不可知とは?

このQ&Aのポイント
  • 不可知とは、知り得ないことを指します。
  • 経験世界を超える領域が不可知であり、可知か不可知か分からないとされます。
  • 不可知とは、可知の領域の限界を知った状態を指し、未知だけではないとされます。
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不可知とは どういうことですか?

不可知とは どういうことですか?  不可知とは どういうことか よく分からなくなりました。たすけてください。  世の中には いまは未知だがいづれ人間の科学の力で知るようになるという場合を含めて 可知の領域があると考えられます。  では 不可知とは どういうことを言うのでしょう?  経験世界は すべてけっきょく可知なのではないですか? ですよね?  そして経験世界を超えるところは 不可知なのではなく そうではなく 《可知か不可知かどちらであるかが分からない》のではないですか?  あるいは別の言い方で問います。  何かが不可知だと分かったとしたとき それは どういう事態なのか? 可知の領域に限界があると知られたことですか?  その限界とはいったいどういうことですか? 可知の世界について限界があるのを知ったとはどういうことですか?   さらに問いかえるなら 可知の世界の限界が分かってその限界を超えたところが 不可知だとするというのですけれど なぜそれが不可知だと分かるのですか? なぜ未知であるだけではないと分かるのですが?   

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noname#135843
noname#135843
回答No.12

 続きからでございます。 > ☆ その出来ないという点を取り立てて《不可知》という規定をしてもよいと思いますが 《知り得ないかたちで 解はあるということを人間は知っている。言わば永遠の未知である》と規定してもよいように思われます。  未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。 > ☆ 解を知ることじたいは永遠に不可知であったとしても その不可知の解があることを知っていれば じゅうぶんだ》という余地はもうありませんか? 風邪の原因は分からないのでしょ? 不可知とは言いませんよね?  おそらく、その問題に取り組んでいる一部の物理(数学 or 化学)者以外は、「解(対象)があるというだけで、じゅうぶん」と思われます。少なくとも“安心感”はえられると思われます。 なお、とても細かいことではございますが、“風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%82%AA からでございます) > 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか?  以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96 からでございます)  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。何だか ひどっちさんにとっては 初めから分かっていることであるようにも映り どうしてよいのか弱ってしまいますが――ご回答をまことにありがとうございます―― わたしとしては一つひとつ確実に知るようにしてまいります。  ★ “風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。  ☆ 病因となるヰルスにしても 型がいくつもあり複雑になっていて 処方するすべがむつかしいのだとか。そういうことでしたか。すみません。でもそれを 不可知とは言わないのですよね? 二重のあやまちを侵すかも知れないのですが どこかよく似た事態であるようにも思ったりします。  特定のかたちでなくても解があることは分かっている。けれどもこれを知ることは いまはお手上げである。    ただし  ★ 未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。  ☆ と表現する事態は あまり意味がなかったようですね。いま証明によって不可知だと分かれば そのことが一応 知性を支配する。  ★ ・・・つまり、“電子雲”とは電子がそれぞれの位置に存在する確率の高い領域を示したものとのことだそうです(イメージがつかみにくいのですが)。  ☆ という“ペンタセン(ベンゼン環=亀の甲が5個つらなったものです)”の顕微鏡像の撮影に成功した事例というのは 不可知の壁に迫るものと見てよいでしょうか?  ★ その後、高等数学を用いた手法(“代数的”手法以外の方法)ではございますが、シャルル・エルミートにより、五次方程式が解かれるようになりました(“六次”以上は未だのようでございます)。つまり、別経路の道筋であれば可能であったということでございます。  ☆ という事例もあるのですね。  そして  ★ 原則、解は存在すると考えられます。ただ、量子論の場合、一般常識からは逸脱したものになろうかとは考えております。  ☆ ということなんですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~   ☆ 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか?  以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは   ▲ (ヰキぺ:不可知論) 宗教的には純粋に「神はいるともいないとも言えないのだ」とする公平な中立的不可知論  ☆ の箇所ですね。そうして この記事をわたしも読みまして 回答No.9へのお礼欄で次のようにわたしは反応しました。  ○ どうも《不可知》という訳語がよくないのではないか? それは《非知》――つまりは わたしの用語で《非思考》のことですが――とすると分かりやすいのではないか?  ☆ すなわち こうです。  1. 《絶対》の想定。  2. これを擬人化して 《絶対者》と表わす。さらには 《神》を当てる。  3. 《絶対》の想定は そのまま経験世界を超えた場としてであるので そのまま初めから 《非思考》つまり《思考としての有る無いは超えている》。  4. つまりこのことを 《神はいるともいないとも言えないのだ》と表わしている。  5. すなわち 《 agnosticism 》は 《不可知論》と訳すのではなく むしろ《非知の場 もしくは 非思考の理論》と表わしたほうがよいのではないだろうか?  ☆ となります。わたしとしましては これですっきりしたのですけれど ひどっちさんやみなさんは どうでしょう?

