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シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である

 1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界 (相対・有限)      非経験の場 (絶対・無限)  2. 非経験の場とは 人間の知性という観点からは 《非知》として想定されている。    人間の現実      経験世界 (経験事象)         可知 (可感をふくむ)            既知            未知         不可知 (知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この広い意味での現実を持って生きる。それは言うなれば 《非知》へのあこがれのもとにある。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。《考える》ものである。  5‐1. むろん 《非知》はそれを われわれがおのおのあたかも生まれつき持っていたかのようなあこがれとしてただ受け容れるに過ぎない。《考える・また感じる》を超えているので 《信じる》という言葉で表わす。あこがれの園を《信じない》というのは 《信じないと信じた》ことである。    《わたし》なる人間の知性もしくは霊性      非知     = 信じる:非思考の庭      --------------      可知・不可知= 感じる:感性の原野                 考える:思考の緑野  5‐2. ブッダとなることは 経験行為である。多少は知性がついたという状態である。ところが ブッダター(仏性)あるいはつまりアートマン(霊我)は 非知なのだ。  だから 霊とも言う。だから ただあこがれとして理屈抜きに受け容れるのみである。考えても分かるわけがない。分かるか分からないかが分からない。――そのような非知として想定しているのだから。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引くその補助線である。非知を神とすると その神の霊の依り代なのである。いくら聖なるオシエだと言っても 認識知は 考えるものであって 神としてはお呼びではない。  7. ところが・かくして オシエを神として信じるという場合がある。  7‐1. たとえば非知すなわちふつうに言う神についてそれは 不可知であると見た人がいる。  けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  7‐2. 神は感じるものだというシュウキョウもある。  これは それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。補助線であっても補助線だと知っていながらも その補助線たる神しか神はないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  7‐3. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。  それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または ひとりのわれ)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張る場合。その代理人が みづからを神の補助線だと言い張り その補助線の言うことは 神の言葉であるというタワゴトにまで発展する。ローマ法王が かつてそうであった。  7‐4. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説く恍(とぼ)けたシュウキョウがある。  これは 悪しき無限に落ち入る。《未知》には 答えはない。つねにあたらしい未知が現われる。  そのようなあしき無限に落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。未知も既知もまた不可知もみな われわれが《考え認識すべき経験事象》である。これを信じるとは言わない。    8. これらすべては 神の補助線を神そのものと見なしているからには 単純にみなアポコロキュントーシスであって すっとこどっこいのアホンダラ教である。  9. われわれが顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

みんなの回答

回答No.5

Bragelonneさん、律儀にコメントいただきました。 いろんな宗教がありますが、どんな宗教も個人の内心での奉抱です。 内心の奉抱が欠落しているような信仰というか宗教は信仰でもしゅうきょうでもありません。 個人の内心の奉抱の内容を紡ぎ形成しているのは個人です。 それはあなたの言う《オシエ》の理解、解釈からしています。それは個人の内心の作業です。 これを覗き見、知ることはどんな他人も教祖もなしえません。 この解釈、理解は景気でしかありません。これにより自己のうちに聖なる世界を抱き、決して意識の外に対象化はしていません。ですからあなたのいう補助線でもなく、それを神ともしていません。 どんな素晴らしい教え、宗教であってもそれは一つの内容ではなく、個人の数だけあります。それが所謂る一(いつ)なる多であるということでもありません。ただ、その多も実は同じなんですが、個人個人の持つものであって、多様です。しかし同じなんです。 ≪かぎりある生と能力を省みず 神を人間が勝手に決めており≫ということですが、人という存在をどうとらえるかの問題です。 人は神、創造者の多様な現れであるのが本来であり、そういう深奥なる意識が直感的超意識的に尊崇し見る本源たる自己、これを自己の神とする。 だから鵜呑みではない。 あなたはご自分の論述の展開が主要となっており、ご質問で何かを理解しようということが第二次的です。 そしてあなたとやり取りすることは、あなたの頭の体操の観念の遊びとなりがちです。 時としてご分析に閃きがあるものの、あなたは観念をもてあそんでいる。これは哲学や思索をするものとしては邪道です。 あえて親しいbragelonne さんにその欠点を指摘します。真剣さがない。遊びである。

