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アブラハムとイサクの父子関係と神とイエスの父子関係について
- アブラハムがイサクを神にささげようとしたが、神は止めたというエピソードがあります。
- イエスは神の独り子として人々の罪のあがないために犠牲になりました。
- 原罪とその贖いについての考え方が分かれていますが、特別な意味のある父子関係があるとは考えられません。
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○ ブッダは死んだ。ブッディスムも 末法である。 ☆ と確認して 明確にすればよいでしょう。 ○ 現代においてブッディスムは 愚の骨頂である。 ☆ と帰結されませんか? これはしたり、なるほどすっきりしてますね。寺や坊主など愚の骨頂ですね。 現代がまっこと、末法であるから坊主が原罪と煩悩の区別がつかなくなったのですね。 親鸞のように阿弥陀仏に四六時中しがみつけば、煩悩が生ずるよすがもないでしょうね。 煩悩など生じても生じても毎日ほうきで掃き飛ばせば無くなるもので、人に粘着した罪ではないんですね。 仏陀は人に粘着した罪、原罪など無し、と宣言され、されども日々ゴミは出る。これを煩悩と称して、掃いて捨てなさいといっただけなんですね。 「末法の世ではこれもわからない世になっちゃいましたが。でも現代の本物の仏弟子が書き込んでますから復元すると元はそういう意味ですよ。」 掃いて捨てる修行が面倒だから、しがみついていれば掃くことも無いということですね。親鸞は愚鈍だからいいとこに目をつけたんですね。しがみついているのを猿の宗教といいますね。愚鈍親鸞は猿になったわけですね。これも立派な知恵ですね。 極重悪人もしがみついていることさえできれば何とかなるんでしょうが、このしがみつくというのも割合に難しいんですよね。bragelonneさんのおっしゃる非思考ですからね。無我ともいますね。 私は猫なんですね。猫は親がくわえて運ぶでしょ。親の手のひらで自由にしておきたい部類ですね。猿は楽だが猫の自由はない。自由を求めると日々ゴミがでるので掃き飛ばさないときれいにならん。めんどうですけどね。 イエス好きの私が洗礼を受けずに、仏教徒になったのは猫が好きだからですね。生まれ故郷は親鸞の猿の宗教なんですがね。 猫が猿を見るとまあなんと不自由なと思うからなんです。bragelonneさんの考え方は非常に高尚で立派なものであり、共感できる部分が多々見出せます。違いがあるとしたら猫か猿の違いかなと思う次第ですね。
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- mmky
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○ イエスからあとの歴史では 全人類にとって 原罪というものを問題にしない。 ○ よって あたかも人類の祖のときからも もう原罪を取り扱わないようにする。 ☆ こういう趣旨です。 ● 私は、人類の祖のときから原罪などあるはずないと思っているのですね。しかし、クリスチャンがイエスの後に原罪が無くなったと考えるのならそれも認めましょうという立場なんです。原罪など無いというのを過去のどの時点においてもさして変わりは無いからですね。 最初から無いと言えば、無益な論議は必要ないのですが、途中からなくなったと言えば、理由や類似系パターンが気になるわけです。 鴨が葱背負ってと同じように、イエスが原罪を背負っていったと考えることも一理として認めるわけです。ただ人類の長い歴史の中で2000年前に1回だけありそれより過去も、それより未来も二度とないのか? については、bragelonneさんの解釈や説明では心もとないと考えているだけなんです。 少なくとも釈尊はイエスより500年も早いですからね。東洋ではイエス生誕の500年前にはすでに原罪などないですからね。だから人類に東洋人を含めるならイエス生誕の500年以上前に原罪背負った鴨がいないとつじつまが合わなくなるのですね。 「2000年前にイエスが原罪(アダムとエバの作った)を背負っていった。だからもう原罪などありゃしない。」を信じましょう。という西洋の信仰であれば、それはそれでいいんですよ。ただ東洋を含めた普遍の説明にはなりえないというだけなんです。
補足
