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イエスは 特異点か

 これは ソーカル事件を構成することすらないでしょうが 先日わたしは  ○ はりつけになった十字架上のイエスは 特異点だ。  ☆ と口走ってしまいました。  →【Q:われわれは原罪を犯せしや?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html  No.16補足欄です。  因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準から自由な一点だという意味合いでした。  修正補足あるいは批判否定などなど 自由なご見解をおしえてください。未練からです。

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  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.4

 通訳が必要ということなので補足すると、(特異点に限らず)用語は、対象を特定する必要がまずあります。例えば、○○に対する○○は特異点だ――というような○○が、必ず必要となる――ということです。ですから「イエスは特異点だ」というときのイエスが何に対する特異点なのか? ということが明らかにならないと、なんとも表現しようがない。  それが「因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準から自由な一点だという」ことなのだから、質問主旨は、その点について、それがイエスでしょう? と問うているわけです。  特異点というのは、棒でいうならその先端というような意味です。特に通訳が必要だとも思わないですが、行き違いの理由は「生命」とか「心」というものを定義できない世界の住人には、そもそもそんなものなど無い――という、ひとつの実例なのだと思います。  イエスがどの特異点に属するか? 科学がそこから議論を始めるのなら、構造主義者たちは、そもそもそれは何に対する特異点なのか? という、その構造をまず疑うだろうと思います。

bragelonne
質問者

補足

 ふふっと笑みがこぼれるのですが 不謹慎の問題を別とすれば 間違っていないでしょうか?  ri_rong さん ご回答をありがとうございます。非非常常感謝。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  特に通訳が必要だとも思わないですが、行き違いの理由は「生命」とか「心」というものを定義できない世界の住人には、そもそもそんなものなど無い――という、ひとつの実例なのだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ No.3の回答が 否定しているのか諾の可能性を残して言っているのかも分からなかったです。要するに 経験科学の言葉だけで議論せよと言っているのですね?――そうは問屋が卸しません。われらは須らくなぞを残すべしとの心得にて。・・・    別の通訳が必要に思える点がふたつです。  ★ 特異点というのは、棒でいうならその先端というような意味です。  ☆ ということは 規定も特定も不可能といった意味でもないのですか? 特異点は 無限を表わすというのでもないのでしょうか? 経験事象として科学的に明らかなことなのでしょうか?   それとも けっきょく超経験という意味での《先端》のことでしょうか?   * ちなみに――これはまったくの余計ですが―― このような《経  験世界にとっての なぞの窓》のことを 蜘蛛の糸なり天窓なり路とおっ  しゃっているのでしょうか?・・・もしそれなら あくまでどこまでも  《なぞ》だと思うのですが。余計でした。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスがどの特異点に属するか? 科学がそこから議論を始めるのなら、構造主義者たちは、そもそもそれは何に対する特異点なのか? という、その構造をまず疑うだろうと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《構造》は 無主体の過程でしょうから およそ――もし共時的な一時点(時代)を取り上げ得るなら―― その《成るように成った結果状態》のことだろうと思います。そういう構造には 《棒の先端》といった特異点はありえないということでしょうか? すべてが相関関係から成る構造であるゆえに。  ですが それでは構造主義でなければ 社会なら社会という時空間に特異点はあり得るという含みがありましょうか?  そのときわたしに考えうる基準は やはり《因果関係とその合理的な認識》ということですが。  ご回答 たいへんありがとうございました。

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その他の回答 (4)

