闇の中から光を見る手段とは?

このQ&Aのポイント
  • 闇の中にいる人が光を見るためには、イエス・キリストの出現が必要だった。
  • 闇の中にいる人間が光を見るためには、神が人間となって人間として生きることが最もふさわしい手段だった。
  • 神が肉体となった人間として、人に見せる光は理性の光に留まるが、それが神なる聖霊であることを知らせるためには信仰が必要だった。
回答を見る
  • ベストアンサー

闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

 ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

光の光速は、相対論的には限界速度であると共に、 原理的には(ファインマン図などに於ては)因果関係の 転換可能な無限大速度とされます。 つまり、我々がものを見るのは、星の輝きが地上に届き、 物体の表面に反射しているからだと考えがちですが、 物理的には、我々の目から光が発して世界を照らし、 それが集まって(星)干渉し消失しているのと等価なのです。 前者だと、自己は結果なので、外に第一原因が必要ですが、 後者の場合、自己(自我仮設=記憶=時間の流れ)と環境 (時空仮設=予測=空間的広がり)は相補分化しており、 第一原因は不要となります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうしますと 趣旨説明には《光》を比喩として用いるとことわっていますが そのこともすべて経験現象として扱えるというご趣旨でしょうか?  ☆☆(趣旨説明) 闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  ☆ 言いかえると 人の心のねじ曲がり(へそ曲がり) いえ そもそも心という現象じたいが 物質の運動に還元されるのだから そこで《光を見る もしくは 光のもとにものを見る》ことだけで 世界は成り立っているというご趣旨でしょうか?  つまり 悩みも苦しみもなければ 人びとの意思疎通は 光のほかの余分なものを見ているところから来ているということだから すべてはその物質の現象なる世界として見通せば 心の現象は何でもないことと見なせる。こうでしょうか?  ★ ~~~~~~  我々がものを見るのは、・・・物理的には、我々の目から光が発して世界を照らし、  それが集まって(星)干渉し消失しているのと等価なのです。  ・・・〔そ〕の場合、自己(自我仮設=記憶=時間の流れ)と環境  (時空仮設=予測=空間的広がり)は相補分化しており、  第一原因は不要となります。  ~~~~~~~~  ☆ 《自己》と《環境》とは すでにいづれにもそれ自身に《時間ないし時空》が含まれているように見えますが そうではありませんか?  あるいはまた 《物理的には》という前提がありますが この前提も《世界をすべて物質の運動に還元して見る》ことにかかわっていませんか?   言いかえると この《還元》をしない場合における世界の見え方・捉え方もありうるとは考えられませんか? つまり 心的現象も この世界にはそれとして――物理現象の上にそれとして――起きているとは考えられませんか?  あるいは   ○ ~~~~~  《わたし》がすでに《過去および未来をともにいま・ここなる現在に引き受けている》かたちで  ひとつに《記憶‐知解‐意志》の三つの行為能力を持つそれとして主体存在である。  ひとつに それゆえ 特にその《記憶行為》においてすでに時空間としての領域存在である。  ひとつに 環境は やはり自然環界と第二の自然としての社会環境とに分かれる。  そのとき いづれの環境についても 存在の動態は 通底していると考えられる。     * 《相補分化》という概念がよく分からないので 《通底する》と言っています。    特に存在の動態は 社会環境との通底情況は けっきょく《人と人との関係(かかわり)および交通(まじわり)》として錯綜し関係し合う構造を呈している。ここでは 光をとおして電磁場が形成されていると思われる。  おそらくそれでも 光子の片寄りが起きて それが人の心とかかわっていると考えられる。片寄りの起こるのは 物理現象としておそらく説明のつかない原因によると思われるから。  つまり その《心や身や物質を超えたなぞの力》を《第一原因》と呼ぶとすれば ここで 現象の起きるありさまについては科学によって説明できても なぜそれが起きるのかは 人間には分からない(分かるか分からないかが分からない)ものと思われるので その第一原因の想定は 必要だと考えられる。光速を超えるなぞの力を想定しなければならなくなるものと思われるから。  第一原因は 想定しておけば わが心の庭に非思考の場が成るという状態を自覚的に得られるので そのあとは 特には持ち出さなくてもよいようになります。その意味では 不要になります。  人びとの信仰が その抱く神の名こそ違え類型的には同じように成り立つという社会情況が出現するという意味であり その段階では 第一原因のことをいちいち持ち出す必要はなくなります。  要するに 第一原因の想定にもとづき 信仰が――永遠の現在が動態するというかたちにおいて――社会の大勢として成るならば あとは確かにモノゴトの運動および人間の行為をめぐる科学的な認識を人びとが共有するところにいとなまれるコミュニケーションのみから 世界は成るというあたらしい世界が現われるものと考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~  さしづめ なぜ還元するのか? これについてお尋ねしたいと思いますが いかがでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 ★★ 言っても通じない相手(自作自演による複数(2に留まらない))  ☆ にこの質問を挙げたわたしが当てはまるとすれば それは 質問趣旨が妥当である・内容が間違っていないという判断をあなたがしていることを意味します。  趣旨説明に述べたことが 間違っていたり妥当でないところがあったりすれば 《自作》ではあっても《自演》にはならないからです。  でも この質問の問うところは 決して一般に定説ではないのですから きちんとわざわざ人びとに向けて問うてみなければならない命題なのです。いつもそういうふうに自信のある質問を挙げているわけではありませんが この質問に限ってはかなり自信がある主題でありしかも一般にそうは考えられていない そういう問題のある事柄なのですから 問うているわけです。  賛同の一票を得ることも 質問を挙げる必要も値打ちもあるということです。  そこのところを分かっていらっしゃらない。  ま 《自作自演》にこの質問が当たらないのであれば わたしの勘違いです。  そして そのようにきわめて変則的な――《自作自演だ》という評言を得ることによって 質問趣旨が妥当であるという評価を得るという変則的な――かたちで賛同をいただきましたが その一票によってコトが決まるというわけのものではありません。よって いましばらくこの質問を開けております。みなさん つのってご回答をお寄せください。  あるいはまた この人間次元の世界の見方をすべて物質次元に還元して見るという世界観をなぜするのか? と問うていますが その答えに詰まるということだと理解しました。  あるいは要するに 《第一原因》論についても わたしの立論のほうにぶがあると認めたというご見解であると理解しました。  と言っても この二点などはあらためて確認しなければならない事柄であるでしょうが。