その他の回答 (47)

noname#131237
noname#131237
回答No.48

ほーんと  まあ 信じられない下らなさですねwww こんなことで必死になってもしょうがないのに もう少し大人になりなさい。 ルール違反を繰り返すのはよくないと思います。 いいおっさんが、おとなげないなあwww I) 質問文と回答者の解答内容の間に関係がないということの指摘について あのう すみませんが・・・「過去型」(ANo.48)とは何のことですか? 過去形のことかな?www 常識的( 国)文法も出来ない人が英語を読めないというのはうなずけます。www FormとTypeの区別が出来ない人が、哲学を語ろうとしている時点で何かおかしいと気づいてくださいよ! 高校生の国語の授業じゃないんですからwww もう一度 無脳とheadlessの間の関係を意味的にはっきりさせてみてください。 何でこんな例を引用したかというと 不可知とagnosticの間の意味づけを明確にしたかったからです。(教科書ガイド的な説明文もあなたにとっては難しすぎるのかもしれませんがwww) ] No.44より引用。 >英語のセンスがまったくないというのはいうまでもなく、客観的に見て、上記回答者は、本来の質問と >関係のない議論を展開しています。回答者にひきつけて評価すると、 >文脈にかんがみ、特定の英単語に適切な訳語を当てるという基本的な翻訳能力 も ないというのが、 >動かしがたい短絡的な事実です。 説明文はじめ 高校生レベルの国語能力にも恵まれていない科学者様への説明(趣意) 「質問文にひきつけて解釈した場合、  知ったかぶりの科学者様がwww 関係のない論理展開をしているうえ基本的翻訳能力もない」と言及しているということですが? 英語なんてとんでもない。 日本語の文章の読めない人間が科学を語る資格はないのではないでしょうか? 変な発音の中国人と論文を書いた中国人が同一人物であるというのは、知ったかぶり大名神様の邪推です。勘違いはやめなさい。www 説明文おわり II) 哲学的議題としての模範例及びジャーナリスティックについて Journalとジャーナリスティックの区別がついていないのは貴方だけです。 「論理から事実からすり替えたり無視したり」は、やめてくださいwww。 聞かれたことに回答を与えるのではなく、わたくしにたいする誹謗中傷だけを繰り返し、質問に名をかりた駄文の文面は、低俗であり、(繰り返すようですがwww)論理の自己破綻をしていますよ。 「結果」と「結果を出す」の例証を出しています。 結果には、本来「よい結果」の意味はありません。辞書を引きなさい。結果を出すといいはじめたのは、東スポであり、結果が、よい結果の意味をおびだしたのは、他のスポーツ誌もそろってこの言葉を使い始めたという経験的理由からです。ジャーナリィスティックといっているのは、数の論理で言葉の意味を決めようとしている態度のことをさしていています。 哲学的に見ると、しかし、agnosticの語源は、ギリシャ語語源のラテン語であり、文脈として、本来の語源を検討しないで、たまたま手元にあるポンコツデータを使って何の脈絡もなく「はいはいはい!しってます!ぼくわかります!」と挙手をするという幼稚な知ったかぶり中学生の論理は「学問的ではない」と述べたまでです。 ご自分でも関係はなさそうだと思っても老害で卑屈になってしまって、負けを認めることが出来ない。批判はもう少し柔軟に受け止めるべきです。血圧を上げても自分の害になるだけですよ。気をつけなさい。www >何処にあるか ではなく 自身のない反論ですねwww 何処にあるのか具体的に示していない (というのは¥おいといて とかいうのかしらwww) 要するに あなたがたは、「反論できないので閉めたい」という意思を表明しているようです。 悔しかったら具体的に反論してみなさい。www 私の間違った前提というのを具体的に抜き出してみなさい。(ないものはだせないんでしょうがwww) とりちがえ・無視もそんなにたくさんあるのなら、 具体的に列挙してみなさいwww (できないひとたちwwwばかわいそうwww)

noname#135843
noname#135843
回答No.47

 続きとなっております。 > 「愚症も意見を主張したい」と躍起になっても、学問的事実をひっくり返すことは出来ないのです。  上述から、むしろ、学術的には、私たちの方が学問的事実をついていますが(下記サイトの論文について述べ合っています。つまり、ANo.16でも言及しておりますが、言葉は時代によって変わる。そして、現代では、科学用語としても用いられている ということです。そして、その一例として、この中国人の論文を挙げさせてもらった訳でございます)。 タイトル:「Huxley and scientific agnosticism: the strange history of a failed rhetorical strategy.」 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/12395796 タイトル:「Thomas Henry Huxley and neuroscience」 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/11640239  ですから、何度もいいますが、哲学的議題としての模範例をお示してくださいな。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご質問者様へ  Ano.47の回答を見まして、愕然と致しました。  Ano.25のお礼欄にて、原則ルール違反であるにもかかわらず、 「質問者のわたしからも よろしくお願い申し上げます。? こじれることなく 哲学として 合意に達することができると思います。また そう祈ります。」  と仰っていただきまして、愚生と致しましては、とてもうれしく思いました。今でも、とても感謝しております。そして、ご質問者様の上記意志に沿った形で、tarako様にも接してきたつもりでございます。従いまして、tarako様につきましては、乱暴な言葉使いも避けてきましたし、また敬称も忘れず付けてきたつもりでございます。  ですが、いつの間にか”勝負”となっているありさまとなってしまいました。  愚生の不徳の致す所でございます。誠に申し訳ございませんでした。  そこで、愚生の意見をお待ちいただけるということでしたので、この場をお借りしまして、ご返答申し上げたく存じます。  残念ながら、続けて行く意味はないかと察せられます。誹謗中傷だけの文面となってしまっているからでございます。    誠に申し訳ございませんでした。深くお詫び申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。  わたしも 見込み違いでした。多少は話も噛みあうのかなと思っていましたが 論理から事実からすり替えたり無視したりで このたらこ氏については お互い見る目がなかったようです。  ぎゃくにもう一回投稿の機会を開けておいて(ただし そうですね 二日以上は待ちませんが) そのまま閉め切ろうと思います。  とんだ珍客でした。  またあたらしく出発しましょう。

