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「蜘蛛の糸」
芥川龍之介は、ポール・ケーラスの『カルマ(因果の小車)』所収の「蜘蛛の糸」(1894年)を独特の世界に仕立て直しました。 芥川龍之介はなぜ、結び部分の教訓を省き、極楽の描写で終わらせたのだと思いますか? 、、、というところから一歩進めて、哲学カテゴリで聞いてみますので、作家・表現・宗教などにからめてご自由にお考えを頂戴できればと思います。 青空文庫から「蜘蛛の糸」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html ポール・ケーラスの作品から芥川が削除した教訓 『・・・カンダタの心には個我のイリュージョンがまだあった。彼は向上し正義の尊い道に入ろうとするまじめな願いの奇蹟的な力を知らなかった。それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々をはこぶことができる。そしてその糸をよじのぼる人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。しかしいったん人間の心に「これは私のものだ。正しさの幸福をひとりじめにして、誰にだってわけてやるまい」という考えがおこるや否や、糸は切れて、人はもとの個々別々の状態におちてしまう。利己主義selfhoodとは呪いdamnationであり、真理truthは祝福である。地獄とは何だろう。それはエゴチズム(利己心)に外ならず、ニルバーナ(涅槃)は公正な生活a life of righteousnessのことなのだ。・・・』
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先日、山田晶先生の『アウグスティヌス講話』(新地書房)を再読する機会があり、以前は気にもとめなかった箇所がひどく気になりました。それが芥川の『蜘蛛の糸』で、以来、とつおいつ考えていました。ご質問を拝見して、質問者さんが求めておられる回答となるかどうか不明ですが、奇縁ということで。 『アウグスティヌス講話』を質問者さんはお読みになっておられるかもしれませんが、一応ここで話の筋道をご紹介しておきます。 山田先生が言及しておられるのは「煉獄と地獄」という章です。 聖書にははっきりと述べられていない「煉獄」という場所が果たしてあるのか。あるとすればどのようなところなのか。それは地獄とはどうちがうのか。地獄へ堕ちるというのは、いったいどのような罪がそれにあたるのか。そこからキリスト教における罪と罰、というふうに話は展開していくのですが、ここでは簡単に、煉獄に行った魂は、非常に苦しんでいるけれども、それは絶望的な苦しみではなく、浄化の苦しみである、あるいはまた煉獄に行った魂に対して、われわれは祈ることができる、それに対して地獄とは、全くの絶望であり、地獄に堕ちた魂にたいしては、われわれの祈りも届かない、と、非常に荒っぽくではありますが、まとめておきます。 やがて仏教に話は進んでいきます。 仏教においては、キリスト教におけるように、煉獄と地獄の区別がない。それでも、地獄についての記述のうちに、煉獄の思想と地獄の思想が混在している、と指摘されます。 「 仏は摂取不捨といわれますが、それには、「もし仏を念ずるならば」という条件がつきます。仏を念ずるならば、いかなる極重悪人も仏の功徳によって救われないことはありません。その条件なしに、何もかも救うというのであれば、念仏しなくても救われることになり、念仏の意味もなくなります。のみならず、救いも意味がなくなり、地獄も極楽も無意味となります。これらのことがらが切実な意味を持つためには、地獄は実在しなければなりません。また、その実在する地獄を「見た」人にしてはじめて、真実の念仏をとなえることができるのであると思います。そして地獄が実在するということは、仏さまにもどうすることのできない魂が実在するということです。これは恐ろしいことですが、真実です。この真実をみつめないと、センチメンタルな仏教観になります。」(p.80) その上で、芥川はこの真実をみつめた文学者であった、として、『蜘蛛の糸』が出てくるのです。もう少し引用を続けます。 「この話(※『蜘蛛の糸』)は、仏の慈悲はいかなるものであり、地獄とはいかなる場所であり、そこに墜ちるのはいかなる種類の人間であるかを、端的に表現しています。 この男は、仏さまによって地獄へおとされたのではなくて、自分で墜ちていったのです。…煉獄と区別された地獄の世界を、仏教の中に明確に読み取ることのできた芥川は、素晴らしい作家であったと思います。」(p.81) 芥川が「地獄の世界」を描くことに主眼を置いたとすれば、カンダタがどうしていれば救われたか、カンダタがどこで誤ったかについて述べられた、教訓にあたる箇所を削除した理由も非常に納得ができるかと思います。 わたし自身は、芥川というと、ご質問の『蜘蛛の糸』や『芋粥』あるいは『トロッコ』や『白』、『魔術』や『アグニの神』などを通じて、かなり幼い時期にめぐり合った文学者のひとりでした。当時親密な関係を結んだ作家たちの多くは、成長する過程で別れていきましたが、芥川とは「つかず離れず」といった体で、折に触れては繰りかえし読んできました(なにしろ短いですからね。『夜明け前』だとそんな具合にはいきません)。 かといってすきだとか心酔しているとかいうのともちがう。かなり長い間、芸術家生活について饒舌に語る「芸術家作家」という印象を持っていたのです。ざっと思いつくだけでも、『地獄変』や『戯作三昧』『不思議な島』『枯野抄』『河童』などが即座に浮かんできます。しかも、「ジアン・クリストフの中に、クリストフと同じやうにベエトオフエンがわかると思つてゐる俗物を書いた一節がある。わかると云ふ事は世間が考へる程、無造作に出来る事ではない。」(『雑筆』)という一節などにも典型的に見られるように、「世間」と「芸術家」を対比させ、、自分はまぎれもなく芸術家の側にあると自覚して(あるいは選び取って)いた。芸術家の一員であることを自覚しつつ、芸術家であることが関心の中心を占めるという、一種の自家撞着を起こしている作家である、というふうに。 それが、あるとき見方が変わった。中村光夫が芥川を論じたごく短い文章があるのですが、そのなかに正宗白鳥と芥川のやりとりが紹介されているのです(以下は『中村光夫全集 第五巻』筑摩書房 p.18-21によるものです)。 まず白鳥は、作家生活をスタートさせたその年(大正五年)に芥川が書いた『孤独地獄』と、大正十年に書いた『往生絵巻』を結んで、「芸術としての巧拙は問題外として、私には作者の心境が面白かつた。孤独地獄にくるしめられてゐる人間が、全身の血を湧き立たせて阿弥陀仏を追掛けてゐると思ふと、そこに私の最も親しみを覚える人間が現出するのであつた」と書く。 さらに、「五位の入道の屍骸の口に白蓮華が咲いてゐたといふのは、小説の結末を面白くするための思付きであつて、本当の人生では、阿弥陀仏を追掛けた信仰の人五位の入道の屍骸は、悪臭紛々として鴉の餌食になつてゐたのではあるまいか。