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世の中思慮が深い(普通?)の人ばっかりだったら
私のその一員ですが、世の中軽薄なものや考え方がはびこっている気がします。これが、もうちょっとまともに物事を考え判断でき鑑賞洞察する力がある人が大多数になったら、世の中どうなるのでしょうか。 たとえば、東京に「寄生虫博物館」というやつがあるのですが、ここがそのショッキングな展示内容からか、やたら人気があるという現象が起きています。ところが、博物館側としては、ごく真面目な研究を展示し啓蒙に勤めるといういたって普通の博物館で、しかも、建築規模や展示規模からしても、一般客を多く集めてどうこうすると言う考え方でないのは明らかで、それがまかり間違ってデートコースだのワイのワイの言っている状況でした。見学の人を見ても、ここのことを書いている掲示板やら読んでも、寄生虫学という目で見ようとする人はほとんどいないようです。昔、人にもかなり被害を及ばせた寄生虫の中間宿主の貝を発見し、それを撃滅することで人への被害がなくなったなんていう説明はすごく感動的だと思うのですが(よく発見したな~!って言う感じで)そういう観点ってないですよね。これが普通の感覚になったらどうかと。 上の話はもっと一般化すれば、皮相的な話題に追随するのではなく、自分でどんどん知識を取り入れたいという欲求があるかどうかにかかっていると思われます。もちろん仕事に疲れてそれどころじゃないという現実もあるにしても、心のあり方としては、常になにか求めたい、というのが標準になってもよくないですか? どうして世の中はこう皮相的に、あるいはマスコミ操作ばっかりがはびこるような軽薄なものなのでしょうか?
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おはようございます。 「>常になにか求めたい、というのが標準」、だ・か・ら! 「>マスコミ操作ばっかりがはびこる」、のではないか、 ものすごく自然なことなんじゃないか、とも思えますけどね。 求めたい「なにか」が人それぞれで、 受け取る「なにか」も人それぞれ、それだけだと思います。 標準な人たちの需要→マスコミの供給、 というのは自然な流れだと思うのですが、 マスコミ側が能動的に積極的に押売り的に情報を与え、 標準な人たちが受動的に無防備にそれを受け取る、 このような状態に違和感がある、ということでしょうか。 この寄生虫博物館の場合、 博物館の館主が、提供し、来館者が受け取る、 その間にマスコミが入って、 「あそこでこういうものが提供されてますよ、 受け取っておくと愉快かもですよ。」 と言っている、ということになりますね。 このときマスコミは、 提供する側を後押しし、 受け取る側の後押しもしてることになりますね。 ところで、 提供する側が、受け取る側に対して、 「わたしが提供したものに対して『このように感じなさい』」 と求めたとして、 受け取る側は、どれぐらい「このように感じる」ことができるのでしょうね。 そもそも提供した側は、 「提供する」というのが完了したら、 あとは受け取る側に任せているのであって、 「このように感じてほしい」と提供した側は思っていたとしても、 受け取る側はそこまで慮(おもんぱか)る必要もない気がします。 たとえば高級料亭の一流の板前さんが客に出した料理。 板前さんが相当な試行錯誤を繰り返して味付けをしました。 板前さんとしては、できれば自分が出したまま、 熱燗でも飲みながらゆっくり味わって食べて欲しい。 だけど客はその料理にマヨネーズをかけて食べたい。 しかもとてもおなかがすいていて、 とにかく一刻も早く空腹を満たしたい。 客は結局マヨネーズをかけて一瞬で平らげて大満足しました。 この場合、板前さんとしては 「受け取り方が間違ってる」 「自分が提供したものを無駄にした」 ということになるのかもしれませんね。 しかし、客としては、満足したわけで、 間違いでもなく、無駄でもない、ということになりませんか? 受け取り方は、受け取る側によって、それぞれ、 正しいとか間違いということはないと思います。 たまたま、ある受け取り方をして、 少し余分に得をしてラッキーな人がいる、 それだけかなあと思います。
