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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:不可知とは どういうことですか?)

不可知とは?

このQ&Aのポイント
  • 不可知とは、知り得ないことを指します。
  • 経験世界を超える領域が不可知であり、可知か不可知か分からないとされます。
  • 不可知とは、可知の領域の限界を知った状態を指し、未知だけではないとされます。

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noname#135843
noname#135843
回答No.12

 続きからでございます。 > ☆ その出来ないという点を取り立てて《不可知》という規定をしてもよいと思いますが 《知り得ないかたちで 解はあるということを人間は知っている。言わば永遠の未知である》と規定してもよいように思われます。  未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。 > ☆ 解を知ることじたいは永遠に不可知であったとしても その不可知の解があることを知っていれば じゅうぶんだ》という余地はもうありませんか? 風邪の原因は分からないのでしょ? 不可知とは言いませんよね?  おそらく、その問題に取り組んでいる一部の物理(数学 or 化学)者以外は、「解(対象)があるというだけで、じゅうぶん」と思われます。少なくとも“安心感”はえられると思われます。 なお、とても細かいことではございますが、“風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%82%AA からでございます) > 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか?  以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96 からでございます)  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。何だか ひどっちさんにとっては 初めから分かっていることであるようにも映り どうしてよいのか弱ってしまいますが――ご回答をまことにありがとうございます―― わたしとしては一つひとつ確実に知るようにしてまいります。  ★ “風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。  ☆ 病因となるヰルスにしても 型がいくつもあり複雑になっていて 処方するすべがむつかしいのだとか。そういうことでしたか。すみません。でもそれを 不可知とは言わないのですよね? 二重のあやまちを侵すかも知れないのですが どこかよく似た事態であるようにも思ったりします。  特定のかたちでなくても解があることは分かっている。けれどもこれを知ることは いまはお手上げである。    ただし  ★ 未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。  ☆ と表現する事態は あまり意味がなかったようですね。いま証明によって不可知だと分かれば そのことが一応 知性を支配する。  ★ ・・・つまり、“電子雲”とは電子がそれぞれの位置に存在する確率の高い領域を示したものとのことだそうです(イメージがつかみにくいのですが)。  ☆ という“ペンタセン(ベンゼン環=亀の甲が5個つらなったものです)”の顕微鏡像の撮影に成功した事例というのは 不可知の壁に迫るものと見てよいでしょうか?  ★ その後、高等数学を用いた手法(“代数的”手法以外の方法)ではございますが、シャルル・エルミートにより、五次方程式が解かれるようになりました(“六次”以上は未だのようでございます)。つまり、別経路の道筋であれば可能であったということでございます。  ☆ という事例もあるのですね。  そして  ★ 原則、解は存在すると考えられます。ただ、量子論の場合、一般常識からは逸脱したものになろうかとは考えております。  ☆ ということなんですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~   ☆ 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか?  以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは   ▲ (ヰキぺ:不可知論) 宗教的には純粋に「神はいるともいないとも言えないのだ」とする公平な中立的不可知論  ☆ の箇所ですね。そうして この記事をわたしも読みまして 回答No.9へのお礼欄で次のようにわたしは反応しました。  ○ どうも《不可知》という訳語がよくないのではないか? それは《非知》――つまりは わたしの用語で《非思考》のことですが――とすると分かりやすいのではないか?  ☆ すなわち こうです。  1. 《絶対》の想定。  2. これを擬人化して 《絶対者》と表わす。さらには 《神》を当てる。  3. 《絶対》の想定は そのまま経験世界を超えた場としてであるので そのまま初めから 《非思考》つまり《思考としての有る無いは超えている》。  4. つまりこのことを 《神はいるともいないとも言えないのだ》と表わしている。  5. すなわち 《 agnosticism 》は 《不可知論》と訳すのではなく むしろ《非知の場 もしくは 非思考の理論》と表わしたほうがよいのではないだろうか?  ☆ となります。わたしとしましては これですっきりしたのですけれど ひどっちさんやみなさんは どうでしょう?