bragelonne
質問者

お礼

 くわしいご回答をいただきました。ありがとうございます。  一つひとつに即して読んでまいります。  ★ いろんな宗教がありますが、どんな宗教も個人の内心での奉抱です。  ☆ 《個人の内心での奉抱》は 《信仰》と言います。宗教ではありません。  ★ 内心の奉抱が欠落しているような信仰というか宗教は信仰でもしゅうきょうでもありません。  ☆ 宗教は 別です。  ★ 個人の内心の奉抱の内容を紡ぎ形成しているのは個人です。  ☆ 信仰を(細かくは 神を・しかもその名を)えらびこれを心に抱くのは 《わたし》の意志行為です。つまりは 経験的な――かなしいかな 変わり得て移ろいゆかざるを得ない――意志行為ですが その《受け容れて抱いた》ものは 人間とこの世界とを超えています。  意志行為は 《わたし》が自由に考えて(あるいは 理屈抜きで)おこなうものですが もしその選びと抱きの対象が わたしたちの存在を超えているものであるとしたら その《選びや抱き》をおこなわしめたものも ひょっとしたら その超越的な存在のしわざであるかも分かりません。  つまり くだくだと言っていることは こうです。:  ★ 個人の内心の奉抱[・・・]を形成しているのは個人です  ☆ が ひょっとすると その形成の力をあたえその形成することをみちびいているのも 《この世界を超えたところのチカラ》であるかも分からないという点です。  ★ 個人の内心の奉抱の内容を紡〔ぐ〕  ☆ のは われわれ人間ではなく もともと生まれつきそなわったところの・たとえばアートマン(霊我)です。それが 《内容》です。――これは 個人が・人間が紡ぐものでもなければ形成するものでもありません。移ろいゆくことのない真理なのですから。  ★ それはあなたの言う《オシエ》の理解、解釈からしています。それは個人の内心の作業です。  ☆ 《オシエ》の内容は 《個人の内心の奉抱》すなわち信仰とは別物です。  オシエは すでに《なんぢむさぼるなかれ》というふうに人間のことばで書かれたものであり それとしての内容です。  信仰は むさぼることの無きように生きるチカラをあたえてくれるその根源のチカラを心に受け容れ抱くことです。  まったくちがう二つのものです。  神を信じるならば――わたしの我れは我れに還って わたしがわたしであるその自由を得ます その自由にのっとり―― むさぼることも少なくなって行きます。そのような信仰の徒が 一般に社会という人びとの集団のために・つまりそこでのともかくの秩序を保つためにその《むさぼり》問題をひとつの命題として言葉で表現し指し示したのが 《むさぼるなかれ》というオキテであり律法です。  このオキテをオシエとして おまえたちよ 信奉せよと――さも権威を帯びる存在であるかのごとく――説いて聞かせたのが シュウキョウです。  個人と集団。そして 信仰と宗教。これらは まるで違うふたつの別物です。  シュウキョウは オシエをほんとうは考えるものであるのに もはや無条件に考えることなく鵜呑みにせよと 何の権限もないのに説く運動です。支配欲に支配されているからこそ 他人にそのような間違った信仰を植え付けようとするものと考えます。  ★ これを覗き見、知ることはどんな他人も教祖もなしえません。  ☆ 個人の内面におけるアートマン これについて言ったものとして おっしゃるとおりです。  ★ この解釈、理解は景気でしかありません。  ☆ つまり そのような《景気》――あるいは 景気づけでしょうか――でしかないのに それでもオシエの解釈をまたオシエとして説くのが シュウキョウです。  ★ これにより自己のうちに聖なる世界を抱き、決して意識の外に対象化はしていません。ですからあなたのいう補助線でもなく、それを神ともしていません。  ☆ 《内面における非思考の庭――信仰の動態をそう呼びます――》は 《聖なる世界》であるかどうかも人間には分からないというのが 信仰の徒であると思います。  そうしてこの《非思考の庭》を《決して意識の外に対象化しない》のであれば それは いつまでも信仰の動態であると思います。そしてそのときには 信仰はあっても いかなる宗教も関係していません。何らオシエはありません。  《非思考の庭》は 神を受け容れ抱いている心の庭ですから いちおう《神を知るための補助線》ではあります。  ★ どんな素晴らしい教え、宗教であってもそれは一つの内容ではなく、個人の数だけあります。  ☆ それは わたしの知ったことではありません。ご勝手にどうぞとお答えするしかありません。つまり いま見てきている信仰なる心の庭は そこには いっさいオシエはありません。《義無きを以って義として》います。ましてや シュウキョウは完全にお呼びではありません。  ★ それが所謂る一(いつ)なる多であるということでもありません。ただ、その多も実は同じなんですが、個人個人の持つものであって、多様です。しかし同じなんです。  ☆ 《非思考――思考に非ず――》ですから 数も数えません。意識しません。《一か多か》という意識からも思考からも《われ――あるいはむしろアートマンなるわれ――》は自由です。  《一は多なり》とかいうふうにもまとめません。神本体は 人間が意識し得ませんから。多様性をもった同一性ないし同種性というのは あくまでこの経験世界における現象であると考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ≪かぎりある生と能力を省みず 神を人間が勝手に決めており≫ということですが、人という存在をどうとらえるかの問題です。  人は神、創造者の多様な現れであるのが本来であり、そういう深奥なる意識が直感的超意識的に尊崇し見る本源たる自己、これを自己の神とする。  だから鵜呑みではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ いえ。《非知》なる神はこれをわたしたちは 鵜呑みにするものとわたしは受け取っています。《非思考》ゆえ。ですから 神をわたしたち人間が決めてはいません。受け容れているのみなのですから。  ★ あなたはご自分の論述の展開が主要となっており、ご質問で何かを理解しようということが第二次的です。  ☆ もしそういうふうに見られたとするなら それにはワケがあります。  《信仰とそれにちなんで人間が勝手につくったシュウキョウ》について 何も知らない質疑応答が多すぎます。それゆえ 《わたしはご自分の論述の展開が主要となっており》ます。  いづれにしましても 質問の趣旨説明に対して 自由な批判をたまわればさいわいですし そのような労をみなさんには取っていただきたい。そのための質疑応答です。  わたしの《論述》には何の批判も示さずに 自分たちの意見についてもっと理解してくれというのは 虫がよすぎます。ゆにこ氏の質問にもしっかりと回答しています。ところが 理解を示さないのは――そして 何の批判をも成し得ていないのは―― みなさんのほうではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  そしてあなたとやり取りすることは、あなたの頭の体操の観念の遊びとなりがちです。  時としてご分析に閃きがあるものの、あなたは観念をもてあそんでいる。これは哲学や思索をするものとしては邪道です。  あえて親しいbragelonne さんにその欠点を指摘します。真剣さがない。遊びである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 理解力が及ばないなら はっきりそう述べればよい。もっとくわしく説明してくれと言えばよい。いくらでも説明しますし 説明して来ています。

