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「蜘蛛の糸」

芥川龍之介は、ポール・ケーラスの『カルマ(因果の小車)』所収の「蜘蛛の糸」(1894年)を独特の世界に仕立て直しました。 芥川龍之介はなぜ、結び部分の教訓を省き、極楽の描写で終わらせたのだと思いますか? 、、、というところから一歩進めて、哲学カテゴリで聞いてみますので、作家・表現・宗教などにからめてご自由にお考えを頂戴できればと思います。 青空文庫から「蜘蛛の糸」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html ポール・ケーラスの作品から芥川が削除した教訓 『・・・カンダタの心には個我のイリュージョンがまだあった。彼は向上し正義の尊い道に入ろうとするまじめな願いの奇蹟的な力を知らなかった。それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々をはこぶことができる。そしてその糸をよじのぼる人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。しかしいったん人間の心に「これは私のものだ。正しさの幸福をひとりじめにして、誰にだってわけてやるまい」という考えがおこるや否や、糸は切れて、人はもとの個々別々の状態におちてしまう。利己主義selfhoodとは呪いdamnationであり、真理truthは祝福である。地獄とは何だろう。それはエゴチズム(利己心)に外ならず、ニルバーナ(涅槃)は公正な生活a life of righteousnessのことなのだ。・・・』