noname#135843
noname#135843
回答No.46

 こんばんは、ご返答ただきましてどうもありがとうござました。Hidocchiでございます。  tarako様へ > 序論 「不可知という言葉とagnosticの最近の英語用法の間には、関係がない」という指摘をしました。  過去型を使ってらっしゃいますが、どこで指摘をしてるのでしょうか? ANo.44以前では見つかりませんでしたが..... まるで、以前に、述べていたかのように見せかける”オピニオンロンダリング”は止めた方がよろしいかと。余りにも都合がよすぎますよ。 > 貴方の掲げた用例は、agnostic の本来の意味を無視した用法であり、ジャーナリスティックな用語誤認がもともとの原因。  本来の意味とは、ハクスリーのことですよね。無視はしておりません。逆に、結構深く言及しておりますが.....  ジャーナリスティックな用語誤認? では、以下のnativeの論文はどのように解釈すべきでしょうか?   一言述べておきます。Journalとは付いておりますが、別段、出版社がジャーナリスティックな活動・取材をしているのではございません。著者(研究者)が、自分の論文を載せてもらいたいがために、出版社にpublishしてもらうよう、気配りしているというのが実情です。理由は、研究者としての業績評価は、論文数と自筆論文がどれだけ引用されたかによって決まるからです。 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20483820  (Harvard University) http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20409503  (National Human Genome Research Institute) http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20070199 (University of Southern California) ? > うそだと思うのであるならば、何処にあるか示してみなさい。  何処にあるか ではなく、「発音がおかしい?」と仰っておられますが、この中国人科学者の英語を直接耳にしたことがあるのでしょうか? そして、”身の毛もよだつ英語”とは何をさすのでしょうか?具体的に述べてみてください。  因に、当中国人科学者の用例は、上記PubMedのnativeの論文とほぼ同じでございます。つまり、この中国人科学者の使用例が特におかしい訳ではございません。  改めて、撤回を求めます。もし、しないというのなら、この科学者(Full textを持っていますので、メールアドレスは知っております)と、出版社に問い合わせをさせていただきます。 > 勘違いをしたフリをして大声で叫び、  大声で叫び? どこから”聞こえる”のでしょうか? 宇宙人とでも交信しているのですか? > あなたは、自分の間違いを何処で認めているのですか?勘違いの回答をしているのは貴方です。負けを認めなさい。改めて謝罪を要求いたします。  確かに反省はしております(Ano.27の「紛らわしい論文を選んでしまい、深くお詫び申し上げます。」とお詫び申し上げております)。これは、ご質問者様ならびに、この回答を見に来てくださった方々、さらには、「このQ&Aは役に立ちましたか?」にてご参考にしてくださった方々でございます。  ですが、そもそも、勝ち負けの問題ではないでしょう? > 自分の間違いを間違いと認めないのを威張り腐っているといっているのであって、 「自分は理系だから、私の意見は新たな解釈である」というのもとんでもない欺瞞です。  この結論はどこから、導かれたのでしょうか? ANo.38からの「”新たな解釈”の議題として、問題提起するのに、何の支障もないと思うのですが.......」、もしくは、Ano.43からの「自分のオツムが情けない程、弱いということは、じゅうぶん自覚しております。」でしょうか?   続きを述べさせて頂きます。

noname#131237
noname#131237
回答No.45

いうにおよんで ★ 一人ぼっちである  ☆ ここだけが 当たっている。  ただし そのことと  ★ 親ビン〔であること〕  ☆ とは相い容れないことだ とコピペ そういう論理展開をした覚えはありません。 本論が始まる前に白旗をあげてもらっては困ります。www 質問文中にアル「おしえて」「というのはうそか(とがき=60代のボケ老人口調でどもりながらwww)」 降参するならごめんなさいぐらいは言いなさい。 コピペを繰り返し思考をしない。議論もイヤというのなら、哲学者失格です。 出て行きなさい。 正々堂々とした生活態度(=哲学www)をお願いいたします。