その他の回答 (47)

noname#135843
noname#135843
回答No.7

 こんばんは、Hidocchiでございます。  なお、以下、ANo.5のご回答者様が示してございます経験論的・懐疑論的認識論とは、異なる観点から愚見を述べさせてもらっております。とりあえずは、科学には、(経験的)事実(真理とは異なります)があるという前提でお話させていただきたく存じます。  そこでまず、量子論には、“不確定性原理”なるものが存在します。つまり、「粒子の運動量と位置を同時に(バラツキなく)正確には測る(知る)ことができない」というものでございます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86 からでございます。)  また、数学でも、アーベル-ルフィニの定理:「5次以上の方程式において、四則演算等を用いた一般的な解法は、存在しない」というものがございます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB-%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86 からでございます) > 経験世界は すべてけっきょく可知なのではないですか?  上記“原理(定理)”は経験世界上のものでございます。また、“知る”という行為には、限界があるというものでございます。  従いまして、経験世界は、すべて“可知”であるとは、断定できないものかと考えております。 > 何かが不可知だと分かったとしたとき それは どういう事態なのか?   可知の領域に限界があると実証(証明)されたことと、解しております。 > その限界とはいったいどういうことですか? 可知の世界について限界があるのを知ったとはどういうことですか?  ひとには、どうあがいても、知ることができないことを指すものと解しております(6次方程式の代数的解法なるものは、どんなに頑張っても見つけることは不可能(=知ることが不可能)ということでございます)。 > さらに問いかえるなら 可知の世界の限界が分かってその限界を超えたところが 不可知だとするというのですけれど なぜそれが不可知だと分かるのですか? なぜ未知であるだけではないと分かるのですが?  未知には、以下の定義にありますように、現時点では、わからない 逆に申しますと、将来には分かるかもしれないことも含まれる と解しております。 [定義] 未知:まだ知らないこと。まだ知られていないこと。(goo辞典からです)  従いまして、「それが不可知だと分かるのですか?」と問われますと、現時点では、それが不可知であると証明されているから と考えております。つきましては、それ以外の不明なものは、“未知”であると考えております。 > ところが 要するに《神》を《不可知》だと規定して平気で議論しているのに出遭って 困りました。弱りました。  ひとなるものが、絶対者を、たかが、その理性によって、認識不可能ではあろうと愚生は思っております。ですが、厳密には、”不可知”ではなく、“未知”であるというのが適切かと考えております。  ご参考人なれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 お訊きしたいことは 隠れた変数理論を省みろということではなくて そうではなく それが説く決定論的な解(つまり その点で 可知)などがなく 《もともと決まっていないのだ》としても けっきょくのところでは 解はあるのではないでしょうか? 測定出来ないことと解がないこととは別であるように 素人は思ってしまうのですが その点はどうでしょう?  ですからその点はまた 先のアーベル-ルフィニの定理の場合と同じようなおもむきがあるように思います。すなわち  ○ 解はある。ただし測定したり代数的に解いたりすることは 人間に出来ない。  ☆ その出来ないという点を取り立てて《不可知》という規定をしてもよいと思いますが 《知り得ないかたちで 解はあるということを人間は知っている。言わば永遠の未知である》と規定してもよいように思われます。  推論の欠陥を指摘していただくとさいわいです。  あと 次の記事も気になりました。   ▲ (ヰキぺ:隠れた変数理論) ~~~~~~  § 動機  ・・・初期には決定論的な信念が隠れた変数理論の支持者の主な動機だったが、 量子力学の形式化の根底をなすはずの現実を説明しようとする非決定論的な理論も 隠れた変数理論に含まれるようになった。 例えばen:Edward Nelsonの確率的力学(stochastic mechanics)等。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《非決定論的な理論も 隠れた変数理論に含まれるようになった》という指摘です。すなわち 《未知だが そして確実にその解に関して不可知だが そういう全体の情況としては 大きく可知である》という方向へ進むかに思えます。解を知ることじたいは永遠に不可知であったとしても その不可知の解があることを知っていれば じゅうぶんだ》という余地はもうありませんか? 風邪の原因は分からないのでしょ? 不可知とは言いませんよね? (とんちんかんだったら ごめんなさい)。  もっともっと言葉を費やさなくてはならないと思って書いて来ましたが 案外〔尋ねるべきこととしては〕まとまってしまいました。間違っているところについては まことに申し訳ありませんとあらかじめ おあやまり致します。すみません。  神にかんしてに移ります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   > ところが 要するに《神》を《不可知》だと規定して平気で議論しているのに出遭って 困りました。弱りました。  ひとなるものが、絶対者を、たかが、その理性によって、認識不可能ではあろうと愚生は思っております。ですが、厳密には、”不可知”ではなく、“未知”であるというのが適切かと考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは もう議論のもんだいではなく 人それぞれによって編まれる言わば《ものがたり》の中身のもんだい(つまりその多様性)であるかと思います。  その上でですが わたしにとっては   ○ 神は――おのれの物語の中において―― 予感によって知られる。  ○ すなわちこれを一般的に述べるなら 可知をも不可知をも超えている何ものかの存在を想定することになると思われる。  ○ 経験的な存在性をめぐる有無という表現では規定することが出来ないわけだが おのれの物語の中に 有り(有神論)かあるいは無し(無神論)かを自由に決めたあとでは その物語の表現の世界としては 極めて煮詰めた言い方において すべての思惟も内省も仕事も まったき状態において 神に関係している。つまり 無神論では まったく関係していないというかたちで 神(無神)を捉えている。可知をも不可知をも超えている場というのは 表現においてそれ以外に表わせ得ないように思われる。  ○ 神を受け容れる場合も そのような有神論などはちゃんちゃらおかしいという場合も すべては おのれのえらんだ物語が 生きることの絶対的な条件となっており その舞台の上での自己表現としての生であるしかない。    《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか?  と やっと ここまで来ました。添削等をお願い致します。