古伝説の記者はかく信じてかく書きしるしてゐるのかも知らないが、現代の芸術家芥川氏の衷心からかく信じてかく書いたであらうかと私は疑つてゐた。芸術の上だけの面白づくの遊びではあるまいかと私は思つてゐた。」と「白い蓮華」を本気で信じているのか、信じていないのならなぜ書くのかと問いつめるのです。 芥川はそれに対して手紙を書いて「白蓮華を期待し得られるらしく云つてゐた」という。けれどもその手紙に白鳥はたいそう不満だったらしく、そこからこう断定します 「氏は、あの頃(※この文章を書いた時点は芥川の死後)「孤独地獄」の苦をさほど痛切に感じてゐた人でなかつたと同様に、専心阿弥陀仏を追掛けてゐる人でもなかつたらしい。芥川氏は生れながらに聡明な学者肌の人であつたに違ひない。禅超や五位の入道の心境に対して理解もあり、同情をも寄せてゐるのに関はらず、彼等ほどに一向(ひたむ)きに徹する力は欠いてゐた。」 この白鳥の指摘に対して、中村光夫は 「芥川が、ただ「聡明な学者肌」といふだけの人であつたら、彼はあのやうな死を選ばず、晩年の作品も生まれなかつたでせう。彼自身の言葉をかりれば、「見すぼらしい町々の上に反語や微笑を落しながら」気のきいたまとまりのよい小説をかいて、天寿をまつたうすることができたでせう。 しかし彼の裡には、正宗氏がその文学的出発にあたつて見抜いたやうに、ひとりの「孤独者」がすんでゐたのです。それは芥川自身が、その人生とむかひあふとき、彼の生活を破り、芸術を破壊するはずであり、その時期は思つたより早くきたのです。」 としています。遺稿となった作品群は「彼自身が禅超になり五位の入道にならねばならないとき」が来た芥川が、必死のあがきを見せたものである、と。 さて、まとめに入りましょう(笑)。 山田先生の「実在する地獄を「見た」人にしてはじめて、真実の念仏をとなえることができるのであると思います。」というご指摘に即していうなら、芥川はまさにその「地獄」を「見た」人であったのだろうと思います。そうして、それは「孤独地獄」というものとしてあった。 『孤独地獄』と『往生絵巻』を結んで、その脈絡のなかに『蜘蛛の糸』を置いてみると、おもしろいことに気がつきます。カンダタは、五位の入道のそっくり裏返しなのではないか。だとすると、カンダタがどうしようもなく地獄に墜ちていくように、五位の入道の口には「まつ白な蓮華が開いてゐ」なければならなかったのではないか、と思うのです。 もし芥川がカンダタのなかに、救われない自分、自ら孤独地獄のなかに墜ちていく自分を見たのだとしたら、どうすれば助かったか、という教訓など、蛇足以外の何ものでもなかったはずです。「真実の念仏」を唱える以外にそこから逃れるすべはない。そうして、そこから逃れようとしても、五位の入道ほど専心の思いをこめて唱えることもできない自分に気づいていたのではないか。 以上、長くなりましたが、何らかの参考になれば幸いです。
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- ghostbuster
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お礼欄、拝見しました。 > 『蜘蛛の糸』を地獄語りとして考えますと、額縁仕立てが見えてきます。 > 額縁という前景を眺める作家の視点が感じられます。 そうですね。わたしもほんとうにそう思います。 作家の視点ということに関していえば、芥川の作品は、わたしたちに「それを見ている作家」の視点を決して忘れさせてくれない、とも言えるかと思います。 ご指摘を拝見してわたしは、舞台人であった息子の芥川比呂志のこんな文章を思い出しました。 父芥川龍之介は戯曲を書かなかった。「二人小町」のように戯曲の体裁をとった作品はあるが、それはあくまでも読む戯曲であって、演ずる戯曲ではなかった、というのです。 「現実あるいは対象へ向かう作家の精神は、戯曲にあっては、それ独自な法則によって支えられていなければならない。小説は、たとえばそれを書いている作家の苦しみをさえ生かすことが出来るが、戯曲は、その内的な法則、時間的空間的拘束の中に置かれた人間の心理的姿勢とその変化とが描き出す律動(それこそ劇なのだが)の一貫によってのみ、お存在する。人物の正確も行動も、寧ろそこから生まれてくるといってもよい位である。真の戯曲と読む戯曲とがここで分かれる」(「父と戯曲」『芥川比呂志エッセイ選集』新潮社) 港千尋の写真論だったか、身体論だったか、群衆論だったか(最近読んだものはこのザマです)に、エキストラの話がでてきます。エキストラが最初に徹底して指導されるのは、決してカメラを見ない、ということなのだそうです。群衆のなかのたったひとりでも、カメラに視線を向けるものがいたら、すべて台無しになってしまう。 つまり、何百人画面にいたとしても、画面の「外」に向けられた視線は、かならず観客に受けとめられる。そこで観客は、この映画には「外」の世界があることに気がつくということなのでしょう。 人間の目の、視線に対する特殊な感受性とともに、映画や演劇がどういったものか、よくわかるエピソードだと思います。映画にせよ演劇にせよ「内的な法則」に貫かれた、独自の時間と空間を持つ自律した世界です。その「外」がある、と観客に気づかせることは、映画や演劇にあっては失敗なのです。 息子の比呂志は「優れて劇的な小説を幾つか書いている父が、戯曲に失敗したのは不思議ではない。父には恐らく、戯曲の方法を手に入れる前に、しなければならないことがあったのである」としてこの文章をくくっていますが、少なくとも芥川は、作品の「内」と「外」に大変に自覚的な作家であったのだと思います。 このことは、大変勉強家でもあった芥川が、西洋近代小説ばかりでなく、英訳されたさまざまな哲学書を自らの肥やしとして読んでいったことはおそらく無関係ではないでしょう。 それに対して、自らの生活をありのままに語ることによって、人生の真実を語ることができる、それこそが真の芸術である、と、一種ナイーヴに信じていた自然主義の作家にとって、「内」も「外」もありませんでした。 自然主義の作家である正宗白鳥からすれば、『往生絵巻』は芸術を追い求める芸術家のアレゴリーにほかならなかった。芸術を求める先にあるのは、人間の真実である。白鳥にとって孤独地獄とは、芸術家たらんと志す人間の感じる孤独、「極楽」というのは、芸術のメタファーです。したがってそこに蓮華が咲くというのは、絵空事、人生の真実ではないと思った。だから芥川に迫っていったのでしょう。 けれども、「作品の外」ということを決して忘れなかった芥川が考えていたことは、そういうことではなかったのではないか。 むしろ、彼は作品の外にあるわれわれの生の、さらに「外」に広がっている何ものか、「地獄」あるいは「極楽」というものとふれていたのではないか、と思うのです。 わたしたちの判断は、経験されたことにたいしてのみなりたつものですし、残念ながら経験の外にある世界を知ることはできません。