• ベストアンサー

イエスは 特異点か

ri_rongの回答

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.2

> どうでしょう?  まるめ込もうとしたって、だめですよ。ひとつ一つ参りましょう。 ====================  ○ いまわたしがあるのは イエスがいたということを知ったから。  ○ べらぼう話です。わたしは――うんと若いころは聖書を読んでもそれほどピンと来ていませんでしたが―― アウグスティヌスの伝えるイエスに接して わたしの生きる方針がうべなわれたのを覚えたのです。  ○ 目からうろこなどという体験ではありません。自分の生き方がまちがっていなかったという感覚をおぼえたという意味です。べらぼう話です。 ====================  どの文章でも良いですが、質問にお書きになった「ソーカル事件を構成することすることすらないでしょうが 先日わたしは」に続けてお読みになれば、良いのです。 ====================  ○ 特異点であるかどうかはどうでもよい。  ○ あるとすれば ほかにもそうである場合(人間)が挙げられなければおかしい。  ○ だからイエスについてのみ規定するのは ほとんど意味がない。 ====================    じゃあ、そのイエスじゃない人って、いったい誰なんだ? と素朴に思うわけですよ。しかも「人間が」と、わざわざお断りになる。僕じゃなくたって、誰が? と思うでしょう。ですから、 >こんなことを・こんないわくつきのことを質問に出したりするものですか  と言われたって、どうかなぁ。なんだか、ちょろまかされてる気がするなぁ。怪しいなぁ。なあんて、思ったりするわけです。あれっ、ひょっとして、これって「蜘蛛の糸」? システム?

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん 考えすぎですよ。たしかにわれわれ――という言い方をしてみますが――を取り巻く直近の情況とその経過をまったく抜きにして考えるのも おかしいのかも知れませんが この質問について そのような外部環境の要素を引きずっているかと言えば そうではありません。  わたしが文章にして表現する場合は もったいぶることや含みを持たせることなどは まづありません。もし意図せずに生じた外延の意味などがありましたら それについては ご指摘を受けて 対処して行きます。  もう少し最善を期すならば こうです。言おうとすることを 一たん隠して表現したとすれば――そういう場合があるかも知れないと思いかえした結果触れるのですが―― たぶんわたしの場合には そのあと二度目には必ずその隠したことを明らかにすると思います。そういう単純さでわたしは出来ていると思うからです。  むしろ――ご回答をありがとうございます―― このような前提のお話で 今回はわたしからの応答が済んでしまうかたちですらありますね。  ★ どの文章でも良いですが、質問にお書きになった「ソーカル事件を構成することすることすらないでしょうが 先日わたしは」に続けてお読みになれば、良いのです。  ☆ これは わたしの主観の問題であるとのご指摘でしょうか? むろんそうですから 質問としては そのひとりの主観の内容が 一般性を持つと思うが どうでしょう? となります。  わたしが あなたのご回答の内容を推し測って 《イエスのほかに何人かいるのにイエスだけを取り上げるのは 一般的ではない》という意味ですかと確認したのに対して  ★  じゃあ、そのイエスじゃない人って、いったい誰なんだ? と素朴に思うわけですよ。  ☆ とお返しになるのは ちょっとおかしい。わたしの表現は まだ確認が済んでいないのですから。  でしたら わたしの推測が的外れだったとおっしゃってくださいな。そういうやり取りだと思います。  ★ なんだか、ちょろまかされてる気がするなぁ。怪しいなぁ。なあんて、思ったりするわけです。あれっ、ひょっとして、これって「蜘蛛の糸」? システム?  ☆ これについては 初めにすでにお応えしました。ただし もしこういう方面でのやり取りをすすめることで 質疑応答が広く成り立つというのでしたら それはそれとして推し進めてもらってもかまいません。  わたし本人としましては  ○ あやしくありません。  ☆ と明言するのみです。  ですから この質問の趣旨は こうです。  ○ イエスは特異点だというわたくし個人の主観内容が 一般性を持ち得るか。  ○ 必要ないと思いますが この特異点を持ち出すことは 比喩としての表現です。