bragelonne
質問者

補足

 こんばんは ひどっちさん。来てくださってありがとうございます。  ねじり鉢巻きで取っ組みたいと思います。お世話になりっぱなしですが よろしくお願い致したいと存じます。  素人の特権で――密林を切り拓かねばならないという素人の切羽詰まった問い求めのもとに――なおしつこく食い下がってまいりますので どうかその点 粗さは見逃していただいて 取り上げるに足ると思われたところについておしえていただけるとありがたいと思います。さいわいこの上ないと存じます。  まづは絶対者の領域は措いておきまして 科学のもんだいについてです。  ★ 数学でも、アーベル-ルフィニの定理:「5次以上の方程式において、四則演算等を用いた一般的な解法は、存在しない」というものがございます。  ▲ (ヰキぺ:アーベル-ルフィニの定理) ~~~~~~  (あ) 代数学の基本定理が示す通り、n 次方程式は複素数の範囲で本質的に n 個の根を持つが、それを根号によって表示できるとは限らないことになる。  (い) 冪根のみによらない手法についてはこの定理は触れていない(例えば超越関数によって容易に表示できたとしても代数的に解けたとはいわない)。  (う) また五次以上でも特定の条件付き方程式ならば解く事ができ、このようなものの一部はアーベル方程式と呼ばれる。もっとも単純なアーベル方程式は1の冪根を根にもつ xn = 1 であり、これが可解であることはガウスにより証明された。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ お訊きしたいのは (い)です。つまりその意味するところは  ○ 代数的には解けない――不可知だと認められる――が 解はあるのだから 何らかの方法で可知だと言えるかもしくは言えるようになるかも知れない。  ☆ のかどうかです。あるいはまた それは 人間の能力の限界をたしかに表わしているとしますと ただしその限界は 限界であって何ら構わないと言える余地はないのか? すなわち  ★ ひとには、どうあがいても、知ることができないことを指すものと解しております(6次方程式の代数的解法なるものは、どんなに頑張っても見つけることは不可能(=知ることが不可能)ということでございます)。  ☆ つまり 《あがく必要があって頑張らねばならないのに あがこうが頑張ろうがどうすることも出来ない。そういう不可知の領域である》ということでしょうか?  ★ そこでまず、量子論には、“不確定性原理”なるものが存在します。つまり、「粒子の運動量と位置を同時に(バラツキなく)正確には測る(知る)ことができない」というものでございます。  ▲ (ヰキぺ:不確定性原理) ~~~~~~~~~~~  とは、ある2つの物理量の組み合わせにおいては、測定値にばらつきを持たせずに2つの物理量を測定することはできない、という理論のことである。具体的には、以下のようなバリエーションがある。  ・ある物理量A、Bに対しては、Aの測定値の標準偏差とBの測定値の標準偏差との両方を0にするような量子状態は存在しない、という主張。  ・ある物理量A、Bに対して、Aの値の測定誤差と、物理量Aの測定プロセスが生ずるBの測定値への擾乱との両方を0にすることはできない、という主張。  ・ある物理量と、量子状態を指定するパラメータとの間の不確定性関係(時間-エネルギーや位相-個数の不確定性関係など)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづこの説明についてよく分かりませんと率直に告白したあとでなのですが  ▲ (ヰキぺ:同上) ~~~~~~~~~~~  粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができないという事実に対し、それは元々決まっていないからだと考えるのが、ボーアなどが提唱したコペンハーゲン解釈であるが、アルベルト・アインシュタインは決まってはいるが人間にはわからないだけだと考えた。この考え方は「隠れた変数理論」と呼ばれている。  ・・・ただし、ベルの定理により現在アインシュタインの考えを支持する人はごく僅かである。  ▲ (ヰキぺ:隠れた変数理論)~~~~~~~~~~~  物理学における隠れた変数理論 とは、 量子力学に特徴的な確率的な性質を、 実験者が観測できない変数を導入して説明する、決定論的な理論である。 確率的な性質を理由に量子力学が不完全だと主張する少数派の物理学者に支持されている。  ・・・  量子力学と矛盾しない隠れた変数理論は非局所的でなければならない。 すなわち物理的に隔離された物体間の因果関係が瞬時にもしくは光速を超えて伝わるものとする。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とおさえておいてですが。

