたのです。 この辺りの感覚をつきつめて処理していくには、ニューソート的な 考えに触れてみるのもヒントになるかもしれません。 ニール・ドナルドウォルシュの『神との対話』『神との友情』には 一応”神様”からのその問題に対する答えが述べられています。 読んで受け入れるかどうかは自由ですが。 レン博士の >全てのことは過去の記憶から起こっており、 自分の記憶をクリーニングすることで悩みは消去される。 って二律背反ですよね。絶対に”今”の自分は過去がクリーニングされた ことや書き換わったことはわかるわけもなく。書き換わった過去が ずっと昔から普遍であった事実としか見れないでしょう。 というよりそもそも過去・現在・未来の3次元での時間軸すらないって 言い切ってる人もいますしね。あるのは今のこの瞬間だけで、過去が あったというのは幻想と。(というと、レン博士の記憶だけというのも 同じかもですが) 基本的には過去を正す、というよりもこの今の瞬間を完璧なものとして 捉えるという考えがしっくりきます。そしてその完全な今のこの瞬間は 不完全であったはずの過去の存在もあって成り立つこその今であるなら 過去をクリーニングする必要はないですよね? わたしもすぐに”論理的”ぶるエゴに引き戻されて過去の出来事の”記憶”に 凹みまくりますけど。。。クリーニングしなきゃって思うとすぐに、 不完全さを否定する罠に落ち込んでいくと思います。 公式サイトのクリーニンググッズはちょっと個人的にいただけないですねぇ。 >論理性ということで拒絶せず受け入れられる方法があるなら、 受け入れてみたいと思っています。 う~ん、、、論理的にという段階でエゴに邪魔されそうです。 わたしは、ポノポノの実践は特にしてないですけど、 ごめんなさい 許してください 愛してます ありがとう って言葉全部をひっくるめた言葉にできないものを今に感じるようにしています。 (で、何か特にどうということもないですけどね。。。) 悟ってないのでわたしにも真実はわかりません。お答えにならずすいません。

noname#128382
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >同じくレン博士は人間の根源は万物一体であるワンネスの思想から 自分を癒せば自分でない(と思える)別の対象物をも癒せると言ったわけです。 >けれども、それは論理的ではない。 そう思いずいぶん楽になったものです。 >なのにまた、同じような感覚を呼び覚ます物に巡り会ってしまったのです。 この感覚とはいったい何なのでしょうか。 うまく伝えられず、申し訳ありませんという気持ちと、 なぜ、他の人は感じないのだろうかという気持ちが入り交じっています。 私は「自分に起こることの全ては自分のせいだ」とひどく悲観的になっていたのです。 自分に起こる全てのこと、 ・それは自分が生まれてきたこと ・戦争がどこかで起こっている世界に生まれてきたこと ・悲しいニュースが毎日流れる世界に生まれてきたこと ・この世は悲しみに満ちており、そうした世界に生まれてきたこと ・もしかすると宇宙が存在するのも自分の責任なのかもしれなくて・・・ もっとわかりやすく言うと、 ・今でも世の中に核が開発されており、その責任が自分にあるということ ・世界で饑餓がおこるのも、自分の責任だということ ・昨日、流れたニュースは全部自分の責任なわけで 上記のことを思うと苦しくなるのです。 なぜ、「ホ・オポノポノ」を実践している人はこれらのことで苦しまないのでしょうか??? ここで、無意識はつながっているかもしれないが、 つながっていることには、何の根拠もない。 つながっていても、自分の外側は何も変えられない。 そう考えれば、もう少し楽になりますよね。 ただ、現実のものを改善していくだけ、自分ができる小さなことをしていくだけで済みます。 けれども「ホ・オポノポノ」を知ってしまったら、 全てのことに対してクリーニングをしなければならないような気がするのです。 これが苦しくないのが不思議です。

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