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シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である

 1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界      非経験の場  2. 非経験の場とは 非知として想定されている。    人間の現実      経験世界(経験事象)         可知(可感をふくむ)            既知            未知         不可知(知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この現実を持って生きる。それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引く補助線である。  7. かくて たとえば非知すなわちふつうに言う神は 不可知であると見た人がいる。けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  8. 神は感じるものだというシュウキョウもある。それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。それしかないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  9. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または われひとり)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張るインチキ宗教である。  10. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説くシュウキョウがある。これは 悪しき無限に落ち入る。落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。これも 補助線を神そのものと見なしているからには アホンダラ教である。  顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

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回答No.3

そうそう、 人間の脳は、「夢で見た」、「本やTVでこの光景を見た」、「他人から話を聞いた」などの記憶の捏造すら行ないます。  ───デジャブ体験の正体は、これ、らしい─── 自分をダマシ、納得させるためなら、何でもやるものらしい(笑い)。 神さまを見せたり、神さまの声を聞かせたり、怪しの現象すら引き起こす!! 一心不乱に強く願うものを見せたりもする!!

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  ◇ 神さまを見せたり、神さまの声を聞かせたり、怪しの現象すら引き起こす!! / 一心不乱に強く願うものを見せたりもする!!  ☆ これは 常民と言いますか――この言葉を用いたのは 誰でしたっけ(たしか 宮本常吉だかの後援者?)――にとっての神と信仰にかんしては そういった特殊な情況や非常事態の問題を持ち出しても あまり効きません。  なにしろ日から日への生活 これがきわめて強い基盤となっています。    あるいはもっと話を広げると 縄文時代は 一万年つづいたのですよ。  この歴史の重みは 大きいはずです。だから アニミズムが大きく残っているという側面もありますが それとは違って 人間の暮らしというものが あたかも土地に根を張ったかのごとく しっかりと安定したものとなっている。はずなのです。その中に 神も息づいています。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・記憶の捏造すら行ないます。  ───デジャブ体験の正体は、これ、らしい───  自分をダマシ、納得させるためなら、何でもやるものらしい(笑い)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 少々言葉はわるいですが こういうヨーロッパ系のアマテラス科学語のお話を聞くと どうも小手先の能書きであるように思えてしまうんですよねぇ。  縄文土器の生活が 一万年つづきました。この地層は おろそかに出来ません。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

B様、こんばんは。 >「顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか? 」 B様一流の、反語と見ました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.8

二番の非知についてですが、知り得るか知り得ないかが知り得ない、これはつまり、知りえるかもしれないが知り得ないかもしれない、という可能性についての言及と見て良いのでしょうか。それとも、可能性があるかどうかすらも知り得ない、絶対的に知り得ないことを示しているのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 二番の非知についてですが、知り得るか知り得ないかが知り得ない、これはつまり、知りえるかもしれないが知り得ないかもしれない、という可能性についての言及と見て良いのでしょうか。  ☆ はい そうです。  言いかえると 《知り得るかも知れない》ということは ひとりの人間の主観の問題だとなります。  誰かが おれは神を見たのだと言った場合 それは 有り得るわけです。同時に そんなことはあり得ないとも言える。そういう問題になります。  言いかえると 主観内面におさめられているなら そのこと――つまり《非知》をわたしは知ったのだ・感じたのだということ――は それとして認められることになります。  ただし そこまでです。その主観(センス)を共同(コモン)化することは かなわない。常識(コモンセンス)には成れない。なぜなら 成ったとしても それは 神についてや神を見たということについてのさらに仮りの表現としての補助線でしかないからです。  《〈見た〉という視覚そのこと》と《〈見た〉と表現すること》とは 別だからです。  《神を見た》なる主観が 共同化されたとしても それは 補助線が共有されたにとどまります。《わたしは見ていない》という別のひとの主観も 共同化され得ます。補助線としてです。ただそれだけのことになります。  ★ それとも、可能性があるかどうかすらも知り得ない、絶対的に知り得ないことを示しているのでしょうか。  ☆ ですから 可能性があると言えるわけですが この場合の可能性というのは やはり微妙です。  可能性があって 神を見たと或る主観が言いうる。けれども そこまでの可能性だということになりますから。主観内面におさめられそこにとどまるという性質にかぎられた可能性だと思います。  《絶対的に知り得ない》とは言えないわけです。断定することはできない。  となると思います。