回答No.6

 ANo.4です。  bragelonneさん、私がいっていることは結局、開悟とはどういうことかを説明して、不可知は可知できないし、それを不可知ということもできない。でも私たちはそれを所謂る悟るのだといっているとのです。そして悟るとはどういうことかを説明したつもりなんです。  ☆ というふうにたとえで表現された人間存在のあり方――基本的な条件のもとにおける人間のあり方――をめぐって 《可知・未知・不可知》という捉え方をすれば どうなるか? まづこういう角度があるようなのです。その見方にわたしもつきあって では《不可知》とはどういうことか? とはっきりさせておきたいと思いました。  意外とむつかしいのに気づきました。実在の《不可知》とは何であるか? これが分からなかったからです。    ◇ krya1998:実在の《不可知》へどうアプローチするかは人それぞれですね。信仰もそのひとつでしょうか。  さて上の夢のたとえをめぐってですが 捉える角度を変えますと 《夢を見ている者(すなわち人間)》と《夢の――おそらく外の――無限意識なる存在者》との関係やいかに? になると思います。  そのとき ついぞ生涯を夢の中に過ごすとしか思われないニンゲンにとって 謎の何ものかは 《不可知》なのか? です。    ◇ krya1998:《不可知》だと存じます。これへのアプローチとして、自己の存在を超克しての、このものと同じになるというやり方だと存じます。これをわたしたちはヨーガといっていますが。  無限意識の主体と夢を見続ける主体とは 互いにひとしくはない。このことは分かっています。ひとしいなら 夢から覚めるニンゲンがもっと多くいてもいいでしょうから。    ◇ krya1998:私たちという存在を、夢をみている無限意識の夢の内容であるという言い方を私はしておりまして、その夢の内容・夢の世界の存在でしかないのが私たちなんだといっております。だから無限意識が、この私(たち)において夢を目覚めると、この無限意識であったのかという悟りになるという言い方をしておりますが。    では 借問になりますが わたしたちは自分たちがただの夢の生を送るに過ぎない存在であると自覚することができて さらには無限意識の存在をも想定することができるというのは それでも《かの存在》は 未知なのですか? 不可知なのですか?  可知をも不可知をも超えているのではないですか?     ◇ krya1998:わたしも可知をも不可知をも超えているのだと存じますが。  ところが 要するに《神》を《不可知》だと規定して平気で議論しているのに出遭って 困りました。弱りました。  だってニンゲンは それほど賢い者なのかと思うからです。神だろうが何だろうが すべて自分の理性で知り得るし規定しうると思っているのだなぁと思ったからです。  《無限なる存在は〈不可知〉である》と言ったとするなら これは《不可知》という概念で無限者を規定していることになります。規定するということは 規定しうる側に立ったことを意味します。つまりは 不可知だと規定することでその神を制御しようとしている。そのニンゲンがです。  憤慨したのです。そのとき。    ◇ krya1998:わたしも可知をも不可知をも超えており、無限意識が目覚めてくれたとき無限意識が実現され、無限意識になる。それがヨーガだと存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 クリヤさん ご回答をありがとうとございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ では 借問になりますが わたしたちは自分たちがただの夢の生を送るに過ぎない存在であると自覚することができて さらには無限意識の存在をも想定することができるというのは それでも《かの存在》は 未知なのですか? 不可知なのですか?  可知をも不可知をも超えているのではないですか?     ◇ krya1998:わたしも可知をも不可知をも超えているのだと存じますが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここらあたりが これからの課題であると存じます。ここに収れんすると考えます。  クリアさんの場合には この《可知をも不可知をも超えている存在》は わたしたちを覆い包むと見ておられるようですね。それとしての特徴であるかと存じます。表現のあり方は 人によって幅があると考えております。  ★ 私たちという存在を、夢をみている無限意識の夢の内容であるという言い方を私はしておりまして、その夢の内容・夢の世界の存在でしかないのが私たちなんだといっております。    ☆ さてこの課題ですが その前に 経験世界――何ものかの夢の中の内容であるこの世の中――において 可知・未知・不可知ということが議論されているようです。わたしの考え及ばなかった領域にあるようです。そしてそれは 次のご回答(No.7)で ひどっちさんに示してもらっています。 これからねじり鉢巻きで取っ組むところです。クリヤさんも見守ってください。そしてご参加ください。

