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アブラハムはどうして我が子イサクをいけにえにささげようとしたか

 神はどうしてアブラハムにその子をいけにえにささげるよう告げたのか?  神という非経験に相い対する経験存在であるわたしは その関係が 非思考でありそれとして信仰であると知らねばならなかった。  といまのところ考えます。  多くの人びとの父(祖)となると言われているのに その子のイサクをほふれば 血筋は断たれてしまう。神は そういう約束と矛盾することを命じた。――ということは アブラハムに対して 神との関係は自分のつまり人間アブラハムの経験合理性にもとづく思考に先行すると言おうとしていないでしょうか?  信仰(=非思考)は 経験思考に先行すると言うために 我が子の命をささげるという行ないが始まろうとしたのではないか。  どうでしょう?  クリスチアニスムのほかの立ち場からも 自由なご見解をお聞かせください。ご教授ください。

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  • hatomaru
  • ベストアンサー率30% (33/107)
回答No.1

なるほどなと思いました。 神対個人で向き合うキリスト教的解釈としてはとても納得がいくものだと思います。 キリスト教的解釈を抜けだし考えるとと、旧約聖書の中でのお話ですので、ここで書かれている「神」はキリストが唱え契約をした父なる存在としての神(唯一神)ではなく、代償をもって救いを求める人間と古代神との関係性を描いたものであろうと思っています。 実際に反逆の誤解などがあり父が神の名の下に子を殺そうとしたが、子の潔い態度に感じるところがあり思いとどまった。国の創成や民族の成り立ちの逸話に神を付加して意味合いを強める。けっこうありますよね。神話は歴史との融合ですから。 …素直に書いたのですが、突き詰め熟考した思想を否定するひねくれた意見ととられてしまうと怖いな。 そういう意図ではありませんので…。

bragelonne
質問者

補足

 hatomaru さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  最初はたいてい 反対説が投じられることになっているのですが(まぁ うそです)   ★ 神対個人で向き合うキリスト教的解釈としてはとても納得がいくものだと思います。  ☆ と賛同をいただきました。ありがとうございます。  そして 旧約の神の位置づけと言いますか さらに突っ込んで捉えておこうというところでしょうか。  ★ 〔アブラハムの神は〕 代償をもって救いを求める人間と古代神との関係性を描いたものであろうと思っています。  ☆ たしかにそうで 《わたしが求めるものはいけにえではない》と確か言っていた箇所もあるものの 犠牲が必要だったでしょうし ほかの民族に対しては容赦なく殺すというかたちがやはり必要だったようですね。  ま わたしは 偶像神や多神教の神々との混合などについては あまり深刻に捉えてはいないのですが ともかく唯一神といえども民族の神の域を出ないところがあったようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 実際に反逆の誤解などがあり父が神の名の下に子を殺そうとしたが、子の潔い態度に感じるところがあり思いとどまった。  (2) 国の創成や民族の成り立ちの逸話に神を付加して意味合いを強める。けっこうありますよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですか。そういう視点ではほとんど見て来なかったので初めて知りました。ただしさらに古い神話からその要素を取って来て物語をかたちづくったというのは 何ら問題にならないと考えます。中身が問題だからです。  でも いくつかの解釈というのは この問題にとっても 知って考え合わせておくことは重要だと考えます。  (3) ともかく神のしもべとして 然り然りと言って受け容れるという解釈やら (4) 父と子とで一体となっていけにえとなり その後神のちからによって復活するところまでをアブラハムは体得していたであるとかです。  ちなみに   ○ ねたむ神・怒る神  ☆ に関しましては 表現の問題だという見解もあるようです。《楽しい我が家》というように 楽しいのは 家ではなく そこに暮らす人びとであるのと同じように 《ねたむ神》と表現するとき ねたむのは神ではなく神のもとに生きる人びとなのであるというものです。いかがですか? これなら ひょっとすると 新約の神と同一だと言えるかも知れません。  ありがとうございました。  * お礼欄・補足欄は 字数に応じて使い分けています。あしからず ご了承ください。

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  • em9845
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.3