mmky さん 問い求めにおつきあいいただきましてありがとうございます。 しかも わたしはずけずけとものを言ってまいりますので その点もご批判の手をゆるめず対話を進めて行かれるとともに どしどし突っ込んでいただきたいと思います。(開き直りになってしまいますが)。 ブッディスムについて食い違いが出たように思いますが クリスチアニスムについては――直近の【Q:われわれは原罪を犯せしや】からのご見解として――同じ方向において原罪の無化を述べておられると受け取ります。この一致はおおきいと思います。 ★ ● 私は、人類の祖のときから原罪などあるはずないと思っているのですね。 ☆ このとき当然のごとく mmky さんも ひとの自由意志については それがへそを曲げるという自由をも持つという点で 悪ないし罪を犯すとおっしゃっているはづですので この点を合わせて 同じ方向を向いていると同感した次第です。 言いかえると イエスは そのように原罪〔があるとしたならそれ〕を無化したとともに ひとの誕生には 母から生まれる自然のそれと もう一度その後――消極的にはあたかも原罪の無化を確認するかのように 積極的にはその上で《わたしがわたしである》という自己到来を得るという――第二の誕生があると伝えたのだと考えます。 後者の誕生は 伸ばしていけば 復活であり永遠の現在〔という《わたし》の動態〕になるというものです。 さてブッダのお話です。 ★ 少なくとも釈尊はイエスより500年も早いですからね。東洋ではイエス生誕の500年前にはすでに原罪などないですからね。 ☆ これはしたり!! mmky さんにして そういった表現をなさいますか。 もしそうであるなら (1) 何度も生まれ変わるという輪廻転生説は完全に削除していることでしょうし (2) 《無明=煩悩:生きるということ自体が その意欲によって明知が曇らされる》は 別種のでしょうか 《原罪》であると説いたものだと見なされませんか? (3) なぜ成仏・涅槃を《彼岸》と規定したか? (4) 後世において《仏性》を説く動きが出たように 原罪に比される《無明》の闇を照らす明知の生命力を もとから・しかもすべての人間に等しく備えられかつ実現可能なこととして ブッダはなぜ説かなかったか? 説けなかったか? ブッダが 原罪を背負ってそれを消してしまう(あるいは もともと無いと明らかにする)鴨であったか――これは まだあいまいですね? どうでしょう? たしかにイエスのあとの歴史においてもクリスチアニスムの《原罪》なり《懺悔・告解》なりは盛んに――宗教の教義と組織において制度として―― 尾を引いていますが 理論としては 完全に明解になっていると考えます。そんなものは〔必要が〕ありません。 ところが ブッディスムでは 五戒が 《不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒》と説いても 一つ目や二つ目を除けば あって無きが如しですね。それは もしすでにブッダがそれら戒律を説かねばならなくなる原因としての無明を克服し切り無化しているのだというのであれば そのことを徹底させなければいけません。戒律など要らないとはっきりさせなければいけません。 そして宗教としての《原罪ないし無明・煩悩》についても 決してきびしいものではありません。それは ブッダが無化したからなのでしょうか? むしろその四苦八苦などと説こうものなら 空や縁起や覚りだの無我の境地だのとかまびすしく 〔むしろ〕鴨が葱を背負ってやってくるが如くブッダがもてはやされるという始末ですね。 まぁ これもそれも すべて曖昧のうちにおこなわれていますから ひとつの見方としては 原罪はもともと無化されていると言えば言えるのかも知れません。しかも そのあいまいさが およそすべての仏性を宿すにもかかわらずそれを現わし得ないという人びとのあだとなっていませんか? それには ひとこと ○ ブッダは死んだ。ブッディスムも 末法である。 ☆ と確認して 明確にすればよいでしょう。 ○ 現代においてブッディスムは 愚の骨頂である。 ☆ と帰結されませんか? (人間論として明らかにした個々の研究成果じたいは 活用していけばよいでしょう)。 (あと確かに親鸞というひとは まともな信仰を述べていると考えます)。
- mmky
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☆ と見ておられるのは さらにどういう内容になりましょうか? ● 回答の論理からは、因果応報は完全に外しているのですね。 原罪の消え方だけだで論じてます。アブラハムがイサクを生贄に出した時点で、アブラハムの原罪は消えた。だが、イサクは生き残ったから原罪は残った。だから、子孫のイエスが生贄になった。イエスが生贄になったが、ユダヤの一部のものに原罪が残った。それを消す手助けをしたのが神に選ばれたヒットラーであった。おかげで原罪も消えイスラエルにもどった。(ユダヤ人が聞くとひっくり返りそうな論法ですが。) という論理でしょ。