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「蜘蛛の糸」

ghostbusterの回答

回答No.27

お礼欄、拝見しました。 > 『蜘蛛の糸』を地獄語りとして考えますと、額縁仕立てが見えてきます。 > 額縁という前景を眺める作家の視点が感じられます。 そうですね。わたしもほんとうにそう思います。 作家の視点ということに関していえば、芥川の作品は、わたしたちに「それを見ている作家」の視点を決して忘れさせてくれない、とも言えるかと思います。 ご指摘を拝見してわたしは、舞台人であった息子の芥川比呂志のこんな文章を思い出しました。 父芥川龍之介は戯曲を書かなかった。「二人小町」のように戯曲の体裁をとった作品はあるが、それはあくまでも読む戯曲であって、演ずる戯曲ではなかった、というのです。 「現実あるいは対象へ向かう作家の精神は、戯曲にあっては、それ独自な法則によって支えられていなければならない。小説は、たとえばそれを書いている作家の苦しみをさえ生かすことが出来るが、戯曲は、その内的な法則、時間的空間的拘束の中に置かれた人間の心理的姿勢とその変化とが描き出す律動(それこそ劇なのだが)の一貫によってのみ、お存在する。人物の正確も行動も、寧ろそこから生まれてくるといってもよい位である。真の戯曲と読む戯曲とがここで分かれる」(「父と戯曲」『芥川比呂志エッセイ選集』新潮社) 港千尋の写真論だったか、身体論だったか、群衆論だったか(最近読んだものはこのザマです)に、エキストラの話がでてきます。エキストラが最初に徹底して指導されるのは、決してカメラを見ない、ということなのだそうです。群衆のなかのたったひとりでも、カメラに視線を向けるものがいたら、すべて台無しになってしまう。 つまり、何百人画面にいたとしても、画面の「外」に向けられた視線は、かならず観客に受けとめられる。そこで観客は、この映画には「外」の世界があることに気がつくということなのでしょう。 人間の目の、視線に対する特殊な感受性とともに、映画や演劇がどういったものか、よくわかるエピソードだと思います。映画にせよ演劇にせよ「内的な法則」に貫かれた、独自の時間と空間を持つ自律した世界です。その「外」がある、と観客に気づかせることは、映画や演劇にあっては失敗なのです。 息子の比呂志は「優れて劇的な小説を幾つか書いている父が、戯曲に失敗したのは不思議ではない。父には恐らく、戯曲の方法を手に入れる前に、しなければならないことがあったのである」としてこの文章をくくっていますが、少なくとも芥川は、作品の「内」と「外」に大変に自覚的な作家であったのだと思います。 このことは、大変勉強家でもあった芥川が、西洋近代小説ばかりでなく、英訳されたさまざまな哲学書を自らの肥やしとして読んでいったことはおそらく無関係ではないでしょう。 それに対して、自らの生活をありのままに語ることによって、人生の真実を語ることができる、それこそが真の芸術である、と、一種ナイーヴに信じていた自然主義の作家にとって、「内」も「外」もありませんでした。 自然主義の作家である正宗白鳥からすれば、『往生絵巻』は芸術を追い求める芸術家のアレゴリーにほかならなかった。芸術を求める先にあるのは、人間の真実である。白鳥にとって孤独地獄とは、芸術家たらんと志す人間の感じる孤独、「極楽」というのは、芸術のメタファーです。したがってそこに蓮華が咲くというのは、絵空事、人生の真実ではないと思った。だから芥川に迫っていったのでしょう。 けれども、「作品の外」ということを決して忘れなかった芥川が考えていたことは、そういうことではなかったのではないか。 むしろ、彼は作品の外にあるわれわれの生の、さらに「外」に広がっている何ものか、「地獄」あるいは「極楽」というものとふれていたのではないか、と思うのです。 わたしたちの判断は、経験されたことにたいしてのみなりたつものですし、残念ながら経験の外にある世界を知ることはできません。だからわたしにとって、地獄がどんなところであり、極楽がどんなところであるかというのは、あまり興味がないのですが(少し心配した方がいいような気がしないでもないのですが)、ただ、芥川がその「何ものか」にふれていた作家であるということ、「解釈する人の思想の程度によって、浅くも深くも取られることができ」(『アウグスティヌス講話』)る地獄というものについて、芥川が深い考察をしていたことは、重要な点だと考えています。 ええと、ミスリードを誘うような書き方をしてしまって反省しています。門下でもなんでもない、ただお話を何度かうかがったことがあるだけです。わたしは中世哲学に関しても、アウグスティヌスに関しても、何も知りません。ただ、わたしにとっては呼び捨てでも、氏でも、さんでもなく、先生と呼びたい方のひとりであり、敬語を使って書かなければならないような気持ちにさせる方だったと申し添えておきます。 質問者さんのご質問のおかげで、『アウグスティヌス講話』と、中村光夫の評論のあいだに、ささやかな橋をかけることができました。いまはマッチ棒をつなげただけの橋とも呼べないものですが、これから先、ちゃんとした橋に築き上げていけたらいいなあと考えています。ありがとうございました。 いま赤ちゃんをお育てになっておられるのですね。 子供を育てる、ということも、世代と世代のあいだに橋をかけていくしごとです。子供なんてものは親の時間をむさぼり食いながら(笑)大きくなっていくものだから、いまは大変かとも思いますが、いつか、かならず手を離してやらなきゃいけなくなる。そのときのために、しっかりと手を握っていてあげてください。応援しています。

