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ロマン主義について

ghostbusterの回答

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回答No.21

冨山房百科文庫の『ロマン派文学論』の「解題」で、訳者の山本定祐は、従来の「ロマン主義」に対する見方、「無限なるものへの憧れ」という規定が、かならずしも正確なものではない、としています。 「そこからただちに夢見心地のうちに遠い世界に憧れたり、月の光を浴びた森の孤独を愛する通俗的ロマンチシズムが導き出されたのは、主として後期ロマン派の毒素に犯された感傷主義によるもので、これが長くロマン主義一般を蔽うことになる」(xi「解題」) 確かにシュレーゲル自身も、「(※文学作品における人物や個々の事件など)はすべて…より高いもの、無限なるものへの暗示にすぎない」(『文学についての会話』)とも言っている。けれどもこの「無限なるもの」というのは「隠されたもの」としての憧れの対象である、その「無限なるもの」と「有限なる存在」との失われた結びつきを取りもどそうというのが、シュレーゲル文学論の要である、と。 シュレーゲル自身はこのような言い方をしています。 「無限なるものの意識は構成されなければならない――反対物を破壊することによって」 「無限なるものという意識は存在する。ただ有限なるものという幻想が破壊されさえすれば、それはあらわれる」(『哲学的修業時代』第一部) この「有限なるものという幻想」の破壊、すなわち「自己破壊」が「イロニー」であるというのです。 シュレーゲルは「イロニーは永遠のパレクバーゼ Parekbase である」という。このパレクバーゼというのは「作品〔古代アテネの喜劇〕の途中で、合唱隊によって詩人の名前で民衆にむかって語りかけるものである。実際それは作品の完全な中断であり、破棄である」(『ヨーロッパ文学の歴史』) たとえば、幻想とは何かを説明しようとすれば、それこそ「月の光を浴びた森」といった「幻想的」とわたしたちに感じられるものを持ってくる、というやり方が考えられます。けれども、シュレーゲルがいうのは、劇の進行中に、合唱隊が詩人の代弁者として観客に語りかけるという方法で説明するのです。 作者がいきなり語りかけることによって、それまで感情移入していた観客は、卒然として「これは作者のいる虚構なんだ」ということに気がつく。つまりは、観客は、自分の目の前の世界を相対化する、という視点を獲得するわけです。いったんそういう目で見てしまえば、劇の外側に広がる世界が、虚構ではない、これを見ている自分が劇の登場人物ではないという保証はいったいどこにあるのだろう。いやいや、この世界は劇とはちがう、虚構などではない。だが、劇とちがうという根拠はいったいどこに? 単に、自分がそう思っているだけではないのか。ある日、合唱隊が出てきて、作者の言葉で突然話し出さないという根拠はないぞ……、というふうに、この世界の「外」に意識は向かう。こうして「無限なるものの意識は構成」されていくわけです。 通常アイロニーと呼ばれるものは、皮肉な物言いを指します。けれども、そういう言葉遣いだけのものを、シュレーゲルは「修辞学的なイロニー」「個別的なイロニー的言辞」として、本来のイロニーとは本質的に別の次元に属するものであり、「哲学がイロニーの本来の故郷である」(「リュツェーウム断片」42)。そうして西欧哲学の原点ともいえるソクラテスの「イロニー」に言及していきます。 「ソクラテスのイロニーは、徹頭徹尾本能的でありながら、しかも徹頭徹尾考え抜かれた偽装の唯一のものである。それを装うことも、つい表に出してしまう、二つながら不可能である。それを所有していない者にとっては、いくらあからさまに打明けられても依然として謎である。それを欺瞞だとみなす者以外の人たちを、それはけっして欺くことはない。世間全体をばかにするという結構ないたずらを楽しんだり、自分たちも当てつけられているのだと感じて不機嫌になる者以外の人たちを、それは、けっして欺くことはない。 そこでは、すべてが戯れであり、同時にすべてがまじめである。すべてが無邪気にあけっぴろげであり、同時にすべてが深く偽装されている。それは、人生に処する感覚と学問的精神の結合から、完璧な自然哲学と完璧な芸術哲学の出会いから生ずる。それは、絶対的なものと制約を受けたものとの、あるいは完全なる伝達の不可能性と不可欠性との、解決不可能な相克の感情をふくんでおり、かつまたそのような感情を呼びおこす。 それは、文学上のあらゆる自由のうちで最も自由なものである。それによって、われわれは自分自身を超えることができるからである。…」(「リュツェーウム断片」108) ソクラテスは対話相手に無知を「偽装」します。自分は答えを知っていると思っている相手に対して、あいづちを打ちながらも、相手の依拠するところをひとつずつ崩していき、最後には、自分の考える正しいと思うところへと誘導していきます。これは一種の演劇、つまり、文学の助けを借りてなされていくのです。 だったら最初から大切なことをぱーんと言っちゃえばいいじゃないか、何を迂遠な、意地の悪いことをしているんだ、という見方も、しようと思えばできる。だけど、それをしない。だから産婆術なんですね。そうして、イロニーというのは、eironeia つまり「産婆術」からきている。 