ヒットラーが神の手下として働いたという馬鹿馬鹿しい論理は必要ですが、イエスを屠ったローマのピラトもいたわけですから。おかしい論理でもないですね。ローマのピラトもイエスを屠ったおかげで原罪がなくなったわけですしね。 イエスの生贄で原罪が全て消えたわけではないと捉えているだけなのですね。なぜなら、ユダヤ人はナザレのイエスは預言者であって救世主ではないと信じているからですね。そう考えない人まで嫉妬深いユダヤの神は原罪をチャラにはしないでしょう。 つまり、全て同一論理なんですね。ナザレのイエスだけが例外ではなくなりますね。ユダヤ・キリスト教では原罪をチャラにするには生贄が必要なのですから。信仰は非思考。原罪は原罪と分けているでしょう。 だから、「bragelonneさんの視点だと同じ関係でないとだめなんじゃないでしょうかね。」となるわけです。 一方、仏教的因果応報論理であれば、ユダヤ人が救世主のイエスを屠った、それが因となり、国を追われ、流浪の旅人となり、更に応報としてナチスによる大量粛清があった。ナチスの大量粛清が因となり、ヨーロッパの人々に罪悪感が生まれ、イスラエル建国を容認せざるおえなくなった。となりますね。これは別の論法ですから適用してませんということですね。
お礼
mmky さん ご回答をありがとうございます。 まぁ いつもの mmky さんですが ここまで来ますと(この論理になりますと) もうわたしにはだめですね。ついて行けません。 荒唐無稽という形容をしてもいいのでしょうが 要するに 実証が無理だからです。論証にしても おそらく反対側とのあいだで いつまででも討論をつづけなければならないでしょう。 わたしの見方は 前回(No.1)から変わりません。 原罪にしたところで たしかにイエスによってそれを贖って消したという見方を――おおむね mmky さんと同じように―― 一たんはしますが しかもそれは 神がアダムらの原罪を犯すのを知っていて造ったのだから イエスのときにその原罪の問題は じんるいにとって無くしたという解釈です。 ○ イエスからあとの歴史では 全人類にとって 原罪というものを問題にしない。 ○ よって あたかも人類の祖のときからも もう原罪を取り扱わないようにする。 ☆ こういう趣旨です。 こういう解釈としての見方であるなら どこが聖書や神学に照らして 不都合かなどなど 具体的に或る程度は議論することができるはづです。そういう質問になっています。 あらためて趣旨説明を述べれば ○ イエスなり旧約からの神なりは じんるいにとって決して特殊な信仰なり思想なりをかたちづくるものではない。 ☆ と見るところが 論点になっています。 ○ イエスが出てからは ヤハヱーは もういなくなったのであり イエス自身もいなくなった。 ○ ただ《ひと》がひとであること。これをものごとや世界の基礎としよう。 ☆ これだけを言おうとするものです。 ★ だから、「bragelonneさんの視点だと同じ関係でないとだめなんじゃないでしょうかね。」となるわけです。 ☆ ここがまだよく分かりかねているのですが。 ○ アブラハム父子と神の父子とは その関係のあり方がけっして同じではない。 ☆ とわたしは見ているのですけれど? どうでしょう。 * ちょっと初めに対話を放棄すると受け取られかねないような言葉を言ってしまいましたが それは話し合いにきりがつかないであろうという意味ですので 念のため。
- mmky
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☆ 神とイエスの父子関係と アブラハムとイサクの父子関係とのあいだに特別の意味のあるかかわりがないほうに見方を寄せようとしています。 bragelonneさんの視点だと同じ関係でないとだめなんじゃないでしょうかね。 たまたま助かっただけで、それから数千年後の近代でもドイツで数百万人のユダの子供が生贄になってますね。その結果、罪が許されてイスラエルの建国が出来たんじゃないですか。 というように考えないと矛盾しますね。
補足