回答No.7

だらだらとまた投稿するよ。 信仰は個人的な事柄であることは理解している。 しかしだ、神の神殿を立ててこそ文明のあかしなのだ。 人の共生に神は付いてくる。 その点の整合性も私は考察に値する課題だと思うな。 私は神を信じる。 その一言を打ち明けるだけでお互いに兄弟になり。 いかに神を言い表そうと、兄弟の信を揺らがせない。 人と人が信じ合う事はこういう理想を思い描くよ。 あんたは信じると言えば神の事だと以前私に言ったが、確かに信じることは、人と人の間でも神が仲介する。 それから、共生の証たる神は、それだけだと善神だ。 このよき神は、時にあらぶれ悪魔に姿を変える。 すなわち善神と言う定義で、神について判った気になっても間違いだ。 以上は以前からしている君の問題定義に対して、私もそれなりの宿題としているからだ。 自らが知るためであり。 君に教えてやるためではない。 まあ、お互い哲学がんばりましょうや。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  ★ 神の神殿を立ててこそ文明のあかしなのだ。  ☆ だから 神殿は オシエと同じく 神本体を理解するために人間が引いた補助線であると言っています。  ★ 確かに信じることは、人と人の間でも神が仲介する。  ☆ これも 補助線――あるいは神の依り代――どうしの間での出来事。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~  それから、共生の証たる神は、それだけだと善神だ。  このよき神は、時にあらぶれ悪魔に姿を変える。  すなわち善神と言う定義で、神について判った気になっても間違いだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも 補助線――仮りのものごと――としての問題である。いろいろ語るのも 補助線。  すべては補助線なりとさとるのは 空(シューニャター:空っぽ)という見方です。

回答No.6

あんたの非経験という認識だけ一言いっとくよ。 観念世界で、その地に足を踏みしめ生きている事を自覚する私だ。 その世界で目の当たりにした事は、私にとって経験だ。 これは常識と違う定義だね。 夢は垣間見るだけでけでは経験でないのが常識だ。 垣間見るだけならば、私もその通りだと思う。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まぼろしを見たというのは それとしての経験です。  現実でないものを見たという経験です。  マチガイを侵したというのも 現実の経験です。  夢は夢という現実です。

回答No.5

No.4をすこし修正します。 【修正箇所】 ですが、オシエとしての《シュウキョウ》の部分では、こうしたことは起きるのではないでしょうか。 【修正】 ですが、オシエとしての《シュウキョウ》以外の部分でも、こうしたことは起きるのではないでしょうか。 物理の世界では、 葬ったはずの《えーてる》が、《場》という言葉として、あらたな《えーてる》となって復活した。 所詮、《場》も《ヒモ》も現象説明のための仮説に過ぎないのに、これをあたかも実在として見なしたりする(ニコニコ)。 そして、 私のような変な《バカの飲み薬》を飲み、これに酔っ払っている人間は、 私とは異なる《バカの飲み薬》を飲んで酔っ払っている(?)人間を、どこか醒めた(?)目で冷やかに見守る。 「自分も《バカの飲み薬》を飲んでいるのに」です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  了解できていたと思います。  ◇ 物理の世界では、 / 葬ったはずの《えーてる》が、《場》という言葉として、あらたな《えーてる》となって復活した。  ☆ そうなんですか。それを知らずに 日本教の特徴としてのクウキ教を エーテル教とも自然なかたちで言っていました。  ◇ 《バカの飲み薬》  ☆ そう言えば わたしにはまだ使い勝手が いまいち分からない。ようにも思います。

