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知的好奇心や美的感覚

hyuuma8579の回答

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  • hyuuma8579
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回答No.5

美に関しては、ここでは創作者からの視点には言及せず、あくまで鑑賞者からの視点のみとさせて頂いた。 そして、「価値追求欲」を当たり前のように述べてきたが、この欲望は誰しもが持つものでありながらも、高度な欲望であることも事実である。 人間には様々な欲望がある中で、その欲望の相関関係も見逃してはならないのである。 数ある欲望の中でも、それが高度な欲望になるほど、他の欲望に支配を受けていれば、その低次元な欲望からの被支配度が大きければ大きいほど高度な欲望への道が開かれないことも事実なのである。 たとえば、肉体的本能の欲望の代表としての性欲などに虜にされてしまったような人間の場合、 その欲望からの支配が強力なため、もっとそれ以上に強烈な喜びと刺激を味わえる高度な欲望があったとしても、その段階に駒を進められず、 性欲がその人間にとっての最高欲望となってしまうのである。 だからこそ、鑑賞者が、ある芸術的対象物(作品)を鑑賞しょうとする際も、心から美を享受しようとする姿勢をもって、作品を観照(=本質を見極める)または静観しなければならないのである。 即ち、雑念を払って清い心境になって作品を見つめなければならないのである。 言い換えれば、真美善の価値の追求を第一次的に、物質的、肉体的な追求を第二次的にするということである。 次に、鑑賞者は一定の教養、趣味、思想、個性を備えていなくてはならない。何故ならば、作品を作った作者のモティーフ(目的)、主題、構想、作者の思想、時代的・社会的環境などを理解することが必要だからである。 作品を理解するとは、鑑賞者が自己自身の精神を作品の精神に合わせる作業のことをいうのである。 そうすることによって鑑賞者は作品との相似性を高めることができ、喜びを得ることができるからである。似るということが喜びの発生上の要件なのである。(動物などの中でも猿など人間に近い=似ている存在を見る時ほど喜びが大きいのである。) たとえば、ミレーの作品を深く鑑賞しようとするならば、ミレーの思想を理解することも必要である。 1847年の二月革命の当時、フランスでは社会主義運動の雰囲気が漂っていたが、ミレーはそれを嫌っていたといわれる。 そして彼は自然と共に生きる農民の醇朴な姿にいたく心を引かれて、農民の心をありのままに描こうとしたのである。 そのようなミレーの心境を知れば、彼の絵からいっそうの美が感ぜられるのである。 さらに鑑賞者は作品との相似性をより高めるために、鑑賞しながら主観作用による付加創造を並行するのである。 主観作用とは、鑑賞者が自己の主観的な要素を対象に付加し、作者が作った価値(要素)に新しい価値(要素)を主観的に加えて、その合わさった価値を享受することをいうのである。 主観作用はリップスの「感情移入」に相当するものである。 たとえば、演劇とか映画において、俳優は演技をしながら、ある場合には泣く振りをする。しかしその時、観客は俳優が本当に悲しんでいると思って一緒に泣くことがよくある。 観客が自分の感情を俳優に投影して主観的に対象を判断するのである。 これは感情移入、つまり主観作用の一例である。 主観作用によって鑑賞者は作品とより強く一体化し、一層深い喜びを得るのである。 したがって、感情移入の度合いも大きな差を生み出す要因となるのである。知にばかり偏っており、情が未熟な人間の場合、結果として感情移入の程度も弱くなり、美意識や美的感覚の鈍さにつながるのである。 最後に、鑑賞者は身体的条件として健全な視聴覚の感覚器官、神経、大脳などをもたなくてはならない。 特に美の鑑賞に際しては健全な身体的条件が必要となるのである。

noname#105097
質問者

お礼

ありがとうございます。 とても参考になりました。 低次の欲求に屈していては「美」の追求も感性もありえませんね。もちろん断念するわけではないが、常にもっと上のものはないかという精神的な強靭さ、集中性が要求される。そして、そのような価値を自覚することの出来る人間でありたいと強く思います。

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