オンライン聖書回復訳(http://www.recoveryversion.jp/)というサイトから、アブラハムとイサクについて検索した結果から聖句と解説を抜粋します。参考になりましたら幸いです。 ローマ4:17 (「わたしはあなたを多くの国民の父と定めた」と記されているとおりです).このことは、彼が(*1)信じた神、すなわち死人に命を与え、無から有を呼び出される方の御前においてです。 (*1)の解説 アブラハムは、二つの事柄について神を信じました:(1)イサクの誕生、これは、「無から有を呼び出される」神と関係があります。(2)イサクをささげることと再び得ること、これは、「死人に命を与え」る神と関係があります。アブラハムはそのような神を信じ、彼を自分の状況に適用しました。アブラハムはそのような信仰を持っていたので、イサクの誕生についての不可能と見える神の言葉を信じました。そして彼は、イサクをささげよとの神の命令にも直ちに従いました。それは、神が彼を死人の中から復活させると信じてです(ヘブル11:17―19)。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_4_17_0_1 マルコ10:1 イエスはそこから立ち上がって、(*2)ユダヤの地方とヨルダンの向こうに行かれた.再び群衆が彼の所に集まって来たので、彼はまたいつものように、彼らを教えられた。 (*2)の解説 奴隷―救い主は、卑しめられたガリラヤの地で(参照,1:14のノート1の第二段落)三年余り、彼の福音の奉仕において務めを行なわれました。そこは、聖なる宮と聖なる都、すなわち、彼が神の永遠のご計画の完成のために死ななければならなかった地から、遠く離れていました。彼は神の小羊として(ヨハネ1:29)、モリヤの山で神にささげられるはずでした。モリヤの山は、アブラハムがイサクをささげ、イサクの身代わりとして神の備えられた小羊を享受した場所であり(創22:2,9―14)、またエルサレムで宮が建てられた場所です(歴代下3:1)。神たる方の三一によって決定された計画にしたがって(使徒2:23)、彼がユダヤ人指導者たちに引き渡され(9:31.10:33)、神の家を建てる者であるユダヤ人に捨てられるのは(8:31.使徒4:11)、このモリヤの山でなければなりませんでした。彼がローマ人の死刑によって十字架につけられ(ヨハネ18:31―32とノート.19:6,14―15)、どんな死に方で死なれるかについての予表を成就するのも(民21:8―9.ヨハネ3:14)、その場所でなければなりませんでした。また、ダニエルの預言によれば(ダニエル9:24―26)、メシヤ(キリスト)が断たれる(殺される)ことになっていたのは、まさにその年でした。さらに、過越の小羊として(Iコリント5:7)、彼は過越の月に殺されなければなりませんでした(出12:1―11)。ですから、彼は過越の前に(ヨハネ12:1.マルコ14:1)、エルサレムに行かなければなりませんでした(33節.11:1,11,15,27.ヨハネ12:12)。それは、神があらかじめ定められた場所と時、すなわちエルサレムで過越の日に、彼が死ぬためでした(14:12―17.ヨハネ18:28)。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=41_10_1_0_1 マタイ1:1 イエス・キリストの系図の書.彼はダビデの子であり、(*3)アブラハムの子である. (*3)の解説 イサクは、神がアブラハムに与えられた約束と祝福を受け継ぐアブラハムの子としての、キリストの予表です(創22:17―18.ガラテヤ3:16、14)。イサクもキリストの予表として、おもに二つの事を行ないました。すなわち、彼は死に至るまで父に従順で、死から復活させられたことと(創22:9―10.ヘブル11:19)、異邦人の妻リベカをめとったことです(創24:61―67)。キリストはこの予表の成就において、死に渡されて神にささげられ、死から復活させられました。また異邦人の間から召された召会を、彼の花嫁にめとろうとしておられます。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_1_2_0_1