noname#131237
noname#131237
回答No.44

序論 「不可知という言葉とagnosticの最近の英語用法の間には、関係がない」という指摘をしました。 前項「無脳」の例以下の文章を参照ください。日本語の読解能力を疑わざるをえません。 Hidocchi大明神へ 間違いは間違い。自分の間違い勘違いを認めなさい。 貴方の掲げた用例は、 agnostic の本来の意味を無視した用法であり、ジャーナリスティックな用語誤認がもともとの原因。似た例としては、日本語の「結果」という単語と「結果をだす」というスポーツ新聞による誤った用法があげられるでしょう。たとえばagnostic をunknowableとするのは間違いです。用例及び回答を見てもわかる通り、unknown/unknowableの混同が起こっている。当該生物学者の英語力のなさを示しているだけ。誤用を凡例として援用するのを間違いと指摘しているだけです。 中国人に関して 自称ネイティヴのパキスタン人・インド人と同様、発音が気持ち悪いといっているのであって、中国人の英語はミンなダメとは一言も言っていないでしょ。意見操作をしているのはそっちです。国語能力がないのかもしれませんが、勘違いをしたフリをして大声で叫び、レッテル張りで他人を落としいれようとしているのは、親ビンと貴方です。「なんでも反対同盟」は時代遅れです。やめなさい。親ビンのいう「前提の間違い=中国人の英語は全てだらしがない」というのは、質問者および勘違い回答者自身の拡大解釈であって私の言葉の中にはない。 うそだと思うのであるならば、 何処にあるか示してみなさい。 人をうそつき呼ばわりするのはやめなさい。もう少しちゃんと日本語を理解してから、「撤回要求」を語るべきです。マナーが成ってない。ここに改めて謝罪を要求します。 意図的に拡大解釈をして、他人から意見を募り、自分に都合のよいように加工して、利用していくオピニオンロンダリングの手法としかいいえません。見え透いたことはやめなさい。 自分の間違いを間違いと認めないのを威張り腐っているといっているのであって、Hidocchiさまの現実様態を事実に沿って表現しているだけです。あなたは、自分の間違いを何処で認めているのですか?勘違いの回答をしているのは貴方です。負けを認めなさい。改めて謝罪を要求いたします。 「自分は理系だから、私の意見は新たな解釈である」というのもとんでもない欺瞞です。新聞誤植を読んで、集めるのが趣味という人もいますが、 (質問)!「貴方の哲学はいったい何ですか?」! No.1、No.2の回答者は、懐疑論・独我論的見解であるから哲学的意見といえるが、理系論文の英語用法は、哲学とは関係がないでしょ。 無脳の例に戻ると、用例として人工無脳ということばと無脳症という言葉があるが、どちらもも、無脳という言葉自体とは関係がないのです。無脳の意味を捻じ曲げた誤訳という事で「人工無脳の用例」は、不可知の英語用例誤認に近い形といえるし、認知症の認知も同様の例であり、「認知一般と哲学的認知」・「無脳一般と哲学的無脳」とは、まったく関係がないと断言できる。同様に、agnostic一般及び理工系論文で使用されているagnosticと哲学的agnosticは、まったく関係ない議論です。私は理系!というオレオレ理論屋だけが、「関係がある」と(親ビン様宜しくお願いしマス!ネいいでしょ!関係がないわけではないwwwでしょ!という卑屈なコメントを通じて)主張している。 「愚症も意見を主張したい」と躍起になっても、学問的事実をひっくり返すことは出来ないのです。よって哲学のない人間の無意味な解答は論外と言い及ぶことが出来るようです。いいとしをして、哲学のての字も知らないつたない自分の立場をわきまえるべきです。あやまれば、いまなら、ゆるしてあげますよ。www

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 一人ぼっちである  ☆ ここだけが 当たっている。  ただし そのことと  ★ 親ビン〔であること〕  ☆ とは相い容れないことだ。  これ以上おまえの馬鹿さ加減につきあうつもりはない。

noname#135843
noname#135843
回答No.43

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hiddochiでございます。  以下、申し訳ございませんが、スペースをお借り致したく存じます。 tarako様へ > 回答者に同情的に解釈したとしても、headlessが、無脳と訳されるとしたとき、その前提から、「ではどういう風な経過を通じて、headlessという英語から、無ノウなる日本語訳語が、派生して生まれてきたのか」と言うことだけに関して議論を進めるべきでしょう。  この場で申しますと、 例えば、No.18とNo.28の回答とお礼欄をご参照していただければ と思っております。 > 「不可知という言葉とagnosticの最近の英語用法の間には、関係がない」という指摘をしました。  どこで、そのようなご指摘をなさっておられるのでしょうか? > 更には、ここ10年で、英語の「agnostic」に特殊な訳語を当てることができるようになったとしても、歴史的・哲学的用語である「aginostic」の解釈に大勢として影響を与える事象ではないということのべているまでです。  では、”agnostic”の中国人の用例につきましては、別段、問題ないということでしょうか?  もし、そうでしたら、以下の文章の撤回をお願い致します。 ANo.19 「身の毛もよだつ中国人の英語」 ANo.38 「変な中国人の間違った英語を、コレこそありがたい英語であると 威張りくさって引用しています。 間違いは間違い。」 > 辞書の上では別項目の見出し語です。哲学的議論に関係がないということです。  ”新たな解釈”の議題として、問題提起するのに、何の支障もないと思うのですが.......  実際、No.1、No.2のご回答者様(懐疑論・独我論的見解のようですが)はじめ、自然科学的(数学的)不可知性等含めまして、哲学的議論として成立していると考えられますが。いかがでしょうか?  「哲学的議論に関係がないということです。」 これは、tarako様のご意見ですよね? 愚生はじめ他の回答者を”論外”として切り捨てる権限等はないかと思われますが。  もしよろしければ、哲学的議題としての模範例をお示しいただけますでしょうか?  ご質問者様へ  再び、とりとめもない駄文となってしまいましたこと 深くお詫び申し上げます