だからわたしにとって、地獄がどんなところであり、極楽がどんなところであるかというのは、あまり興味がないのですが(少し心配した方がいいような気がしないでもないのですが)、ただ、芥川がその「何ものか」にふれていた作家であるということ、「解釈する人の思想の程度によって、浅くも深くも取られることができ」(『アウグスティヌス講話』)る地獄というものについて、芥川が深い考察をしていたことは、重要な点だと考えています。 ええと、ミスリードを誘うような書き方をしてしまって反省しています。門下でもなんでもない、ただお話を何度かうかがったことがあるだけです。わたしは中世哲学に関しても、アウグスティヌスに関しても、何も知りません。ただ、わたしにとっては呼び捨てでも、氏でも、さんでもなく、先生と呼びたい方のひとりであり、敬語を使って書かなければならないような気持ちにさせる方だったと申し添えておきます。 質問者さんのご質問のおかげで、『アウグスティヌス講話』と、中村光夫の評論のあいだに、ささやかな橋をかけることができました。いまはマッチ棒をつなげただけの橋とも呼べないものですが、これから先、ちゃんとした橋に築き上げていけたらいいなあと考えています。ありがとうございました。 いま赤ちゃんをお育てになっておられるのですね。 子供を育てる、ということも、世代と世代のあいだに橋をかけていくしごとです。子供なんてものは親の時間をむさぼり食いながら(笑)大きくなっていくものだから、いまは大変かとも思いますが、いつか、かならず手を離してやらなきゃいけなくなる。そのときのために、しっかりと手を握っていてあげてください。応援しています。
お礼
(補足欄からの続きです) それにしても山田晶さんとご縁があって良い出会いをお持ちになったこと、羨ましいようです。 ひとつ前の時代になりましたね、本物の研究と教育に身を捧げた大学人の時代は。今は雑念が多くて。 >『アウグスティヌス講話』と、中村光夫の評論のあいだに、ささやかな橋をかけることができました。いまはマッチ棒をつなげただけの橋とも呼べないものですが、これから先、ちゃんとした橋に築き上げていけたらいいなあと考えています。 楽しみにしています。 こちらこそ、アクロバティックな橋のスケッチを見せていただいたおかげで、触発されました。課題をいただきました。 > 子供を育てる、ということも、世代と世代のあいだに橋をかけていくしごとです。 > しっかりと手を握っていてあげてください。応援しています。 そうですね。世代間の橋も、親子の橋も、ていねいに架けたいです。こればかりは自分の流儀で自然にしていて 架かるというものではないようで。えっちらおっちらです。すごいなあ、ghostbusterさんは。 ありがとうございます。
補足
ありがとうございます。お礼が遅くなりまして失礼いたしました。 こうした視点に立ってみますと、芥川は同時代性からまったく逸れていないどころか、 日本へ紹介されたばかりの西欧世紀末から世紀初頭の文芸を吸収していたように思われます。あるいは日本的な美意識の真髄がもともと同様の手法と効果を要請するのでしょう。 芥川比呂志は表現者として作家龍之介を分析しているのですね。 なるほど、拘束・制約の中で演じられる戯曲には形式と効果、ときにあざとささえ要求され、 観客は枝葉末節を介して内へ内へと誘われたり、ときには表現主義的表現を内容として受け入れますが、 一方芥川作品が演劇となるなら観念の演劇となるべきでしょう。 舞台の虚構は芥川の原稿用紙の中で、肝心の問題は舞台の外に起こるという感じです。 転覆し翻るアスペクトがあって能のようなところはあるかもしれませんけれども。 > 芥川がその「何ものか」にふれていた作家であるということ、「解釈する人の思想の程度によって、浅くも深くも取られることができ」(『アウグスティヌス講話』)る地獄というものについて、芥川が深い考察をしていたことは、重要な点だと考えています。 本人でないとなかなか深淵の窺えないところですが、触れていたのでしょうね。 触れていなければ、もっと透明な話者になれたのではないかなと思います。
- darumazen
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40才代の僧侶でございますが 回答を読んでいて質問の内容が「なぜ結びの教訓を省いたのか」という文学的な内容から宗教的な内容になっているような感じを受けました。 「なぜ結びの教訓を省いたのか」という理由は当時の検閲に有ったかもしれません。芥川が自分なりの結末の考えがあったが明確にその結末を書くと検閲に引っかかる恐れがあるから童話風にして結末を書かなかったのかもしれないと私は考えたりしています。 仏教の理屈をあれこれ捻るよりも、あなたがカンタダならどうしますか? という芥川の問いかけではないでしょうか。 その答えは個人個人の中にあります。
お礼
ありがとうございます。 盂蘭盆会でお忙しい頃でしょう。 あれは体育会のような忍耐でございますね。 個人個人の想いを大切にしたいものです。
>もう関わりたくない 言われても、 何と なのかよくわからないのですが。 ま、始末のつかないことに言ってみたいなと思うセリフではあります。 言葉足らずで失礼しました。 お察しの通りです。 テカ哲学のカテにかな >解釈をこころみた方も、創作を楽しんだ方も、自分のなかの景色を眺めた方も、 自由にしてくださればそれでよいのであり、 質問者であるわたしはそれぞれから内容に限らず受け取るものがありますので。 はい、そうですね。 見事にまとめらているので感心致します。 では
お礼
ほぼ同時でしたね。 しばらくわたしも育児に専念するつもりです。 お元気でどうぞ。
こんにちは。 作家・表現・宗教のいずれの点にもからめていない事につき迷いました。 なにとぞご容赦下さいませ。 昨年でしたか、狩野芳崖の『悲母観音』を観にいきました。 http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=1368 当時の明治政府の急激な欧化政策のもと、フェノロサにより見出された彼は、気負いと迷いを志に込めて終生描き続けました。 この絵画は亡くなる数日前まで心血を注いでいた絶筆の作品でして、遂に静寂の境地に達したかのようにみえます。 下図の方も見事でした。 そしていま、この絵画の観音様と赤子が、作中のお釈迦様と「もう一人のカンダタ」のように思えてくるのです。 赤子であれど、健気に両手を合掌していたと記憶しております。 手繰り寄せている「白い糸」は赤子の身体に巻きついた赤いへその緒とは異なる「へその緒」、つまり「絆」「縁」かもしれません。 仮に本来のあらすじから逸脱したカンダタ、慎ましやかで信心深い彼が地獄から逃れ転生の途を辿るとしたら、このような一幕になるのではないでしょうか。 もしかすると、地獄に苦しむ人々の分だけ「各々の物語」が存在するのかもしれません。 そしてあまり信心深くない現代人にも通ずる何かがあるような気がしてくるのです。 肝心のカンダタの心の内が見えてこなかったのは、「空っぽ」だったからでしょうか。 芥川ならずとも、ケーラスの「利己主義とは呪い」「真理は祝福」「地獄は利己心」「涅槃は公正な生活」という≪教訓≫めいたものは、どうにもこのあらすじの教訓にしては、不思議と「煩わしい」気がしてくるのです。
お礼
