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イエスは 特異点か

cyototuの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

 ○ はりつけになった十字架上のイエスは 特異点だ。 イエスが特異点であるとすると、イエスは全複素平面上で正則ではないことになる。したがって、リウビルの定理によって、イエスは複素平面上で定数でないことが結論できますね。 ところで、特異点は、孤立特異点と集積特異点に分類される。そして、孤立特異点は reguler singuler pointとirreguler singuler pointに分類され、reguler singuler pointは除去可能な特異点と極と孤立真性特異点に分類される。一方、集積特異点はirreguler singuler pointであり、また集積真性特異点である。 ポストモダンの方は、イエスをどの特異点に属すると言っているのでしょうか。あるいは、質問者さんはどの特異点に属していると思っていらっしゃるのでしょうか。それを明確にすると、イエスの属する複素平面上での真性特異点の一種である分岐点の位置が同定され、その分岐点から引かれた複素平面上のカットを通しての解析接続や、リーマン面がはたして有限な数の面から構成されているのか、あるいは無限の数の面から構成されているのか等の詳細な構造が明らかになりますね。 そしてイエスの特異点がもしreguler singuler pointの一種である極の場合には、イエスの寿命が指数関数的に明確に定義できるはずですね。しかし、もしその特異点が分岐点だったとしたら、イエスの存在確率が時間とともにベキ減てしまうので、イエスの寿命が巧く定義できないなどと言うことが分かるようになる。従って、イエスが特異点であると本気で主張できるとお考えなら、それを明確に同定することによって、イエスの存在に対する本質的な性質が判るようになるかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしの理解力がまだ開発されていません。  どなたか解説やら批評やらを 広くみなさんのためにもしていただく投稿をお願いしたいと存じます。  * なおNo.2の補足欄に次のように書いております。念のため。  ○ 必要ないと思いますが この特異点を持ち出すことは 比喩としての表現です。

bragelonne
質問者

補足

 どの種類の特異点であるかは分かりませんが 次のように比喩として考えられるようにも思います。  ○ 1/ x において x = 0 である場合です。  ○ その x が イエスであり それが 0 であるということは イエスが完全なる死を死んだという意味です。  ○ 死が完全ではないというのは 通俗に言う《この世に未練が残って 文学的に言うならば幽霊になってさまよわねばならない》場合のことです。  ○ イエスは 完全に死にました。苦しい死を早めてやろうとして近寄った兵士らは イエスがすでに息を引き取っていたのを見て驚いたとあります。  何にも言えないのでは情けないですから 破れかぶれです。

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