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NO15です。ふと補足の内容を振り返って >それはおかしい、そんな風には考えない、言葉はもっと重みがあるものだ、言葉をただのアクセサリーだと思うな、もっと言うことに責任を持て、漢字でかけないような単語を発するのをやめろ。そういう思いが潜在意識として、最近見聞するものに対して沸き起こります。> という考え方が正しいように思います。 NO15と全く違う事を書いていますが、あなたの洞察力は時に恐ろしいものを感じる時があるのですが、正直正しいと思います。 この中に感情の憎しみと怒りを感じるのでNO15ではそこの部分だけピックアップしましたが、(その部分では自分の判断も間違えているとも思い難いですが)判断としては至極ごもっともだと思います。 「アクセサリー」として自分を煌びやかに見せるもしくは自己賞賛の対象として他者からどう見られるかという自己賞賛願望を第一の目的としてるというのは至極ごもっともだと感じます。 また言葉の本来の目的を見失っているという直感は以外に浸透しつつあると思います。 ん~憎しみと怒りと共に直感的判断力が高まっているのかもしれませんね~できれば憎しみと怒りが発生するようなコンプレックス的評価を無くせばより一層中身の洗練された自己主張的質問が書けると思いますよ。
お礼
私の思考法は、すべて単純に基本に返ってみたいという、ごく原始的で稚拙なアプローチです(アプローチって何でしょうね?「接近方」?)その白紙のようなものを、自意識や社会意識や自己保全みたいなもので覆われて曇ってしまったものに対してぶち当ててみたらどうなるだろう?という趣味です。そこには、おっしゃるようにルサンチマン(恨み)がります。つまり、ゴテゴテに塗ったくったものは自分の方を向かないという疎外感排斥間を感じたからです。 アクセサリー的なあるいは目的消失で言葉や意識が突っ走っている、との自覚が社会的にあればいいのですが。以外に浸透してますかね? 恨み、怒りの消失、これまさに私の課題ですね。
- hosiboshi
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ANo.9です。 世の中にはたくさんの人がいます。 思慮の深さというのは色んな事象、色んな人間関係、様々な場合に用いられるものです。 思い配慮するということは自らの意思でそうしているわけなので、思慮が浅いからと他人を責めることはできません。 他人と分かり合うというのも難しく、自分の経験の場合はやはり長い付き合いでお互いを理解している場合と、やはり思慮深いもの同士が通じ合った場合は、すごく儚い意思の疎通です。 一瞬意識が重なった感覚がします。 後者は美しくも感じますが、人がふたりいればやはり醜い面もあってこその人なので、それ以上近付くことは難しくなります。 お互い思慮深いので、マイナス面もすぐ考慮でき、なにかを我慢しながらの付き合いとなります。 ですので結局長い付き合いの友人との、ケンカもしながら嫌味も言いながらの付き合いのほうが自然でぶれないし、なにより人間らしいです。 物事は様々なジャンルがあり、思慮深い人がいると周りは楽ですが、本人は結構気疲れしてしまいます。空回りも多く経験することになります。 何事にも思慮が深い人は結構疲れているので、実は本人も楽に付き合える人間関係を欲しているもんです。 その場合やはり単純(純粋な人は更に)な人の存在はありがたいものだったりします。 なので適材適所、自分にふさわしい思慮の深さで良いのではないでしょうか。 若いうちはあれこれ考えるのも良いことだと思いますが、自然な自分で なるべく正直に素直に、で宜しいのではないでしょうか。 思慮が浅すぎる人はもう少し考えなければならず、深い人はもっと楽に生きてみたら全てが良いと思うのですが、両者とも生まれ持った天分はなかなか直らないみたいです。 他人の思いやりは何にも勝るゆえ重い場合も多く強力な+に耐え切れず-に作用してしまう場合もあり、人間という生き物は生来自分への配慮というのも難しいですが必要なのではないでしょうか? 思慮が浅い人も、もしかしたら全てに疲れてそうしているのかもしれないので、そこまで思いやって対応するのが人としての思いやりではないかなと思います。 日本は情の深い人の多い国なので、身近にもたくさんの思慮があると思います。 一つ一つ気付いていくのは幸せな経験なのではないでしょうか。 美しいものほど消えやすく儚いのが何故かは自分にもわかりません。