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.5

 肝心の投稿を忘れるところでした。そうそう、特異点のはなしでしたね。 ==============================  わたしが あなたのご回答の内容を推し測って 《イエスのほかに何人かいるのにイエスだけを取り上げるのは 一般的ではない》という意味ですかと確認したのに対して  ★  じゃあ、そのイエスじゃない人って、いったい誰なんだ? と素朴に思うわけですよ。  ☆ とお返しになるのは ちょっとおかしい。わたしの表現は まだ確認が済んでいないのですから。でしたら わたしの推測が的外れだったとおっしゃってくださいな。 ==============================  おかしいですかね? もっと、手っ取り早く行きましょう。ブラジュロンヌさんの推論は的を射てます。つまり、イエスなど、特に特別視する人物ではないと僕は思っている。  だからといって、その他にも大勢、有名人がいるじゃないかと言ってるわけではありません。もっと身近で、平凡な暮らしのなかに、ちゃんといるはずなのです。そしてまた、ブラジュロンヌさんもそう思っている。よく考えても見ず、だから名乗れないだけで。  なのに何故、ここでまたイエスの名を口走るのか。このように、僕は言いたかったのです。 >必要ないと思いますが 比喩としての表現です。  なるほど。ここで言う、イエスという名は比喩なのだということか。と僕が思ったとして、不思議はないでしょう? さて、その比喩された人とは、いったい誰なのか。 >わたし本人としましては  ○ あやしくありません。  ☆ と明言するのみです。  まったく、頑固だなぁ。いいかげん、ポケットに隠した想像力を取り出してみれば良いのです。本人は意識せずとも、そういう構図になっているのですから。例えば、 >もしそれなら あくまでどこまでも 《なぞ》だと思うのですが。余計でした。  《なぞ》を訊くのが、この場の良いところでしょう? それとも、分かりきったことを訊けとでも言うのでしょうか。くだんの糸では、どうやら最後にフェノロサの観音像について、投稿があったようですよ(さすがに見つけましたね)。級友だった原善一郎を通じて、芥川は日本の仏教美術に傾倒します(最初の理由は、当時に活発化した欧化政策に対してです)が、フェノロサがあの観音像のアイデアをどこから起草し、狩野芳崖に描かせたか――ブラジュロンヌさんには、これを語っていただけると、嬉しいですねぇ。感想程度ならば、頑固でも書けるでしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 おぎないます。  観自在菩薩を人格化した像と赤子との関係を 釈迦とカンダタに喩えること――このことのほうが よほどわたしには 《教訓》めいて感じられます。つまり早い話が 道徳規範は愚の骨頂だというそのたぐいです。  蚕が繭の中にすっぽりと入って平和な状態――そういう観念の共同が わが日本の社会には《伝統的》に蔓延しています。わたしの嫌いなひとは 共同幻想と言ったようです。アマテラス・マヂック。  減らず口でした。  

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん こうやってご投稿をもらえるのはありがたいですね。たのしいですね。ご回答をありがとうございます。  ★ まったく、頑固だなぁ。  ☆ たぶんその思いにかんしてなら すでにきちんとけじめをつけた文章をも書いていますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >もしそれなら あくまでどこまでも 《なぞ》だと思うのですが。余計でした。  《なぞ》を訊くのが、この場の良いところでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《なぞ》の意味をあさっての方向に持って行ってしまうとは!  ★ それとも、分かりきったことを訊けとでも言うのでしょうか。  ☆ ふたつの見方で応答しましょう。(1) 《分かりきったこと》でも訊き方はひとそれぞれですよ。わたしのほうには何もないゆえ 訊いてもらわないことには応えも定まらずです。  (2) たぶん ri_rong さんは このいまの話を わたしのほうにではなく そのひとのほうになさるべきです。淡い意味あいで《お門違い》だと思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・級友だった原善一郎を通じて、芥川は日本の仏教美術に傾倒します(最初の理由は、当時に活発化した欧化政策に対してです)が、フェノロサがあの観音像のアイデアをどこから起草し、狩野芳崖に描かせたか――ブラジュロンヌさんには、これを語っていただけると、嬉しいですねぇ。感想程度ならば、頑固でも書けるでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはもともとですが あいにく音楽と絵画とは 見たり聞いたりしてたのしむだけと来ています。ハイデガーが靴の絵についてああぢゃこうぢゃ解説するのを聞いたとき おったまげました。あまりにも理知的にしてあまりにも理屈ぢぢいくさい。  わたしの中でピカソは零です。ゴーギャンはその少し上といった程度です。ゴッホがいい。観世音菩薩は われらが心の中の仏性のはたらきのひとつです。いちいち絵にして欲しくないのです。  どうやらほんねを語っているとおさとりになりましたか?  たぶん ri_rong さんは ほとけごころが溢れすぎている。この件にかんしてはです。わたしもわるい気はしませんが 誘導尋問に・・・乗る気はない というよりも どんどん乗っているのではないですか? それでも出て来ないでしょう?  ★ なるほど。ここで言う、イエスという名は比喩なのだということか。と僕が思ったとして、不思議はないでしょう? さて、その比喩された人とは、いったい誰なのか。  ☆ 誰何して――あれっ 第三者についても 誰何すると言いますかね?――名指ししても仕方ないでしょう。《分かりきったことを訊いて》ください。たぶんわたしの見るところでは ものごとには時があるし 筋道があるはづです。  イエスのイ キリストのキの字も言わずに心の対話をすることができるようになるのは 早くてわたしのひとつあとの世代からでしょう。わたしの同世代にとっては 無理でしょう。マルクスのマの字を聞かなくなって久しいですが キさんのほうは いましばらくでしょう。(揚棄の仕方またその結果は 全然ちがうでしょう。止揚と言ったほうがふさわしいですね)。  お気持ちに添えられずにて。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