ありがとうございます。 東京では芸大美術館で公開されていたらしいですね。 こじんまりとした好ましい空間で、ときどき足を向けるのですが、 昨年は美術鑑賞どころではなく慌ただしく過ぎてしまいました。 悲母観音や子安観音は一説には江戸時代に聖母マリア像を観音像に取り入れたものといわれるようですが、詳細はよく存じません。 ただ仏教の風土から思うに、善人も悪人もひっくるめて万人が悲母観音の子どもなのでしょうね。 芳崖自身の最期も、子どもに還る旅に思えてきます。なにか引導の儀式をこめたかのような感じがいたします。 白い糸は決して切れない糸でしょう。 ほかのご回答に、生というものへ向き合うような言及がありましたが、 赤いへその緒とは異なる「へその緒」、「絆」「縁」、転生の途と mashumaro2さんがお呼びになったところのものとどこか係わっているようです。 転識得智の長い長い唯識論的な旅があるのだとしたら、母からの糸とは 血の糸だけではないのかもしれません。 なんて思いながら唯識のwikiを開いたら、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 なんと量子力学の観測問題、不確定性原理が載っているのですね。 (日本語版のwikiってこういうところがあってちょっと変な感じがないでもないのですが) 芥川のカンダタはほんとうに空っぽ、現代人の心なんだろうと思います。 生きることが徒労の地獄になっているのですね、たぶん。 狩野芳崖の『悲母観音』の画像をありがとうございました。 やさしいお顔ですよね。 今日は、一歳の子を叱るとぽろぽろと涙をこぼしたので、少しずつ赤ちゃんじゃなくなってきたんだなあと実感しました。
補足
追記 他質問でご経験からのお優しい言葉をいただき、ありがとうございます。 あちらにももうひとつ投稿しようと思いますが、 質問者様ご提示の錬金術の流れはちょっと敬遠しております。 何か、彼に役立ちそうな事柄を提案できればよいのですけれど。
解釈にまるで猿が際限のない玉ねぎの皮をむいているという状況にでも陥っているのですかね。 質問に対する回答としてはすでに言うことは持たないのですが チョコっと付け加えて早々にひきあげます。 (正直もうあまり関わりたくないんだよね) 家康は遺訓で人の一生は重き荷物を背負って歩くようなものといい 橋を架けるで引用された悲しみを背負ったカタツムリのように それが普通なのだと覚悟すれば どこにあっても 極楽とは在ることの内部意識において極めて楽しい もしくは 為すことがすべて極めて楽になっていくものであるというほどのことであって 時の経過よって自分の生活の中で新たに経験することが少なくなってくると いつの間にか成長していたりすることに気が付いたりするもので 苦であると思っていたものがいつの間にか苦でなくなって受け入れていたりもするもの。それを一時の苦し紛れに 天国とか極楽とかの言葉によってあたかもそういう世界が在るかのごとく思い込んで つい何時切れるのかも知れないような頼りない糸にすがろうとしてしまうのは いかにも溺れる者が藁をも掴もうとする我々の陥りやすい思考に突け込んだものだなと思ってしまいます。 さらにトルストイの物語を重ね合わせれば ネギを差し出すとカモが食いついてきてそれを引き揚げて鍋にするつもりが ネギが切れてしまって助かったのは実はカモの方で ありゃりゃ失敗しちゃったと実害を思うのは釣りそこなって今日の食卓でカモ鍋を食べそこなった そういう世界の住人だった とか。 情けは人の為ならずといい他の誰の為でもない ただそれぞれそこに在る種の特徴に対して理にかなった剪定というものがあり それぞれの場で社会を里山のようにしていくことがひいてはこの身も心もそこでの構成員として活き活きと生きられる社会になっていくのであるということだけなのであって それに気が付きそういう社会になるように人はそれぞれ可能な範囲で機能していくようにすればいいということなだけなのですが 現代のようなカオス的社会においては それを顕現化させるには世界を動かしている権力に対峙し働きかけ気付かせることができればそれが最も近道になるのであって キリストにしろ日蓮にしろ短い人の一生の中において最大限に自らを機能させようとすれば時の権力に対して辛辣にもなっていったのだろう。 小乗仏教と大乗仏教の意識の差は社会に対して受け入れ干渉しない立場をとるか能動的に干渉して里山的社会を構成しようとするかになって現れ 小乗仏教系の境地は大乗仏教系にとって通過点に過ぎないけれども我執を離れるという過程において必ずそこは通過しなければならない関所であるとされます。 それは孟子や孔子の中にも点としての老子の見るように。 日本は今まで里山的社会をめざしたと言えなくもないと思える節は無きにしも非ずですが、 戦後の戦争責任を果たしていく過程において 一方で奇跡とさえいわれるくらいの経済成長を遂げていく半面 社会には確実に歪が蓄積していき対症療法で手当てしてきたものも今限界に近いところにまできていて さらに近年は自由競争で自己責任、格差あって当たり前の社会と言い放ち 規制緩和とともに利益を追求させることによって人の意識においてもモラルハザードを起こし民を野生化させてしまう政治が行われ 今まで築き上げてきた社会基盤は根底から崩れ始めようとしていると捉えられますし、 時を合わせて世界を巻き込んだアメリカ発の未曾有の金融危機によってアメリカ一国が主導する経済システムからのパラダイムシフトが起こっている状況であるといえると思います。 野生のカオス的世の中においてはそれを反映する意識においてもよく自らを律し剪定することなく繁茂するに任せる野生の姿のままのカオスで 今まで世界を席巻してきた理論の延長線上にある統一理論は理論の拡張段階において現実にはモデルとして破綻してしまい ピラミッド型の統一で支配すると表現する理論の自己破綻と それとは別に量子論において並列型に調和し揺らぎ波打つと表現する世界の理論があることを予測させます。
お礼
遅ればせながら、お礼申し上げます。 そうですね、、、一行目の主語についてはそれが何かわかっており、 事実わたしの疲弊を察しておられたのは当然で、それはわたし唯一人が受けとることの出来るありがたさなのでした。 ---------------- 庭にせよ樹にせよ、印欧の宗教はそもそも民族の外の世界におけるそれらを描きはせず、 その父とか王とか庭師の手になる庭の連続性、樹の属性・発展性は、定まった視点からの鑑賞に依るものと思います。 しかし、もう触知的視覚的に一括できる連続性というものから離れて、形象としては見えない連続性を実現できる時代ですから、 庭の取り方、樹の理念を、従来とは違ったヴィジョンで形而上的に創出していく流れでしょう。 そうはいっても、水準の明確な、ワールドワイドな庭の剪定が容易な分野はともかく、 政治にそういう視点の転換はなかなか訪れず、アメリカの庭や、市場経済の庭が、引き続き造りこまれるんでしょうね。 ---------------------------- でんでんむしの殻と睡蓮の萼は、本当はおなじようなものではないですか。 おのれだけのことならば、拡散し、外の意識があって初めて凝集した観念となっており、 経験を通る自覚と反映を通る自覚とが、複層的な視点を抱えているから、 殻として背負っていけるし、他者の経験と分別し自分の生に耐えられる。 そうでなければ、浸され沈むカオスであるだけなのでしょうから。