mmky さん ご回答をありがとうございます。第何ラウンドくらいでしょうか? またまた始まります。 ご回答内容をそのまま受けてですが そうしますと ○ つねに人間のおこないは やはり善あるいは悪の内容をそれぞれ伴なって そのいづれかに応じて報いがあるという見方 ☆ を堅持されていますか? つまりは ○ イエスの場合なら じんるいの原罪および人びとそれぞれの悪ないし罪の行為 これらの報いを人びとに求めないで しかも全部贖いその責任を消してしまう。このような広い意味での因果の応報という見方でしょうし。 ☆ ただちに再反論しますと これは神の側の人類に対する――原罪を犯すと知っていて造ったしそのまま放っておいたことについての――おわびだったと見ます。→【Q:われわれは原罪を犯せしや?】http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html ○ ユダヤ民族としては アブラハムの信仰を モーセの律法規範へと取って代えた状態を頑なに守り続けることにおいて ヤハヱーの愛を――イエスの出現したときに――見逃した。その悪の行為に対する報いが ナツィ・ドイツ人の手によって行なわれた。という見方。 ○ しかもその報いを受け切ったので その後自分たちのイスラエル国を持つことができたという因果応報の見方。 ☆ たぶんこのように捉える場合の因果関係というのは 歴史の要素をどのように取り出してくるかによると思います。けれども アブラハムにとってその子イサクのいけにえの事件については ★ たまたま助かっただけで ☆ と見ておられるのは さらにどういう内容になりましょうか? わたしの見方では 明らかに いま問題の因果応報説――因果応報という筋においてものごとの継起関係を捉え解釈する見方――を断ち切っていると捉えるものです。 父アブラハムが 神の言葉に従って 子のイサクをほふろうとしたのは ほんとうであったし やめなさいと神がそのアブラハムの・刀を振り下ろす寸前で止めに入ったのも ほんとうだと考えます。――因果応報説と言いますか そのような人間のさかしらな考えを 根元から神はゆさぶっている。 要するに人間の理性による経験思考(コギトですね)をすっかり根こそぎにして ただの裸の人間として いま・ここにいるというだけのわたしを見出させようとしている。そういう事件なのではないでしょうか?→【Q:アブラハムはどうして我が子イサクをいけにえにささげようとしたか】http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5100690.html どこまでラリーがつづくか分かりませんが まづはこのようにご返答申し上げます。いかがでしょう?
お礼
7月10日(金)しるします。 別の質問【Q:アブラハムはどうして我が子イサクをいけにえにささげようとしたか】へのご回答の中に この質問と同じ内容を前提とした問答を含んでいるご投稿が出ましたので そこで一括してお受けしたいと考えました。よろしくどうぞお願いします。
補足
mmky さん ご回答をありがとうございます。 ★ 私は猫なんですね。 ☆ なるほど。 ★ 猫は親がくわえて運ぶでしょ。 ☆ たぶんわたしの言葉に翻訳すれば――少し見る角度が違ってくるかと思いますが―― 《羊飼い》でしょうかね。 ▲ (ヨハネによる福音書21:15) ~~~~~~~~~~ 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、 ――わたしの小羊を飼いなさい。 と言われた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは復活したイエスですからその前に イエスは生前に いろんなたとえで言ってもいますね。 ▲ (ヨハネによる福音書 10:1ー21)~~~~~~~~~~~~ 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 10:2 門から入る者が羊飼いである。 10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 ・・・ 10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ かつてプロテスタントらは この声を聞いて みづからも次々と 続々と 牧者になると名乗り出たことでしょう。――でもかたちある・制度としての教会がやはり出来上がって行きました。日本では 無教会主義という教会も出来ました。 mmky さんがどういう方向とかたちを目指しておられるのかは 残念ながらまだ分かりません。 ★ 猿 ☆ の場合は 《はからい》があってはなりませんから むつかしいですよね。《はからい無きようにする》というはからいも ありますから。 ★ イエス好きの私が洗礼を受けずに、仏教徒になったのは猫が好きだからですね。生まれ故郷は親鸞の猿の宗教なんですがね。 ☆ 親鸞から やっと十八歳でしたが 入って その後うんぬんですが わたしも水による洗礼は受けていません。 アブラハムからどこへ飛ぶか分かりませんが 出来ればもう少し進めたいと思っています。その時にはまたよろしくお願いします。 あるいはこれまでについて 明らかにすべきまとめや補足修正などありましたら どうぞそうしてください。