回答No.4

☆☆ 意外とマイナス志向のようでもあるのですね。あるのですか? ◇いえいえ、 そこから一歩前進するために、動き出すために、 とりあえず、ネコダマシ、飴玉が必要ということです。 けっしてネガティブな意味で書いたわけではありません。 ただ、この子供だまし、ネコダマシ、飴玉の効果はいつまでも続かない。 いつまでも同じ飴玉が通用するものでもない。 また、同じ場所に満足し、そこに安住してもいけないのでしょう。 それでは、いずれ、喋るタコ壺になってしまうでしょうから♪ あくまで、「とりあえず」で、「泣く子を黙らす飴玉」です。 ☆☆ ううーん。そうですね。 ◇「すべてマヤカシである」というつもりはありません。 極限状態においては、こうしたマヤカシが起こりやすい、と言っているまでです。 分からないことは、とりあえず「括弧付き」のままにしておき、それを積極的に肯定も否定もしない、というのが私のスタイルです。 私は、決して超自然的なことや話も否定しません。 「そういうことがあるかもしれませんね」という姿勢をとり、そして、両者で合意できる点を起点として話を進める。 あまりに荒唐無稽な作業仮説に対しては噛みつきますが、 他人のフンドシや土俵で相撲をとることも厭いません。 ☆ いや ちょっと待った。認識してそのモノゴトに名前をつけること――あるいは ウタにして自己表現すること――と 《シュウキョウ》とは別ですよ!!!! ◇もちろん、《シュウキョウ》とは別です。 ですが、オシエとしての《シュウキョウ》の部分では、こうしたことは起きるのではないでしょうか。 言葉を与える、あるいは、言葉で定義することによって、その何だか分からないものの正体が分かったような気分になってしまうこともあるでしょうし、 その言葉で語られるそもそもの対象とは異なる、概念をその対象と混同してしまうこともあるのでしょうね。 《イドラ》には気をつけないといけない。 ☆ いや ちょっと待った。認識してそのモノゴトに名前をつけること――あるいは ウタにして自己表現すること――と 《シュウキョウ》とは別ですよ!!!! ◇酔いにも、 自己を常識や偏見などから解放し、自由で朗らかな気分にさせる、良性の酔いもあれば、 悪酔い、二日酔いなどの悪い酔いもありますよ。 《シュウキョウ》にしても、上から強圧的、教条的に与えられるものもあれば、 自身の内面から自然と湧き上がる、《シュウキョウ》以前のものもあるのではないですかね。 そして、 後者のものは、不可知なものなどに対する自然な畏怖の念、オソレなんでしょう。 私は、後者の自然心性・素朴心性に対するそれを否定したり、蔑んだりするつもりは毛頭ございません。 それはあって然るべきであり、むしろ、ない方がおかしい、あるいは、傲慢であると思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ただ、この子供だまし、ネコダマシ、飴玉の効果はいつまでも続かない。 / いつまでも同じ飴玉が通用するものでもない。  ☆ ええ。その点をちょっとこだわりました。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  もちろん、《シュウキョウ》とは別です。  ですが、オシエとしての《シュウキョウ》の部分では、こうしたことは起きるのではないでしょうか。  言葉を与える、あるいは、言葉で定義することによって、その何だか分からないものの正体が分かったような気分になってしまうこともあるでしょうし、  その言葉で語られるそもそもの対象とは異なる、概念をその対象と混同してしまうこともあるのでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう名づけや言いたかったことをうまく表現してくれたというような語句や文章を 聖典に見つけるということは そのようにあって当然なのですが しかもシュウキョウ組織のほうに言わせれば それはあくまで〔かれらの言う変なかたちの〕信仰にもとづいてこそ意味があるというふうに言うに決まっています。と思ったものですから 区別しないと大変なことになるのではないかと。・・・  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  《シュウキョウ》にしても、上から強圧的、教条的に与えられるものもあれば、  自身の内面から自然と湧き上がる、《シュウキョウ》以前のものもあるのではないですかね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは心の底より組織宗教をうたがっていますので そういう・あって当然の自然の姿・内面の息吹きについても 宗教組織は教条的に見て この組織の説く信仰があったればこそ そういった恩恵に浴することができるのですよとか何とか 口を出して来ると思うのです。  つまり 組織宗教にあっては オシエが――変なかたちで信仰に結びつけられたオシエが―― すべてであって これによって雁字搦めになっているのではないかという邪推を捨てきれません。  ◇ 私は、後者の自然心性・素朴心性に対するそれを否定したり、蔑んだりするつもりは毛頭ございません。 / それはあって然るべきであり、むしろ、ない方がおかしい、  ☆ ありますよ。いくら 組織の一員として《活動》していても 個人としてのわたしの固有の時を持つことはあります。そのとき 組織やそのオシエから自由な心の時間が自然の流れとなって《わたし》におとづれるでしょう。  ただ でも たぶん組織のお偉い方たちは それをシュウキョウから切り離しては見ないのではないか? という懸念です。