その他の回答 (3)

回答No.4

[正の整数を1.2.3数え終えた状態をエンドレス無限軸座標で定めろ] 瞬間に生まれる座標地平は無限速を超え全ての旧支配者の宇宙を凌駕する 私輩ですらIT玄人フツーに負けないぞ大昔の神や宇宙や法則なんぞには

bragelonne
質問者

お礼

 うろんりさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ☆☆ キリスト・イエス  ☆ という主題は 哲学としてあつかうとすれば――と言っても 神学としてでも同じだと思いますが―― きわめてナゾに満ちた内容を引き出さざるを得ないと考えます。  そのナゾをもってですが  ★ 全ての旧支配者の宇宙を凌駕する   ☆ ちからを あなたに与えると思います。  ★ 法則  ☆ と言えば このいま話をしているわれわれ人間が 科学の目をもって認識しうるものごとであってそれらに限るとすれば けっきょく法則は 人間にとっては〔その事実と対応するところの〕思考やその観念であります。そうではなく科学の目を超えてヒラメキのようなものであれば 法則は けっきょくナゾの問題に帰結してしまいますから。  つまり何が言いたいかと言えば:   ○ ナゾの持つ力は 《法則》をも凌駕すると言ってよい場合には    とうぜんのごとく《宇宙》をも《大昔の神》をもやはり凌駕する。    はずだ。  となると思います。  われわれ人間が《凌駕する》のかと言えば おそらくそうではなく ナゾの力が――それがナゾとしてわれわれ一人ひとりにかかわっている限りでわれわれにもヒラメキにおいて分かったようにさせてくれるというかたちであるに過ぎませんが―― この経験世界やそれについての経験思考そしてそれらすべての観念を超えさせてくれるのだと。  ★ 無限速を超え  ☆ たナゾの世界をあたかも見させてくれるのだと。  ただし《無限》という問題では     ○ 可能無限と実無限  とを分けて捉えなければならないとは思います。   ○ 可能無限とは:     1,2,3,・・・∞ といったように数えられるかたちで    《エンドレス》だという場合には その無限大にさらに一を    加えて ∞+1 という数をつねに特定することができるわけ    ですから 経験思考の範囲内にあり 経験世界に属している。   ○ 無限(実無限・真無限)とは:     非思考すなわち経験思考に非ずでしょうし したがって経験    世界を超えている。     したがって この無限を仮りに二や三で割ったとしても そ    の商は やはり 無限である。     人間の能力によっては 表象し得ないナゾであり あるいは    むしろ無根拠のことである。  イエスは ヨセフという父とマリアという母のもとに生まれたふつうの人間ですが――つまり われわれと同じ経験存在でありますが―― キリストとしては じつは神の子であり自身も神であるという存在だというめちゃくちゃ理論として想定されています。  このキリストが ナゾであり無限であり無根拠であるという物語を じんるいは持つに到りました。  これを哲学は何とかして活かすか それとも理由を説明してしりぞけるか いづれかの取り扱いを促されているのだと考えます。  そのひとつの答えとしての考え方を 趣旨説明にて述べております。もっと哲学の徒なら 活発な議論になるのが 自然の成り行きであろうかと思います。どうでしょう。