参考URL:
http://www.recoveryversion.jp/
bragelonne
質問者

補足

 em9845 さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ オンライン聖書回復訳  ☆ の立ち場が――ヰットネス・リー兄弟だとかと知りましたが――よく分かりません。それはそれとして そこにおける聖句解説をこのたび読んで思ったことを記します。  ★ ローマ4:17  (*1)の解説  ☆ アブラハムもサラももう老いているのに 実子の誕生を神から約束されてその《(1)イサクの誕生》について 神を信じたことは そのとおりだと考えます。  ★ (2)イサクをささげることと再び得ること、  ☆ についてはどうでしょう? たしかに  ▲ (へブル書11:17-19) ~~~~~~~~~~~~~~  信仰によって、アブラハムは試された時、イサクをささげました.事実、約束を喜んで受けた彼は、ひとり子をささげたのです.  ・・・  彼はまた、神は死人の中からさえ人を復活させることができると考え、型として、死人の中から自分の子を返してもらったのです。  (オンライン聖書回復訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ずばり書いてあります。ほんとうにそうだったでしょうか? そんな先のことまでアブラハムは見越してその見通しをもって信じたのでしょうか? これはへブル書に逆らいたいと思います。結果論ならまだ分かります。それ以上の論拠がなくです。  ★ マルコ10:1  (*2)の解説  ◆ 彼(イエス)は神の小羊として(ヨハネ1:29)、モリヤの山で神にささげられるはずでした。モリヤの山は、アブラハムがイサクをささげ、イサクの身代わりとして神の備えられた小羊を享受した場所であり(創22:2,9―14)、  ☆ これは――やはり感覚ですが―― アブラハムが子をほふろうとした事件を 父なる神がその独り子を死なせたことにすでに先に喩えている。その結果から解説をしていると受け取られます。  だからモリヤの山でなかったのは どうしてか。それは説明していないと思います。  ★ マタイ1:1  (*3)の解説  ◆ イサクは、神がアブラハムに与えられた約束と祝福を受け継ぐアブラハムの子としての、キリストの予表です(創22:17―18.ガラテヤ3:16、14)。  ☆ これは 受け容れられません。先のへブル書11:17-19にしても アブラハムが神を信じて 子をほふろうとしたことと 神が独り子イエスをはりつけにして死なせようとしたこととは 次元がちがうのではないでしょうか?  後者の場合には 父なる神は 誰を信じるということもありません。父と子との関係は似ていますが アブラハムとイエスとを仮りに同じ次元だとすれば 前者にはそのいわば下にイサクがいて 後者にはその上に父なる神がいるという斜めでの平行関係です。  しかも イサクは殺されなかった。殺されたあとよみがえったのではない。  ▲ (へブル書11:19) 彼(アブラハム)はまた、神は死人の中からさえ人を復活させることができると考え、型として、死人の中から自分の子を返してもらったのです。  ☆ イサクは死んでいません。だからこのへブル書の記事に逆らいます。これは結果論であるように考えます。  わたしの議論において根拠がうすいことは承知していますが  内容そのものの問題として 容易に受け容れがたいと考えます。  イエスでさえ 最終的には《あなたのみこころのままにしてください》と神に従うようになりますが その盃を去らせて欲しいと言っています。ましてアブラハムなら 筋書きどおりに行動するという解釈は 採りがたいです。おもしろくないですから。

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  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.2

まあ旧約の信仰の一番大切な考え方。 捧げるというのともう一つは従順、 もちろん死ぬ可能性はあるけどもそれによって生かされる。信じるか信じないか、いつもここに原点がありますよ。どうしても人間の価値観は自分中心、自分の過去の経験で出来る出来ないを考えてしまう。しかしその自分の経験を取り除き従った時に恵みがある場合もある。 但し 動機 手順 方向性、時期 等間違うとだめですが・・

