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ロマン主義について

 ある問い語りで得た名言――蚕が繭の中にすっぽりと入っ〔た〕平和な状態――が生まれたのは、恐らくロマン主義の影響ではないかと僕は思っています。まず、僕の理解している史的なあらましを書くと、こんな感じです。  ――個人という概念は、近代になって発生した。さきがけとなるのは、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約説』で、その主張は「主権があるのは財産を有するなどの特別の資格を持つ国民ではなく、人民(国籍を有するもの全て)にである」というものだった。個人としての内なる世界の誕生、そして個人的感情の尊重と想像性の開放、これがロマン主義の影響だと思います。この思想は18世紀後期からずっと現代まで、途切れることなく続いている――  これに間違いがあれば、ご指摘ください。また、この影響下にある(であろうと思われる)作家について、著名な作家としては村上春樹についての質問が最近あがったと思います。くだんの言表にある「繭」は、そこでは「卵」であり、僕の表現では「箱」であり、いずれにせよそれは、ひとつの小さな世界であろうと思うのですが、さて、ここからが質問です。  (1)このような「観念の共同」は忌まわしきものなのでしょうか。  (2)忌まわしいならば、この共同幻想から独立するためにどうすれば良いのでしょうか。  (3)この幻想とともに暮らすならば、どう生きれば良いのでしょうか。

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回答No.21

冨山房百科文庫の『ロマン派文学論』の「解題」で、訳者の山本定祐は、従来の「ロマン主義」に対する見方、「無限なるものへの憧れ」という規定が、かならずしも正確なものではない、としています。 「そこからただちに夢見心地のうちに遠い世界に憧れたり、月の光を浴びた森の孤独を愛する通俗的ロマンチシズムが導き出されたのは、主として後期ロマン派の毒素に犯された感傷主義によるもので、これが長くロマン主義一般を蔽うことになる」(xi「解題」) 確かにシュレーゲル自身も、「(※文学作品における人物や個々の事件など)はすべて…より高いもの、無限なるものへの暗示にすぎない」(『文学についての会話』)とも言っている。けれどもこの「無限なるもの」というのは「隠されたもの」としての憧れの対象である、その「無限なるもの」と「有限なる存在」との失われた結びつきを取りもどそうというのが、シュレーゲル文学論の要である、と。 シュレーゲル自身はこのような言い方をしています。 「無限なるものの意識は構成されなければならない――反対物を破壊することによって」 「無限なるものという意識は存在する。ただ有限なるものという幻想が破壊されさえすれば、それはあらわれる」(『哲学的修業時代』第一部) この「有限なるものという幻想」の破壊、すなわち「自己破壊」が「イロニー」であるというのです。 シュレーゲルは「イロニーは永遠のパレクバーゼ Parekbase である」という。このパレクバーゼというのは「作品〔古代アテネの喜劇〕の途中で、合唱隊によって詩人の名前で民衆にむかって語りかけるものである。実際それは作品の完全な中断であり、破棄である」(『ヨーロッパ文学の歴史』) たとえば、幻想とは何かを説明しようとすれば、それこそ「月の光を浴びた森」といった「幻想的」とわたしたちに感じられるものを持ってくる、というやり方が考えられます。けれども、シュレーゲルがいうのは、劇の進行中に、合唱隊が詩人の代弁者として観客に語りかけるという方法で説明するのです。 作者がいきなり語りかけることによって、それまで感情移入していた観客は、卒然として「これは作者のいる虚構なんだ」ということに気がつく。つまりは、観客は、自分の目の前の世界を相対化する、という視点を獲得するわけです。いったんそういう目で見てしまえば、劇の外側に広がる世界が、虚構ではない、これを見ている自分が劇の登場人物ではないという保証はいったいどこにあるのだろう。いやいや、この世界は劇とはちがう、虚構などではない。だが、劇とちがうという根拠はいったいどこに? 単に、自分がそう思っているだけではないのか。ある日、合唱隊が出てきて、作者の言葉で突然話し出さないという根拠はないぞ……、というふうに、この世界の「外」に意識は向かう。こうして「無限なるものの意識は構成」されていくわけです。 通常アイロニーと呼ばれるものは、皮肉な物言いを指します。けれども、そういう言葉遣いだけのものを、シュレーゲルは「修辞学的なイロニー」「個別的なイロニー的言辞」として、本来のイロニーとは本質的に別の次元に属するものであり、「哲学がイロニーの本来の故郷である」(「リュツェーウム断片」42)。そうして西欧哲学の原点ともいえるソクラテスの「イロニー」に言及していきます。 「ソクラテスのイロニーは、徹頭徹尾本能的でありながら、しかも徹頭徹尾考え抜かれた偽装の唯一のものである。それを装うことも、つい表に出してしまう、二つながら不可能である。それを所有していない者にとっては、いくらあからさまに打明けられても依然として謎である。それを欺瞞だとみなす者以外の人たちを、それはけっして欺くことはない。世間全体をばかにするという結構ないたずらを楽しんだり、自分たちも当てつけられているのだと感じて不機嫌になる者以外の人たちを、それは、けっして欺くことはない。 そこでは、すべてが戯れであり、同時にすべてがまじめである。すべてが無邪気にあけっぴろげであり、同時にすべてが深く偽装されている。それは、人生に処する感覚と学問的精神の結合から、完璧な自然哲学と完璧な芸術哲学の出会いから生ずる。それは、絶対的なものと制約を受けたものとの、あるいは完全なる伝達の不可能性と不可欠性との、解決不可能な相克の感情をふくんでおり、かつまたそのような感情を呼びおこす。 それは、文学上のあらゆる自由のうちで最も自由なものである。それによって、われわれは自分自身を超えることができるからである。…」(「リュツェーウム断片」108) ソクラテスは対話相手に無知を「偽装」します。自分は答えを知っていると思っている相手に対して、あいづちを打ちながらも、相手の依拠するところをひとつずつ崩していき、最後には、自分の考える正しいと思うところへと誘導していきます。これは一種の演劇、つまり、文学の助けを借りてなされていくのです。 だったら最初から大切なことをぱーんと言っちゃえばいいじゃないか、何を迂遠な、意地の悪いことをしているんだ、という見方も、しようと思えばできる。だけど、それをしない。だから産婆術なんですね。そうして、イロニーというのは、eironeia つまり「産婆術」からきている。 行為遂行言語というのがありますよね。 たとえば、「わたしはあなたと結婚する」と言うこと自体が、「結婚する」という行為にあたる。 けれども逆に、言葉にしてしまえば、内容が変質するような種類の言葉もあると思うんです。たとえば、「あなたを愛している」とか「あなたを信頼している」とかという言葉です。 もし相手を愛していたり、信頼していたりしてるんだったら、何も言う必要がないわけです。ただ黙って行為してればいいだけの話だ。だけど、それを言葉にして相手に告げることによって、「あなたを愛している(ところのわたしを愛してほしい)」という要求であるとか、もっとひどいのになると「先生はな、おまえを信頼してるぞ(だからそれを裏切るような真似をするんじゃないぞ)」という恫喝という行為として遂行されているケースが少なくない。「完全なる伝達」が「不可欠」であればあるほど、言語はそれを「不可能」にしてしまう、と言えるのではないか。 そうして、それを可能にするのが、「文学」―といっても、これは狭い意味ではなく、広義で不定型なものなんですが―なんじゃないか、と思うわけです。 > 僕をはじめ、多くの回答者は、それを教えて欲しいと思っているように考えます。 そうですね。わたしもそれを知りたいと思います。知っているのなら、ほんとにどれだけうれしいか。 でもね、その答えは、答えとして言葉に出された時点で、ちがうものに変質してしまうのではないか、とも思うんです。 ああ、これがシュレーゲルのいう「イロニー」なんだ、とわたしが思ったのは、こんな「エクリチュール」です。 何年か前に、秋田で実の娘と、その友だちを殺したとされる女性のことが、ずいぶん話題になったことがあります。その人が高校を卒業したときに送られた寄せ書きを、テレビで見たことがありました。言葉の暴力、という表現はありきたりですけれど、文字通り、殴りつけられるような言葉が、これでもか、これでもかと書き連ねられていた。けれど、そのなかに、小さな字で、ふたつだけ「お元気で」とあったんです。 それこそ、合唱隊の声で作者に呼びかけられたような気がしました。これを見ている「わたし」だったら、どうしていただろう。もしかしたら、その女性のなかに、そんな罵声を引き出すようなものがあったのかもしれない。言葉巧みに、もっと彼女をえぐるような言葉を書かなかったとは言えないのです。 それを書いた子たちが、どんな思いでその言葉を書いたか、わかりません。ごくありきたりな、建前でしかなかったのかもしれない。けれど、その子たちの意図を超えて、その言葉には、わたしを立ち止まらせるものがありました。 子供を殺すなんて言語道断だ、とか、彼女こそいじめの被害者なのだ、とかという「物語」のなかで、自分はどうなんだ、と、はっと気づかせるような。 この言葉は、その人には届いたかもしれないし、届かなかったかもしれません。わたしにはそのことはわかりません。けれども、人が、節度を持って人に相対することの大切さ、みたいに言葉にしちゃったら全然ダメになっていく「何ものか」が、その小さな言葉にはあったように思います。 おそらく、言葉は、そういうかたちで使うものなんじゃないか、って、そのときに思いました。いままで自分はずいぶんいろんなことを書いてきたけれど、その「お元気で」以上の言葉を書いたことがあっただろうか、って。 もうひとつ。その昔、新聞で詩人のアーサー・ビナードが、原爆のことを書いていたのを読んだことがあるんです(あやふやな記憶ですが)。 栗原貞子の原爆詩「生ましめんかな」を読んで、感動したビナードが、それを訳そうと思った。すると、すでに先行訳があって、Let us be midwives と訳してあったんだそうです。産婆さんになろう、だなんて、なんて即物的な訳だろう、と最初は思ったのですが、やがてそういうことなんだ、と、逆に、その詩を深いところで理解できたように思った、とあった。 わたしもこれを読んだとき、そういうもんかな、ぐらいに思ってたんですが、どこかに引っかかってたんでしょう。このイロニーが産婆術に語源を持つというのを読んだとき、思い出しました。 産婆になら、なれるんじゃないか。イロニーさえ、忘れずにいたら。世界を見、世界を見る自分を省みる視点さえ忘れずにいたら。だから、わたしたち、みんな産婆になりましょう。いや、わたしは本気でそう思ってるんです。 長くなりましたが、何かひとつでも参考になれば幸いです。