 ○ はりつけになった十字架上のイエスは 特異点だ。 イエスが特異点であるとすると、イエスは全複素平面上で正則ではないことになる。したがって、リウビルの定理によって、イエスは複素平面上で定数でないことが結論できますね。 ところで、特異点は、孤立特異点と集積特異点に分類される。そして、孤立特異点は reguler singuler pointとirreguler singuler pointに分類され、reguler singuler pointは除去可能な特異点と極と孤立真性特異点に分類される。一方、集積特異点はirreguler singuler pointであり、また集積真性特異点である。 ポストモダンの方は、イエスをどの特異点に属すると言っているのでしょうか。あるいは、質問者さんはどの特異点に属していると思っていらっしゃるのでしょうか。それを明確にすると、イエスの属する複素平面上での真性特異点の一種である分岐点の位置が同定され、その分岐点から引かれた複素平面上のカットを通しての解析接続や、リーマン面がはたして有限な数の面から構成されているのか、あるいは無限の数の面から構成されているのか等の詳細な構造が明らかになりますね。 そしてイエスの特異点がもしreguler singuler pointの一種である極の場合には、イエスの寿命が指数関数的に明確に定義できるはずですね。しかし、もしその特異点が分岐点だったとしたら、イエスの存在確率が時間とともにベキ減てしまうので、イエスの寿命が巧く定義できないなどと言うことが分かるようになる。従って、イエスが特異点であると本気で主張できるとお考えなら、それを明確に同定することによって、イエスの存在に対する本質的な性質が判るようになるかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしの理解力がまだ開発されていません。  どなたか解説やら批評やらを 広くみなさんのためにもしていただく投稿をお願いしたいと存じます。  * なおNo.2の補足欄に次のように書いております。念のため。  ○ 必要ないと思いますが この特異点を持ち出すことは 比喩としての表現です。

bragelonne
質問者

補足

 どの種類の特異点であるかは分かりませんが 次のように比喩として考えられるようにも思います。  ○ 1/ x において x = 0 である場合です。  ○ その x が イエスであり それが 0 であるということは イエスが完全なる死を死んだという意味です。  ○ 死が完全ではないというのは 通俗に言う《この世に未練が残って 文学的に言うならば幽霊になってさまよわねばならない》場合のことです。  ○ イエスは 完全に死にました。苦しい死を早めてやろうとして近寄った兵士らは イエスがすでに息を引き取っていたのを見て驚いたとあります。  何にも言えないのでは情けないですから 破れかぶれです。

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  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.2

> どうでしょう?  まるめ込もうとしたって、だめですよ。ひとつ一つ参りましょう。 ====================  ○ いまわたしがあるのは イエスがいたということを知ったから。  ○ べらぼう話です。わたしは――うんと若いころは聖書を読んでもそれほどピンと来ていませんでしたが―― アウグスティヌスの伝えるイエスに接して わたしの生きる方針がうべなわれたのを覚えたのです。  ○ 目からうろこなどという体験ではありません。自分の生き方がまちがっていなかったという感覚をおぼえたという意味です。べらぼう話です。 ====================  どの文章でも良いですが、質問にお書きになった「ソーカル事件を構成することすることすらないでしょうが 先日わたしは」に続けてお読みになれば、良いのです。 ====================  ○ 特異点であるかどうかはどうでもよい。  ○ あるとすれば ほかにもそうである場合(人間)が挙げられなければおかしい。  ○ だからイエスについてのみ規定するのは ほとんど意味がない。 ====================    じゃあ、そのイエスじゃない人って、いったい誰なんだ? と素朴に思うわけですよ。しかも「人間が」と、わざわざお断りになる。僕じゃなくたって、誰が? と思うでしょう。ですから、 >こんなことを・こんないわくつきのことを質問に出したりするものですか  と言われたって、どうかなぁ。なんだか、ちょろまかされてる気がするなぁ。怪しいなぁ。なあんて、思ったりするわけです。あれっ、ひょっとして、これって「蜘蛛の糸」? システム?