  • yosiochan
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回答No.5

よしおです。こうやって続けて書いていいかわからないけど、おもしろいので、書きたいので書きます。 《不可知》とは 《可知の領域における未知の分野》でないというのが、私の見解です。 私にとって、可知はないのです。 科学や経験で可知と思われている事柄でも、それが絶対正しいとは限らない。たとえ、それが科学的で、経験に基づいて証明されてもです。 じゃあ、何が正しいの?真実なの?ということなら、「正しいことなんて無い」ではなく、正しいことを知りえない。真実(本当のこと、物事の本当の有り様、存在の仕方)を絶対正しく知ることは、無理。という意味で不可知なのです。 だからといって、科学が無駄というわけじゃありません。ある条件下では有用なので、有効です。役に立っている意味で、「科学は真実(経験的にほんとだぁ!)」と思われていると思っています。 実用主義というのでしょうか、「神も役に立てば、真理」というのを読んだことがあります。そんな感じです。 真理・真実はその人、それを認識する主体によって違うのです。 だから、従来の客観性はありません。 主体抜きの客観的事実はないのです。 というか、ないということさえ、わかりえないのです。 なぜか?認識する我々を介して、物事を認識してるからです。 我々の認識の仕方や物事の存在の在り方(これも我々が認識する)に不可知にならざろうを得ない原因?があるからです。 と、私は考えています。

bragelonne
質問者

お礼

 よしおさん ご回答をありがとうございます。  なるほど。わたしの理解が独り善がりでした。  あらためて ご返事を差し上げてまいります。  ふたつの段階があると思います。  (1) ひとつは 《可知》というときその認識の真実性ないし妥当性には 度合いがある。ひとによって違うものだ。という見方です。   (2) もうひとつは そのように認識の真実性に浅い深いがありさらには どうもズレさえあるのではないかと見られるとき そうは言うものの その認識すべき対象についてほんとうにほんとうのところ(事実または真実)はあると考えられる。したがって そのものごとのほんとうのあり方を知ることをめぐっては 不可知という見方が持たれる。  さてわたしは (1)はここでは扱っていないのです。言いかえると 人びとのあいだで大きく差しさわりの出ない範囲で 互いに共通の物差しを持てているなら それでよしとするものです。あなたとわたしとで 背が高い低い 顔の色が黒い白い 重い軽い・・・という比較対照が出来て 互いに認識を共有できればよしとします。  したがって (2)がもんだいです。じつはこれも わたしはほとんど扱っていないのです。ただし このことは その説明が必要です。なぜ扱わないかの説明です。その説明において 不可知とは何でないか〔とわたしは思っているか〕が明らかになると思います。  ちょうど(1)の議論で 認識の真実性については おおむね妥当であれば あとはその深浅を問うことは二の次とするとしたことに表われているかとも思うのですが いわゆる《もの自体》を知ることが出来るかどうかは これも二の次とするという考え方です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  じゃあ、何が正しいの?真実なの?ということなら、「正しいことなんて無い」ではなく、正しいことを知りえない。真実(本当のこと、物事の本当の有り様、存在の仕方)を絶対正しく知ることは、無理。という意味で不可知なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これに合わせて言えば 《正しいことを知るかどうかは どうでもよい》となります。《ものごとを正しく知ることは 無理であろうが有理であろうが どうでもよい》という意味です。  ですから 認識の真偽をものごとに沿って正しく判断することについて それは《不可知》だとも《可知》だとも言わない。となります。放っておくという意味です。  なぜか?   という問いを立てることは よしおさんに反論することになると思いますが こうです。  (あ) まづ それこそあなたの言うように 認識する人によってズレや浅い深いの差が生じる。  (い) しかも わたしの場合には それでも互いに最大公約数のごとく共通の認識内容が得られればよしとする。それで 意志疎通は図れると思うからである。  (う) しかるに 認識ということに正しいということはあるのか?   (え) 最大公約数の共有と言ったとて それは 時代によって価値が変わるほどである。不可変的な認識というものがあるのか?  (お) わたしの場合 その判断を保留するという意味は 可知だとも不可知だとも決めていないことです。  (か) なぜなら では何故 可知だとか不可知だとかが 分かるのですか? という問いに答えがあると思っているのです。  ★ 我々の認識の仕方や物事の存在の在り方(これも我々が認識する)に不可知にならざろうを得ない原因?があるからです。  ☆ おそらくそのようではないかとわたしも思いますが けれども 不可知だと決めることができますか? また何故決めなければならないのですか?  ですから ずるいやり方で 《未知》には 《正しい認識が出来るか》についての可知か不可知かの判断を保留するという意味での《まだ分からない》が含まれるとしておけば どうにか共通の了解が得られるのではないですか? どうでしょう?  つまり もしこの線で行けば 不可知とは いったいどこにあるのか? となります。