ri_rong
質問者

お礼

>何かひとつでも参考になれば  なるほど、何かひとつでも、ですか。何かひとつでも、無駄があるとは思えないご回答だったと思います。ありがとうございます。そうですね。産婆術ですか。(3)への回答としては、まったく相応しいお話だったと思いました。ソクラテスのような語りは――僕にそれができるかどうか、それはまったく自信がないですが、おはなしに関して言えば、納得です。  他のご回答の履歴を少し読ませていただきましたが、どうやらご回答者様の、ひとつの姿勢のような感じですね。何かひとつでも――いつも、どの回答にも、ご回答者様のその姿勢が見える。そう、僕には読める。何かひとつでも――これは、名言だなと思いました。  僕は産婆さんにはなれそうもないですが、何かひとつでも――ひとつくらいなら、これなら、僕にもできそうです。

その他の回答 (25)

回答No.26

 さらに一夜が明けて お早うございます。  セラドンとアストレのNo.24です。  ★ 傲慢  ☆ は程度問題だと考えます。五十歩百歩のそれです。  ★ 礼節  ☆ は自己表現における答責性――文章責任――のもんだいとして捉えています。  ★ 貞節  ☆ は信頼関係のもんだいです。一般に 愛の問題でもいいでしょうけれど 拡散して分かりにくくなります。  ひととひととの関係は 二角関係と名づけ 男女のそれは 対(つい)関係と呼びます。 対関係の信頼は たしかに貞節と呼ぶと思います。  ただし やはり信頼関係のもんだいというその意味は 裏切りがそして裏切りのみが 問われるというところです。つまりは 答責性の問題です。  ★ 個人  ☆ といえば とうぜんそういった問題がかかわっているでしょうね。  ですから 村上春樹に対する物言いも その線です。答責性を持つ人間が出てこないではないかです。傲慢なら わたしは負けません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  けれどもまるで、吹き抜ける西風のように、ひとつの門と言わず、すべての門をたちどころに通り過ぎ、城の奥の奥、人目に触れさず大切に守られてきた水晶を、いきなり「かっさらう」というような、まるで盗賊にも似た技芸というものがある。  「ロマン主義」とはそういう技に似ているような気がしました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは その一面としてという意味にて受け取ります。  ★ ブラジュロンヌさんも、騙し取られた口ですか?  ☆ これはご想像にお任せしますと言いたいところですが すでにここの質疑応答にてかなり露出したところです。  * もしわたくしがお開きを延ばしているようでしたら このやり取りにておしまいということになると思いますので よろしくおはからいください。