bragelonne
質問者

補足

 katyan1234 さん ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 信仰(=非思考)は 経験思考に先行する  ☆ これが  ★ まあ旧約の信仰の一番大切な考え方。  ☆ の内容を説明しているというご見解でしょうか? それとも  ★ 捧げるというのともう一つは従順  ☆ これら二つの事柄が 信仰内容を基本的にかたちづくるというご見解でしょうか?  ★ もちろん死ぬ可能性はあるけどもそれによって生かされる。信じるか信じないか、いつもここに原点がありますよ。  ☆ このご説明については 微妙に――信仰の観点から―― 異議があります。なぜなら  ○ 信仰つまり非思考において――つまり言うなれば能天気において―― 神のことばに従っている。ただし 自分の人間の思いから行けば とうぜん わが子をほふるというのは 解せないしやりたくない。  ☆ ところが アブラハムは  ★ 自分中心  ☆ のかたちで・言いかえると 神におとなしく従うことにおいて自分中心のかたちで いけにえにささげようとしたのではないでしょうか?  ★ 信じるか信じないか  ☆ ではなく 《すでに信じている(=神のことばを受け容れている)》ゆえに 葛藤も起きたし しかも《自分中心》にけっきょくは行動しようとした。――こういうことになりませんか?  ★ 自分の過去の経験で出来る出来ないを考えてしまう。しかしその自分の経験を取り除き従った時に恵みがある場合もある。  ☆ アブラハムは 何も神のお告げに対して疑いを持ったわけではない。そのお告げの内容は 自分の考えを飛び越えていたし 実際 子をころすことはやりたくないことだった。それだけのことではないでしょうか? いちいち 神の言うことが正しいかどうかなどを  ★ 自分の過去の経験で出来る出来ないを考えてしまう  ☆ わけではない。なぜなら信仰は 非思考なのです。能天気なのです。《考えてしまう》ことがないから 問題を持つようになる。ですから  ★ しかしその自分の経験を取り除き従った時に恵みがある場合もある。  ☆ というのは おそらく間違いでしょう。  ★ その自分の経験を取り除〔く〕  ☆ ことは必要ないからです。経験も思考も それとして持ち続けています。非思考の信仰は それら経験的なことがらの上を行っているだけなのですから。したがって このお告げを実行したあとに《恵みがある》のではなく  ○ いづれにしても アブラハムには――その信仰において――もうすでに 恵みはある。  ☆ のです。かれの神との関係は  ★ 但し 動機 手順 方向性、時期 等間違うとだめですが・・・  ☆ これら人間的なことがらのすべてを超えています。    こういった非思考としての信仰――つまり能天気――を アブラハムのこの事件は 語っているのではないでしょうか?  そういう問いになっています。どうでしょう?  * モーセの律法を通じた信仰のあり方の以前に このアブラハムがいるはづだということをも この質問では諮っていることになります。

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    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • 神に意志はあるか

     1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論として 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》がある。とお伝えしましょう。  2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれにその意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後ろ指をさされるということはない。と考えられる。  3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係である。  4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。   ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこなう社会的な人間関係である。  5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息している。   宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》である。オシヘとは そういうカスである。  6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっての話であり その場合のみである。  7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨコとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。  8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論〔ましてや宗教〕といった搾りカスと 生きた神や生きた信仰とは 別です。  9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。   フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。  10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それでも――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか どうかの問題がありますが)。  ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つまり反批判をもおこないます)。

  • 人類はいまだに生贄を必要とする。

    イエスがユダヤ教の神学者であることを否定する権威は現代には少ない。 イエスとは奴隷階級のユダヤ人に対する伝道師だった。 信仰心があるものを人間であることを認めるのは今と変わらないだろう。 要するにイエスの行いは、奴隷階級への人間性回復運動なんだよ。 政治的にまずいから、あっさり処刑。 このローマの横暴はローマ周辺で当時の古代社会で話題になった。 新約聖書はローマと裏切り者の契約書だ。 原始キリスト教はイエスの意志が常に自らととものあり、信仰を保つ限り常にイエスと共に生きた。 しかし、新約により、祭祀の場に処刑台をかざす獄門信徒となり、目的は魔女狩りという体裁で「イエスに似た者を見たら皆殺しにしろ」という契約の忠実な履行をする。 彼らにはもう、イエスのことは理解できなくなった。 なぜなら、理解することは処刑されることだからだ。 えっと宗教家は冷静になれないでしょうけども、歴史事実を考証すると合理的にも了解できる見解ですよね。 こういうことを言うのは勇敢な悪魔とでもいうのでしょうか。 え~と、哲学には既存の命題に取り組むほかに、自ら命題を考案するという研究手法があります。 今回の質問は後者の属していまして、完成度などに関して助言をお願いします。 命題というのは、回答も準備したから作成するのが理想だと考えますが、私は命題に2つの回答を想定しています。 新約キリスト教は「獄門信徒」とでも表現すべき「悪魔崇拝者集団」という可能性、そして、恐ろしいことをいう私が悪魔だという見解に関しては「イエスを理解したからこそ私は悪魔なのだ」とでも準備しましょうか。 皆様なりの最後の審判の練習を兼ねた、読書感想文でもいいでしょう。

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。