回答No.4

 ANo.2です、bragelonne さん。  ご質問の文章内容に対して、全く異議も疑義もないという事ですよ。  仰せの通りだといっています。  余計なことですが、仮に夢の中のことを考えると、夢の中で自分がなっている行為者や経験している意識主格は夢の外にいる夢を見ている意識の事は分らないですね、という事だけなんです。  そしてもしこの目覚めている私たちのこの世界と、私たちがある無限な意識が頭や意識のどこかでわざと夢を見ているとしたら、私たちってその無限なる意識を知る事はできないでしょうね。ということに過ぎません。    無論、この私たちもその無限の意識の内容でしょうから、仮に自分においてその無限意識存在者がその無限存在意識を持ってしまったら、つまりそれを顕してしまったら夢は終了し、無限意識の存在者がそこにいるということになるのでしょうね。  そういう人は自由にまたこの夢世界になってみたり、醒めてみたりするのかな。  bragelonne さんは何かひねりすぎて読もうとするから、私も応えようがない、再度のご質問になっているようです。  どうか単純にお考えください。

bragelonne
質問者

お礼

 かえってわづらわせ申し上げてしまったかも知れません。ご回答をありがとうございます。  たぶん表現がちがっているものと考えます。という意味は どういう角度から見るかで違ってくるということかも分かりません。  まづは 確認しておきます。  ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~~~~~   その前に   ★ 私たちが何か〔* つまり謎の何ものか〕の紡ぎの結果である存在だとすれば、その紡ぎ行為の外のことは分らないかもしれませんね。   ☆ とおおせのことは 基本的な原点だと――それは 有神論の立ち場からの表現ですが 無神論からも実質的に同じ中身のことが表明されると思いますので――考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこでです。表現の違いは 次のようなかたちです。  ★ 仮に夢の中のことを考えると、夢の中で自分がなっている行為者や経験している意識主格は夢の外にいる夢を見ている意識の事は分らないですね、  ☆ というふうにたとえで表現された人間存在のあり方――基本的な条件のもとにおける人間のあり方――をめぐって 《可知・未知・不可知》という捉え方をすれば どうなるか? まづこういう角度があるようなのです。その見方にわたしもつきあって では《不可知》とはどういうことか? とはっきりさせておきたいと思いました。  意外とむつかしいのに気づきました。実在の《不可知》とは何であるか? これが分からなかったからです。  さて上の夢のたとえをめぐってですが 捉える角度を変えますと 《夢を見ている者(すなわち人間)》と《夢の――おそらく外の――無限意識なる存在者》との関係やいかに? になると思います。  そのとき ついぞ生涯を夢の中に過ごすとしか思われないニンゲンにとって 謎の何ものかは 《不可知》なのか? です。  無限意識の主体と夢を見続ける主体とは 互いにひとしくはない。このことは分かっています。ひとしいなら 夢から覚めるニンゲンがもっと多くいてもいいでしょうから。  では 《不可知》か? ひょっとして《可知》か?  分かっていることは 互いに同等だと言えるほどのかたちで《可知》であるわけはないということです。  では 借問になりますが わたしたちは自分たちがただの夢の生を送るに過ぎない存在であると自覚することができて さらには無限意識の存在をも想定することができるというのは それでも《かの存在》は 未知なのですか? 不可知なのですか?  可知をも不可知をも超えているのではないですか?     ところが 要するに《神》を《不可知》だと規定して平気で議論しているのに出遭って 困りました。弱りました。  だってニンゲンは それほど賢い者なのかと思うからです。神だろうが何だろうが すべて自分の理性で知り得るし規定しうると思っているのだなぁと思ったからです。  《無限なる存在は〈不可知〉である》と言ったとするなら これは《不可知》という概念で無限者を規定していることになります。規定するということは 規定しうる側に立ったことを意味します。つまりは 不可知だと規定することでその神を制御しようとしている。そのニンゲンがです。  憤慨したのです。そのとき。    クリヤさんは 気になりなさりませんか?