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん 考えすぎですよ。たしかにわれわれ――という言い方をしてみますが――を取り巻く直近の情況とその経過をまったく抜きにして考えるのも おかしいのかも知れませんが この質問について そのような外部環境の要素を引きずっているかと言えば そうではありません。  わたしが文章にして表現する場合は もったいぶることや含みを持たせることなどは まづありません。もし意図せずに生じた外延の意味などがありましたら それについては ご指摘を受けて 対処して行きます。  もう少し最善を期すならば こうです。言おうとすることを 一たん隠して表現したとすれば――そういう場合があるかも知れないと思いかえした結果触れるのですが―― たぶんわたしの場合には そのあと二度目には必ずその隠したことを明らかにすると思います。そういう単純さでわたしは出来ていると思うからです。  むしろ――ご回答をありがとうございます―― このような前提のお話で 今回はわたしからの応答が済んでしまうかたちですらありますね。  ★ どの文章でも良いですが、質問にお書きになった「ソーカル事件を構成することすることすらないでしょうが 先日わたしは」に続けてお読みになれば、良いのです。  ☆ これは わたしの主観の問題であるとのご指摘でしょうか? むろんそうですから 質問としては そのひとりの主観の内容が 一般性を持つと思うが どうでしょう? となります。  わたしが あなたのご回答の内容を推し測って 《イエスのほかに何人かいるのにイエスだけを取り上げるのは 一般的ではない》という意味ですかと確認したのに対して  ★  じゃあ、そのイエスじゃない人って、いったい誰なんだ? と素朴に思うわけですよ。  ☆ とお返しになるのは ちょっとおかしい。わたしの表現は まだ確認が済んでいないのですから。  でしたら わたしの推測が的外れだったとおっしゃってくださいな。そういうやり取りだと思います。  ★ なんだか、ちょろまかされてる気がするなぁ。怪しいなぁ。なあんて、思ったりするわけです。あれっ、ひょっとして、これって「蜘蛛の糸」? システム?  ☆ これについては 初めにすでにお応えしました。ただし もしこういう方面でのやり取りをすすめることで 質疑応答が広く成り立つというのでしたら それはそれとして推し進めてもらってもかまいません。  わたし本人としましては  ○ あやしくありません。  ☆ と明言するのみです。  ですから この質問の趣旨は こうです。  ○ イエスは特異点だというわたくし個人の主観内容が 一般性を持ち得るか。  ○ 必要ないと思いますが この特異点を持ち出すことは 比喩としての表現です。

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  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.1

 特異点のまえに、ブラジュロンヌさんはなぜ、イエスを特別視するのか? という問いが、一般読者にはあると思います。それは仏陀でもマイトレーヤでも麻原でも、実は何でも良かったりすると思うのですが、なぜ、ブラジュロンヌさんはイエスを、そして聖書を特別視するのか。  「因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準から自由」であるはずのブラジュロンヌさんが、なぜ、聖書を特別視するのでしょうか。  ひとつには、それが「現実の人間の生き様やその『生』について、さまざまな問題の解決法」を提示しているかどうか――ブラジュロンヌさんは、それを基準にして聖書という物語の価値を考量しているのではないかと思いました。  だとしたら、僕にはその意味がよくわからないように思います。聖典の価値とは、現実に起こるさまざまな問題を、どうやって効果的に解決しているかで決まるのだろうか。  徴を否定するブラジュロンヌさんのことですから、否と答えるだろうことは予想します。けれどその否は、仏陀やマイトレーヤや麻原の場合において、すでにおっしゃるのを聞いているわけですから、他のすべてに妥当することが聖書やイエスについても妥当するという、極めて消極的なものでしかない。  むしろ、ここで問われているのは、なぜ、イエスの場合に対してのみ、口走ってしまいましたというような、積極的な理由付けをするのか? ――ということだろうと思います。  ああ――もう、見えてきたんですよ。何となく。  若い男女が過ちを犯したあとに、男が決まって言う科白。  いったい、なぜ、こんなことをしてしまったのだろう……。  あるいは、「未練だから……」と。そう言ったりもしますよね?