補足
解釈をこころみた方も、創作を楽しんだ方も、自分のなかの景色を眺めた方も、 自由にしてくださればそれでよいのであり、 質問者であるわたしはそれぞれから内容に限らず受け取るものがありますので。 なんというか、 もう関わりたくない 言われても、 何と なのかよくわからないのですが。 ま、始末のつかないことに言ってみたいなと思うセリフではあります。 投稿は捉われのない自由なものであってくださればと希います。 お礼はゆっくり読ませていただいてから後日にさせていただきます。
- 来生 自然(@k_jinen)
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連続した投稿、お許し下さい。 カンダタの視点に立ち返って、今まで述べてきたことをまとめておきます。(この投稿が最後になると思いますので、個人的な回答とさせていただきます) 芥川氏の記述では、カンダタの視点にとって降りてきた糸が天国への通路なのか、さらなる地獄への通路なのか不明になるでしょう。 実のところ、単に「魚のごとく釣られて調理されるだけ」なのかもしれません。この辺り、芥川氏の記述方法では、カンダタの立場のみからは「全く判らないはず」です。 さて、私が高校生頃、「全知全能なるものが神」だとしたら「全知無作為の神」としてしか成立し得ないのでは?といった疑問を抱いたことがあります。 === 以下、少し長くなりますが、当時考えていたことを思い返しながら、つたない言葉で書き綴った日記からの抜粋です === なぜ人は宗教を求めるのか、信じるのか、 なぜ人は神を信じるようになったのか、 人々にとって神とはどのような存在なのか、 全ての人にとって同一の神は存在可能なのか、 神が存在するとした場合、 その神は特定の個人のための神なのか、 特定の家族のための神なのか、 特定の国家のための神なのか、 特定の民族のための神なのか、 特定の種のための神なのか、 特定の動物のための神なのか、 特定の生命のための神なのか、 特定の宇宙のための神なのか。 生を越え、死を越え、全ての存在を越えた感覚に 生の中にあり、死の前に存在し、何も越えれずに考える己を見つめることが、 般若心経の無限の回転の内に、ゲーデルの不完全性定理を見出したかのように 全ての判断が人間によって考えることによって行われるゆえに、 人は人の考えから抜け出すことが出来ないというのに。 みんなが正しいと思うが故に正しい行いをしてきた人々に幸いあれ。 神も悪魔も善も悪も、全て人がそうであると判断することによってのみ人に認識されるというのに。 神と直接交信した人は考えればいい。 その対象が神であるという判断はその人がしたのだから。 その人の話しを聞いて信じる人は考えればいい。 神が存在するかどうかを判断したのではなく、その話を正しいと判断したのだから。 神が存在するならば、人は判断の対象として神を見てはならない。 存在すら判断してはならないのである。 判断の対象とした途端、その存在は神ですらなくなる。 単に人の善悪の基準に照らしだされた悪魔に対比されるべき存在としての言葉としての神でしかなくなる。 一方、判断することをしなければ神を信ずることが出来るであろうが、 その時には,人は人としての価値観を持ちあわすことが出来ないということを知るべきである。 それゆえ、神と悪魔の違いすら判断できないことを知るべきである。 ここに記述した神は、人の思考の対象としての神である。 存在するならば人が如何に考えようとも如何に思おうとも存在する。 === ケーラス氏の利己主義を否定し公正な生活を推奨するという教訓は、実のところ、カンダタや摩訶童多の「利己心」のみならず、「作者に記述された」御釈迦様が危うく陥りそうになった「利己心」(カンダタが叫ばなかったなら、カンダタのみを救い、他の者を地獄へ返すという選択をするのか?、それとも全員を天国へ引き上げるのか?、あるいは、再度、閻魔大王に判定をさせるのか)をも否定しかねない教訓になっていると思います。 ケーラス氏の記述では御釈迦様が「未だ途上過程の話(大覚の位に昇った時)」なので、この程度の「作為」が入っても問題ないのかも知れません。 芥川氏の記述では、「蜘蛛の糸」のみを独立して抜き出した過程で、教訓部分を含めて削除せざるを得なくなった。また、その過程で御釈迦様に「完全な姿」を重ね合わせることが不可能になったために、混沌を避ける意味からも、蓮の花という「理想とされるべき絶対者本来の視点・立脚点」(私的表現に変えるなら、「全知であるがゆえの不作為の視点」)を添えざるを得なかった。 。。。そのように考えます。
お礼
10代の頃お書きとめの文章、齢を重ねてもお大事に持ち越してください。 わたしは高校生の頃は学校の屋上か音楽室か美術室か化学室でサボって昼寝ばかりしておりました。 ケーラスの記述するところの、僧が語る仏陀ですが、カンダタを 救うにあたり、厳正な契約を差し出していると見ることができるかと思います。 でもまあ、これはケーラス論となりますので、また別の枠が必要でしょう。 大覚の位に昇った折というのでは、たしかに芥川作品に絶対性が不足しますね。 どうしても、絶対性のおごそかさが必要な小品となっていますね。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
No6,12,15,17にて書き込んだものです。。。 >>> No.12のお礼欄から 積極的な善行ではありませんが、地獄にいるのが自分の報いだと自覚していれば、 垂れてきた糸を見て、奇跡を思うとか、仏心を思うとかそれだけ。あさましく掴まらない。笑 お釈迦さまは、掴まれ、と思って糸を垂らしたとは限らない気がしてきました。 お前の善行は忘れていませんよ、と、役に立たないんですが、そういうしるしだったのかもしれないではないですか? (わたしは無信仰です) <<< 「無信仰であろうと・なかろうと」に関わらず、人が何かを考えたり、信じたりする上で、「自身の視点・経験・想像」からは、決して離れることも、抜けだすこともできないでしょう。。。 そこに立脚してこそ、「無信仰である」とか「無信仰でない」とかは、意味を持ちうるでしょう。。。 そうして、その立脚点には、なんぴとたりとも、足を踏み入れることはできないのでしょう。。。 芥川氏が「蜘蛛の糸」を他から「切り出した」とき、一回きりの話として成立させるだけの「立脚点」が必要だったのでしょう。 「確かにお釈迦様は【蜘蛛の糸】を垂らされたのです」と 「確かにカンダタが恐れ戦いて叫んだため、【蜘蛛の糸】は切れてしまったのです」と もし、その「立脚点」が消失してしまったなら、すなわち、一回きりの話を「誰も知りえない物語」としても、問題なく処理可能だったのなら 「【蜘蛛の糸】は、偶然おりてきたのです」とか 「カンダタ以外の亡者が多すぎたため、切れてしまったのです」とか 「実のところ、カンダタは心優しく他人に登ることを譲ったのです」とか 「譲ったのは良かったのですが、譲られた人以外に多くの亡者が登ったため、その人が怖くなって叫んでしまったので、糸が切れてしまったのです」とか さまざまな噂話や勝手な解釈が飛び交ってしまうかもしれない。。。 