関連するQ&A

  • 《イエスは 特異点か》は どこまで現実か

    《イエスは 特異点か》は どこまで現実か  《イエスは特異点か》は あくまで喩えで言っていますが どうも《特異点である》と喩えてもだいじょうぶであるらしい。  ・参照⇒【Q:イエスは 特異点か】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5111414.html  それでは 《たとえ》としてどこまで現実であるのか?  【 α 】 おそらく主観においてであることは定まっているはずですが どこまで・どのようにして 現実であると人びとは考えるのか?  主題ないし論点としてつぎのようです。  (α‐1) 十字架上のイエスが特異点だと言うのは なぜ磔になったかその無実の罪といったいきさつの問題がある。  (α‐2) 因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準から自由な一点だという意味で 特異点にたとえられる。  (α‐3) 1/ x において x = 0 である場合を言う。  (α‐4)  その x がイエスであり それが 0(零)であるということは イエスが完全なる死を死んだという意味である。  (α‐5) 死が完全ではないというのは 通俗に言う《この世に未練が残って 文学的に言うならば幽霊になってさまよわねばならない》場合のことである。  (α‐6) イエスは 完全に死を死んだ。磔による苦しい死を膝を折ることなどによって早めてやろうとして近寄った兵士らは イエスがすでに息を引き取っていたのを見て驚いたとある。  【 β 】 あるいはひょっとして特に自然科学の立ち場からは その喩えというあり方自体が意味のないものだという結論になるものなのか?     (β‐1) ということは逆に言って ひとの主観にかかわる《心》をめぐって問い求めは進められると言うべきか。つまり 自然科学的事実と人の心とのかかわり方をこそ問うべきなのか。《心》とは何かという主題になるのでしょうか?  ☆ よろしくどうぞ。国民的な情報交換になることを望みます。

  • アブラハムとイサクの父子関係は 神とイエスとの父子関係について何かを言うか

     アブラハムは 神の告げるがままに 神のためにその子イサクをいけにえにささげようとしました。  神はその独り子をイエスにつくり 人びとの〔罪のあがないの〕ためにいけにえとしたと言われます。  ちなみにイサクは アブラハムがそのいけにえを神によって止められ生きて世にありつづけました。  イエスは 知られるように はりつけにされて去って行き そのように神に見捨てられたことにおいて生きた・つまりよみがえったと言われます。  質問です。わたしは 原罪とその贖いという物語をもはや不必要と見なし そのように常識としたいと考えており(*)    * 【Q:われわれは原罪を犯せしや?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html  したがって 神とイエスの父子関係と アブラハムとイサクの父子関係とのあいだに 特別の意味のあるかかわりがないほうに見方を寄せようとしています。  この見方をめぐって いろんな立ち場や角度からご見解がありますでしょうか? ありましたらおしえてください。  このひとつの視点は ふと思いついたものですので どこから手をつけていけばよいのか分かりません。生煮えのままご教示を乞います。

  • われわれは原罪を犯せしや?

     【質問】 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。  こう表現しては 間違いでしょうか?  * 批判的なご見解 つまりそれは間違いだというご意見の場合には特にこてんぱんに けちょんけちょんになるまで述べてくださるよう願います。  * 原罪についてのわたしの考えは ついこの四月でも 次のような内容でした。よかったら参照してください。  【Q:原罪】その回答No.3  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4904345.html

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教

    プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教関連の本は結構読んでいますが,キリスト教の教義というか,根本原理(精神)等が未だに理解出来ません。取り敢えず下記の疑問点に付いて教えて下さい。*キリスト教で云う贖罪(罪を贖う)と罪を償うとの基本的な違い。*又イエスは十字架で処刑される事により人類の罪(原罪)を贖ったと云われていますが,この場合の人類とはクリスチャン以外の人(例えば仏教徒・イスラム教徒等)も含まれるのか。*前に述べた「原罪」はキリスト教徒以外の者にも有るのか*「贖罪論」・「原罪」等は聖書のどこに記述されているのか。以上宜しくお願いします。