回答No.2

ついで、ついで。 デジャブ・既視感なんて、 「人間の脳には、脳の暴走、パニック状態を未然に予防するための、こうした機能」のなせるワザらしいですよ。 これまで経験したことのない、もの凄い光景などを目にしたりして脳が驚き、思考停止状態などに陥ったりすると、恒常性を取り戻すために、こういうトリックを行って、自分自身(脳)を騙すらしい。こういう恒常性回復機能が人間の脳には備わっているらしい。 言葉を失うような茫然自失の状態というのは、外敵に襲われる危険性が飛躍的に高まるので、自身の生存にとって非常に都合が悪い。 であるから、 脳は自分自身すら騙して、この危ない状態を回避し、安全な状態に戻ろうとするらしい。 「人間の脳というのは、かなりの曲者、食わせ者」というお話でした。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  ◇ 脳  ☆ ですか。そうですね。  同意の意を 記憶という行為能力のことでつづります。  つまり 記憶というのは 知識や情報の整理整頓といった秩序作業だと思うのです。しかも われわれの意志を超えて ひとりでにやってくれます。  ◇ 「人間の脳というのは、かなりの曲者、食わせ者」というお話でした。  ☆ ええ。承りました。

回答No.1

こんにちは。 ☆3. ひとは この現実を持って生きる。それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。 ◇分からないままだと、ひとは、怖くて不安になるのではないか。 この不安な状態を解消するために、人は、何でもいいから理由付けやコジツケをして、今の状況などを納得しなければならないのであろう。 人間の脳には、脳の暴走、パニック状態を未然に予防するための、こうした機能が備わっている、と言われています。 みずからの行いが悪いためにこの様な悲惨な目にあった、 神さまの気まぐれやイタズラ、 サダメや運命、 地中に眠っていた大ナマズが暴れて地震が起きた、 今日の朝ご飯に食べた目玉焼き、昨日の夕食に食べた魚の祟りだ、 などなど、 荒唐無稽なものであったとしても、とにかく、自分を納得させる、あるいは、自分を騙せるものならば何でも良い。 それだけで、精神は落ち着き、冷静さを取り戻すんですよ。 また、生死に直接関係するような極限状況では、 人は自分以外の他者の存在、たとえば、天使や神さまといった《怪(あや)し》の存在を感じたり、感じやすくなったりする。 そして、 絶体絶命の状況を見事切り抜け、助かった人は 「神の導きがあった、天使の声がしてそれに導かれ、九死に一生を得た」 なんて言ったりする。  ───間違った導きに従った人は御陀仏なので、結果、正しい導きに従った人だけの証言になる(笑い)─── こういう機能が人間の脳に備わっているらしいんですよ。 脳科学の研究者の中には、 「右脳がそのようなビジョンを作り、論理などを司る左脳に語りかけているんだ」 と主張する人もいます。 さらに、 はじめて遭遇したそれまで見たことも聞いたこともない物や現象に名前を与えると、 人はその物や現象に対する怖さや薄気味悪さが減少したり、無くなったりするんですな~。 さらに、童謡や童歌(わらべうた)のように、怖い物や薄気味悪い物を 「でんでん虫、むし、かたつむり♪」 などと囃したり、冷やかし、バカにすることによって、怖くなくなったりする。 言霊の力は絶大なんです。 ~~~~~~~ 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり 古今和歌集・仮名序 ~~~~~~~ とある通り、 本当に  「心をもなぐさむる」 ものなんです。 ☆5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。 ☆6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引く補助線である。 ◇言葉にすることによって、非知であろうが何であろうが、形而下に引きずり下ろせる。 すると、もう怖くない(ポリポリ)。 安心できる(笑い)。 好き勝手な事をできる、言える。 補助線なんて高等な言葉を使うのは、頭のいい(?)人の言うことです。 宗教という《バカの飲み薬》を飲むことで安心できる人は、そういう難しいことを言わない(ポリポリ)。 ☆8. 神は感じるものだというシュウキョウもある。それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。それしかないと言い張るなら あしきシュウキョウである。 ☆9. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または われひとり)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張るインチキ宗教である。 ◇自分だけではなく、他人も欺くことができる。 さらに、うまくゆけば、ボロい商売にさえなりうる(笑い)。 ☆10. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説くシュウキョウがある。これは 悪しき無限に落ち入る。落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。これも 補助線を神そのものと見なしているからには アホンダラ教である。 ◇《バカの飲み薬》ですから。 そして、 ブラゲロも、ネムネコも、新たな《バカの飲み薬》を密造し、これを飲み《バカ》と化す(ニコニコ)。 宗教という《バカの飲み薬》を飲みつづけている人と、どちらがより酔っ払っているのか、分かったものじゃない(笑い)。 これだけで人を殺すことができるのですから、 言葉や概念というものは、恐ろしいですな~♪ 常に、 「(オレも他人も)もっともらしい事を言っているが、どうだか怪しいもんだ」と、 一歩下がって、引いたところから、反省的に顧みることが大切なんじゃないですかね。 では。では。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  分からないままだと、ひとは、怖くて不安になるのではないか。  