お礼
あまり、人間清く美しくなんて考えない方がいいのでしょうね。もっと動物らしくいがみ合って、あるいはバカやってという方が、健全だと思います。一方で、肝心な内省のようなものを取り去って欲望のままに走ってしまってはこれもまた破滅的です。 自分ができるちょうどいい塩梅で、なるべく気をつける。くらいですかね。 美しいものが消えやすい! これは問題だと思いますよ。実は、美しさというものはマイノリティの感覚なのでしょうね。
>それはおかしい、そんな風には考えない、言葉はもっと重みがあるものだ、言葉をただのアクセサリーだと思うな、もっと言うことに責任を持て、漢字でかけないような単語を発するのをやめろ。そういう思いが潜在意識として、最近見聞するものに対して沸き起こります。> これは多少どうかと思うところですが・・・ ようは相手側を非難したい願望がふつふつとあるということなんで、ようは相手側を罵倒の対象して自己正当化を果たそうと思っているんではないかと感じます。 >冗談じゃなく、知的崩壊と言うのがありうるかもしれません。> 知的崩壊があるとは個人的には思い難いですが、質の変化が大いにあると感じます、つまり「資本のためメイン」や「パスポート代わりがメイン」などです いやもうなっていますが、その質の変化で知性が内面化しない現象はありえると感じます。 まあかといって「資本のため」がわるいのかとか「パスポート代わり」がわるいのかというと悪くないです。 まあ本能がかたを効かせる世界(本能的に脅せば出世するとか上の者にゴマをすってる奴が上司になれるとか、態度の良い雰囲気に騙されてその人を良い人と思い込むとか、フラストレーション発散の為に人をいじめることがまかり通るなど)にほとんどなりつつあって道徳心と倫理心をがまかり通らないという変質した社会に変化しつつあるというのは事実でしょう。 そういう意味ではhakobuluさんではありませんが超自我の崩壊といったところでしょう。
お礼
そういう攻撃的な意識もおそらくあります。が、一方で純粋に「何でこんな表現をするの?」という根本的な疑問もあるのです。横文字の氾濫とかもそうです。こういう、「疑念」というのが、人々の意識から消滅して、資本に踊らされるロボットのような人間が大量生産されるのではないかという危惧があります。超自我が世の皮相さや喧騒にかき消されているのかもしれません。
お返事拝見しました。llamaです。 参考にする気がないと思いましたのであえて書きませんでした。 申し訳ありませんが、やっぱり理由は自分自ら考えて頂くほうが 有益かとおもいます。 私が言いたかったこと、各回答者さんが言いたかったことを ゆっくり噛み締めて考えれば答えは出るかと思います。が 時間が掛かると思います。 あなたがどのくらい時間が掛かるかなど私は全く興味ありませんが。 もう一度言いますね。寄生虫館ではしゃいでいた人々と質問者さん アナタと違いを見つけることは出来ませんでした。 この掲示板で質問文、回答文を拝見させていただいた感想だけで 答えさせてもらっています。あしからず。 重複失礼します。
お礼
ご確認ありがとうございます。
>この質問の例の様な事態。「個」というのがないと、どんな人でも気持ち悪いんじゃないかという気がするんですけどね。> ほんとですよね~その気持ち悪さを感じることすら難しいというある種の客観レベルの変化というのはあると思いますね、つまり「あわせていたほうがなんとなくカッコイイ」とでも思っているんでしょうか?分かりませんがそう思わないタイプというのは中々前へ出てこなかったりしますから、変化するのに凄く時間が掛かっている感じですよね、まあ長期的に見てよければよいのかなという気もしますが、どうなるでしょうかね?今後・・・・日本崩壊にならなければ良いですがw >「何も」というのは一種の誇張表現のつもりだったのですけどね。なかなか政治的な発言は難しい(笑)> ああ、そうでしたか、そういわれれば納得しますので良いですw
お礼