回答No.4

bragelonne さん、 相変わらず大論文のご質問ね。 宗教:不可知、非価値、未可知。 そして補助線とやらの境界線。 まぁbragelonne さんはbragelonne さんでよろしいんでしょう。 そんなもんですが、宗教ってbragelonne さんが思うことで終始していませんよ。 でもbragelonne さんの限りではそれでいいんですね。 その通りです。でもそうではないんです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ひとつに絞れば 《オシエ》の問題です。オシエをどう扱うかです。  これを――神を知るための補助線であり 補助線でしかないのに――神と見做し そして信じる(そのまま無条件に是として受け容れる)。このことが もしシュウキョウであるとすれば アウトです。  かぎりある生と能力を省みず 神を人間が勝手に決めており 信じるものではないものを信じている。  神でないものを神とし 考えるべきオシエ(人間の自己表現)を考えずに鵜呑みにする(信じる)ゆえです。  ご回答をありがとうございます。

回答No.3

宗教がなければ精神的に荒廃して、社会性が劣化する 自己チューな文化を有する国は多い。 「必要悪」を短絡的に否定はできない。 それは「お金(自己チューな人間を操る“馬車馬の目の前の ニンジン”)」も同じ事。 人は寒くなくても、パンツをはかなければ欲情する生き物 なのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「必要悪」を短絡的に否定はできない。  ☆ 《必要悪》と言うのであれば 短絡的にも長絡的にも《否定している》のですよ。これこそ 《認識》の問題です。《必要性》が残っている場合にこそ 《認識論》〔としての実践〕が必要になります。  ★ 人は寒くなくても、パンツをはかなければ欲情する生き物なのだ。  ☆ それは それこそ 《必要悪》についてのしっかりとした《認識》が足りないときに起きる現象でしょう。  