この不安な状態を解消するために、人は、何でもいいから理由付けやコジツケをして、今の状況などを納得しなければならないのであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 意外とマイナス志向のようでもあるのですね。あるのですか?  つまり 昔から――プラス志向において―― われらが人間さまの夢は 不老不死だと相場が決まっています。もう少し現実的に言えば お前百までわしゃ九十九までといった願いです。  ☆☆ それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  また、生死に直接関係するような極限状況では、  人は自分以外の他者の存在、たとえば、天使や神さまといった《怪(あや)し》の存在を感じたり、感じやすくなったりする。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。そうですね。わたしは NHKで新日本風土記という番組を見ているのですが 山里に暮らす人びとは無論のこと それらの人びとに限らず 町や村で年に一度の祭りを祝うときなどに特に現われるようですが やはり・ともかく・単純に・理屈抜きで日本人は神社なら神社で手を合わせて首を垂れる。ようです。  つまり言いたいことは 常日頃からだと こういう絵を見続けていると 思わざるを得ないのです。日から日への生活において すでに体に染みわたっているように思えます。決して極限情況だけの問題ではないと思われるのですが どうですかねぇ。  そういう――日常性とその継続という――意味でも プラス志向が定着している。のではないか。  マイナス志向は ブディズムの暗い暗い・もひとつおまけに暗あ~い雰囲気の影響だと見られます。楽しい顔をしたら いけないし 叱られるといったような。これも アホンダラ教の特徴ではないか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  絶体絶命の状況を見事切り抜け、助かった人は  「神の導きがあった、天使の声がしてそれに導かれ、九死に一生を得た」  なんて言ったりする。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 宇宙飛行士の体験報告みたいですね。  山奥に暮らす日本人たちは 《神の導き》だとか《神の功徳 いや違った 何て言いますか めぐみですか》だとかは 考えていません。ただ体が動いて生活をいとなめて行けるなら 万々歳なんです。  そういう生活の神なんです。それが 非知だと思います。(親鸞のアミターバ・ブッダも 名は違っても 同じです。自然法爾です)。    ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  脳科学の研究者の中には、  「右脳がそのようなビジョンを作り、論理などを司る左脳に語りかけているんだ」  と主張する人もいます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ねこさん 眠っていないぢゃないですか。こういうのは 小賢しいとか言うんぢゃなかったですか? いかにも理屈理屈しています。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さらに、童謡や童歌(わらべうた)のように、怖い物や薄気味悪い物を  「でんでん虫、むし、かたつむり♪」  などと囃したり、冷やかし、バカにすることによって、怖くなくなったりする。  言霊の力は絶大なんです。  ・・・  本当に  「心をもなぐさむる」  ものなんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあたりのことは 同意します。そういうことなのでしょう。  ◇ 補助線なんて高等な言葉を使うのは、頭のいい(?)人の言うことです。 / 宗教という《バカの飲み薬》を飲むことで安心できる人は、そういう難しいことを言わない(ポリポリ)。  ☆ ありゃあ。あちゃちゃあ。  いや ちょっと待った。認識してそのモノゴトに名前をつけること――あるいは ウタにして自己表現すること――と 《シュウキョウ》とは別ですよ!!!!  まぁ それでもシュウキョウを出すというときには それは オシエを文学・思想の作品として読むときです。シュウキョウから切り離して扱うときです。けれども シュウキョウはこのオシエを信じなさい――無条件に受け容れなさい――と言います。オシエとあやまった信仰とは ひとつにつなげられています。  よほどオシエから切り離して読んだりするのでないと ほんとうの《バカの飲み薬》になってしまいます。  ◇ 自分だけではなく、他人も欺くことができる。 / さらに、うまくゆけば、ボロい商売にさえなりうる(笑い)。  ◇ 宗教という《バカの飲み薬》を飲みつづけている人と、どちらがより酔っ払っているのか、分かったものじゃない(笑い)。  ☆ これも 区別して欲しいなぁ。  神をめぐる物語としての純然たる芸術作品があって  これを酔狂にも信じるべきオシエとして組織をつくり聖なる秩序階層を築きおれたちの言うように信じよというシュウキョウが あくまで文学作品とは別にある。  そうして 世界中の思想を点検してより良い思想として生きる方針とするわれわれのイトナミがまたある。  区別して欲しいなぁ。真ん中の行き方だけですよ バカの飲み薬は。  ◇ これだけで人を殺すことができるのですから、 / 言葉や概念というものは、恐ろしいですな~♪  ☆ だから 言わんこっちゃないぢゃないですか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  常に、  「(オレも他人も)もっともらしい事を言っているが、どうだか怪しいもんだ」と、  一歩下がって、引いたところから、反省的に顧みることが大切なんじゃないですかね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それはそうですが もっと楽な方法があります。  互いに自由に――自由にです――絶えず批判し合ってすすむこと これです。  おのれの反省で見直すことが出来ると思うのは まだ一歩下がっていません。  批判しあおうという精神こそが へりくだりです。とうとい。  つづいても回答をもらっています。