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん。  投稿日時でのわたしの判断ですが やはりたらこの文章能力では 現在では 無理だと思います。  てきとうなところで 打ち切りたいと思っています。  でも ひどっちさんの発言を俟ちます。

noname#131237
noname#131237
回答No.42

知ったかぶりの大明神へ 認めていらっしゃるように、ご自分の英語に関する会話能力・聴解能力の欠如は言うまでもなく、hidocchiさまに文章読解能力一般に属する「意味」自体を把握する能力さえないということのようです。 ネイティヴではない人間の英語能力には、論理的読解を含め、母国語の文章解読能力一般・文脈の解釈・単語と全体との論理的統合性を理解することが含まれます。貴方にはそれもない。あなたは国語の点数も低いということです。 わかりやすい例として「無脳」という単語で考えて見ます。 「無脳」の意味が、わからないという人間がいたとします。更にその質問者が、無脳と言う言葉の起源を探りながら、意味を取ってみたいという補足をしたとして、それに回答を与えるとき、英語語源で解釈するとしましょう。 上記の前提から、「headless」という単語の意味を議論しながら回答を絞り込むという場合、英語圏における「頭が存在しない」という状態の形容が、焦点となります。 しかし、ここで無知な回答者が、 ここ何十年かで、headlessには、オバーヘッドのないコンピュータ=「サーバ」の意味が出てきたという歴史的事実に即した理由から、「headless」は、サーバーと訳すべきである主張したとしましょう。 とあるもう一人の回答者が、headlessという言葉は、「頭がない」ということであるから、無頭と訳すべきであると主張するかもしれません。 上記二つの回答が、適切ではないという大きな理由として、もともとの質問は、日本語単語「無脳」に関するものであるということです。 回答者に同情的に解釈したとしても、headlessが、無脳と訳されるとしたとき、その前提から、「ではどういう風な経過を通じて、headlessという英語から、無ノウなる日本語訳語が、派生して生まれてきたのか」と言うことだけに関して議論を進めるべきでしょう。それ以外の議論は、「無知の野次馬」議論です。 英語のセンスがまったくないというのはいうまでもなく、客観的に見て、上記回答者は、本来の質問と関係のない議論を展開しています。回答者にひきつけて評価すると、文脈にかんがみ、特定の英単語に適切な訳語を当てるという基本的な翻訳能力もないというのが、動かしがたい短絡的な事実です。 無脳を日本語で捉えるとすると、脳がないということです。簡単すぎること。英語とは基本的に関係がない。くだらない説明が必要とされない端的な例です。 不可知の質問に立ち返ってみると、わたしは、「不可知という言葉とagnosticの最近の英語用法の間には、関係がない」という指摘をしました。加えて、「論外」である事実として不可知の語源は、英語でさえない。更には、ここ10年で、英語の「agnostic」に特殊な訳語を当てることができるようになったとしても、歴史的・哲学的用語である「aginostic」の解釈に大勢として影響を与える事象ではないということのべているまでです。辞書の上では別項目の見出し語です。哲学的議論に関係がないということです。 あるものをない・ないものをあると主張するおやビンも親ビンですが、むきになっても意味がありません。自分たちの無能を反省してください。 本論1に続くwww

noname#135843
noname#135843
回答No.41

 どうもご返答いただきまして、ありがとうございました。Hidocchiでございます。  bragelonne様、申し訳ございませんが、愚生のことを指しておられるようですので、以下の欄をお借りしたく存じます。 > 幼稚という言葉も、自分から出ているというのに、その自覚もないようなので無理でしょうが  はい、無理でございます。ですが、自分のオツムが情けない程、弱いということは、じゅうぶん自覚しております。? > 関係ない言葉を途中まで関係ありそうであるようなそぶりでえんえん説明し、?最後に「やっぱり関係ない」と主張するのが「論理破綻」です。?? 上記の意味が愚生のオツムには理解できません。  ”関係ありそうであるようなそぶりでえんえん説明” ?   因に、「自分が、関係があると考え、説明をし、そして誤った箇所があれば、”率直に自分の非を認める”」 これが「論理破綻」なのでしょうか???> 英語という観点から?>中国人と、nativeの方との顕著な違いが見当たらないのです。?コレは貴方の英語能力がないということの具体的凡例です。  英語力に関しまして、もの言いをされたのは初めてでしたので、おそらく、tarako様におかれましては、さぞかしご立派な英語力をお持ちなのでしょう。おそらく、かような学術論文等の英文は、陳腐に思えて仕方ないのかもしれません。ただ、現実問題としまして、医学生理学という分野上、速報性が求められ、また読者に分かりやすいように明確な表現を用いるのが一般的となっています。従いまして、必ず出版社のチェックが入ります(論文自体も評価の対象とされ、”インパクトファクター”という数値でもって、その論文・出版社の格付けがなされますので、最近は特に神経質となっています)。これは、誰が決めた という問題ではなく、上述の理由により、自然とそうなったというものと思っております。  ですが、ここで、愚生が申し上げているのは、”一般論”ではございません。中国人とnativeの英語の表現力の違いについては何も言ってはおりません。  上記、PubMedにて、実際に、検索されましたでしょうか?  実際、自分で検索して、そしてその中から(約140件程ヒットします)、nativeのものを選び出したところ、その文章中での”agnostic”の意味しているものと、愚生が挙げた中国人のそれとには、顕著な意味上の違いはない と申し上げているのです。  実際、お調べになってから、再度お願い致します。??> 親ビンは自分の立場がまずくなると、即刻手下をいけにえにして自分の保身を謀ってきますよ。ほかの手下がどういう運命をたどったか?  これは、個人の”自由”かと思われます。もし、拙いHidocchiちゃんのことを思って、仰ってくださっておられるのなら、”大きなお世話”かと存じます。 ?> もう一点回答内容がございますが後日また  よろしくお願い申し上げます。  ご質問者様へ  末尾ではございますが、勝手な文章の非礼、深くお詫び申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 ブラジュロンヌです。  たらこ氏は現われませんね。  いましばらくでしょうか。  たらこ文においては 論理はないと思います。  ある場合には 前提としている事柄が事実とは違っています。  やっかいだと思いますが ゆえもなく切り捨てるわけにも行かず。・・・  もうしばらく見守っています。