ri_rong
質問者

お礼

 さて、そろそろ締めても良さそうですね。名残惜しさがないわけではないですが、ご回答をいただいた皆様には、たいへん貴重なお話しを伺うことができました。ありがとうございます。    ブラジュロンヌさん、愛はどうやら聞き耳を立てているようですから、次あたりにはそんな質問をしてみようかと思っています。また、よろしくお願いします。

noname#91067
noname#91067
回答No.25

>>悲観ロマン主義でも楽観リアル主義でも >という表現には、なるほどなと思いました。でも、こころのなかで  は、悲観を捨てきれず、楽観を警戒されているのではないでしょうか。  仮にその確率を、変えるだけのことだとしても、だからこそ「在り得  るのでは」という期待感が芽生える。柔らかな双葉から真っ直ぐな茎  が伸び、何か底知れない大輪の花を咲かせるのではないか。  そんな期待感です。だからこそ、 >>妥協する・・・ >どうでしょうか。 まぐれ当たりでですが、楽観リアル主義という人の人生が、深遠なロマ ン溢れさせることもあります。 俳優の「ミッキーロークさん」!彼は元はボクサーで、俳優として活躍 すると「セックルシンボル」と謳われる程の人気をはくしたものの、次 第に華やいだ社交界から退き目覚めて?再びボクサーに帰ってたとこ ろ、はまり役となる映画「レスラー」で再び名声を築きました。誰かと 勝負なんてのはどうでもよくてひたすら自分との戦い。正にロッキー (1)したミッキーのサクセスストーリー。 そうそうミッキーロークさんの「エンゼルハート」は悪魔にある人物探 しを依頼された探偵を演じてました。ある人物とは? 目を覚ましていながら仮面が見ているのを幻想はといい、稚拙さが本 来の盲目な妥協(箱の中身)が未分化(カオスの淵)だったから全て受 け入れることとなることも。

ri_rong
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。  どうも、身近に似たような話を聞いたので、補足欄を埋めさせていただきました。

ri_rong
質問者

補足

 懐かしい映画ですね。  夏休みになったからか、友人らが徒党を組んで子どもを連れて泊まりに来ています。  そのなかに昨年結婚したばかりの若い夫婦がいて、奥さんは見知っているのですが(素晴らしく美しいからです)、旦那はどうも薄ぼんやりした風采があがらないふうでした。だからかどうか、世間話の成り行きは、おのずと馴れ初めはどうだったのかということになり、話したがらない両人に渇を入れると、旦那のほうがしぶしぶ語り始めました。  なんでも、日本橋の商社に勤めているらしい。自転車で外回りをしていたところ、銀座の金春通りで、ふらふらと歩いていた女にぶつかって転んだそうだ。男は、怒ったらしい。まあ、東京っ子だからね。でも、その理由が振るわない。  買ったばかりのスーツのひざ頭が、綻んだからだって言うわけだ。情けないじゃないの。そんな理由で、女性に怒るかよって言ったんだけど、アパレル会社に勤めていると、どうもその、何ていうか、思い入れがあったんだろうね。その女が、奥さんだっていうわけだ。でもまぁ、そういう馴れ初めはあるもんだと思い、話を聞いていると、どうやらそれが結婚の理由でもないらしい。  どうもまだ何か隠してるなと思い、吐き出せって言うと、  しぶしぶ旦那が携帯電話を出して、聞いてみろって言うんだね。何だろうと思って、耳に宛てると録音されたメッセージが聞こえてくる。  「ああ、ごめん。切れた。……そりゃね。そうよ、決まってるじゃない。……わかんないのよ。どうしてこうなっちゃったのか。……泣いてるわよ、決まってるでしょ。……だから、言えないってば。……えっ、そう言えば、変なおじさんに怒られた。……違う、違う。知らない人。歩いてたらね……そう。怒られた。でも、そうでもない。……ははは、ちょっと……でも、ちょっと好きかも」  声は、奥さんのものだった。「なんだこれ?」って訊くと、同じ日に、その旦那が有楽町の映画街で、アポイントの時間つぶしに待っていると、柱の影から電話の話し声が聞こえてきたらしい。奥さんの声だったそうだ。彼女は友人か、家族とでも話していたんだろうね。それを何に血迷ったか、この男、いきなり声を勝手に録音したそうだ。  長い電話で、内容を盗み聞きしているうちに、思わず録音してしまったと言うんだが、最後に彼女が言った「ちょっと好きかも」という、そのひとことに、男は未だ経験したことない何か特別な、深遠なものを感じたそうだ。その日以来、男は仕事を終えてアパートに帰ると、ひとりでずっとこの録音を聞き続けたらしい。春が来て、夏が来て、秋が来て――というふうに、季節が巡っても、男は毎日欠かさずその録音に耳を傾けた。  それから三年経った年の暮れに、男は東京の寒空の下で、もう一度その声を見つけた。  という、わけらしい。  ひょっとするとその男にも、ミッキーロークの楽観があったのかもしれないなと思いました。