何もかもを知りえているはずの御釈迦様が、実のところ罪の意識(No.12,15,17参照)を持ちえたため、たった一度だけ「嘘も方便」とばかりに話をすり替えてしまう恐れだってありうるわけです。。。 御釈迦様の行動を含めて、すべてを見知っているもの。。。 それは作者である「芥川龍之介本人」でしかない。。。 しかしながら、その「立脚点」は、彼自身が書き終えて、書き手の元を離れたとたん、失われてしまうかもしれない。。。 彼は、彼の「立脚点」を、蓮の花に託したのかもしれない。。。 確かに御釈迦様が「蜘蛛の糸」を垂らしたのは、あの時の出来事に関連した慈悲の心がなせる業であると。。。 もしかしたら、芥川氏の元にも、彼の「立脚点」からはうかがい知れない「何か」が垂れてきていたのかもしれない。。。 あるいは、彼が抜けだせないでいる「ある状況」に救いの手を求めていたのかもしれない。。。 彼は、「そこ」から抜け出すための「何か」をひっつかんで離さないために、自分自身に暗示をかける必要があったのかもしれない。。。 彼自身の立脚点の代わりに、(彼にとって母なる立脚点なのかもしれない、すべてを見通しているだけの)蓮の花という立脚点が。。。
お礼
(補足欄からの続きです) ご提出の、カンダタや他の罪人達はなぜ糸が切れたかを理解しないという、作中人物の心理問題を、 サリーとアン課題からご覧になるというのは、 わたし一人では決して考えることのできない視点で、こうして、自分の採らない思考方法を見せていただくのはたいへん参考になります。 たぶん作家にとっては、作中人物のあいだで整合性をつけるというのは、さほど難しいことではないとしても、 読者が知り得る情報量を、つねに 作中人物 < 読者 にしておきながら、尚且つ、 読者に物語の構造やダイナミクスを知らせない、事の運びや組み立てを説明しない、 ただ臨場させるというところに、難しさや努力があるのだろうと思います。 まさにそういう意味で > 芥川氏が「蜘蛛の糸」を他から「切り出した」とき、一回きりの話として成立させるだけの「立脚点」が必要だった ことは疑いがありません。また、 > その「立脚点」は、彼自身が書き終えて、書き手の元を離れたとたん、失われてしまうかもしれない ということは言えると思います。余談ですがエドガー・ポーはそうなるべきだと言っていましたけれど、痕跡はしばしば美しいものであるように思います。 > 彼は、彼の「立脚点」を、蓮の花に託したのかもしれない。。。 > 確かに御釈迦様が「蜘蛛の糸」を垂らしたのは、あの時の出来事に関連した慈悲の心がなせる業であると。。。 > もしかしたら、芥川氏の元にも、彼の「立脚点」からはうかがい知れない「何か」が垂れてきていたのかもしれない。。。 > あるいは、彼が抜けだせないでいる「ある状況」に救いの手を求めていたのかもしれない。。。 > 彼は、「そこ」から抜け出すための「何か」をひっつかんで離さないために、自分自身に暗示をかける必要があったのかもしれない。。。 > 彼自身の立脚点の代わりに、(彼にとって母なる立脚点なのかもしれない、すべてを見通しているだけの)蓮の花という立脚点が。。。 そうですね。一回きりの話として、何らかの立脚点にしたがって物語世界を造り、そして先の信心深い小さな読者のような者が、そこに手をかけて悟性や理解をはたらかせるとき、まさ蓮の花がそれを代替しているのであろうと思いますよ。大変参考になりました。ありがとうございました。
補足
15と17と21とお礼をまとめさせていただきます。 すでに6で、鈴木大拙訳のケーラスの見やすいサイトをいただいておりました。 ご回答にありますように、両者には大きな違いがあります。ケーラスの物語には整合性があります。 ・仏陀が大覚の位に上った機会に光明が奈落の底に射し、カンダタが自分から憐みと救いを懇願すること。 ・三界輪廻における善行の進歩と心の養いを極め涅槃に至るという理のうえで、仏陀がカンダタに言葉をかけること。 ・かつて仁愛の行いがあれば報いの機会があること、罪業応報の果てのこの機会に、一切の我執を脱して貪瞋痴(欲、怒り、無知)を洗わなければ、永遠に助かる機会はないと仏陀が宣言すること。 ・仏陀はカンダタの行いを知っているものの、カンダタは自分の善い行いを思い出さず苦悩すること。 ・カンダタの苦悩を見た仏陀が慈悲の心に動かされて蜘蛛の糸を垂らすこと。 ・糸を便りて昇り来たれと 仏陀が蜘蛛に言わせること。 ・罪人たちが昇りだして、糸は震えて伸びるようすであり、不思議と尚強く、彼を助けるに充分と見えたこと。 ・カンダタは下に気を取られ信仰が乱れたために、疑いをもち、恐怖をおぼえたこと。そして「わがものなり」と叫ぶ。 一方、芥川の物語には、理屈がありません。 こどもには難しいと思ったか、自分の小説に必要ないと思ったかはわかりませんし、いずれ読者が「因果の小車」を読むだろうと思ったかどうか知りませんが、 k_jinenさんのお言葉を借りれば、「誰が 何を 知りえないのか? 知り得たらどうなるのか?」を、 小さな読者たちは、一心に考えざるをえないでしょう。 12のお礼のくだりはわたしの持つ考えではなく、見方の一例にすぎません。 仏教教育に成功したこどもならば、カンダタは、救いの力を知らなかった、糸が切れないと知らなかった、 と考えるであろうところが、もっとも、ケーラスの物語に近い着地点となりますね。 そして、お釈迦様が垂らした糸であり辿りなさいという意味だと知っている、この信心深い小さな読者こそ、サリーとアン課題をクリアできない被験者となるわけでしょう。 小説というものの内部には、厳密な論理ではなく伝えられる情報が、生き生きとしているということも、たぶん大切な要素なのでしょう。 人物の意思行為の継続という時間の織物が、物語の重要な縦糸で、複数の縦糸がさまざまな事情や思惑やタイミングの横糸でつながっていますから、心理学の課題のように、一対一対応では片付かないかもしれませんね。
しばらくぶりの訪問で 途中参加で他の方の投稿は読んでないことを始めにお断りして 何故教訓を省いたかを推理し 西洋と日本の庭園の違いで表現してみると 日本の庭園の造り方は自然と人の意識の適度な介入で空間に程よい巾を持たせて夫々が活き活きした姿で調和し落ち着かせようとします。 示唆的ではあるけれども教訓という画一的な剪定で木の姿まで全てきっちり型にはめようとしてしまう庭師のようではない。 削除した教訓の最後の部分の言い方を修正すれば 自然への過度の介入は人類の利己心に他ならず、(ニルバーナ)涅槃とはカオスの中に里山を創造する営みみたいなものなのだ。・・・ 芸術は自然との相互交感によって創造されることを 東洋学者としての作家の作品をあえて用いることによって対比させ さらに日本の文化の深い理解へとつながればという思いがあった。 最後の教訓がそんなものではないよという思いだけで削除しただけだったのかもしれないけれども
お礼
