水による洗礼は要らないのか?

このQ&Aのポイント
  • エレミヤ書やヘブル書によれば、洗礼は必要なくなるとされている。
  • サクラメント(秘跡)である洗礼は神秘的なものであり、必要性があると言える。
  • ユダヤ民族の信仰はキリスト・イエスの登場によって変化し、差別化された。
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水による洗礼は 要らないのではないか

  1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. 《要る》の根拠は 《すくいは水と霊による》などの記述とそして神秘的なものであって おそらくはサクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  3. ユダヤ民族の初めには 基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとっての規範である律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  4. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらそれぞれの信仰の中の神にもどった。  5. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  6. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  7. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  8. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 宗教に関係なく 同じである。と成ったのではないだろうか?  9. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学についてそれらは有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  10. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるかも知れない。  11. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  12. もしどうしても水による洗礼も必要だというのなら たとえば産湯に浸かること これが その洗礼だと受け留めればよい。  自由なスサノヲ人間語によるスサノヲ世界市民のまったき自由にもとづく見解を 思う存分あきらかにして ご教授ください。  なぜ 水によるバプテスマが まだなくならないのか? どうして必要か?

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回答No.3

こんばんは。 ☆水による洗礼は、要らないのではないか? ◇《割礼》こそ必要!! なんて、冗談、冗談。 水による洗礼は、不要でしょうね。 そもそも、水による洗礼の根拠自体が不明ですから。 ───────── 10:35さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。 10:36イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。 10:37すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。 10:38イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。 10:39彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。 口語訳 マルコによる福音書(第10章) ───────── ここで使われている《バプテスマ》は、 水による洗礼の意味ではないですよね。 なのですが、 ヨハネによる福音書には、 ───────── 3:22こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。 3:23ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。 ───────── とあり、 《水がたくさんなったから》と、 イエスによって水による洗礼が行われたようにもとれる。 この《水》が何を意味するか・・・。 第四章には、 ───────── 4:14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。 ───────── と書いてあるので、 この《水》は、水・H2Oではないのでしょうね。 たとえば、 ───────── すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる ───────── とかが、 《泉》や《永遠の命に至る水》の正体であるとか・・・。 《聖霊》とか・・・。 こういったものを神さまが植え付けてあるのであれば、 いわゆる《水の洗礼》などは不要である、 と考えるべき。 ☆ 2. 《要る》の根拠は 《すくいは水と霊による》などの記述とそして神秘的なものであって おそらくはサクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。 ◇これは、タダのナラワシ、通過儀礼、イニシエーションに過ぎないんじゃないですか。 クリスマスのお祭りみたいなもの。 やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなければいい。 と言いたいのですが、 洗礼という儀式は、信者さんを教会に絶対服従させるための手段の一つでもある。 帰属させるための手段の一つ。 そして、 ことあるごとに、信者さんからお布施をせしめる根拠としても使える。 なので、  ☆ 12. もしどうしても水による洗礼も必要だというのなら たとえば産湯に浸かること これが その洗礼だと受け留めればよい。 くらいに宗教的な意味を薄めれば、 まあ、あってもいいか、 と思っています。 しかし、 何からの脅しの手段に使われるのであれば、 これは断固として排除すべきであるし、 社会悪として駆逐すべきでしょうね。 だいたい、 ユダヤ教の《割礼》やキリスト教の《水の洗礼》ってのは、 ユダヤ教やキリスト教がマイナーなオシエで、秘密教的、カルト性の高かったときの名残りなんじゃないですか。 秘密結社の入門儀礼と変わらない、と思うのですよ。 今でもカルト的な宗教は、怪しげな入門儀式をやるでしょう。 これこれ。 これの名残り。 組織に加入したという自覚を持たせるとともに、 組織に絶対的な忠誠を誓わせる・・・。 21世紀の現代に、こんなものは要らないんじゃないですか。 キリストへの信心が沸いてくることもって、 あるいは、 その信仰を、 《バプテスマ》とすればよい、と考えます。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  だいたい、  ユダヤ教の《割礼》やキリスト教の《水の洗礼》ってのは、  ユダヤ教やキリスト教がマイナーなオシエで、秘密教的、カルト性の高かったときの名残りなんじゃないですか。  秘密結社の入門儀礼と変わらない、と思うのですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これに先立つ前段は おそよ共通の了解に立つと思われるので 素通りしましたが ここですね。ひとつの観点は。  アブラハムの神〔ならびにイサクの神 またヤコブの神〕が異邦人に開かれるとき もはや《割礼》は 要らなくなった。あれほどアブラハムらに必須のこととされたものが。(信仰の《しるし》としてではありますが)。  おそらくユダヤ教イエス派から その看板を取りはづしふるい上着を脱いで キリスト・イエスの差し示す神をいだくようになったとき 《洗礼》も要らなくなった。のではないかと考えられます。  あるいは消極的な解釈としては 洗礼者ヨハネに敬意を表して しばらくは洗礼を自分たちの仲間であることを示すために用いた。くらいに受け留められます。バプティストのヨハネは 荒れ野に叫ぶ声として 変な言い方をすれば イエスの露払いとなったわけですから イエスは これをうやまった。かたちで示すこととして 洗礼のしきたりを継いだ。  これらについて共通の理解が成ったときには もう洗礼の儀式は要らない。と。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  21世紀の現代に、こんなものは要らないんじゃないですか。  キリストへの信心が沸いてくることもって、  あるいは、  その信仰を、  《バプテスマ》とすればよい、と考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええ。そして ここで ねこさんと微妙に見方を異にするかにも思われる点を 申し上げます。  ◇ キリストへの信心が沸いてくることをもって  ☆ というその《夜中に盗人がやってくるかのように或る日ふと起きる出来事》 これは そのまま《聖霊によるバプテスマ》であると捉えます。  つまり 一般には誰にかんしても人が《神》という言葉について 自分はどういう姿勢を採るかと考えたときに もし《要らない。あるいは 神は無い》と思ったなら それがいま言っている《聖霊によるバプテスマ》のひとつの形態であると捉える。このことを 一般論として推し出しています。  つまりは その場合には 無神論としての信仰が その人の心に成った。というものです。キリスト・イエスの神というのは そういった一般的な普遍的な神なのであると捉えています。  この神のもとでなら 見えざる教会が万人それぞれに自由に世界中に成り立ったと言ってもいいのだと思われます。   つまり 人間であるということは そういう条件のもとに生きているのだと見ます。  この《おまけ》の見方が 余分かどうかで 見解が異なるかも分かりません。か?  ☆☆ 12. もしどうしても水による洗礼も必要だというのなら たとえば産湯に浸かること これが その洗礼だと受け留めればよい。  ☆ これは すでにクリスチャンである人びとに向けて言っていますが そういうふつうの《神とわれとの関係》なのですが。・・・(《キリスト教》なる色合いは まったく要らない。ぜんぶ白紙に戻すのがよい。といった意味です)。