回答No.24

 お早うございます。  さて一夜が明けて 幕が締まり緞帳さえ降りて来ようというときに 一石を投じる破廉恥を決め込みました。  光が曲がるのであれば 《個人》にも 従ってのように《ロマン主義》にも いろいろな中身を帯びてくるという現象がつきまとうでしょう。  そこで オノレ・デュルフェ『アストレ』(1610-27)の問題を提出します。  ▲ (オノレ・デュルフェ『アストレ』) ~~~~~~~~~~~~~  かのじょは腹に考えをもった。目の前にいる男に向かって軽蔑をあらわにしなければならない。案の定 その心の火は激しく燃え出してくれた。男は口を開こうとしたが かのじょは かれの最初の声の出るのをさえぎって 言うことができた。    ――羊飼いさん あなたのあだし心がそんなに悪辣なのでしたら い     くら剛情を張ってわたしをだましつづけようとしても もう 無駄     です。あなたに自由に誘惑させようとしたのは このわたしです。     わたしがだまされたとでも思っておいでですの? いいほどわたし     に逆らっておいて まだ わたしの初めのはかりごとを つづける     気ですの? 顔色ひとつ変えずに 誓いを破った心を隠しながら      よくもそこに突っ立っておいでですのね。あんたなんか ほかの女     のとこにでも 行ってしまいなさい。      心のあだもわからないような女がいいでしょうね。でも わたし     にはそれが見えないなどと思わないこと。うらぎりの心も結果もみ     んなわたしは自分の犠牲をはらって いまとなっては 買い取って     きたにすぎないってこと。  ・・・《この忠実な男はどうなるのかしら》。  ・・・《よく愛した者こそが かれをとらえることができる。こんな咎め    のことばを 理由もなく吐き出したときにも》。  男は膝からくずれて 顔はあおざめ 死人のようにだが おののいた。    ――それは それは あなたは あなたは わたしをためしているの     か さよならを言ったのか?    ――いいえ いいえ どちらでもありません。ほんとうのことを言っ     たのだわ。こんな見えすいたことを試す必要などないでしょう。    ――ああ わたしの生涯からこの日だけは取り除いてほしい。    ――ふたりのどちらにも かなったことでしょうね。もし この日だ     けではなく あんたに会った日々のぜんぶが あんたの生涯からも     わたしの一生からも取り除かれたなら。もし わたしたちの間に起     こったこと それはぜんぶ ぬぐいされるものならそうしたいけれ     ど ただ想い出が わたしにちからを残してくれているのなら う     らぎり屋さん 行ってしまってよ。わたしが仮りにも命じる前に      わたしの目の前にけっして姿をあらわさないように よくおぼえと     いて。  セラドンは やりかえそうと思ったが 耳がいい《愛》は わざわいにも 自分に立ち返ったかれの耳をふさいでしまった。女はもう 立ち去ろうとしていた。かれは 女の服をつかんで 言った。    ――自分に覚えのないあやまちをゆるしてくれというのではない。     きみがそれほど嫌いだといったものを この世から取り除くために     わたしが何をしようとするのか ただそれだけは 知らせたいのだ。  かのじょは すでに怒り狂っていた。眼は向き直りもせずに あらわにした怒りで振りほどこうともがきながら 男がふとつかんだリボンが取れて離れたのをさいわいに 立ち去った。リボンは いつも服の前の襟にくっつけていて そこに できうれば季節ごとにときどき花をさしていたものであった。このときには 父親からもらった指輪をつけていた。そしてたしかに かのじょは去った。かのじょの残した怒りの激しさに 羊飼いは じっと立ちつくしていた。目を下に向けて見ているのだが 手の中に何があるのか 見えなかった。やがて長い息をつくと 何も考えられない考え事をうっちゃって リボンに気づいた。  言った。   ・・・《リボン。おまえが 証言になって 見とどけてくれ。わたしは     自分の愛情のもつれの一つでも切り裂くよりは この生を失ったほ     うがよい。そうすれば 死んで そのむごいものがおまえを見たな     ら おまえはわたしの上で この世には わたしに愛されるのにま     さって愛されうる者は誰もいず わたし以上に誤解された愛する人     間もいないことを証明してくれるであろう》。  指環に口づけし リボンを胸の上におき また言った。   ・・・《おまえは 完全な友情の愛のすべてのしるしだ。どうか わた     しが倒れても わたしから離れず わたしに愛情をちかったひとよ     り取った差し押さえとして おまえは 残ってくれ》。  言い終わらないうちに アストレの去って行った方向から向き直り 腕を組み合わせて河に身を投げた。  (オノレ・デュルフェ:《アストレ》1・1.1610-27)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようなアストレのこころの自由から――光が曲がっているかどうか―― 個人が始まるという見解を持ちました。  さまよえるユダヤ人のごとく動く視点にて申し訳ありません。

ri_rong
質問者

お礼

 春姫といい、貞節物語が続きます。二度目ですからね、礼節と傲慢ということでしょうか。  ご回答ありがとうございます。実は、この映画は観ました。  堅牢なる城壁に穿たれた門の番人に、「こんにちは」と声をかけて開けてくれるのを待つ。礼節がそういうものだとすれば、傲慢とは力でもって門を打ち破り、なかへ入ろうとするものでしょう。けれどもまるで、吹き抜ける西風のように、ひとつの門と言わず、すべての門をたちどころに通り過ぎ、城の奥の奥、人目に触れさず大切に守られてきた水晶を、いきなり「かっさらう」というような、まるで盗賊にも似た技芸というものがある。  「ロマン主義」とはそういう技に似ているような気がしました。  気付きがないという点では、傲慢さとは違いますが、西風には許されても人の子には許されぬ。どうやら、そういうご主旨かなと思います。たしか、以前のご質問が「村上春樹は傲慢ではないか?」というものだったと思いますが、ブラジュロンヌさんに傲慢だと言わせたとすれば、どうやら彼は本物の芸術家なんだなと思ったしだいです。  ブラジュロンヌさんも、騙し取られた口ですか?

回答No.23

No.2, No.7, No.11, No.17, No.19 , and No.20です。 No.20での「風の谷のナウシカ」の「繭」の記述を誤りました。「卵」でした。 参考までに、少し引用しておきます。 オーム(王蟲)と青き血で繋がり合っている四角い黒い墓所はまさに「箱」であり、 オーマ(無垢という名の巨神兵)が育ったのはまさに「繭」の中です。 (自らの手で環境に合わせて作り替えられた身体を有する)ナウシカ達旧人類は、環境が激変して清浄な世界へと変化するときに、生きることが出来ないということ(腐海の途切れる清浄の地に足を踏み入れた途端、肺から血を噴き出して死んでしまう)を知ったとき、 >>> 「風の谷のナウシカ」第7巻から 世界はよみがえろうとしていました たとえ 私達の肉体が その清浄さに耐えられなくとも 次の瞬間に肺から血を噴き出しても 鳥たちが渡っていくように 私達はくり返し生きるのだと・・・ (中略) どんなにみじめな生命であっても 生命はそれ自体の力によって生きています この星では生命はそれ自体が奇蹟なのです (中略) あの黒いもの(註1)はおそらく再建の核として遺されたのでしょう それ自体が生命への最大の侮蔑と気づかずに (中略) 苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない それは人間の一部だから・・・ だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに (中略) そなたが光なら光など要らぬ 巨大な墓(註1)や下僕などなくとも 私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる 私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ (中略) (ナウシカの意志で墓所が破壊されるとき、清浄な未来に生まれくる予定であった人間の卵が共に破壊されるとき、墓所がうめき声を上げるのに対し) ・・・泣いているのです 卵が死ぬと・・・ (中略) 自分の罪深さにおののきます 私たちのように凶暴ではなくおだやかでかしこい人間となるはずの卵です <<< 註1:シュワの(四角い箱の形をした)墓所のこと