  • yosiochan
  • ベストアンサー率20% (27/135)
回答No.3

哲学で言うとこの「不可知」の意味するとこは、私は知らないんだけど、私も「不可知」という概念を使うので私の考えている「不可知」を以下書きます。 例えば、夕焼けを見て「赤くてきれいだね」と言ったものの、ほんとに赤いかどうか、ほんとの色はわからない。 私と夕焼けがコラボ?して、私には「赤い」と感じるだけ? また、一緒に見ている人が「そうだねぇ、真っ赤だねぇ、きれいだねぇ」と共感しても、その人の見ている色と私の見ている色が同じとは限らない。 見ている色は、見ている人の価値観の影響を受けるし、そういう意味ではそもそも本当の色などあるのか。 ただの言葉に過ぎなく、人間が作り上げた概念の一つで、ある生き物にとっては、色も音もにおいも区別が無いかもしれない。 犬はこの夕焼けを違う色で見てるかも。。けやきはこの夕焼けを暖かいとみてるかもしれない。。。 色を波長(周波数)と捉え、客観性をもたせても、その波を受けとる側が個々違うのでは、いったいその客観性はなんの意味があるか? その客観性も一つの見方にすぎず、色そのもの(本質)を捉えたものではない、色の持った属性の一つにすぎないのでは? なんて考えると、「ほんとのとこはわからない」「ほんとのことは知ることはできない」と思うのです。 色だけでなく、数学からなんでも・・・わかってると思うのは、限定された条件下での便宜上の真実らしきものだけで(科学的にもしくは経験的に正しいと思っているだけ)、それも絶対ではない、というか絶対ではないかもわかり得ない、という考え。 だから、「何故不可知とわかるのか?」ということも、絶対に不可知かどうかもわからないので、「不可知なんです(わからないんです)」といってるのです。 最初から可知(絶対的な)がないんです。可知と思っていることも、「あんたがそう思っている」と考えているのです。 不可知論なんてかっこつけて言ってるけど、広い宇宙、何があってもおかしくないってかんじかな。 と以上が私の不可知論です。参考になれば。

bragelonne
質問者

お礼

 よしおちゃんさん ご回答をありがとうございます。  わたしの理解しているところを 一方的に書きますので その点あしからずお受け取りいただければありがたいと思います。  それというのも   ★ 例えば、夕焼けを見て「赤くてきれいだね」と言ったものの、ほんとに赤いかどうか、ほんとの色はわからない。  ☆ うんぬんと さまざまに説明してもらったいくつかの内容 これらが全体として《可知》の領域をかたちづくっている。ということではないですか? そう思うからです。  光の波長うんぬんといったところがおもなコトなのだと思いますが いままだ分かっていないコトがあったとしても それは 未知であって(未知として扱われるのであって) おそらく不可知ではないでしょう。たぶんそう述べてもらっていると思うのですが 不可知と決められるものではなく 決める必要もないのだと考えます。  もしこれらをまとめて言えるとすれば この経験世界――つまり かたちあるモノ・コトのかかわる世界――にかんしては 未知の分野を含めて 人間にとって《可知》の領域になるのだと思うのです。  つまり 煮詰めていけばそれほど違わないと思うのですが 表面上は違っていると思いますので さらに対照させますが  ★ ・・・なんて考えると、「ほんとのとこはわからない」「ほんとのことは知ることはできない」と思うのです。  ☆ というときの事柄は 《未知》という分野としての《可知》の領域に入ると思うのです。  もしこうだとすれば いままでのところ――という意味は あくまで〔観念としてでも〕かたちのあるモノ・コトのかかわる経験世界にかんするところのことですが―― まだ《不可知》は 出て来ない。不可知と呼ぶべき事態は 現われていない。のではないでしょうか?  ここからは その人が分かって不可知ということを言っていると見える場合についてのわたしの推測を交えた考えですが。  おそらく《不可知》という言葉は この相対的な経験世界を超えた《絶対》の領域について 用いているのではないかということです。そしてもしそれならば  ○ この《絶対》は 不可知なのではなく そうではなく 《可知の領域を超えた場》であり 《可知か不可知かが分からない場》である。  ☆ となると思っているのです。  ともかく《不可知》とは 《可知の領域における未知の分野》でないとすれば いったいどういう事態なのでしょう? と思っています。どうなのでしょう?