その他の回答 (2)

  • nobu1717
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回答No.2

おれいがあったので。 あなたの言う通りだと思いますよ。 ただ、やはり「それらしい形式」を必要とするのでしょう。 お年玉だってお金を貰えば同じだけど、袋に入ってないと気分が出ないのと同じようなもので、受ける方がそれらしい気分になれないのでは意味がないのでしょう。 根本的にはどういうスタイルでも本人の信仰次第だとは思いますが、大多数がそれらしい形式を求めているのならばやめる理由もないということではないでしょうか。 単に水による洗礼を積極的にやめる理由がない、慣習、歴史として続ける理由は一応あるということでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 のぶ1717さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  例によってこちら側の見方を交えて応答します。  ★ ただ、やはり「それらしい形式」を必要とするのでしょう。  ☆ ですから ひとつに 《形式》をともなうけれど それは 欠かせないものではないと言っていれば まだかわいいわけです。  もうひとつには 形式をともなうような組織宗教は これも 要らないという議論がすでについているのではあります。  ひとことで言えば 宗教は 信仰の徒が得た観想やヒラメキを思想次元のオシエとして表現したところから始まっている。ゆえに それは ちょうど信仰にとっての蝉の抜け殻である。こう考えます。  つまり ましてや組織宗教はまったく要らない。無用の長物であり それが権威を持たされ権力や財力を身につけたからと言って 放っておく法はない。こう考えます。  すなわち 或るひとに或る時 信仰が与えられた。としたら もうその個人の次元で問題は終わっています。オシエは 確かに伝えられていますが そのように個人つまり《わたし》の信仰を何がしかの説明とともに確かめる。そのためのものであって ほかには何もない。からです。  セミの抜け殻を 教義としていだく組織宗教は 百害あって一利無し。こう言い切ります。  ★ 受ける方がそれらしい気分になれないのでは意味がないのでしょう。  ☆ という反論が出るのは すでに宗教組織が出しゃばって来ているその情況を踏まえての言い分です。もし 要らないとなれば 何でもないことです。  聖霊による洗礼。これで かたちも中身も すべて済みます。またそうでなければ おかしいのです。勝手に要らぬ勢力を形成しただけです 宗教組織は。ローマ教会を初めとして みながです。  個人なるワタシの信仰でこと足りるというのは 言わば見えざる教会 これは あってもおかしくはないわけです。目に見える教会は 組織から制度から何から何まで要らない。こう言わねばならないでしょう。  これが  ★ やめる理由  ☆ です。たとえ  ★ 大多数がそれらしい形式を求めている  ☆ としてもです。蝉の本体として生きるのが 筋です。オシエは――《文字》として―― ころします。活かす霊につくべきでしょう。  これが  ★ 水による洗礼を積極的にやめる理由  ☆ です。  ★ 慣習、歴史として続ける理由は  ☆ いっさいありません。教会なる制度は まぼろしです。  迫害を受けて みながまとまりちからを合わせて生き続けるというために 集団はあったのみです。その時代――《宣教という愚かな手段》を使った時代――のみの出来事です。  あとは みづからの支配欲に支配されてその欲を満たすために つくられ これまで運営されて来たというのみです。おまけに 異端や異教への攻撃・迫害は 目に余るものがあります。それを 反省して その愚から自由になるには 組織の自己解体しかないと考えます。    