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  • シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である

     1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界 (相対・有限)      非経験の場 (絶対・無限)  2. 非経験の場とは 人間の知性という観点からは 《非知》として想定されている。    人間の現実      経験世界 (経験事象)         可知 (可感をふくむ)            既知            未知         不可知 (知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この広い意味での現実を持って生きる。それは言うなれば 《非知》へのあこがれのもとにある。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。《考える》ものである。  5‐1. むろん 《非知》はそれを われわれがおのおのあたかも生まれつき持っていたかのようなあこがれとしてただ受け容れるに過ぎない。《考える・また感じる》を超えているので 《信じる》という言葉で表わす。あこがれの園を《信じない》というのは 《信じないと信じた》ことである。    《わたし》なる人間の知性もしくは霊性      非知     = 信じる:非思考の庭      --------------      可知・不可知= 感じる:感性の原野                 考える:思考の緑野  5‐2. ブッダとなることは 経験行為である。多少は知性がついたという状態である。ところが ブッダター(仏性)あるいはつまりアートマン(霊我)は 非知なのだ。  だから 霊とも言う。だから ただあこがれとして理屈抜きに受け容れるのみである。考えても分かるわけがない。分かるか分からないかが分からない。――そのような非知として想定しているのだから。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引くその補助線である。非知を神とすると その神の霊の依り代なのである。いくら聖なるオシエだと言っても 認識知は 考えるものであって 神としてはお呼びではない。  7. ところが・かくして オシエを神として信じるという場合がある。  7‐1. たとえば非知すなわちふつうに言う神についてそれは 不可知であると見た人がいる。  けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  7‐2. 神は感じるものだというシュウキョウもある。  これは それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。補助線であっても補助線だと知っていながらも その補助線たる神しか神はないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  7‐3. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。  それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または ひとりのわれ)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張る場合。その代理人が みづからを神の補助線だと言い張り その補助線の言うことは 神の言葉であるというタワゴトにまで発展する。ローマ法王が かつてそうであった。  7‐4. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説く恍(とぼ)けたシュウキョウがある。  これは 悪しき無限に落ち入る。《未知》には 答えはない。つねにあたらしい未知が現われる。  そのようなあしき無限に落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。未知も既知もまた不可知もみな われわれが《考え認識すべき経験事象》である。これを信じるとは言わない。    8. これらすべては 神の補助線を神そのものと見なしているからには 単純にみなアポコロキュントーシスであって すっとこどっこいのアホンダラ教である。  9. われわれが顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

  • 不可知とは どういうことですか?