ri_rong
質問者

お礼

 むかし、方舟の役割は、ノアたちを約束の地へ運ぶことだったそうです。方舟の強度や耐久性について何らの情報をも得てはいないにも係わらず、ノアたちはひとつがいの生き物を伴って方舟に身を寄せる。ノアは水が引いたことを、飛ぶ鳥の影から知ったそうですが、ナウシカの物語は、聖書の逸話に因んでいるのだなと思っていました。  まだ見ぬ楽園を約束するという点では、ユートピア的ですが、ひとつがいの生き物へと世界を還元し、外の世界を殺す。すべてを、です。――という点では、ノアの逸話は抜きん出ている。  この「すべて」という全称記号を、物語は相手にしているのでしょう。  ひとつがいの生き物たちは、世界と僕らの関係がいつも非対称であることを教えてくれる。つまり一本でも糸があれば、そのひとつの反証によって、僕らは世界と繋がっていると感じることができる。ナウシカの物語では、あの回想の場面にみることができる。顔色の見えない大人たちの手に、幼い虫が取り上げられるとき、子どものナウシカは、なぜ自分が悲しいのかわからない。  虫はきっと、始末されるに違いない。  幼いナウシカを残し、去る大人たち。取り残された自分、去ってしまった虫、けれどもむしろ、大好きだった父親の顔が「見えない」――ということが、彼女にとっていちばん悲しかったのではないか。幼い彼女の目は、いつまでも、ずっと遠くを見ていたような気がします。  ナウシカにロマンを感じたのは、こんなとこかな。

noname#96756
noname#96756
回答No.22

ri_rong様、こんにちは! >ひぐらしの鳴く頃合が良いと思い、あるいは晩夏にてナスターシャとモリア、そのご感想をお待ちします。 秋山の樹(こ)の下隠り逝(ゆ)く水のわれこそ増さめ思ほすよりは わたくしのわがままを汲んで下さってありがとうございます。 本当に嬉しかったです。 でも、そうですね、やはり自分勝手な都合に他なりませんので、数日内にあちらに回答させていただいてから夏休みにします。 あらためてどうぞよろしくお願い申し上げます(ぺこり)。 そうそう、鏡王女と額田王、二人の女人もロマンにつつまれておりますね。 一度は天智天皇に愛されたものの上述のような歌を詠み、その後鎌足の正妻として後年夫を弔う寺院の建立に至ったとされる女性。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E7%8E%8B%E5%A5%B3 一方大海人皇子の娘である十市皇女を産み、腹違いの兄とされる天智天皇にも愛され、後年独り身で過ごしたと一説にある女性。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8D%E7%94%B0%E7%8E%8B わたくしの「共同幻想」としましては、二人が姉妹であり、かつ、三角関係にまつわる恋の悶えなどに対しロマンを求めてやみません。 ですが何と申しましょう、「うんとかすんとか言ってみろ ○○のやろう!!」という威勢の良い雄叫びに果てしない幻想を抱く方も中にはいらっしゃる事実、これも致し方ないことなのでしょう。 ただ「生き方」的にはどちらがどうの、とは一概には比較しようがないはずです。 女人たちのおかれたしがらみに囚われた身分や境遇、恋愛感情や愛情に付随する生や性の歓びも質量共に異なっていたでしょうしね。 「額田王が≪後年わびしく独り身で過ごした≫」という≪≫のあたりなど、忌まわしい人にとっては忌まわしい≪共同幻想≫足り得るのでしょうが、今のご時世では≪out of fashion≫に他ならないように映ります。 >船に乗るって、どんな感覚なんでしょう?  >港から離れ、真っ青な大海原へ出る。まっすぐな水平線と、白い雲しかなく、波しぶきを立てて進む。いったい、どんな感覚なんでしょう。 んま。あれほどお薦めしたのに嗜まなかったのですね。 でもでも、賢明だったかと思われます。  実際、船底一枚下は恐ろしくも深い闇、小型のクルーザー程度だとかなり荒波に揉まれて疲労感が伴いますし。 静かな湾内はそうでもないですけど、三角波など喰らい始めたらしがみつくのに精一杯ですから。 そうですね、どちらかと言うと機内は気密性を高め「空を舞う」ことを「忘れさせ」ますでしょう。 豪華客船でもない限り小型のクルーザーは居住性が悪いですから、アフトデッキに出て海風に当たっている方が遥かに気分爽快なのです。 GPSに則って最低限の法規遵守さえ注意すれば、基本は大海原のどこを進んでも自由ですし。 逆に、仮にマリーナで出港報告を怠って津波でもかぶって海底に沈めば容易に社会システム網から消え去ることが出来るわけです(笑)。 大海原に出ると、いかに自分の存在が大自然の中でちっぽけであり、かつ無防備で危険であるかという「生きているという実感、歓び」を大いに感じます。 それがまた心地よい快感でもあるわけでして。 「陸における価値観」が全くもって、覆されるといいますか。 海外に渡航することによる価値観のギャップとは全く異なる次元です。 「共同幻想」もさることながら、危険を伴い生死を賭けないと「生きているという実感や歓び」を実感しにくいシステムというのは、有り難いような、有り難くないような…そんな風にも思うのです。 ではでは♪

ri_rong
質問者

お礼

 むかしね、落ちたことがあるんですよ。  小さな頃です。多摩川が遊び場だった。  だからといって、海が怖いとか、泳げないとか、そういうのではない(いちおう自分の名誉のために断っておきますが、水泳は得意です)んですが、気付いたときにはもう、すすんで海へは行かない性質になっていた。たぶん、見たからだろうと思うんですよ。必死で僕を助けようとする、あの悲壮な顔と、そして目を。海じゃなくて、顔が怖いんです。  それ以来、どうも僕は岸から海を見るだけになった。  まあ、元気になって良かったよ。