  • nobu1717
  • ベストアンサー率17% (218/1217)
回答No.1

洗礼してもらう側の都合で、それらしい手順がないと受けた気がしないのです。 形式がないと落ち着かないことは、宗教に限ったことではないでしょう。 心の中で祈れば良いと思いますが、手を合わせないと祈った気になりませんし。 理屈では要らないでしょうが、理屈ではないですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  質問の趣旨としてのべたところにしたがって 反応してまいります。  ★ 洗礼してもらう側の都合で、それらしい手順がないと受けた気がしないのです。  ☆ こういう理由を挙げるということは   (あ) けっきょく理由は何もない。  (い) いま現在そういった気持ちを述べるということは 単に《慣性の法則》によって それまでのナラワシが 一人ひとりにクセとして染みついたと言っているに過ぎない。  と考えます。  ★ 形式がないと落ち着かないことは、宗教に限ったことではないでしょう。  ☆ でしたら  ☆☆(趣旨説明欄) 12. もしどうしても水による洗礼も必要だというのなら たとえば産湯に浸かること これが その洗礼だと受け留めればよい。  ☆ ということではないでしょうか。 それで じゅうぶんなのではないですか?  ★ 心の中で祈れば良いと思いますが、手を合わせないと祈った気になりませんし。  ☆ それは どうしてもなくてはならない事柄ではないと考えます。  たとえば 何かをねがって祈るというとき 神は あなたが祈るその前にその願いを知っていて受け留めているのではないでしょうか。祈った気にならないというのも クセでしかないでしょうし 理由にはなっていないと考えられます。  ★ 理屈では要らないでしょうが、理屈ではないですよね。  ☆ 《理屈ではない》という意味は 屁理屈でもないということです。  なぜなら バプテスマは 聖霊によるものであるからです。それは 理屈にしろ屁理屈にしろ 人間の思考を超えています。  目に見えてかたちあるものとしての水によることが 聖霊によるものと同等であるとは考えられません。  どうでしょう。

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 水による洗礼は必要不可欠なことですか

    特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。 ヨハネ福音は《血によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず 神によって生まれる》(1:13)と説きます。水の洗礼は 人間の意志によっているのではないでしょうか。(儀式としては 別の問題です。) むろん 同じヨハネにイエスの言葉として《水と霊とによらなければ》(3:5)という明らかな文句があり イエスも洗礼を受けたし パウロも受けました。旧約からの継続として そういうかたちを採ったと考えられませんか。割礼も 必要なくなったのだと思います。 解釈だけではいけないとすれば エレミヤ書31:31以下に 《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》とあります。うんぬんですが。

  • キリスト教の新約聖書に、イエス・キリストはバプテスマのヨハネから洗礼(

    キリスト教の新約聖書に、イエス・キリストはバプテスマのヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けたとされます。それが神様の御心だったと言われています。そのヨハネは、キリスト以前にも人々に悔い改めの洗礼バプテスマ)を授けたとされます。ではヨハネは誰の権威で、誰に依って、何時バプテスマを受けたのでしょうか? 聖書にそれに関する記述を見たことがありません。分かる方が居られたら教えて下さい。

  • 《千年王国》について

     もし重要であるとすれば 基本的なことをおしえてください。  わたしは 何かひらめきが得られるかも知れないと思ったりはしますが よく分かりません。扱いかねます。  この質問は 《Q:ヘブル書に引くエレミア書の〈新しい契約〉とは?  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3807611.html 》でのご回答ANo.45に接して お尋ねするものです。  次の箇所が 焦点になっており そういう解釈としての説をなすようです。     ヘブル書8:7の一番目の言約がモーセを通じて与えられた律法な   らば、8:13の新しい言約はサムエル下7:4-17で言う永遠の言   約です。すなわち、ダビデの種からメシヤが来られ、イスラエル王国が   成立するという約束です。        イエスキリストがイスラエルの王様として来られたけれども、イス   ラエルの人々はイエスキリストを殺してしまい、イスラエルの王国は延   期されたのです。     そして、イエスキリストが再び来られてイスラエルの王国が成立す   るのがヨハネ掲示録20:6でいう1000年王国です。         〔参考・1〕サムエル記・下 7:4-17より 11-13節        ・・・主があなたのために家を興す。     あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子    孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。     この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座を       とこしえに堅く据える。 〔参考・2〕 ヨハネ黙示録20:6                      第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たち   に対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となっ   て、千年の間キリストと共に統治する。                                                                   * なお わたくしの立ち場は キリスト・イエスの出現で すべては決まっているというものです。