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.2

自らの屁理屈に凝り固まっているのは、誰が見ても分かる。 どちらかと言うと病院で診断を受けるべきであろう。 いちばんのツッコミどころは、宗教に対する定義づけが甘すぎるという事です。 まあ、鳩山や福島瑞穂が路地裏で独り言をつぶやいているようなもんですな。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。それは わるかったね。

回答No.1

霊体離脱と一般にいわれる処方と同質の観念世界への入場を果たすと、その観念世界は、現実世界で五感を確認するのとまったく変わらない実感を伴うよ。 その神の世で、自らが化身した精霊セレビィとなって同じポケモン仲間と遊んでいる。 これは、君達には私の一人遊びだと言っておかなければならないな。 観念世界でも、他者の意思を確認できるよ。 一人遊びでも、人形遊びじゃない。 世界で遊ぶんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 霊体離脱と一般にいわれる処方  ☆ わたしはこれを議論するほど 物好きではありません。  ★ 観念世界  ☆ これは 現実のモノゴトからは一たん切り離された言葉=概念 の世界 つまりは 一般に想像の世界のことです。何も特別な世界ではありません。  そのほかの文章は 哲学の内容としてわたしには 通用しません。

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    0. 標題のごとくに自負して考えるのですが なお仮説ですので よろしくご教授ください。 疑問については是非ぜんぶお知らせください。 神論は その問い求めによって 世界におけるわれわれ人間の立ち位置が現実によく分かるようになるのだと思いますが どうでしょう。 神の世界に相い向き合うからだと思われます。 1. 神は 《人間の知性を超えている》。 2. 人間の知性で分かったと主張するその神は 人間がつくった――観念の――神に過ぎない。 2-1. そもそも その《分かったということ》は証明し得ない。その否定も じつは証明し得ない。 3. 人間の知性で分からない(不可知だ)と説く神は これも 人知でそのようにつくっている(決めつけている)。 3-1. 不可知とは 知り得ないと証明し得て初めて言えるもの。知り得ないと証明し得たなら 或る意味で人知の範囲内だ。 4. 人知を超えたところとは 《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》です。 ・ 可知(既知&未知)&不可知 に対して 非知 5. 非知なるものは 非経験(その場ないしチカラ)であり 絶対性および無限である。 ・ 経験    に対して 非経験   (自然および経験)  (超自然および超経験) ・ 相対性   に対して 絶対性 ・ 有限    に対して 無限 6. 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもとのままの無限であることを言う。 6-1. 一神教か多神教かまたは汎神論かの――神の数にかんする――問いは 無意味である。 6-2. すべては――やほよろづの神々はみな――《全体として一つの神・ただ一つの柱で全体をふくむ普遍神》の分身であるゆえ。 7. 絶対性とは 《何ものにも拠ることなく ひとり満ち足りているもの》を言い それと相対世界とは 絶対のへだたりがある。 8. 非経験は たとえば《有るか無いか》という規定が適用される経験的な事象(事物および現象)を超えている。 8-1. 《有る》と《無い》とを超え しかも両状態をおおいつつむ。 8-2. 《有ると無いとが つねに――つねにである――重ね合わせになっている》。 9. 事物が有るか無いか つまり 現象が起きたか起きていないか つまり ものごとの因果の関係として捉えられること(そして その知性)を超えているのが 非経験・絶対性・無限である。 10. 人間は このように《人知を超えているものを人知で推し測っている》。 11. 人知で捉え得たと思っている神について ひとはいろいろ忖度する。 11-1. 余計なことはやめろと言われても 余計か本計かを究めあぐねる。 11-2. 忖度するような対象ではないと考える向きは 端的に言って《無い神〔という神〕》が 心にいだかれている。cf. [8-2]。 12. 忖度のいろいろは こうだ: ① その属性として:    〔つねに真偽をまぬかれない人間の主観真実を超えた〕真理    〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム)    〔相対的な美醜を超えた〕美    〔愛憎を超えた〕愛(アガペー)    〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能 ② 絶対性からそれを擬人化して:絶対者 ③ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主(非経験と経験世界とは絶対の                   へだたりがあることを言っている) ④ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理(因果律を超えているチカラ                      による人間への因果応報なる説) 13. 神についての忖度は すべて おのおの心の内面に主観真実としておさめている限りは 自由である。良心・信教の自由。 13-1. 神についての忖度――神観――が 良心・信教の自由のもとに自由であり それとして主観真実におさめられることを 《特殊絶対性》と言う。一般性とは別次元にある。 13-2. 忖度に成る神観を成るたけ避け一般性を問い求め得た神論は 《一般絶対性》なる理論であり これを個人として抱くゆえ 《個別絶対性》とよぶ。 13-3. 神観が 或る種体系的な神学となりこれがオシへとされ得る。さらにしかもオシへが神と同等のものだと説く場合がじんるいの歴史にあった。そのような神学ないし自称神論はアウトである。人間が神をこしらえている。《文字もしくは聖なる書》という偶像が建立される。 13-4. オシへを神と説くシュウキョウというシュウキョウは その説くという発想が無意味であり ぜんぶアホンダラ教である。 14. なお《一般絶対性かつ個別絶対性》の具体的なあり方は 次のように図示できるはずだ。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我(生命性)   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如(生命性‐生命体一如)    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然および〔その依り代としての〕自然)    霊:われ(自然本性 + α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:タオ(?)    人:われ 14-1. 個別絶対性とは 信仰である。《非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。 14-2. 《信じる》は 《感じる・考える》を超えている。言いかえると 《信じている》ときに《感じ考える》ことを同時におこなえる。無思考や思考停止ではない。 14-3.  【梵・仏・霊】  :信じる(生命性):非思考の庭 ------------------------ 【我(霊の分有)】:考える(知性) :思考の緑野           感じる(感性) :感性の原野