行為遂行言語というのがありますよね。 たとえば、「わたしはあなたと結婚する」と言うこと自体が、「結婚する」という行為にあたる。 けれども逆に、言葉にしてしまえば、内容が変質するような種類の言葉もあると思うんです。たとえば、「あなたを愛している」とか「あなたを信頼している」とかという言葉です。 もし相手を愛していたり、信頼していたりしてるんだったら、何も言う必要がないわけです。ただ黙って行為してればいいだけの話だ。だけど、それを言葉にして相手に告げることによって、「あなたを愛している(ところのわたしを愛してほしい)」という要求であるとか、もっとひどいのになると「先生はな、おまえを信頼してるぞ(だからそれを裏切るような真似をするんじゃないぞ)」という恫喝という行為として遂行されているケースが少なくない。「完全なる伝達」が「不可欠」であればあるほど、言語はそれを「不可能」にしてしまう、と言えるのではないか。 そうして、それを可能にするのが、「文学」―といっても、これは狭い意味ではなく、広義で不定型なものなんですが―なんじゃないか、と思うわけです。 > 僕をはじめ、多くの回答者は、それを教えて欲しいと思っているように考えます。 そうですね。わたしもそれを知りたいと思います。知っているのなら、ほんとにどれだけうれしいか。 でもね、その答えは、答えとして言葉に出された時点で、ちがうものに変質してしまうのではないか、とも思うんです。 ああ、これがシュレーゲルのいう「イロニー」なんだ、とわたしが思ったのは、こんな「エクリチュール」です。 何年か前に、秋田で実の娘と、その友だちを殺したとされる女性のことが、ずいぶん話題になったことがあります。その人が高校を卒業したときに送られた寄せ書きを、テレビで見たことがありました。言葉の暴力、という表現はありきたりですけれど、文字通り、殴りつけられるような言葉が、これでもか、これでもかと書き連ねられていた。けれど、そのなかに、小さな字で、ふたつだけ「お元気で」とあったんです。 それこそ、合唱隊の声で作者に呼びかけられたような気がしました。これを見ている「わたし」だったら、どうしていただろう。もしかしたら、その女性のなかに、そんな罵声を引き出すようなものがあったのかもしれない。言葉巧みに、もっと彼女をえぐるような言葉を書かなかったとは言えないのです。 それを書いた子たちが、どんな思いでその言葉を書いたか、わかりません。ごくありきたりな、建前でしかなかったのかもしれない。けれど、その子たちの意図を超えて、その言葉には、わたしを立ち止まらせるものがありました。 子供を殺すなんて言語道断だ、とか、彼女こそいじめの被害者なのだ、とかという「物語」のなかで、自分はどうなんだ、と、はっと気づかせるような。 この言葉は、その人には届いたかもしれないし、届かなかったかもしれません。わたしにはそのことはわかりません。けれども、人が、節度を持って人に相対することの大切さ、みたいに言葉にしちゃったら全然ダメになっていく「何ものか」が、その小さな言葉にはあったように思います。 おそらく、言葉は、そういうかたちで使うものなんじゃないか、って、そのときに思いました。いままで自分はずいぶんいろんなことを書いてきたけれど、その「お元気で」以上の言葉を書いたことがあっただろうか、って。 もうひとつ。その昔、新聞で詩人のアーサー・ビナードが、原爆のことを書いていたのを読んだことがあるんです(あやふやな記憶ですが)。 栗原貞子の原爆詩「生ましめんかな」を読んで、感動したビナードが、それを訳そうと思った。すると、すでに先行訳があって、Let us be midwives と訳してあったんだそうです。産婆さんになろう、だなんて、なんて即物的な訳だろう、と最初は思ったのですが、やがてそういうことなんだ、と、逆に、その詩を深いところで理解できたように思った、とあった。 わたしもこれを読んだとき、そういうもんかな、ぐらいに思ってたんですが、どこかに引っかかってたんでしょう。このイロニーが産婆術に語源を持つというのを読んだとき、思い出しました。 産婆になら、なれるんじゃないか。イロニーさえ、忘れずにいたら。世界を見、世界を見る自分を省みる視点さえ忘れずにいたら。だから、わたしたち、みんな産婆になりましょう。いや、わたしは本気でそう思ってるんです。 長くなりましたが、何かひとつでも参考になれば幸いです。

ri_rong
質問者

お礼

>何かひとつでも参考になれば  なるほど、何かひとつでも、ですか。何かひとつでも、無駄があるとは思えないご回答だったと思います。ありがとうございます。そうですね。産婆術ですか。(3)への回答としては、まったく相応しいお話だったと思いました。ソクラテスのような語りは――僕にそれができるかどうか、それはまったく自信がないですが、おはなしに関して言えば、納得です。  他のご回答の履歴を少し読ませていただきましたが、どうやらご回答者様の、ひとつの姿勢のような感じですね。何かひとつでも――いつも、どの回答にも、ご回答者様のその姿勢が見える。そう、僕には読める。何かひとつでも――これは、名言だなと思いました。  僕は産婆さんにはなれそうもないですが、何かひとつでも――ひとつくらいなら、これなら、僕にもできそうです。

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