いま、フジテレビのいい友の再放送で「そうですね!」がかいま聞こえました。そうですか。そうですね。違うことがいえないのか?いやそうじゃない、それはおかしい、そんな風には考えない、言葉はもっと重みがあるものだ、言葉をただのアクセサリーだと思うな、もっと言うことに責任を持て、漢字でかけないような単語を発するのをやめろ。そういう思いが潜在意識として、最近見聞するものに対して沸き起こります。冗談じゃなく、知的崩壊と言うのがありうるかもしれません。
no8さんのgarcon2000さんの補足は至極同意です。 回答者が質問者にお礼を強要する権利はないだろうと思います。 あまりにも横柄な感じがします。 また哲学や心理に明確な答えがでない質問がでることは少し考えれば分かる事、だからここは【参考意見】や【アドバイス】という回答形態をとっている訳で、【Aに賛同の人Bに賛同の人】などと聞いていない限り「アンケートへ行け」などという事を強要するのはいかがなものかなと思います。 いわばこの質問の回答の回答者の質問者へのお礼強要の皮相的な追随ということになると思います。 確かにここのokwaveの削除感覚も皮相的に釣られて削除する場合もありますが、その皮相的な暗示を掛けているのは相当回答者の質問者へのバッシングがそうさせているように思います。 相当な犯罪性があってつい書いてしまったのレベルでは無いように感じますのであまり質問者を罵倒するような内容のみの回答の方を控えるのがいわば回答者側が寛容でなければならないのだと思います。 そうでなければバランスが崩れどちらかが横暴に発展するというのは目に見えています。 とりあえずアドバイスとして回答の皮相を説明させていただきました。
補足ありがとうございます。 > 今のBSはいいものやってますよね。迎合的な印象は薄くて。ああいう、飾らないテレビ番組、それで喚起されない人は何観たって喚起されないと思いますよ芸能人がしゃべくってなきゃ何も受け入れないとか、それは何も取り入れる気がない?と思われます。 > とのことでした、まさにその通りだと思います、>芸能人がしゃべってなきゃ何も受けれない>というところは至極ごもっともだと感じます。 芸能人のしゃべりと観客などの周りの演出が受けて側に受動的感情満足を覚えさせて、視聴者が能動的の方に傾いているのか受動的の方に傾いているのかといえば受動的な感受性の方へ流れ込んでいるのは目に見えています、つまり能動が衰退しているという現状は大いにあるだろうと思います、絵や本なら自我感受性を組合すもしくは誘発して能動的かつ受動的であるのですが、迎合的でありマスコミ操作的な場合ほぼ受動的といって過言ではかりません、>何も取り入れる気がない>まあ、多少言いすぎですが”何も”とまで行かずとも”取り入れる気がない”というのは言えてると思います。 あのアドバイスといってはなんですが、”何も”などの全否定の表現は多少控えた方よさそうです、回答者側の立場もあろうかと思うんで・・・ まあ自由ですけど・・・全否定の場合その手に関わっている存在から「全部否定できる内容ではないだろう!」的な反論的なバッシングを受ける事になると思いますので絶対性が無い場合あまり全否定は多様しない方が良いと思います。
お礼
何か崇拝的であるとか、依存的であるとか、そういうことの中毒症状っていうのがあるんでしょうね。人にはそれぞれ違う中毒症状があるのだろうが、なにかマスコミが利用しやすい典型的な症状にこの芸能人喋りみたいなものがあるのではないかと。あとは、この質問の例の様な事態。「個」というのがないと、どんな人でも気持ち悪いんじゃないかという気がするんですけどね。 「何も」というのは一種の誇張表現のつもりだったのですけどね。なかなか政治的な発言は難しい(笑)
お返事拝見しました。 質問と他の回答を精査してみて判断しましたが、寄生虫館で気持ち悪い とはしゃいでる人達と、アナタとの違いを見つけることは 出来ませんでした。 思慮深い人ばかりになってもこれと言って違いは生まれないのでは と感じた次第です。
お礼
どうもご苦労様でした。できれば解説していただけると、今後の私のためにも役立ちます。書き捨てではなく、きちんと結論を導く過程理由を説明していただかないと、あまり良回答はあげられません。
- hosiboshi