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 《まだ知られていない》には未知と不可知と非知がある

     1. 《既知》ではなく《まだ知られていない》という場合 そこには 未知と不可知と非知とがある。  2. 《まだ知られていない》が いづれ――推量なのですが――《知ることが出来るであろう》と見なす場合は 《未知》です。  3. 《未知》の中で これこれの問いはどうも正解が見つからないし その知り得ないことが証明されたという場合 これは 《不可知》です。知り得ないと知った そこまでは知り得ている。  4. 《未知》ではあるが それと同時に 《いづれ知ることになるだろうとも言えない》場合 これを《非知》と呼ぶとよいはずだ。  5. 《いづれ知ることになる》とは決して言えない場合というのは 《絶対》の領域のことだ。この経験世界を超えた場のこと。  6. 経験的で相対的で限りあるその生と能力が移ろいゆかざるを得ない人間にとって 絶対は いつかはそれを知ってやろうと思っても 無理である。仮りに 無理でなく知ったという場合には その人はみづからが絶対なる存在になったことになる。あり得ない。  7. ただし・ぎゃくに絶対なる場は 《知り得ない》か? と言えば それについての答えも分からない。というのが 人間の成し得る自然な理解である。  8. 知り得るか? も分からないし 知り得ないか? についても分からない。しかも この二つのことが 同時に成り立っている。これが 非知だ。  9. まとめよう。《知り得るか 知り得ないか いづれとも知り得ないナゾ》 これが 非知だ。  10. 言いかえると ひょっとすると 人はこの絶対――神のことだが――を知り得るかも知れない。そのとき同時に 知り得ないかも知れないと認識していれば 成り立つ。  11. 知り得るとも 知り得ないとも どちらか一方にだけ片寄った捉え方をまぬかれていれば その神を人間は如何ようにも 捉えて間違いではない。  12. 《無い神》を同時にみとめつつ《有る神》派に立つことは 可能である。そのぎゃくも 然り。  13. 《非知》からみちびいたこの《普遍神》にもとづくなら わたしたちが 《これこれなる神のみ》と暴言する・かの宗教から完全に自由になること 請け合いである。世界は どれだけ富士山の日本晴れになることか。  ☆ どうでしょう?

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。