noname#131237
noname#131237
回答No.40

>>「反省のはの字もない変わった人たち」 親分も含めて やっぱり自覚はあるんだ。これを機会に一度反省してみなさい。 そういう方向で親分も説得してみてはどうですか? (幼稚という言葉も、自分から出ているというのに、その自覚もないようなので無理でしょうが) では 論理破綻の具体例 (ご自分でも認めていらっしゃいますが、とりあえず とりとめもない支離滅裂な散文が、論理破綻であるということは、 それはそれですが、論外として解説いたします。) >無神論とは何の関係もない と 自己言及的に ご自分で説明なさっていることからも判りますが、 貴方の引用したagnosticは質問の文脈となんら関係のない英語の用例です。 関係ない言葉を途中まで関係ありそうであるようなそぶりでえんえん説明し、 最後に「やっぱり関係ない」と主張するのが「論理破綻」です。 あといってん 英語という観点から >中国人と、nativeの方との顕著な違いが見当たらないのです。 コレは貴方の英語能力がないということの具体的凡例です。 基本的にネイティブと、そうでない方の英語は識別できます。 言葉には注意したほうがよいですよ・・・ 親ビンは神経質ですからwww >全体として見ても わたしの出る幕はないように思います 具体的反論能力のないおやびんは、手下切捨ての為の準備をしているようです。 親ビンは自分の立場がまずくなると、即刻手下をいけにえにして自分の保身を謀ってきますよ。 ほかの手下がどういう運命をたどったか、また 一生を通じて一人ぼっちである人が、 なぜ一人ぼっちであるのかという事を その理由を よく考えてみてください。 もう一点回答内容がございますが後日また

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 一人ぼっちである  ☆ ここだけが 当たっている。  ただし そのことと  ★ 親ビン〔であること〕  ☆ とは相い容れないことだ。

noname#135843
noname#135843
回答No.39

 こんばんは、今回は、tarako様にも、ご意見をお聞きいただきたく、投稿させていただきました。Hidocchiでございます。 > 反省のはの字もない変わった人たち。  “人たち”という文言から、愚生ことHidocchiも含まれるかと思われ、回答をさせていただきました。 > 変な間違いを変な間違いだといっているだけです。もし「変な」の定義的基礎付けが、中国に起因しないと仮定すると、「変な」の起源は、引用者の凝り固まった使用上の意図です。 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/sites/entrez/  上記サイトにて、“agnostic”で検索しますと、ヒット数は約140件でございます。もちろん、nativeの方の論文も散見されます。そして、特に2006年以降徐々に、使用例が増える傾向も見受けられます。  また、最近の(2008年から2010年まで)のを見たのですが、“無神論”とは何の関係もないように察せられます。表現内容につきましては、どれもさほど違いはないように思われるのですが……. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  誠に申し訳ございません。以下は、tarako様へのご質問となってございます。勝手な使い方をしてしまった非礼を深くお詫び申し上げます。  以下、tarako様へ > 恐ろしいことにその仏語・英語が「だめだめ」であるため、論理が破綻してしまうが、自分の間違いは正しいといいつづける。  上述の件(中国人の論文)も含めまして、具体例をお示しいただければ、幸いです。つまり、“agnostic”の表現内容におきまして、学術論文(主に、医学生理系)では、その中国人と、nativeの方との顕著な違いが見当たらないのです。また、愚生の“論理破綻”もご指摘いただければ幸いでございます。  とりとめのない内容となってしまいまして、誠に申し訳ございませんでした。

bragelonne
質問者

お礼

 全体として見ても わたしの出る幕はないように思いますので。・・・

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     1. 《既知》ではなく《まだ知られていない》という場合 そこには 未知と不可知と非知とがある。  2. 《まだ知られていない》が いづれ――推量なのですが――《知ることが出来るであろう》と見なす場合は 《未知》です。  3. 《未知》の中で これこれの問いはどうも正解が見つからないし その知り得ないことが証明されたという場合 これは 《不可知》です。知り得ないと知った そこまでは知り得ている。  4. 《未知》ではあるが それと同時に 《いづれ知ることになるだろうとも言えない》場合 これを《非知》と呼ぶとよいはずだ。  5. 《いづれ知ることになる》とは決して言えない場合というのは 《絶対》の領域のことだ。この経験世界を超えた場のこと。  6. 経験的で相対的で限りあるその生と能力が移ろいゆかざるを得ない人間にとって 絶対は いつかはそれを知ってやろうと思っても 無理である。仮りに 無理でなく知ったという場合には その人はみづからが絶対なる存在になったことになる。あり得ない。  7. ただし・ぎゃくに絶対なる場は 《知り得ない》か? と言えば それについての答えも分からない。というのが 人間の成し得る自然な理解である。  8. 知り得るか? も分からないし 知り得ないか? についても分からない。しかも この二つのことが 同時に成り立っている。これが 非知だ。  9. まとめよう。《知り得るか 知り得ないか いづれとも知り得ないナゾ》 これが 非知だ。  10. 言いかえると ひょっとすると 人はこの絶対――神のことだが――を知り得るかも知れない。そのとき同時に 知り得ないかも知れないと認識していれば 成り立つ。  11. 知り得るとも 知り得ないとも どちらか一方にだけ片寄った捉え方をまぬかれていれば その神を人間は如何ようにも 捉えて間違いではない。  12. 《無い神》を同時にみとめつつ《有る神》派に立つことは 可能である。そのぎゃくも 然り。  13. 《非知》からみちびいたこの《普遍神》にもとづくなら わたしたちが 《これこれなる神のみ》と暴言する・かの宗教から完全に自由になること 請け合いである。世界は どれだけ富士山の日本晴れになることか。  ☆ どうでしょう?

