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イエスは 特異点か

ri_rongの回答

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.5

 肝心の投稿を忘れるところでした。そうそう、特異点のはなしでしたね。 ==============================  わたしが あなたのご回答の内容を推し測って 《イエスのほかに何人かいるのにイエスだけを取り上げるのは 一般的ではない》という意味ですかと確認したのに対して  ★  じゃあ、そのイエスじゃない人って、いったい誰なんだ? と素朴に思うわけですよ。  ☆ とお返しになるのは ちょっとおかしい。わたしの表現は まだ確認が済んでいないのですから。でしたら わたしの推測が的外れだったとおっしゃってくださいな。 ==============================  おかしいですかね? もっと、手っ取り早く行きましょう。ブラジュロンヌさんの推論は的を射てます。つまり、イエスなど、特に特別視する人物ではないと僕は思っている。  だからといって、その他にも大勢、有名人がいるじゃないかと言ってるわけではありません。もっと身近で、平凡な暮らしのなかに、ちゃんといるはずなのです。そしてまた、ブラジュロンヌさんもそう思っている。よく考えても見ず、だから名乗れないだけで。  なのに何故、ここでまたイエスの名を口走るのか。このように、僕は言いたかったのです。 >必要ないと思いますが 比喩としての表現です。  なるほど。ここで言う、イエスという名は比喩なのだということか。と僕が思ったとして、不思議はないでしょう? さて、その比喩された人とは、いったい誰なのか。 >わたし本人としましては  ○ あやしくありません。  ☆ と明言するのみです。  まったく、頑固だなぁ。いいかげん、ポケットに隠した想像力を取り出してみれば良いのです。本人は意識せずとも、そういう構図になっているのですから。例えば、 >もしそれなら あくまでどこまでも 《なぞ》だと思うのですが。余計でした。  《なぞ》を訊くのが、この場の良いところでしょう? それとも、分かりきったことを訊けとでも言うのでしょうか。くだんの糸では、どうやら最後にフェノロサの観音像について、投稿があったようですよ(さすがに見つけましたね)。級友だった原善一郎を通じて、芥川は日本の仏教美術に傾倒します(最初の理由は、当時に活発化した欧化政策に対してです)が、フェノロサがあの観音像のアイデアをどこから起草し、狩野芳崖に描かせたか――ブラジュロンヌさんには、これを語っていただけると、嬉しいですねぇ。感想程度ならば、頑固でも書けるでしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 おぎないます。  観自在菩薩を人格化した像と赤子との関係を 釈迦とカンダタに喩えること――このことのほうが よほどわたしには 《教訓》めいて感じられます。つまり早い話が 道徳規範は愚の骨頂だというそのたぐいです。  蚕が繭の中にすっぽりと入って平和な状態――そういう観念の共同が わが日本の社会には《伝統的》に蔓延しています。わたしの嫌いなひとは 共同幻想と言ったようです。アマテラス・マヂック。  減らず口でした。  

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん こうやってご投稿をもらえるのはありがたいですね。たのしいですね。ご回答をありがとうございます。  ★ まったく、頑固だなぁ。  ☆ たぶんその思いにかんしてなら すでにきちんとけじめをつけた文章をも書いていますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >もしそれなら あくまでどこまでも 《なぞ》だと思うのですが。余計でした。  《なぞ》を訊くのが、この場の良いところでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《なぞ》の意味をあさっての方向に持って行ってしまうとは!  ★ それとも、分かりきったことを訊けとでも言うのでしょうか。  ☆ ふたつの見方で応答しましょう。(1) 《分かりきったこと》でも訊き方はひとそれぞれですよ。わたしのほうには何もないゆえ 訊いてもらわないことには応えも定まらずです。  (2) たぶん ri_rong さんは このいまの話を わたしのほうにではなく そのひとのほうになさるべきです。淡い意味あいで《お門違い》だと思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・級友だった原善一郎を通じて、芥川は日本の仏教美術に傾倒します(最初の理由は、当時に活発化した欧化政策に対してです)が、フェノロサがあの観音像のアイデアをどこから起草し、狩野芳崖に描かせたか――ブラジュロンヌさんには、これを語っていただけると、嬉しいですねぇ。感想程度ならば、頑固でも書けるでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはもともとですが あいにく音楽と絵画とは 見たり聞いたりしてたのしむだけと来ています。ハイデガーが靴の絵についてああぢゃこうぢゃ解説するのを聞いたとき おったまげました。あまりにも理知的にしてあまりにも理屈ぢぢいくさい。  わたしの中でピカソは零です。ゴーギャンはその少し上といった程度です。ゴッホがいい。観世音菩薩は われらが心の中の仏性のはたらきのひとつです。いちいち絵にして欲しくないのです。  どうやらほんねを語っているとおさとりになりましたか?  たぶん ri_rong さんは ほとけごころが溢れすぎている。この件にかんしてはです。わたしもわるい気はしませんが 誘導尋問に・・・乗る気はない というよりも どんどん乗っているのではないですか? それでも出て来ないでしょう?  ★ なるほど。ここで言う、イエスという名は比喩なのだということか。と僕が思ったとして、不思議はないでしょう? さて、その比喩された人とは、いったい誰なのか。  ☆ 誰何して――あれっ 第三者についても 誰何すると言いますかね?――名指ししても仕方ないでしょう。《分かりきったことを訊いて》ください。たぶんわたしの見るところでは ものごとには時があるし 筋道があるはづです。  イエスのイ キリストのキの字も言わずに心の対話をすることができるようになるのは 早くてわたしのひとつあとの世代からでしょう。わたしの同世代にとっては 無理でしょう。マルクスのマの字を聞かなくなって久しいですが キさんのほうは いましばらくでしょう。(揚棄の仕方またその結果は 全然ちがうでしょう。止揚と言ったほうがふさわしいですね)。  お気持ちに添えられずにて。

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