noname#96295
質問者

お礼

(補足欄からの続きです) それにしても山田晶さんとご縁があって良い出会いをお持ちになったこと、羨ましいようです。 ひとつ前の時代になりましたね、本物の研究と教育に身を捧げた大学人の時代は。今は雑念が多くて。 >『アウグスティヌス講話』と、中村光夫の評論のあいだに、ささやかな橋をかけることができました。いまはマッチ棒をつなげただけの橋とも呼べないものですが、これから先、ちゃんとした橋に築き上げていけたらいいなあと考えています。 楽しみにしています。 こちらこそ、アクロバティックな橋のスケッチを見せていただいたおかげで、触発されました。課題をいただきました。 > 子供を育てる、ということも、世代と世代のあいだに橋をかけていくしごとです。 > しっかりと手を握っていてあげてください。応援しています。 そうですね。世代間の橋も、親子の橋も、ていねいに架けたいです。こればかりは自分の流儀で自然にしていて 架かるというものではないようで。えっちらおっちらです。すごいなあ、ghostbusterさんは。 ありがとうございます。

noname#96295
質問者

補足

ありがとうございます。お礼が遅くなりまして失礼いたしました。 こうした視点に立ってみますと、芥川は同時代性からまったく逸れていないどころか、 日本へ紹介されたばかりの西欧世紀末から世紀初頭の文芸を吸収していたように思われます。あるいは日本的な美意識の真髄がもともと同様の手法と効果を要請するのでしょう。 芥川比呂志は表現者として作家龍之介を分析しているのですね。 なるほど、拘束・制約の中で演じられる戯曲には形式と効果、ときにあざとささえ要求され、 観客は枝葉末節を介して内へ内へと誘われたり、ときには表現主義的表現を内容として受け入れますが、 一方芥川作品が演劇となるなら観念の演劇となるべきでしょう。 舞台の虚構は芥川の原稿用紙の中で、肝心の問題は舞台の外に起こるという感じです。 転覆し翻るアスペクトがあって能のようなところはあるかもしれませんけれども。 > 芥川がその「何ものか」にふれていた作家であるということ、「解釈する人の思想の程度によって、浅くも深くも取られることができ」(『アウグスティヌス講話』)る地獄というものについて、芥川が深い考察をしていたことは、重要な点だと考えています。 本人でないとなかなか深淵の窺えないところですが、触れていたのでしょうね。 触れていなければ、もっと透明な話者になれたのではないかなと思います。

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