  • 不可知論や神秘主義って何ですか?

    レポートで現代科学が克服すべき不可知論、神秘主義について論じてくださいとあるのですが、どういうことをいっているのかわかる方いらっしゃいませんでしょうか。そもそも不可知論とか神秘主義とはどういうことなんでしょうか?

  • シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である

     1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界      非経験の場  2. 非経験の場とは 非知として想定されている。    人間の現実      経験世界(経験事象)         可知(可感をふくむ)            既知            未知         不可知(知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この現実を持って生きる。それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引く補助線である。  7. かくて たとえば非知すなわちふつうに言う神は 不可知であると見た人がいる。けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  8. 神は感じるものだというシュウキョウもある。それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。それしかないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  9. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または われひとり)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張るインチキ宗教である。  10. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説くシュウキョウがある。これは 悪しき無限に落ち入る。落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。これも 補助線を神そのものと見なしているからには アホンダラ教である。  顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

  • シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である

     1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界 (相対・有限)      非経験の場 (絶対・無限)  2. 非経験の場とは 人間の知性という観点からは 《非知》として想定されている。    人間の現実      経験世界 (経験事象)         可知 (可感をふくむ)            既知            未知         不可知 (知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この広い意味での現実を持って生きる。それは言うなれば 《非知》へのあこがれのもとにある。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。《考える》ものである。  5‐1. むろん 《非知》はそれを われわれがおのおのあたかも生まれつき持っていたかのようなあこがれとしてただ受け容れるに過ぎない。《考える・また感じる》を超えているので 《信じる》という言葉で表わす。あこがれの園を《信じない》というのは 《信じないと信じた》ことである。    《わたし》なる人間の知性もしくは霊性      非知     = 信じる:非思考の庭      --------------      可知・不可知= 感じる:感性の原野                 考える:思考の緑野  5‐2. ブッダとなることは 経験行為である。多少は知性がついたという状態である。ところが ブッダター(仏性)あるいはつまりアートマン(霊我)は 非知なのだ。  だから 霊とも言う。だから ただあこがれとして理屈抜きに受け容れるのみである。考えても分かるわけがない。分かるか分からないかが分からない。――そのような非知として想定しているのだから。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引くその補助線である。非知を神とすると その神の霊の依り代なのである。いくら聖なるオシエだと言っても 認識知は 考えるものであって 神としてはお呼びではない。  7. ところが・かくして オシエを神として信じるという場合がある。  7‐1. たとえば非知すなわちふつうに言う神についてそれは 不可知であると見た人がいる。  けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  7‐2. 神は感じるものだというシュウキョウもある。  これは それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。補助線であっても補助線だと知っていながらも その補助線たる神しか神はないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  7‐3. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。  それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または ひとりのわれ)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張る場合。その代理人が みづからを神の補助線だと言い張り その補助線の言うことは 神の言葉であるというタワゴトにまで発展する。ローマ法王が かつてそうであった。  7‐4. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説く恍(とぼ)けたシュウキョウがある。  これは 悪しき無限に落ち入る。《未知》には 答えはない。つねにあたらしい未知が現われる。  そのようなあしき無限に落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。未知も既知もまた不可知もみな われわれが《考え認識すべき経験事象》である。これを信じるとは言わない。    8. これらすべては 神の補助線を神そのものと見なしているからには 単純にみなアポコロキュントーシスであって すっとこどっこいのアホンダラ教である。  9. われわれが顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 神とは何か?

    神とは何か?  決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。  ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める  §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y =考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X =考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく)  ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により  【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html  ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。  【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html  ☆ それではよろしくどうぞ。

  • 《霊:非知なるナゾ》は 肉(身および心)と込みだ

     (α) 《非知》なるナゾとしての霊は われわれ人間の肉――すなわち身および心から成る自然本性――とつねに一体として捉えるのでなければ 意味がない。  (β) 肉を離れた霊は――つまり死んでからの存在は―― どうでもよい。と考えるほかない。  (γ) 《復活》は いま・ここなる経験世界においてでなければ 意味がない。と言おうとしています。  (δ) 推論ないし論拠は ほとんどありません。そうでなければ 考える必要がなく どうでもよい話題でしかなくなる。というのみです。  どうでしょう。