回答No.20

No.19です 光厳院の歌では、はぐらかしているとも取られかねないかもしれませんので、(古くて申し訳ないですが)昔書き留めたノートからの抜粋を書いておきます。 >>> 生きる(1996.2.25) 私は,未来に生きるもののために生きる。 たとえ,彼らが「滅亡」であろうとも,「希望」であろうとも。 私が,「最良である」とか「こうあるべきだ」とか, 「私」が判断した基準に基づいて生き抜く。 何かを求めて,事を為さない。 「この世をも,かの世をも望まない」 神も,仏も,悪魔も,天国も,地獄も,輪廻転生も,望まない。 時が逆行しない限り,未来のために生きる。 <<< 繭が繭であると認識されているとは、すなわち、いつかは食い破らなければならないという含意があるということです。 このことは、「風の谷のナウシカ」(コミック版、原作)に出てくる繭に対するナウシカの心情とも重なることでしょう。

ri_rong
質問者

お礼

 ふたつご回答を頂きましたが、こちらにまとめてお礼を書きます。  やはり改めて訊いてみない事には、なかなか納得のいかない性質で。そうですか、 >いつかは食い破らなければならないという含意がある  わけでしょうねえ。なるほど、なるほど。「含意がある」――最後に、やっと聞けたわけです。どうもこう、はっきりと聞かないことには納得ができない性質でして。いやはや。  しかも「食い破る」とは――これはちょっと穏やかでなく、覚悟と気概が感じられる、なかなかのスサノオぶりだと思ったしだいです。やっぱり、こうでなくっちゃ。  どうも、ありがとうございました。

回答No.19

No.2, No.7, No.11, No.17です >>>No.17のお礼欄 人々があくまで、私は分けて受け止める――という模範生ばかりであるならば、そもそも、この質問は生まれなかったわけです。  けれどもこの時代に人間を続けていますと、それが形式矛盾を生むとは知りつつも、それでもふたつをひとつに統合せねばならないときが来るものです。 <<< そのとおりです。 だからこそ、 >>>No.17の回答欄 実際の所「二兎を追う者は一兎をも得ず」で、「選択肢」(【または】)は必須になります。(論理的・知的な捉え方) <<< だと述べております。 知的・論理的に切断されつつ(二つ)、想い・情的に繋がる(一つ)ということです。 量子力学ですら、二重スリットの「どちらかのみ」のスリットを選択することは不可能です。(知的・論理的に求めようとすると二分されるにもかかわらず、本質・真実は一つであり、繋がりあっている) 少なくとも、(たとえ幻想的であろうとも)内部矛盾を抱えたまま共同体が存続するわけには行きません。共同体という構造を優先するならば、内部矛盾を解消する方向へと構成員相互の意見・考え方を変更するか、共同体の構造を変更するかになるでしょう。 選択したくない変更を選択したものは、「苦い薬を飲んだ」が、無矛盾の構造へと変化した後に皆が満足すれば「甘いお菓子をもらった」になるでしょう。 しかしながら、内部矛盾を排除する方向性を共同体が有していて、なおかつ、構成員がその矛盾を解決するすべを持たなければ、共同体は分裂せざるを得ない。 分裂に伴う苦悩は「苦い薬」になるでしょうが、分裂後に皆が満足すれば「甘いお菓子」が待っているかもしれない。 さらに、内部矛盾を排除できない共同体の場合、かつ、構成員がその内部から分裂できない場合、選択肢は二つあるでしょう。一つは、内部矛盾を(何らかの手段で、あるていど)容認するという方向性、もう一つは放置するという方向性です。前者は、「苦い薬」を飲まざるを得ない構成員が少なければ、共同体全体としての「甘い菓子」の量が多ければ、「苦い薬」の後の「甘い菓子」にありつける可能性があるため、共同体は存続していくでしょう。「何らかの手段・あるていど」とは、まさに、これら薬と菓子の配分方法についての取り決めみたいなものですので、内部矛盾は別の側面からみて「ない」のと同等になってしまいます。 しかしながら、放置された場合、ないし、共同体全体への「苦い薬」の量が多く「甘い菓子」の配分が少ないときは、共同体の境界そのものが大きく揺れ動くでしょう。場合によっては消滅への方向性へと移動するかもしれませんし、(甘い菓子があるように見える)外部を含もうとする方向性に動くかもしれません。 >>>  じねんさんも、(3)の回答を目指すときではないでしょうか。 <<< 既に前回、回答しているつもりですが、言い換えるならば 「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) ですね。