    不可知とは どういうことですか?  不可知とは どういうことか よく分からなくなりました。たすけてください。  世の中には いまは未知だがいづれ人間の科学の力で知るようになるという場合を含めて 可知の領域があると考えられます。  では 不可知とは どういうことを言うのでしょう?  経験世界は すべてけっきょく可知なのではないですか? ですよね?  そして経験世界を超えるところは 不可知なのではなく そうではなく 《可知か不可知かどちらであるかが分からない》のではないですか?  あるいは別の言い方で問います。  何かが不可知だと分かったとしたとき それは どういう事態なのか? 可知の領域に限界があると知られたことですか?  その限界とはいったいどういうことですか? 可知の世界について限界があるのを知ったとはどういうことですか?   さらに問いかえるなら 可知の世界の限界が分かってその限界を超えたところが 不可知だとするというのですけれど なぜそれが不可知だと分かるのですか? なぜ未知であるだけではないと分かるのですが?   

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 《まだ知られていない》には未知と不可知と非知がある

     1. 《既知》ではなく《まだ知られていない》という場合 そこには 未知と不可知と非知とがある。  2. 《まだ知られていない》が いづれ――推量なのですが――《知ることが出来るであろう》と見なす場合は 《未知》です。  3. 《未知》の中で これこれの問いはどうも正解が見つからないし その知り得ないことが証明されたという場合 これは 《不可知》です。知り得ないと知った そこまでは知り得ている。  4. 《未知》ではあるが それと同時に 《いづれ知ることになるだろうとも言えない》場合 これを《非知》と呼ぶとよいはずだ。  5. 《いづれ知ることになる》とは決して言えない場合というのは 《絶対》の領域のことだ。この経験世界を超えた場のこと。  6. 経験的で相対的で限りあるその生と能力が移ろいゆかざるを得ない人間にとって 絶対は いつかはそれを知ってやろうと思っても 無理である。仮りに 無理でなく知ったという場合には その人はみづからが絶対なる存在になったことになる。あり得ない。  7. ただし・ぎゃくに絶対なる場は 《知り得ない》か? と言えば それについての答えも分からない。というのが 人間の成し得る自然な理解である。  8. 知り得るか? も分からないし 知り得ないか? についても分からない。しかも この二つのことが 同時に成り立っている。これが 非知だ。  9. まとめよう。《知り得るか 知り得ないか いづれとも知り得ないナゾ》 これが 非知だ。  10. 言いかえると ひょっとすると 人はこの絶対――神のことだが――を知り得るかも知れない。そのとき同時に 知り得ないかも知れないと認識していれば 成り立つ。  11. 知り得るとも 知り得ないとも どちらか一方にだけ片寄った捉え方をまぬかれていれば その神を人間は如何ようにも 捉えて間違いではない。  12. 《無い神》を同時にみとめつつ《有る神》派に立つことは 可能である。そのぎゃくも 然り。  13. 《非知》からみちびいたこの《普遍神》にもとづくなら わたしたちが 《これこれなる神のみ》と暴言する・かの宗教から完全に自由になること 請け合いである。世界は どれだけ富士山の日本晴れになることか。  ☆ どうでしょう?

  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 一般および個別絶対性理論 (神論です)

    一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 存在を想定してなお模索する。ご検証を。 0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒7‐B。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本的に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒(#0) 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。  経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)   可知(認識しうるものごと)     既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)     未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)   不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得るが)  非経験の場(絶対性)   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心) --------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)       / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。         * 15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2.シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。