回答No.3

仏性とは、右脳の働きです。神とは右脳の働きです。右脳の働きとは『生命自身を働かせる働きです』生命自身を働かせる働きとは『命そのものを働かせている働き』です。 生命として生じた瞬間から働き始める、細胞分裂をする『働きの意志です。』全て命在るものを働かせている『命そのものの意志』です。 櫻でもその種類によって花の形も色もそれぞれの遺伝子を持ってその種固有の命を働かせています。蜘蛛もその種固有の形や行動が『脳』に刷り込まれています。 動物にもその種固有の行動や、その形でさえ、脳に刷り込まれて生まれています。 麒麟にも麒麟の体型になる働きが存在していますが、その麒麟でさえ個性を遺伝子から貰い受けて、同じ麒麟は存在していません。。 万物の長と言われている人間もその例外では在りません。人間としての体型、考え方、或は感情の湧き方に至っても、人間としての感情は湧き上がるように出来ていますが、親からの個性も同時に受け継いでいます。 人間のみが『意識』を持っているとされています、人間のみが精神病になると考えられています、人間のみが、神経症になると考えられています、人間のみが悩みや苦しみを苦しむと考えられています。 それ以外の生物には、苦しみの中にいた場合でも、苦しみと一つになって苦しんでいる(苦しいと言う意識はない)と考えられています。 人間の場合にも『命の働き』は存在しています、ホルモンの調節や、腸や心臓や肺などをその環境に合わせて最適にする機能が存在していますが、その機能にも意志或は意識は存在しています。 その意識は『無意識の中に封印された形』で存在しています。そして人間の行動や全ての場面でも立ち会っています。そうしてその意識からの情報を受けて人間の生活が成り立っています。 その者の働く場面を書いて見ます。その者は『命を守る番人として働いています』寒くなった場合では、血管を収縮させてています、そうして心には『暖かい所を探すように指示を出しています』 暑くなった場合です、血管を膨らませています、体には汗が出るように働いています。心には涼しい所や、水の在り処などを、探すように指示を出しています。 びっくりする場面です、そのびっくりする内容に応じて変化がありますが、身の毛がよだつような場面では『身の毛がよだつようにさせている者』です。同じ言葉で言うなら『びっくり』ですが、スピードを出し過ぎた場合、高い所に上がった場合、狭い所にいる場合、怖い人に出会った場合では、その怖いに応じて違う情報を送っています。 生命の危険が差し迫った場合には『自我意識が行動を意識する前に』体と心はその危険から逃げ出すように、既に動く事を指示しています。この場合を『思わずに行動していた』と表現しています、或は火事場のクソ力と言うように『自我意識にはその時の記憶がない場合もあります』 眠る事を例にすると分かり易いかも知れません。人間の自我意識は『自分が眠っていると思っています』ですが正確に言うならば『自我意識は眠る事をしていません』眠る前に意識は無くなっています。意識が無くなったという場合『無意識の自分』と交替したという意味です。 体と心をすっかり『自分の無意識の意識』に安心して預けています。この場合朝になった時『無意識の自分は』自我意識に体と心を、返しています。この場合すっきりとした目覚めとして感じます。 その反対の例です、自我意識は眠れるものと勘違いする場合です。この場合『意識を凝らして眠りに集中しようとします』出来ません。意識の力や意思の力で眠りに付こうと頑張りますが『眠る事が出来ません』自我意識単独で眠れるものという勘違いする事を『不眠症』と言っています。 自我意識単独では人間は何も出来ません、人間の自我意識単独で『心を調節しようとした場合』=『心を病む』と言っています。 人間の自我意識単独で、人間の行動を自由に出来るという勘違いが『神経症』となっています。 