回答No.18

 No.1&4&6&8&9&10&13&15&16です。    その昔 新潟県民は かの角栄氏によって予算が地元に回されて来て経済的に潤った。だから たとえ角栄さんがロッキード疑獄で逮捕され禁固刑に処されても 借りをしっかりと返すために投票しつづけました。その心意気を全国民に見せつけました。――だいたいはなぜ犯罪者を擁護するのか やはり田舎者は近代民主主義を分かっていないなだったようです。  ▲ (万葉集 二・85-89) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  磐姫皇后(いはのひめのおほきさき) 〔仁徳〕天皇を思(しの)ひたてまつる御作歌(みうた) 四首  85:君が行き日(け)長くなりぬ 山たづね迎へか行かむ 待ちにか待たむ  86:かくばかり恋ひつつあらずは〔* 恋い慕っていないで〕 高山の磐根(いはね)し枕(ま)きて死なましものを  87:ありつつも君をば待たむ 打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに  88:秋の田の穂の上(へ)に霧らふ朝霞 何処辺(いづへ)の方にわが恋ひ止まむ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは 社会構造としての《スサノヲ圏( Susanowoschaft )‐アマテラス圏( Amaterasutum )》連関ではなく 個人どうしの対(つい)関係としての或る種の《 S - A 》連関です。強いて言えば すでに両者とも アマテラストゥーム=スーパーヤシロの住民です。  初めから結論めいたことを言えば 女性ないし〔対関係においては一般に〕S者の側が 男性ないしA者に対して その《 S - A 》連関関係の破綻をより一層つよく感じ取る。互いに結ばれた共同主観に傷がついたと感じ取ると 女性はより早くその内面へ向き返られる。――すなわち 《死なましものを》と口走るまでに。  と同時に そのようにまでもし弱いということであれば その弱さによってこそすくわれている。これらの歌をうたって自分でも自分をすくっている。《打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに》というのは 実際そこまでの長いときが経ったのか 単に想像裡においてのことなのか たぶん後者だと思いますが その弱さをきちんと見つめて行っているようです。  あるいは うたの構造を解き明かしていこうとしているようです。たぶん――ここで例によって大得意の飛躍ですが―― このウタの構造は いまのツイ関係から社会の共同体関係としての《 S - A 》連関にも及んでいる。こう考えられます。《弱さ》のつらぬかれることによって 透明な弱さに変身し やがて自己到来する。その《わたしがわたしである》ことにおいて弱さは強さに脱皮する。  なぜならば  ▲ 88:秋の田の穂の上(へ)に霧らふ朝霞〔* くらげの如くうなぎの如く何とも正体の分からぬまま鉄砲玉のごとく出て行ったきり 言葉のやり取りを欠かし続けるのっぺらぼうのもやもや史観の持ち主よ〕 何処辺(いづへ)の方にわが恋ひ止まむ〔* と歌わなければならないのは おまえさんのほうではないか〕  ☆ という答えを見出しているからです。《わたしはわたしであり続けている》。わが主観も共同主観も守っている。うんとかすんとか言ってみろ 仁徳のやろう!!  少しはマルクス先生にも登場を願いましょう。  ◆ (マルクス:経済学・哲学草稿) ~~~~~~~~~~~~~~~  女性が共同体的な肉欲の餌食や下婢であるというような 女性に対する関係のなかに 人間が自分自身に対してそのなかに実存している限りない堕落が語られている。というのは この関係の秘密があいまいではなく 決定的に 公然と むき出しに表現されるのは 男性の女性に対する関係の中であり また直接的な 自然的な類関係(* 共同性)がどのように捉えられているかというその仕方のなかだからである。  人間の人間に対する直接的な 自然的な 必然的な関係は 男性の女性に対する関係である。・・・  それゆえこの関係から 人間の全文化段階( Bildungsstufe )を判断することができる。この関係の性質から どの程度まで人間が類的存在(* 共同主観者)として 人間として自分となり また自分を理解したかが結論されるのである。だから どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは 男性の女性に対する関係の中に示されている。  また どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか どの程度まで人間がそのもっとも個別的な現存において同時に共同的存在( Gemeinwesen )であるか ということも この関係の中に示されているのである。  (マルクス:経済学・哲学草稿  第三草稿〔二〕私有財産とコミュニスム 城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《どの程度まで人間の自然的態度(* 自然児スサノヲのスサノヲ人間語)が人間的(* 品格を重んじるアマテラス人格語 もしくは スサノヲ=アマテラス統合語)となったか あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったか・・・》  ★ ルウソ  ☆ に戻りました。そして  ★ 個人  ☆ の問題でしたね。  ということで だいぶ出しゃばりました。  ★ ロマン主義  ☆ ってこんな簡単なふつうの思想(生活態度)のことだったのですか!?

ri_rong
質問者

お礼

>田舎者は近代民主主義を分かっていないなだったようです。  ふつうは立ち止まってじっと考えるものですが、ブラジュロンヌさんの場合、歩いて行くうちに「出くわす」といったふうですから、そもそも仕組みがちがうんじゃないでしょうか。国勢選挙になると、新潟は投票率で全国十位に必ず入ってくる高投票率の土地柄です。70%を超える投票率ってのは、都市部では考えられない。民主主義についてはよくわからなくとも、選挙になったら投票をしよう――という気持ちだけは持っておられるようですよ。  ご回答をありがとうございます。  少しお礼が遅くなりましたが、そろそろ回答も出揃ってきました。なかなか長かったですが、満足のいく内容にはなった気がします。  もうしばらく待って、締めようかと思います。

回答No.17

No.2, No.7, No.11です 『押絵と旅する男』、懐かしいですね。いや、忘れていたというべきか。。。小学生の頃に江戸川乱歩が流行っていたのもあって読みあさっていたのですが、逆さ遠めがねで過去の自分を覗き込むような感覚にゾッとします。 当時、逆さ遠めがねで相手を見るということを、おっかなびっくり行っていたのを思い出します。もう一度、「本」を読み返してみたくなりました。まさか、本の中の人物が逆さ遠めがねでこちら側を覗いているような挿絵は無かったかどうか。。。確かめるのには、勇気がいりますが。。。 さて、前回の回答には、すこし舌足らずの所があり、誤解を招いたかも知れません。。。実際の所「二兎を追う者は一兎をも得ず」で、「選択肢」(【または】)は必須になります。(論理的・知的な捉え方) でも、一方で「どちらも」(【かつ】)の視点は(共有不可能、共感不可能であればあるほど)常に内在させていくべきものだと思っています。(非論理的・情的な捉え方) マトリックスにて、私が「二つの世界」といったのは、まさに上述の「二つ」です。よく引き合いに出されるところの「アキレスと亀」問題に代表される可能無限と実無限の「二つの世界」といってもいい。 いや、言い換えるならば、まさに物語「自分のからだを押絵の娘と同じくらいの大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいか」や映画「マトリックス」と、その物語・映画を見ている「自分」という「二つの世界」ですね。 それら「二つの世界」は、知的・論理的に「二つ」として扱わざるを得なくなればなる程、【どちらも】を求めようとする「想い」が強くなるのかも知れません。 それらの世界を「一つだ」と言わんばかりに取り扱うとき、結局の所【どちらも】は消え去り【または】しか残り得なくなる。 ロマン主義が消え去り得ない(ように思える)のは、まさに、(観念的に・概念的に・共有可能的に・共感可能的に)「一つ」として扱いうると皆が誤認すればするほど、「もう一つ」への想いが浮かび上がってくるからだろうと思っています。 どこぞの掲示板に、「熱き目と冷めた目の両方の眼差しを常に内在させつつ。。。」などといった言葉を10年ぐらい前に書き込んだことがありますが、今もそのままの感覚で生きております。 個人的な(3)への回答になるかもしれません。 そうそう。。。その当時「瓢箪鯰」なる題材をいただいたのを、なぜだかふと思い出してしまいました。

ri_rong
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  質問の内容をさらに租借して頂いた――という感じを受けていますが、さて、ふたつのものをひとつとして見るときに生じる葛藤、あるいは喪失感についてです。人々があくまで、私は分けて受け止める――という模範生ばかりであるならば、そもそも、この質問は生まれなかったわけです。  けれどもこの時代に人間を続けていますと、それが形式矛盾を生むとは知りつつも、それでもふたつをひとつに統合せねばならないときが来るものです。  そろそろ、第二ラウンドを迎えつつありますね。  さて、苦いお薬をちゃんと飲んだら、あとで甘いお菓子をあげますよ――と言われた子どもが、顔を歪めてそのお薬を口にするときの、そのお薬について、少し考えてみてください。  じねんさんも、(3)の回答を目指すときではないでしょうか。

