• ベストアンサー

ロマン主義について

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.16

 No.1&4&6&8&9&10&13&15です。  ちょっと露出しすぎですが はりきってまいります。  すでに読んでおられるかも分かりませんが スサノヲとアマテラスの物語――むろん bragelonne 版です――をかかげておくとよいと考えました。ほかのみなさんも スサノヲイストだとかアマテラシストだとかいうときに分かりやすいでしょう。  ただしこの解釈は 神秘的です。神学の要素を入れずには表現しにくいものでした。  ○ (スサノヲだけがなぜ自由か) ~~~~~~~~~~~~~~~~  それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。  ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。  宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。  この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ 春姫  ☆ も真っ青の――同じ春つながりで――春香(チュンヒャン)という名のすばらしき女性が お隣の韓国にいるようですよ。《春香伝》。ハッピーエンドだったと思うのですが もうはっきりとは覚えていません。  ★ (No.15補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (1)については個人の問題だ(として受け止める)という回答が多いのですが、唯一ブラジュロンヌさんだけが、「歴史必然的なこと」として突き放しています。  そして、(3)についてはどうも、他の回答をみますと、皆さん、なかなかのアマテラスぶりだと思うのですが、如何でしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 上のスサノヲの話において かれがアマテラスの国を離れて自由になったあと――それがイヅモのくにですが―― その五世ほどのちのオホクニヌシの代になって アマテラス国は 服属の要求をして来ました。医療などに熱心なことが知られてその企業秘密を欲しがったようです。そこで 非戦論を採って《くにゆづり》をしました。主戦論も非戦論もどちらも人間の弱さからえらぶものだという考えなのでしょう。  ですから 世の中に ヤシロの第一階の上にスーパーヤシロとしての第二階が出来たのは この《くにゆづり》の結果です。ヤシロにとって求心力は必要だと見なされたものと考えられます。  そういう意味で歴史必然的なことだと見られますから 一方で忌まわしきことであると考えますが 他方ではその必然の歴史が人びとの共同主観によってつくりかえられる時を俟つというのが 基本的な姿勢です。国際政治ないし外交関係は 理論的には進まないと思われ 取りあえず現状を受けとめ引き継ぐ必要があると考えます。  もっとも 出来るなら それと同時にすでにムラ(市町村自治体)は率先してインタムライスムを実行に移していってよいと考えます。  ★ 、(3)についてはどうも、他の回答をみますと、皆さん、なかなかのアマテラスぶりだと思うのですが、如何でしょうか。  ☆ 幻想共同を もしアマテラシテ(象徴)の問題だと見た場合 これは 人工的な特異点であるということ。これを知らないので 人びとは自分を知らず知らずのうちにアマテラス予備軍のごとく扱うのではないでしょうか。  スサノヲ共同体によって国ゆづりを受け それにもとづきまつりごとを司っている。まつりごとの上の象徴権威として立てられている。そういう人為的な決めごとのもとにある。選挙権も被選挙権もなくあたかも社会の行為関係から自由な特異点に位置しているようであるけれど この特異点は人工のものですから それを繭でつつむ。もしくは人びとの目を頭を繭でつつむ。という観念の共同が おこなわれていると見ます。  でも何で世襲なのかと問うても誰も答えられない。それこそ経験合理性から自由な特異点であるようですが それは歴史的な経緯において人びとがそのように取り決めたからそうなっているというふつうの社会経験なのだと考えます。万世一系もすべての人に当てはまりますし。  その地位にいつづけたいということであれば あまり無理に何かを変えるのも社会秩序の問題からいけば考慮の余地があるのかも知れません。要は 特異な社会的存在のあり方なのですから たぶん誰もがこれを自然的かつ社会的にふつうのあり方であって欲しいと望んでいるものと考えます。

ri_rong
質問者

補足

 ご回答ありがとうございます。  春風のような話を伺ったので、そうですね、日本にも「ロマン主義」はあったんじゃないか、と思う点を、僕もひとつ書いておきたいと思います。  先のお礼に少し書きましたが、「歴史必然的なこと」とお書きの繋ぎに、もう少し具体的なことについてはなしを進めていってみたいと思います。というのも、「ロマン主義」という立派な呼称が与えられたのも、それはひとつに歴史の重みといいますか、先人からの「贈物」であるわけで、それを良いだの悪いだのと言ってみても、その恩を返すべき先人はもう居ないわけですから、ここはひとつ、謙虚に構えて、ありがたく受け取る姿勢を取りたいと思うのですね。  でも、海のものとも山のものとも――という感じ(燃えるゴミか、燃えないゴミかという意見もあるでしょうけど)ですから、ともかくまずはこの贈物について、考えてみたいと思います。  西欧では、特に身分の高い人が、人々への無償の贈与を自らへの責務と感じて義務化するのに対し、日本ではむしろ低いくらいの身分の方が、同情と哀れみの気持ちを寄せますよね。なんだか、ずいぶん様子が違っているような気がするのですが、むろんここではその行いのどちらが良い、悪いと評価するのではなく、この違いを生じさせる思想の体系について考えてみようというわけです。  おそらく、日本人のその理由としては施し(贈物)というものに対して、自らの責務よりも先に、渡した相手を貶めるという気持ちが先立つからじゃないかと思いますが、どうでしょう。また、受け取り手も「贈物」を受け取ってあまり良い顔をしない。違うでしょうか。  仮にそうだとして、「贈物」に結び付いた日本ふうの思想がどこに由来するかと、あれこれ考えて見ますと、どうもそれは祭りじゃないかと思うんですね。  日本の祭りに詳しいわけですはないですが、土地神様にお供えする「贈物」は、口では五穀豊穣とか、「良いことがありますように」なんて言ってはいても、こころのなかでは、どうか飢饉や戦争が起こりませんように――つまり、何事もなく平和でありますように――という大いなる力の関与を、拒否する目的で、なされるような気がするんです。  つまり、日本人にとっての贈物は、拒否のシンボルなのではないか――というふうに思うわけです。 だから、ひとたび贈られてしまうと、何がなんでも贈り返さねばならない。田舎へ行ったときに、お歳を召された方どうし、繰り返し言葉の贈り返しをなさっているのを見たことがあります。  あれはつまり、拒否ではないか?  けれども、ある程度のところでその拒否を、どちらかが飲み込まねばならないときが来る。ぐっと堪えて飲み込むのです。――こういう感覚が、あるような気がします。  日本にも「ロマン主義」があるよ――というお説に少しながら加筆するとすれば、これではないか?  と思うんですが、どうでしょうか。

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