ありがとうございます。 草木の伸びたあとの姿を想い描き、何を主眼に見せたい景色とするか、 また、あり得ない偏在のような視点ではなく、どこに立って眺めたり手を加えたりするか、 この点、やはり芥川の思惑は、ケーラスの何倍も上を行く美意識に裏打ちされているようです。 放送局主催の環境問題にも魔が差してというか投稿してみたけれども、 生産循環力のある自然は手を入れて作っていく必要があるので、 そうすると、誰が庭師となるか、技術と意識の集合した組織を育てることが急務だと思うのですが、 調律力って、もしかして人類に無いものなんだろうか。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
kigurumiです。 >なんでしたっけ、戦中戦後の買出しはkigurumiさんに頼まないほうがよろしいんですね。 はい。 一本の糸ならぬネギに群がる人々を空恐ろしいと眺めて、こいつら自分自身で地獄作ってるって気づいてないんだろうなぁ・・・って思って、でも ともかく大根手にしなきゃって 地獄につっこんでいって、ポーンって地獄から跳ね飛ばされて、「うわー すっげーー」って遠巻きに今飛ばされた地獄絵の風景を眺めているんじゃないかと。 >直感ですが、カンダタは、闇市で小賢しく食物調達したり換金したりするのは不得意だと思います。 せいぜい強盗するしか能がなく、混乱の世では警察機構がいっそう張り切りますし、世間の互いの目も厳しくなりますから、 早々に処刑される手合いと思います。 別バージョンだと、倉庫に溜め込んで値を吊り上げる店主の倉庫にしのびこんで「こんなに沢山隠していやがった」って貧しさに飢える人々の家にぽーんって放り投げていたとか。 でも盗人なので、盗人はあっち系の宗教だと殺人より罪が重いので、地獄に行かされた と。 >貧しさと無教育という問題はカルマの喩えにもってこいですね。 いや 教育がある人の方が、アクドイと思います。 わかっていて悪さするから。 しかも位の高い人は他の位の高い人の犯罪をかばうので、「お前もワルよのぉ」ってなるわけですが、水戸黄門とか「おじゃましまーす」ってやってこない限り、悪事はばれず、いやわかっていても、あまりにも怖すぎて、他の人言えないんじゃないかと。 で、結局その子供が後をついで、農奴も継承し、「極楽極楽 お前らはたらけ~」ってなるんじゃないかと。 そんなバカな、ってことですが、夢物語では勧善懲悪ものが描けますが、現実は一揆起こしたりしないと、転覆できないじゃないですか。 >しかし、傲慢さという点から人間存在に関与するのがお釈迦様なんじゃないでしょうか。 お釈迦様が傲慢? うーん 私の認識では無関心な人格がお釈迦様だと思うんですね。 俗世に興味を示さないとか。 いろんなものに関心を持ちわずらうから苦が生じるので、悟りを開いて関心の針が触れないまでになるってのが、涅槃の世界じゃないかと。 で、仏陀は悟りを開いて俗世に興味が無くなったって完璧になる寸前で失敗した。 「あいつらを置いてさっさと完璧無関心主義をつらぬけない くっそー」っていって俗世に引き返したってエピソードがあったような。 >傲慢な者が長生きしようが解脱なんかさせてやらないみたいなところがあるんじゃないでしょうか。( んーー 日本でサンスクリクト語の第一人者の方知ってますが、傲慢という言葉が一番似合っていそうな方です。 でも、せせら笑うってのが、「やれやれあいつらあんなものに執着して」ってわけなので、確かに悟りを開いて無関心な人でもある。 ちなみに日本でもすごい高位のお坊さんらしいです。 >ケーラスはプロテスタント家庭に育って、信仰を離れ、神を愛する無神論者を自認するようですよ。 ああ アインシュタインと同じタイプかな? アインシュタインが神って言葉を使うとき、それは万物の法則のことだと思うんですね。 でもケーラスの場合は、なんというか、、、「きっとそんな子としてたら報いはあって当然」っていやらしさが無いですか? いいことをするのは、いい報いを受けるためという目的があるって場合、そのいいことって行為はいやらしくないですか? 当然のことで見返りを期待しないってのが、ピュアーだと思うんですね。 >改変されて流布している赤頭巾や白雪姫やシンデレラ、子ども心に面白かったですか? はい シンプルな勧善懲悪もので、子供心にはわかりやすかったです。 でも大人になると、これが正義 これが悪って決められないとわかったし、なんというか復讐されると悪い行為の報いを願うとかそういう物語を書かざるを得ないほど、心が貧しかったともとれて、なるほどぉ とも思うんですね。 自慰っていうか、相手の不幸を夢想することで、直接相手に復讐をしないという自浄作用があるっていうか。 ほらハリーポッターの作者もそのタイプで、直接相手にリアル世界で復讐せず、本の中でひそかに復讐を果たしていますでしょ? 健全の範中。でも私そのドロドロさに耐えられず、読んでて吐き気がして、ゴミだし場に本を捨てにいきましたけど。 ものすごい憎悪や本の中にあふれていて、すっごい怖かった。 結局 物語を書くってのは自浄作用があるんじゃないかと思うんですね。 例えば、牛の刻参り。 直接相手に復讐できない弱い女性が、やるせない気持ちを、相手を呪い相手が報いを受けて不幸になったって、夢想することで、精神の健全さを保とうとしたんじゃないかと。 牛の刻参りが終ると、しらーっとして 「おっはよー」って呪った相手に笑顔で挨拶する。 呪ったからもう不幸になると決定したってことにして、精神汚染から回復しようとするんじゃないかと。 で、この物語を書いた人も、善人が損するってのがリアル社会だけど、あの世ってものがあって、現世じゃ報いを受けないが、死んだ後は絶対報いを受けるのだ って思うことで、精神の健全さを保とうとしたんじゃないかと。 芥川龍之介の地獄変ってあるじゃないですか。 わが子を殺してそれを絵にして、その絵を見た人々は、極楽にいるような冷静な精神になったって話し。 恐ろしさをリアルに感じることで、はっと我に帰って、まっとうな道を歩んでいなかったとやっと気づいたりする。 恐らく地獄変ってのはイエスの磔刑をモチーフに書いたものだと思いますが、地獄絵を想像することで、人々が改心を促されるって構図。 この作品はそれと一緒だと思います。 別バージョンだと、ペトロは母親が煉獄に行ったので、直接煉獄には行かず遠くから母親を救おうとしたらしいんですね。 ところが、母親は他の連中に「あんたら来るんじゃねー」って悪態ついたのを見て、今でも口が悪いとわかって、救うのをやめたのだとか。 こんな母親をうっかり救うとまた悪夢の再燃になるって思って、「くわばらくわばら 永遠にさよーならーーー」ってぽちゃーんってしちゃったらしいです。 うん 確かにそんなガミガミ言う母親と一緒にいたら、精神的にまいちゃうので、いい人演じるのやーめたーって許可です。 ばーさんのことだから、「おめーら私を持ち上げてこっから出さないと、どうなるかわかるだろうね ガミガミ」ってなって、「こんなばーさん 地獄がいたら、ここ地獄よりひどい」ってなって環境改善のために、みんな一致団結して、ばーさんを地獄から出そうと懸命になるんじゃないかと。 現実そうですよね。 あまりにも問題を起こす人がいた場合、昇進でもなんでもいいから、とにかく、出て行ってもらおうとする。 送別会のとき、友人「昇進おめでとーございますー」って言ってその人の食べるものに、紙ふぶき めいっぱいふりかけた・・・笑。 かわいい復讐ですよね。 笑 物語書いてせーせーするまで病んでいないレベル。