人間の自我意識単独で、体の機能を調節をしようとする事を『自律神経失調症』と言っています。 今書いた三つの症例は、自我意識単独で人間を動かせると勘違いしている事を意味します。この場合『無視された無意識の意識から』抗議の声を聞く事になります。その抗議の声が『漠然とした不安や、生き難い想い』となって、自我意識に圧迫を加えてきます。 何処から来るのか分らない漠然とした不安とは、『命の働きの意志』=『無意識の自分』=『神や仏』からの情報として送られています。 その情報とは、生きる為に必要とされている情報です。ですが人間の『自我意識としての考え方の癖』がその情報を悪いものとして『受け取りを拒否しています』 生きる為に必要な情報を『送る者としての機能としては』情報を受け取ってもらえない事から、その情報を拡大して増幅して送って来ます。その増幅された情報が『全ての恐怖症の原因です』 高い所にいると言う情報を拡大した情報として受取った場合『高所恐怖症』と云う事になります。小さな不安が増幅された形で送られた場合『恐怖感』として大きくなっています。この恐怖感を受取ろうとしなくとも自我意識には送られてきます。是がパニック障害のメカニズムです。 自身の感情が湧き上がるためのシステム、或は感情を上が湧き上がらせる為の情報とその情報の送り手を『嫌ってしまう場合』その情報の内容によって、心に関しての情報の場合『心を病む事』が決定します。 行動に関しての場合『神経症』が決定します。体の機能としての場合を『自律神経失調症』と言っています。 どちらにしても『心の矛盾』を感じています。心の矛盾を解消する事を『自分自身を知る』と言っています。この場合二つの意識は『心の奥底』で出会う事を意味します。 二つの意識は、絶えず交替しながら毎日の生活が成り立っています。心の奥底で交替しながら毎日の生活が成り立っています。心が『無から生まれる瞬間』その刹那、心の根底では二つの意識が同時に混在している場合が在ります。 言葉を変えて云うならば、感情を湧き上がらせていた意識と、その感情を感じさせられていた意識が、同時に混在していた事を意味します。その瞬間に『自分の存在意義、或は自分は何者か、或は有限の身が、永遠の存在と出会う事』が分かったという意味になります。 それ以後『心の矛盾は解消された』ことを意味します。人間としての疑問や、人間としての障害(症状)が消滅する事を意味します。 自身の内部では『心の争いが消滅する事』を意味します。二度と心が争わなくなると言う意味は、『心は飽く迄も静寂になっている』と言う意味になります。生き難い想いが解消すると言う意味になります。 人間の悩みや苦しみとは『自身の心の矛盾』を敏感に感じていた事を意味します。その解消する事を『神と和解する』と言っています。裏を返すなら『自分自身の心の矛盾』を苦しみとして感じていた事を意味します。 禅問答が解けた時にも言い方があります。『生死の問題が解決する』と表現しています。共に『心の矛盾が解消した事を意味します。』表現方法こそ違いますが、心的な内容は同じです。 生きる為に身体中に、特に肩や首筋などですが、力が(知らないうちに)入っていました。その力が『意識の根底からの納得で』すっかり抜け落ちます。是が『悟り』です。心身脱落です。脱落心身です。 意識の根底からの、二つの意識の仲違いの解消です。自分の心が『もう二度と争わない状態』を涅槃と言っていると思います。識られざる(我が)神との和解が成立した事を意味します。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  よく分かりませんが けっきょく  ○ 自然に人は闇の中にいても光を見ることが出来るようになる。  ということでしょうか。  ★ 識られざる(我が)神との和解が成立した事を意味します。  ☆ この場合の《神》を 哲学としてはどう説明するのかという問いです。自然に でしょうか?