回答No.2

 bragelonneさん久方ですね。  私は仰せのとおりだと存じます。  一応何かをいいたいと存じます。  私たちは夢を見ますね。夢の内容、景色も環境も世界も、登場してくる主格意識達もそして客体存在も、夢を見ている私たちの意識の中の事ですね。  そこにいた夢の主人公は自分が全部知っているつもりですね。でも夢の外のことは知らないのでしょうね。  私たちが何かの紡ぎの結果である存在だとすれば、その紡ぎ行為の外のことは分らないかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 クリヤさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 私は仰せのとおりだと存じます。  ☆ とおっしゃっていただいたのは 次のたたき台の内容のことですか?  ☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~  経験世界は すべてけっきょく可知なのではないですか? ですよね?  そして経験世界を超えるところは 不可知なのではなく そうではなく 《可知か不可知かどちらであるかが分からない》のではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 残念ながら まだ二つの点で分からないのです。  その前に  ★ 私たちが何か〔* つまり謎の何ものか〕の紡ぎの結果である存在だとすれば、その紡ぎ行為の外のことは分らないかもしれませんね。  ☆ とおおせのことは 基本的な原点だと――それは 有神論の立ち場からの表現ですが 無神論からも実質的に同じ中身のことが表明されると思いますので――考えます。  はっきりしない点というのは――そのきっかけとしては この《不可知》ということをあたかも平常のこととして使っている場合に出会ったからですが―― 次のようです。  不可知もしくは知り得ないということは 知り得る事柄について範囲が決まり 知るという人間の能力についても限界が明らかになるということだと思うのですが 果たしてこのような範囲だとか限界だとかは 人間に分かるのでしょうか?  すなわち 不可知というのは 実際に科学的に知り得る範囲とその外ということが特定し得るのか? です。というのも 境界が分かれば その先についても何かが分かるようになるのではないかともうたがわれるからです。  もうひとつに 或るものごとをつかまえて《これは不可知だ》ということはあるのか? あればそれは いったいどういう事態なのか?  すなわち すでに《或るものごと》については 何らかのかたちで規定しているわけです。漠然とでもそれがどういうものごとかを目の前に持ちだして来ていると思われます。そしてそれが(もしくは それの一部分が) 不可知だということは いったいどういう事態なのか? これです。  (念のために添えれば 未知は大きく可知に入ります。いづれ知り得るようになるという意味においてです。未知ではなく 不可知だというのはいったいどういうことでしょう?)    ふたつは けっきょく同じひとつのことであるのかも知れません。どうも自然科学の知識が必要のようにも思って ちょっと行き止まりました。  みなさんともども よろしくどうぞ。

  • wooooops
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回答No.1

すばらしい。あなたはすべてお見通しなわけですね! しかし、例えば自分が青いと思っている空ですが、他の人は、全く同じ青色を体験しているでしょうか? それがあなたにはわかりますか? デジカメは各会社によって発色が違うじゃないですか? 故障してたら青い空が赤く写り、赤いりんごが青色に写る可能性だってあります。しかし、あなたの視覚が、そのような変調をしていても、あなた自身、それに気づくことは不可能です。 自分以外に他人がいます。普通は他人も自分と同じように意識を持って、考えたり感情を体験したりしていると思うでしょ。でも、その証拠はどこにもありません。そんなフリをしている、単なるロボットかもしれなくないですか? それが不可知論的な独我論です。 考えると楽しいですね。私は理系ですが、認識科学と哲学は本当に近いと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ええっ? ちょっと待ってください。――あっ ご回答をありがとうございます。――  ★ 不可知論的な独我論  ☆ ですか? 《独我論》ではないから 《不可知》が――もしそれを前提として持ちだす場合には――設定されるのではないのですか?  独我論であるなら 可知であろうが不可知であろうが 自分〔だけ〕の世界において それぞれとして規定すればいいのだし しているだけなのではないですか?  ここでは 《われ》を共通の存在として(すなわち その自然本性としての能力に共通性があるとして)考えています。独我論をしりぞけて考えています。  時空間あるいは重さ これを測るのに共通の物差しがあるという前提で 話をしています。  不可知とはどういうことでしょう? よろしかったらおしえてください。    質問者も自分の考えをたたき台にしたほうがよいとなれば 次の箇所が それになると思いますので よろしくどうぞ。  ☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~  経験世界は すべてけっきょく可知なのではないですか? ですよね?  そして経験世界を超えるところは 不可知なのではなく そうではなく 《可知か不可知かどちらであるかが分からない》のではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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