お礼
遅くなりまして失礼しました。 > 別バージョンだと、倉庫に溜め込んで値を吊り上げる店主の倉庫にしのびこんで「こんなに沢山隠していやがった」って貧しさに飢える人々の家にぽーんって放り投げていたとか。 どうみても美化しすぎですよ。宗教がお嫌いなのはわかりますが、 芥川が罪悪のかぎりを尽くしたって書いてるんですから。。。醜悪な人物でないと。 > その子供が後をついで、農奴も継承し、「極楽極楽 お前らはたらけ~」ってなるんじゃないかと。 > 現実は一揆起こしたりしないと、転覆できないじゃないですか。 そうですね、貧乏・無教育が世代を超えて続くだけでなく、金持ち・支配層も続きますね。 相続税を三代はらえば均質になるシステムも、この日本を見る限りどうかと思われますが。。。 > ケーラスの場合は、なんというか、、、「きっとそんな子(ママ)としてたら報いはあって当然」っていやらしさが無いですか? そんな子としてたら報いはあるわよ って、いえ、 ケーラスの思想を知りませんので、これを機に少しずつ読んでみます。 ハリー・ポッター読まれたんですか。わたしはテレビ放映を見ただけですが、主人公のあの出自設定がどうも。。。 どちらかというと、血統正しくもなんともない人が親にも愛されずに誰よりも強く高潔に成長する話が読みたいですよ。 > 呪ったからもう不幸になると決定したってことにして、精神汚染から回復しようとするんじゃないかと。 なるほど。 > あまりにも問題を起こす人がいた場合、昇進でもなんでもいいから、とにかく、出て行ってもらおうとする。 現実はそれができるんですよね。ご退去いただく方便がいろいろありますね。 > 送別会のとき、友人「昇進おめでとーございますー」って言ってその人の食べるものに、紙ふぶき めいっぱいふりかけた・・ で、その方が紙ふぶきをものともせず食べたらこれは背筋が凍ります。 ガラスの仮面みたいな話になってしまった。
補足
> >しかし、傲慢さという点から人間存在に関与するのがお釈迦様なんじゃないでしょうか。 > > お釈迦様が傲慢? あーいえいえ、書き方が舌足らずでした。わたしの文が悪いです。 傲慢か傲慢でないかを、善人悪人のわかりやすい基準にしてるのではないでしょうかといいたかったのでした。 また後日ゆっくり読ませていただいてからお礼します。
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
ご返事ありがとうございます。 わかっているなら、放らないで――と言われたので、前の回答には省いた部分を少し足すことにいたします。蛇足になると思うので、思索のお邪魔にならない程度に。 質問主旨からは回答がずれていると思いますが、例えばもし、「生」について考えるなら――その路があいにく見つからないのですと言った『河童』の主人公に対して、『蜘蛛の糸』の主人公はどういうわけか、その路を知っていたという事、なのだろうと思います。なぜ、知っていたのか。 すべては、この始まり――池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります――にあるのだろうと思います。この一文を、白蓮が咲いているという、その情景のひとつ、あるいは釈迦を表す象徴のひとつとして受け取ってしまうと、『河童』と見比べたときに、もう生と死の区別はつかないのではないか――僕は、そんなふうに思いました。 どれだけ大きく目を見開こうとも、耳を澄まそうとも、まして知性を働かせても、この文章は生きたものとならない。「生」というのは、目や耳や頭ではなく、鼻を働かせてその匂いを嗅ぎ、香りを確かめたうえでないと、わかったとは言えないのではないか。あるいはそれが、生死を分かつのではないか。こう僕は、思っています。 浄火を求めて煉獄へ上ろうとすること、利己心によって自ら地獄へ下ろうとすること、この両者を見比べてみると、客観的には前者こそが高貴な生、後者はその死であるというふうに映るものが、ふたりの主観を考えてみると、前者には諦め、すなわち死があり、後者には生への執着が見える。 ふたつの絡み合いをどう読むかという、そういう問題は文学の世界ではあるにせよ、けれど「生」というのは? といった問いに対しては、このような観想からのものではなく、 それが無かったころ、つまり生まれて間もない赤子だったとき、それでも母親を決して違わなかった理由はいったいどこにあるか――という問い方と同じであるはずだと思います。 『河童』の主人公は、その路を忘れたと、こう言っているのでしょう。 >蜘蛛は天蓋を張り巡らせる宇宙の創造主です なるほど。ロマンチストですね。
お礼
前回のご回答の〈剣 皿 糸〉のお持ちのイメージからわたしがお返ししたモデルについて、 とくに呼び名にお心あたりがないようですので、「次元クラゲ系」と勝手に名付けておきます。 「池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、 何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります」 この一文が、情景や象徴でなく生きたものとなるということと、 「生」がわかるということ、「生」の路を知っていることを、 とりとめないようではありますが、お考えいただいたのではないかと思います。 蜘蛛の巣を、天蓋また宇宙とみるのはわりとスタンダードな比喩かと思います。 専門域にサンボリスムが入っているせいかもしれませんんがこの比喩は何度か見かけています。
お礼
ありがとうございます。お礼が遅くなりまして失礼しました。 山田晶さんのご著書に親しまれているのですね。ご一門でしょうか。『アウグスティヌス講話』のご紹介をありがとうございました。 『蜘蛛の糸』で芥川が「地獄の世界」を描くことに主眼を置いたというご指摘、 『孤独地獄』『往生絵巻』と結んで充実した作家論の骨子となるものだと思います。たいへん面白く拝読しました。 中村光夫が芥川をめぐって、白鳥の言質をとって短文を紡いでいたとは存じませんでした。 ご指摘をいただいて触発されるところがありました。 『蜘蛛の糸』を地獄語りとして考えますと、額縁仕立てが見えてきます。 額縁という前景を眺める作家の視点が感じられます。 極楽絵を彫り出したこの額縁も、五位の入道の口に咲く白睡蓮も、 観念と現前を二重に有しているようで、作品を象徴派めいたものにしています。 それは、白鳥が不満をもらすように浅薄なスタイルであろうはずはなく、 筆一本の観念から花が結び、地獄(煉獄)から念じて繋がれる外側があるということへの 芥川の希求があったのではないかなと思います。 カンダタのいる地獄は、仏を念じない世界ですね。 芥川は、仏がいない、仏を念じても通じない、自己の内に発する地獄を、 禅超を借りて孤独地獄と呼んだのかもしれません。