  • 神論のエセンスは これだ

    0. 標題のごとくに自負して考えるのですが なお仮説ですので よろしくご教授ください。 疑問については是非ぜんぶお知らせください。 神論は その問い求めによって 世界におけるわれわれ人間の立ち位置が現実によく分かるようになるのだと思いますが どうでしょう。 神の世界に相い向き合うからだと思われます。 1. 神は 《人間の知性を超えている》。 2. 人間の知性で分かったと主張するその神は 人間がつくった――観念の――神に過ぎない。 2-1. そもそも その《分かったということ》は証明し得ない。その否定も じつは証明し得ない。 3. 人間の知性で分からない(不可知だ)と説く神は これも 人知でそのようにつくっている(決めつけている)。 3-1. 不可知とは 知り得ないと証明し得て初めて言えるもの。知り得ないと証明し得たなら 或る意味で人知の範囲内だ。 4. 人知を超えたところとは 《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》です。 ・ 可知(既知&未知)&不可知 に対して 非知 5. 非知なるものは 非経験(その場ないしチカラ)であり 絶対性および無限である。 ・ 経験    に対して 非経験   (自然および経験)  (超自然および超経験) ・ 相対性   に対して 絶対性 ・ 有限    に対して 無限 6. 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもとのままの無限であることを言う。 6-1. 一神教か多神教かまたは汎神論かの――神の数にかんする――問いは 無意味である。 6-2. すべては――やほよろづの神々はみな――《全体として一つの神・ただ一つの柱で全体をふくむ普遍神》の分身であるゆえ。 7. 絶対性とは 《何ものにも拠ることなく ひとり満ち足りているもの》を言い それと相対世界とは 絶対のへだたりがある。 8. 非経験は たとえば《有るか無いか》という規定が適用される経験的な事象(事物および現象)を超えている。 8-1. 《有る》と《無い》とを超え しかも両状態をおおいつつむ。 8-2. 《有ると無いとが つねに――つねにである――重ね合わせになっている》。 9. 事物が有るか無いか つまり 現象が起きたか起きていないか つまり ものごとの因果の関係として捉えられること(そして その知性)を超えているのが 非経験・絶対性・無限である。 10. 人間は このように《人知を超えているものを人知で推し測っている》。 11. 人知で捉え得たと思っている神について ひとはいろいろ忖度する。 11-1. 余計なことはやめろと言われても 余計か本計かを究めあぐねる。 11-2. 忖度するような対象ではないと考える向きは 端的に言って《無い神〔という神〕》が 心にいだかれている。cf. [8-2]。 12. 忖度のいろいろは こうだ: ① その属性として:    〔つねに真偽をまぬかれない人間の主観真実を超えた〕真理    〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム)    〔相対的な美醜を超えた〕美    〔愛憎を超えた〕愛(アガペー)    〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能 ② 絶対性からそれを擬人化して:絶対者 ③ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主(非経験と経験世界とは絶対の                   へだたりがあることを言っている) ④ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理(因果律を超えているチカラ                      による人間への因果応報なる説) 13. 神についての忖度は すべて おのおの心の内面に主観真実としておさめている限りは 自由である。良心・信教の自由。 13-1. 神についての忖度――神観――が 良心・信教の自由のもとに自由であり それとして主観真実におさめられることを 《特殊絶対性》と言う。一般性とは別次元にある。 13-2. 忖度に成る神観を成るたけ避け一般性を問い求め得た神論は 《一般絶対性》なる理論であり これを個人として抱くゆえ 《個別絶対性》とよぶ。 13-3. 神観が 或る種体系的な神学となりこれがオシへとされ得る。さらにしかもオシへが神と同等のものだと説く場合がじんるいの歴史にあった。そのような神学ないし自称神論はアウトである。人間が神をこしらえている。《文字もしくは聖なる書》という偶像が建立される。 13-4. オシへを神と説くシュウキョウというシュウキョウは その説くという発想が無意味であり ぜんぶアホンダラ教である。 14. なお《一般絶対性かつ個別絶対性》の具体的なあり方は 次のように図示できるはずだ。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我(生命性)   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如(生命性‐生命体一如)    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然および〔その依り代としての〕自然)    霊:われ(自然本性 + α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:タオ(?)    人:われ 14-1. 個別絶対性とは 信仰である。《非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。 14-2. 《信じる》は 《感じる・考える》を超えている。言いかえると 《信じている》ときに《感じ考える》ことを同時におこなえる。無思考や思考停止ではない。 14-3.  【梵・仏・霊】  :信じる(生命性):非思考の庭 ------------------------ 【我(霊の分有)】:考える(知性) :思考の緑野           感じる(感性) :感性の原野

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 「宇宙」「世界」の姿がわかったらどうするのか?

    現在、科学分野の学問は確かに進んでいると思います。そして、特に哲学的な領域にも近い「天文」「地学」「物理」「化学」「数学」その他科学諸分野(もちろん考古や歴史文学も含みます)はその完成度を高め、ついにはおおよそ「人間が生きている世界はこんなものだよ」ということが描ききれるところに近いのではないかという印象を持ちます。 そこで、いろいろな自然現象を記述し理解することができるようになりますと、次には「何でこういう自然なんだ」「これにはどういう意味があるんだ」という疑問がわきあがりますが、これは不問に付すべきなのでしょうか。それとも、人間にはあまりに難解であるこれらの問いを発し続けるべきなのでしょうか? 個人的には、「ああ、世界はこうなっているんだ」とわかってくる感覚に対して、「行き場のない」感動感激で終わってしまい、ただ虚空に向かってその感動を叫ぶだけということになってしまいそうで、どうもあまり気が進みません。