  • 神論のエセンスは これだ

    0. 標題のごとくに自負して考えるのですが なお仮説ですので よろしくご教授ください。 疑問については是非ぜんぶお知らせください。 神論は その問い求めによって 世界におけるわれわれ人間の立ち位置が現実によく分かるようになるのだと思いますが どうでしょう。 神の世界に相い向き合うからだと思われます。 1. 神は 《人間の知性を超えている》。 2. 人間の知性で分かったと主張するその神は 人間がつくった――観念の――神に過ぎない。 2-1. そもそも その《分かったということ》は証明し得ない。その否定も じつは証明し得ない。 3. 人間の知性で分からない(不可知だ)と説く神は これも 人知でそのようにつくっている(決めつけている)。 3-1. 不可知とは 知り得ないと証明し得て初めて言えるもの。知り得ないと証明し得たなら 或る意味で人知の範囲内だ。 4. 人知を超えたところとは 《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》です。 ・ 可知(既知&未知)&不可知 に対して 非知 5. 非知なるものは 非経験(その場ないしチカラ)であり 絶対性および無限である。 ・ 経験    に対して 非経験   (自然および経験)  (超自然および超経験) ・ 相対性   に対して 絶対性 ・ 有限    に対して 無限 6. 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもとのままの無限であることを言う。 6-1. 一神教か多神教かまたは汎神論かの――神の数にかんする――問いは 無意味である。 6-2. すべては――やほよろづの神々はみな――《全体として一つの神・ただ一つの柱で全体をふくむ普遍神》の分身であるゆえ。 7. 絶対性とは 《何ものにも拠ることなく ひとり満ち足りているもの》を言い それと相対世界とは 絶対のへだたりがある。 8. 非経験は たとえば《有るか無いか》という規定が適用される経験的な事象(事物および現象)を超えている。 8-1. 《有る》と《無い》とを超え しかも両状態をおおいつつむ。 8-2. 《有ると無いとが つねに――つねにである――重ね合わせになっている》。 9. 事物が有るか無いか つまり 現象が起きたか起きていないか つまり ものごとの因果の関係として捉えられること(そして その知性)を超えているのが 非経験・絶対性・無限である。 10. 人間は このように《人知を超えているものを人知で推し測っている》。 11. 人知で捉え得たと思っている神について ひとはいろいろ忖度する。 11-1. 余計なことはやめろと言われても 余計か本計かを究めあぐねる。 11-2. 忖度するような対象ではないと考える向きは 端的に言って《無い神〔という神〕》が 心にいだかれている。cf. [8-2]。 12. 忖度のいろいろは こうだ: ① その属性として:    〔つねに真偽をまぬかれない人間の主観真実を超えた〕真理    〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム)    〔相対的な美醜を超えた〕美    〔愛憎を超えた〕愛(アガペー)    〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能 ② 絶対性からそれを擬人化して:絶対者 ③ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主(非経験と経験世界とは絶対の                   へだたりがあることを言っている) ④ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理(因果律を超えているチカラ                      による人間への因果応報なる説) 13. 神についての忖度は すべて おのおの心の内面に主観真実としておさめている限りは 自由である。良心・信教の自由。 13-1. 神についての忖度――神観――が 良心・信教の自由のもとに自由であり それとして主観真実におさめられることを 《特殊絶対性》と言う。一般性とは別次元にある。 13-2. 忖度に成る神観を成るたけ避け一般性を問い求め得た神論は 《一般絶対性》なる理論であり これを個人として抱くゆえ 《個別絶対性》とよぶ。 13-3. 神観が 或る種体系的な神学となりこれがオシへとされ得る。さらにしかもオシへが神と同等のものだと説く場合がじんるいの歴史にあった。そのような神学ないし自称神論はアウトである。人間が神をこしらえている。《文字もしくは聖なる書》という偶像が建立される。 13-4. オシへを神と説くシュウキョウというシュウキョウは その説くという発想が無意味であり ぜんぶアホンダラ教である。 14. なお《一般絶対性かつ個別絶対性》の具体的なあり方は 次のように図示できるはずだ。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我(生命性)   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如(生命性‐生命体一如)    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然および〔その依り代としての〕自然)    霊:われ(自然本性 + α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:タオ(?)    人:われ 14-1. 個別絶対性とは 信仰である。《非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。 14-2. 《信じる》は 《感じる・考える》を超えている。言いかえると 《信じている》ときに《感じ考える》ことを同時におこなえる。無思考や思考停止ではない。 14-3.  【梵・仏・霊】  :信じる(生命性):非思考の庭 ------------------------ 【我(霊の分有)】:考える(知性) :思考の緑野           感じる(感性) :感性の原野

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

    0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。