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.1

キリストの出現によって初めて光を 見いだせた、ということになると、 キリストが出現する以前の人には 闇しか存在しなかった、ということ になる。 つまり、2000年以上昔の人には 闇しかなかったのだ。 これっておかしくない? 事実、キリスト教原理主義者たちは、 キリスト出現以前に人間は存在しなかった と主張しているが、これは考古学に反する。 彼らは、ガリレオの過ちを繰り返すのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  提起された問題は 個人の・つまり質問者個人の主観にかかわっています。わたくしの主観から見て――ということは そのほかの可能性ですとかあるいは正解ですとかをいま括弧に入れて―― 述べたものだという意味です。  言いかえると この趣旨説明の示す信仰内容とは別の《光の出現》のあり方については 随時回答者の見解にしたがって提出していただく。こういう段取りです。決してこのひとつの信仰のかたちに閉じ籠るための考え方を述べたものではありません。  さてその上でですが  ★ ~~~~~~  つまり、2000年以上昔の人には  闇しかなかったのだ。  これっておかしくない?  ~~~~~~~  ☆ ひとことで答えれば――つまりむろん ここで提起した見方に従えばですが――  ○ キリスト・イエス以前の人びとは――ほかの《光の出現》のあり方を別とすれば―― 闇の中にあって《光の出現》を待ち望んでいた。  ☆ という解釈になります。《希望において 光の出現を見ていた》という表現でもよいと考えます。  むろん 存在として その自然本性においてみな同じ人間です。  きわめて早い話としましては こうです。  ○ ~~~~~~  仏性が 人びと一般には一人ひとりにとって観念や希望として・あるいはただ一人ゴータマ・ブッダとか言う人にとってはその身と心において生きて それぞれ実現されていた。  ところへ イエス・キリストが歴史に登場し十字架上に去って行ったあとは 誰にとっても その身と心に宿る仏性が――ないし神の霊が―― 実際のコトとなった。  つまり 誰もが現実にその仏性を発揮することができるようになった。つまり光を見得るようになった。  ~~~~~~~~~  果てさて いかがでしょう?  * ★ キリスト教原理主義者たち  ☆ の考え方は 論外としましょう。

関連するQ&A

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味ではないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰を わが心なる《非思考の庭》として現わした。    という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。  (κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう考えますか?

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題について問います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき)

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき)  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題についてあらためて問います。何かを論破するためだけのものではないかとの批判を受けてのことでもあります。それについては この命題は そのとおり論理を問題にしているという答えなのですが ほかの見方による批判についても 受けつけたいと思いました。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  念のために言えばこれは 哲学です。よろしくどうぞ。    * この哲学だけでは 中国の理不尽さには対抗できないという情けなさを噛みしめつつの再掲でもあります。その中国脅威論をからませてもご投稿ください。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 《人間イエスは神キリストなり》なるドグマについて