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思慮深いというのは、自ら耐えるということだと思います。 美徳というか、それが当然の人は当然のことなのですが、自ら耐えることをしない人にとって、思慮深くないのはそれが当然のことだと思います。 思慮深くない人が増えたのは、それが楽だからで、思慮深い人は目立たないからだと思います。 逆に見掛けだけではわからず、ものすごく思慮深い人もおられるので、一概には言い切れないと思います。 年上の方や、長く付き合ってわかる場合がありました。 思慮深い人だけ。それも問題があると思います。 単純な人のほうが楽だし、場が和んだり、基本的に単純なほうが人としては美しい場合もあるからです。 世の中全体が思慮深くなったら、良くなるよりも、より考えの深い醜いものが潜むようになるのではないかと思われます。
お礼
そうですね!やっぱり「楽」というのが1番大きな要因だおともいます。私とて、説明を読みたいというのは、なにか背伸びして何かやり遂げた満足感に浸りたいというエゴから来たものですし、もっと自然に「楽」になれば興味がそうわかないことの知識など疲れるだけです。それも、ある段階を超えると快になっていくのですがかなり壁が高いかもしれませんね。 もしも、の本題ですが、確かに単純さは美しさとかまとまりやすさがあります。しかし、思慮深いというのが標準になったら、今現実は思慮深くないのを前提としてますから、そこが崩れるとどうなるか?考え方をより柔軟にしないと駄目じゃないでしょうか。 私は、思慮深いことに悪徳なんてあまりないのではないかと、美徳のほうがより広かって行く気がします。少なくともお互いを分かり合う要素が増えることがマイナスにつながるとはどうも思えません。
- green1957
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ANo.1の回答をした者です。 私の回答に対するお礼文や、他の方の回答やお礼の文章を読んで、質問者さんの投稿の趣旨は理解いたしました。 この投稿がサイトの禁止事項に抵触するかどうかは微妙なところですが、この質問が正解を必要とする類のものでない以上、アンケートのカテゴリーで質問された方が適切だと思います。 また、質問者さんが自身を思慮深い人間とお思いでしたら、お礼文の中に、回答を頂いたことへの感謝の一文を入れるべきでしょう。 誹謗・中傷を目的とした回答はともかく、それが回答者への礼儀と考えます。 何の返答も無しに質問を締め切る人達に比べれば遙かにマシですが、他者や世間の姿勢に疑問を呈する程の徳をお持ちなのでしたら、その程度のことは出来るはずです。
お礼
哲学の質問で「正解」を必要とするものなんてそうあるでしょうか?まぁこれも、質問者たちが増長してここの本来の趣旨から逸脱したことを平気でやっているから、そういう慣習がまかり通ってしまったのでしょうね。人生相談だかアンケートだかわからんものも無理やり「哲学」にしようと。寄生虫博物館で「キモイ」やら言っているだけでまったく説明を読まない類かもしれません。 また、お礼文は回答者が要求するのは度が過ぎていると思われます。私も一度、コピーのお礼しかしない回答者に向かって、「なにか一言回答にそった御礼をしなさい」と指摘しましたが、あまり好意的な反応はありませんでした。それより2段階ぐらい上の要求ですね。大部分の回答者はお礼の言葉なんてほしくてしているわけではありませんよ。あまりにもすばらしい回答には私とて「ありがとう」を連発しております。
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お礼
とてもいいたとえで感激しました。 観点をより広くもてました。この質問をしてよかったです。 世の中一筋縄ではいかないというか、思惑通りにいかない。料亭でマヨネーズ。ありえますね。 しかし、私はここで、「いくらそうしたくても、しきたりや伝統に従いたい」という性分なんです。というか、そのほうが気持ち的に安定できる。つまり、自分の希望を優先したくない。伝統しきたりの中に自分を埋没させその埋没した中で楽しめるように事故変容したい。そう考える人間です。 この意識のずれがもんでいでいしたかね。 ただ、どうしてもこういうマヨネーズ派の増徴したふしだらな考えも、ひとつの市民権を与えられるべきだという思考方法が蔓延しているとしたら、それは何なんだろう?という疑問が最後に残ります。