回答No.16

 No.1&4&6&8&9&10&13&15です。  ちょっと露出しすぎですが はりきってまいります。  すでに読んでおられるかも分かりませんが スサノヲとアマテラスの物語――むろん bragelonne 版です――をかかげておくとよいと考えました。ほかのみなさんも スサノヲイストだとかアマテラシストだとかいうときに分かりやすいでしょう。  ただしこの解釈は 神秘的です。神学の要素を入れずには表現しにくいものでした。  ○ (スサノヲだけがなぜ自由か) ~~~~~~~~~~~~~~~~  それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。  ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。  宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。  この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ 春姫  ☆ も真っ青の――同じ春つながりで――春香(チュンヒャン)という名のすばらしき女性が お隣の韓国にいるようですよ。《春香伝》。ハッピーエンドだったと思うのですが もうはっきりとは覚えていません。  ★ (No.15補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (1)については個人の問題だ(として受け止める)という回答が多いのですが、唯一ブラジュロンヌさんだけが、「歴史必然的なこと」として突き放しています。  そして、(3)についてはどうも、他の回答をみますと、皆さん、なかなかのアマテラスぶりだと思うのですが、如何でしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 上のスサノヲの話において かれがアマテラスの国を離れて自由になったあと――それがイヅモのくにですが―― その五世ほどのちのオホクニヌシの代になって アマテラス国は 服属の要求をして来ました。医療などに熱心なことが知られてその企業秘密を欲しがったようです。そこで 非戦論を採って《くにゆづり》をしました。主戦論も非戦論もどちらも人間の弱さからえらぶものだという考えなのでしょう。  ですから 世の中に ヤシロの第一階の上にスーパーヤシロとしての第二階が出来たのは この《くにゆづり》の結果です。ヤシロにとって求心力は必要だと見なされたものと考えられます。  そういう意味で歴史必然的なことだと見られますから 一方で忌まわしきことであると考えますが 他方ではその必然の歴史が人びとの共同主観によってつくりかえられる時を俟つというのが 基本的な姿勢です。国際政治ないし外交関係は 理論的には進まないと思われ 取りあえず現状を受けとめ引き継ぐ必要があると考えます。  もっとも 出来るなら それと同時にすでにムラ(市町村自治体)は率先してインタムライスムを実行に移していってよいと考えます。  ★ 、(3)についてはどうも、他の回答をみますと、皆さん、なかなかのアマテラスぶりだと思うのですが、如何でしょうか。  ☆ 幻想共同を もしアマテラシテ(象徴)の問題だと見た場合 これは 人工的な特異点であるということ。これを知らないので 人びとは自分を知らず知らずのうちにアマテラス予備軍のごとく扱うのではないでしょうか。  スサノヲ共同体によって国ゆづりを受け それにもとづきまつりごとを司っている。まつりごとの上の象徴権威として立てられている。そういう人為的な決めごとのもとにある。選挙権も被選挙権もなくあたかも社会の行為関係から自由な特異点に位置しているようであるけれど この特異点は人工のものですから それを繭でつつむ。もしくは人びとの目を頭を繭でつつむ。という観念の共同が おこなわれていると見ます。  でも何で世襲なのかと問うても誰も答えられない。それこそ経験合理性から自由な特異点であるようですが それは歴史的な経緯において人びとがそのように取り決めたからそうなっているというふつうの社会経験なのだと考えます。万世一系もすべての人に当てはまりますし。  その地位にいつづけたいということであれば あまり無理に何かを変えるのも社会秩序の問題からいけば考慮の余地があるのかも知れません。要は 特異な社会的存在のあり方なのですから たぶん誰もがこれを自然的かつ社会的にふつうのあり方であって欲しいと望んでいるものと考えます。

ri_rong
質問者

補足

 ご回答ありがとうございます。  春風のような話を伺ったので、そうですね、日本にも「ロマン主義」はあったんじゃないか、と思う点を、僕もひとつ書いておきたいと思います。  先のお礼に少し書きましたが、「歴史必然的なこと」とお書きの繋ぎに、もう少し具体的なことについてはなしを進めていってみたいと思います。というのも、「ロマン主義」という立派な呼称が与えられたのも、それはひとつに歴史の重みといいますか、先人からの「贈物」であるわけで、それを良いだの悪いだのと言ってみても、その恩を返すべき先人はもう居ないわけですから、ここはひとつ、謙虚に構えて、ありがたく受け取る姿勢を取りたいと思うのですね。  でも、海のものとも山のものとも――という感じ(燃えるゴミか、燃えないゴミかという意見もあるでしょうけど)ですから、ともかくまずはこの贈物について、考えてみたいと思います。  西欧では、特に身分の高い人が、人々への無償の贈与を自らへの責務と感じて義務化するのに対し、日本ではむしろ低いくらいの身分の方が、同情と哀れみの気持ちを寄せますよね。なんだか、ずいぶん様子が違っているような気がするのですが、むろんここではその行いのどちらが良い、悪いと評価するのではなく、この違いを生じさせる思想の体系について考えてみようというわけです。  おそらく、日本人のその理由としては施し(贈物)というものに対して、自らの責務よりも先に、渡した相手を貶めるという気持ちが先立つからじゃないかと思いますが、どうでしょう。また、受け取り手も「贈物」を受け取ってあまり良い顔をしない。違うでしょうか。  仮にそうだとして、「贈物」に結び付いた日本ふうの思想がどこに由来するかと、あれこれ考えて見ますと、どうもそれは祭りじゃないかと思うんですね。  日本の祭りに詳しいわけですはないですが、土地神様にお供えする「贈物」は、口では五穀豊穣とか、「良いことがありますように」なんて言ってはいても、こころのなかでは、どうか飢饉や戦争が起こりませんように――つまり、何事もなく平和でありますように――という大いなる力の関与を、拒否する目的で、なされるような気がするんです。  つまり、日本人にとっての贈物は、拒否のシンボルなのではないか――というふうに思うわけです。 だから、ひとたび贈られてしまうと、何がなんでも贈り返さねばならない。田舎へ行ったときに、お歳を召された方どうし、繰り返し言葉の贈り返しをなさっているのを見たことがあります。  あれはつまり、拒否ではないか?  けれども、ある程度のところでその拒否を、どちらかが飲み込まねばならないときが来る。ぐっと堪えて飲み込むのです。――こういう感覚が、あるような気がします。  日本にも「ロマン主義」があるよ――というお説に少しながら加筆するとすれば、これではないか?  と思うんですが、どうでしょうか。

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