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん ちがいますよ。ちゃうちゃう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ああ――もう、見えてきたんですよ。何となく。  若い男女が過ちを犯したあとに、男が決まって言う科白。  いったい、なぜ、こんなことをしてしまったのだろう……。  あるいは、「未練だから……」と。そう言ったりもしますよね?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんなことを・こんないわくつきのことを質問に出したりするものですか。ちがいますよ。  ご回答をありがとうございます。  ということは 結論として  ○ 特異点であるかどうかはどうでもよい。  ○ あるとすれば ほかにもそうである場合(人間)が挙げられなければおかしい。  ○ だからイエスについてのみ規定するのは ほとんど意味がない。  ☆ といったところでしょうか?  ★ むしろ、ここで問われているのは、なぜ、イエスの場合に対してのみ、口走ってしまいましたというような、積極的な理由付けをするのか? ――ということだろうと思います。  ☆ おっしゃるとおりなのでしょう。ただしこの点を口外するようになるとは思わなかったところです。  ○ いまわたしがあるのは イエスがいたということを知ったから。  ☆ これが積極的な理由づけです。突飛なことでもないようですから すんなり公言しました。もう少しさらになお積極的な言い方をしておくべきかも知れません。  ○ べらぼう話です。わたしは――うんと若いころは聖書を読んでもそれほどピンと来ていませんでしたが―― アウグスティヌスの伝えるイエスに接して わたしの生きる方針がうべなわれたのを覚えたのです。  ○ 目からうろこなどという体験ではありません。自分の生き方がまちがっていなかったという感覚をおぼえたという意味です。べらぼう話です。  ☆ 親鸞そのほかのブッディスムを勉強していましたが 共感してもそして実践しても肩が凝るばかりでした。そして その後じっさいにブッダ以下の詩人たちを わたしが自分自身と同じ次元でとらえることが出来るようになったというものです。べらべらぼうぼうです。  つまりは言いかえるなら ブッダ以下の人びとについては 同類が何人もいると見なします。ならば 特異点ではないでしょう。このわたしが 同じ程度だと言うのですから 特別視などできるわけがありません。  ★ 徴を否定する  ☆ 《徴が本体だと見間違われることをおそれる》という意味に解しました。  ▲ (福谷茂:カント論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《人間の内には活動的な しかし超感性的な原理が存在し この原理は自然と世界の因果性から独立して自然の現象を規定し 自由と呼ばれる》。  (加藤尚武編:哲学の歴史 第7巻 理性の劇場 2007 p.172――『遺稿( opus postumum )』からの引用)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ちょうどきょう読んでいたので 引きました。(読書でお応えが遅くなりました。こんなこともあります)。  実体視するような《原理》とは言いたくありませんが そして《仏性》を持ち出すのなら 大目に見なければならないかも知れませんが この《定理》は はりつけのイエスに呼応しているようです。  ▲ 自然と世界の因果性から独立  ▲ 自由と呼ばれる  ☆ この二つの事項が対応します。前者が あたかも特異点に対応し そして後者は  ◆ 真理はきみたちを自由にする。  ☆ という方程式につながるでしょう。  どうでしょう?

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     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教

    プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教関連の本は結構読んでいますが,キリスト教の教義というか,根本原理(精神)等が未だに理解出来ません。取り敢えず下記の疑問点に付いて教えて下さい。*キリスト教で云う贖罪(罪を贖う)と罪を償うとの基本的な違い。*又イエスは十字架で処刑される事により人類の罪(原罪)を贖ったと云われていますが,この場合の人類とはクリスチャン以外の人(例えば仏教徒・イスラム教徒等)も含まれるのか。*前に述べた「原罪」はキリスト教徒以外の者にも有るのか*「贖罪論」・「原罪」等は聖書のどこに記述されているのか。以上宜しくお願いします。