     1. 《ナザレのひとイエスは そのように人間であると同時に キリストと呼ばれる神の子でありかつみづからも神である》という物語――つまり 命題としては論証し得ないドグマ――について問います。  2. 前提事項として 次を確認します。たとえばこのイエス・キリストが《真理である神を指し示した》というときそれは    (あ) 神はじんるいにとって全体としてひとつであり 名は違っても同じ《非経験の場》と想定されるナゾの何ものかであるということを語った。   (い) すなわちおよそ神ならば どんな名のそれであっても 互いに分け隔てはないということ。   (う) 真理である神は 経験世界を超えており このナゾを人間がその能力と努力によって知解することは不可能である。   (え) 言いかえると 《考えるや感じる》世界を超えており それはただその神の名を心に受け容れるということをとおして抱くことになりそう成った心の動態としての信仰をとおしてのみ いわば人間がかかわることのできる存在(または 非存在)である。そのようなわが心なる《非思考の庭》が 信仰である。   (お) この信仰からヒラメキなどの直感をとおして得た思いや考え これを思想として表現することがあり得る。これは オシエであり それをすでに集団化した者たちの教義とするなら そこに《宗教》が現われる。――この組織宗教は 個人の信仰の言わば蝉の抜け殻である。   (か) こういったことを語ったと思われる。――この前提事項をもむろんご批判ください。  3. さて問題は 次です。   (き) 《人間イエスは 神キリストである》は 思想としてはいわゆるアラヒトガミのことです。   (く) ただしイエスのばあいは 神そのものが《想定》に成るものですから キリストと呼ばれるようになったことも物語であり 命題としてはドグマです。――このことは 日本における現人神が どう捉えられているか・つまりドグマなのかどうかが分からないので ひとこと触れておくという意味にもなります。   (け) 日本人のあいだのいわゆる自然宗教――つまり実際にはその集団的宗教の問題ではなく 個人一人ひとりが自然にいだくに到っているそれとしての信仰のことです。つまり これは たとえば《もののあはれを知る》といったかたちで説明されます――をもって   もういちど繰り返すなら 個人の自然にいだくおのおの自由な信仰をもって 一般に欧米のクリスチアニズムに相い対するという交通のかたちで 要は足りるか? これがひとつの問いです。   (こ) むろんこのいま言った自然信仰は じっさいに生活に生きているその動態です。ですから 経済的・政治的また文化的な活動をとおして クリスチャンたちと相い向かい対話を展開するわけですが そのとき 信仰じたいの説明はどうなっているか? という問いが向けられたときには どうするか。こういう背景です。   (さ) そのときの対話交通においては わたしたちは クリスチャン側の《イエス・キリストなるドグマ》については 話の前提としてみとめた上でということになるのではないか? それとも ドグマなのだから 認めないという判断をすでに持ってのぞむのか?   (し) なぜドグマであっても 話の前提としてみとめるほうがよいと考えるか? これは 項目を次にあらためます。  4. 話を 《闇の中にいつづけていたひとが 光を知るにはどうしたらよいか》という問いから入るかたちとします。   (す) ひとつに衆生縁の慈悲があります。人びとの思いやりです。これをとおして 光を知る入口にまでみちびかれると思います。   (せ) ひとつに科学のチカラがあります。ものごとの世界の普遍的な認識としての知性的なチカラです。目の治療を例にとっても 光が見出され得ます。   (そ) 次には 《みづからがさささやかな光となることは出来るか。成るにはどうしたらよいか》という切り口ですが ひとつには 《ひとには 神の霊がやどる》という想定を持つことです。   (た) これは 必ずしも勝手なドグマではなく 神をナゾの何ものかとして想定したとき ほとんどそのことに付随していることだとも考えられます。   (ち) その《神の霊》は ブッダター(仏性)ともアートマンともルーアハともプシュケーやプネウマともアニマやスピリトゥスとも たましいとも言われます。〔これは (あ)(い)の前提事項です〕。   (つ) 問題はここからです。《みづからが光となる》のは その心にやどるブッダターによって人間みづからがその努力(ハカラヒ)によって成すのか?    (て) 言いかえると 《人間が人間であると同時に神である》というまぼろしの想定は 要るか要らないかです。要るというのは 人間がみづからのチカラによっては 心の燈心をともすことは出来ないという人間の限界をみる見方です。   (と) 思いやりなる光のようなものは 人間がその知性などのチカラで持ち得ます。ところが 心の燈心に火をともすことは 人間に出来るか? という問いです。(言わば永遠の火ですね。ロシアでは聖火が消えたそうですが)。   (な) 出来ないという見方に立つなら キリスト神話のドグマを話の前提としてみとめて 欧米人と話をしなければならない。と考えられます。   (に) 果たしてそうかという問いからご見解をもとめます。   (ぬ) 質問者は そうである(ドグマを認めざるを得ない)という見方に立っています。人間だと限界を見てしまうことがある。からという理由です。

  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。