noname#96295
noname#96295

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回答No.13

先日、山田晶先生の『アウグスティヌス講話』(新地書房)を再読する機会があり、以前は気にもとめなかった箇所がひどく気になりました。それが芥川の『蜘蛛の糸』で、以来、とつおいつ考えていました。ご質問を拝見して、質問者さんが求めておられる回答となるかどうか不明ですが、奇縁ということで。 『アウグスティヌス講話』を質問者さんはお読みになっておられるかもしれませんが、一応ここで話の筋道をご紹介しておきます。 山田先生が言及しておられるのは「煉獄と地獄」という章です。 聖書にははっきりと述べられていない「煉獄」という場所が果たしてあるのか。あるとすればどのようなところなのか。それは地獄とはどうちがうのか。地獄へ堕ちるというのは、いったいどのような罪がそれにあたるのか。そこからキリスト教における罪と罰、というふうに話は展開していくのですが、ここでは簡単に、煉獄に行った魂は、非常に苦しんでいるけれども、それは絶望的な苦しみではなく、浄化の苦しみである、あるいはまた煉獄に行った魂に対して、われわれは祈ることができる、それに対して地獄とは、全くの絶望であり、地獄に堕ちた魂にたいしては、われわれの祈りも届かない、と、非常に荒っぽくではありますが、まとめておきます。 やがて仏教に話は進んでいきます。 仏教においては、キリスト教におけるように、煉獄と地獄の区別がない。それでも、地獄についての記述のうちに、煉獄の思想と地獄の思想が混在している、と指摘されます。 「 仏は摂取不捨といわれますが、それには、「もし仏を念ずるならば」という条件がつきます。仏を念ずるならば、いかなる極重悪人も仏の功徳によって救われないことはありません。その条件なしに、何もかも救うというのであれば、念仏しなくても救われることになり、念仏の意味もなくなります。のみならず、救いも意味がなくなり、地獄も極楽も無意味となります。これらのことがらが切実な意味を持つためには、地獄は実在しなければなりません。また、その実在する地獄を「見た」人にしてはじめて、真実の念仏をとなえることができるのであると思います。そして地獄が実在するということは、仏さまにもどうすることのできない魂が実在するということです。これは恐ろしいことですが、真実です。この真実をみつめないと、センチメンタルな仏教観になります。」(p.80) その上で、芥川はこの真実をみつめた文学者であった、として、『蜘蛛の糸』が出てくるのです。もう少し引用を続けます。 「この話(※『蜘蛛の糸』)は、仏の慈悲はいかなるものであり、地獄とはいかなる場所であり、そこに墜ちるのはいかなる種類の人間であるかを、端的に表現しています。  この男は、仏さまによって地獄へおとされたのではなくて、自分で墜ちていったのです。…煉獄と区別された地獄の世界を、仏教の中に明確に読み取ることのできた芥川は、素晴らしい作家であったと思います。」(p.81) 芥川が「地獄の世界」を描くことに主眼を置いたとすれば、カンダタがどうしていれば救われたか、カンダタがどこで誤ったかについて述べられた、教訓にあたる箇所を削除した理由も非常に納得ができるかと思います。 わたし自身は、芥川というと、ご質問の『蜘蛛の糸』や『芋粥』あるいは『トロッコ』や『白』、『魔術』や『アグニの神』などを通じて、かなり幼い時期にめぐり合った文学者のひとりでした。当時親密な関係を結んだ作家たちの多くは、成長する過程で別れていきましたが、芥川とは「つかず離れず」といった体で、折に触れては繰りかえし読んできました(なにしろ短いですからね。『夜明け前』だとそんな具合にはいきません)。 かといってすきだとか心酔しているとかいうのともちがう。かなり長い間、芸術家生活について饒舌に語る「芸術家作家」という印象を持っていたのです。ざっと思いつくだけでも、『地獄変』や『戯作三昧』『不思議な島』『枯野抄』『河童』などが即座に浮かんできます。しかも、「ジアン・クリストフの中に、クリストフと同じやうにベエトオフエンがわかると思つてゐる俗物を書いた一節がある。わかると云ふ事は世間が考へる程、無造作に出来る事ではない。」(『雑筆』)という一節などにも典型的に見られるように、「世間」と「芸術家」を対比させ、、自分はまぎれもなく芸術家の側にあると自覚して(あるいは選び取って)いた。芸術家の一員であることを自覚しつつ、芸術家であることが関心の中心を占めるという、一種の自家撞着を起こしている作家である、というふうに。 それが、あるとき見方が変わった。中村光夫が芥川を論じたごく短い文章があるのですが、そのなかに正宗白鳥と芥川のやりとりが紹介されているのです(以下は『中村光夫全集 第五巻』筑摩書房 p.18-21によるものです)。 まず白鳥は、作家生活をスタートさせたその年(大正五年)に芥川が書いた『孤独地獄』と、大正十年に書いた『往生絵巻』を結んで、「芸術としての巧拙は問題外として、私には作者の心境が面白かつた。孤独地獄にくるしめられてゐる人間が、全身の血を湧き立たせて阿弥陀仏を追掛けてゐると思ふと、そこに私の最も親しみを覚える人間が現出するのであつた」と書く。 さらに、「五位の入道の屍骸の口に白蓮華が咲いてゐたといふのは、小説の結末を面白くするための思付きであつて、本当の人生では、阿弥陀仏を追掛けた信仰の人五位の入道の屍骸は、悪臭紛々として鴉の餌食になつてゐたのではあるまいか。古伝説の記者はかく信じてかく書きしるしてゐるのかも知らないが、現代の芸術家芥川氏の衷心からかく信じてかく書いたであらうかと私は疑つてゐた。芸術の上だけの面白づくの遊びではあるまいかと私は思つてゐた。」と「白い蓮華」を本気で信じているのか、信じていないのならなぜ書くのかと問いつめるのです。 芥川はそれに対して手紙を書いて「白蓮華を期待し得られるらしく云つてゐた」という。けれどもその手紙に白鳥はたいそう不満だったらしく、そこからこう断定します 「氏は、あの頃(※この文章を書いた時点は芥川の死後)「孤独地獄」の苦をさほど痛切に感じてゐた人でなかつたと同様に、専心阿弥陀仏を追掛けてゐる人でもなかつたらしい。芥川氏は生れながらに聡明な学者肌の人であつたに違ひない。禅超や五位の入道の心境に対して理解もあり、同情をも寄せてゐるのに関はらず、彼等ほどに一向(ひたむ)きに徹する力は欠いてゐた。」 この白鳥の指摘に対して、中村光夫は 「芥川が、ただ「聡明な学者肌」といふだけの人であつたら、彼はあのやうな死を選ばず、晩年の作品も生まれなかつたでせう。彼自身の言葉をかりれば、「見すぼらしい町々の上に反語や微笑を落しながら」気のきいたまとまりのよい小説をかいて、天寿をまつたうすることができたでせう。  しかし彼の裡には、正宗氏がその文学的出発にあたつて見抜いたやうに、ひとりの「孤独者」がすんでゐたのです。それは芥川自身が、その人生とむかひあふとき、彼の生活を破り、芸術を破壊するはずであり、その時期は思つたより早くきたのです。」 としています。遺稿となった作品群は「彼自身が禅超になり五位の入道にならねばならないとき」が来た芥川が、必死のあがきを見せたものである、と。 さて、まとめに入りましょう(笑)。 山田先生の「実在する地獄を「見た」人にしてはじめて、真実の念仏をとなえることができるのであると思います。」というご指摘に即していうなら、芥川はまさにその「地獄」を「見た」人であったのだろうと思います。そうして、それは「孤独地獄」というものとしてあった。 『孤独地獄』と『往生絵巻』を結んで、その脈絡のなかに『蜘蛛の糸』を置いてみると、おもしろいことに気がつきます。カンダタは、五位の入道のそっくり裏返しなのではないか。だとすると、カンダタがどうしようもなく地獄に墜ちていくように、五位の入道の口には「まつ白な蓮華が開いてゐ」なければならなかったのではないか、と思うのです。 もし芥川がカンダタのなかに、救われない自分、自ら孤独地獄のなかに墜ちていく自分を見たのだとしたら、どうすれば助かったか、という教訓など、蛇足以外の何ものでもなかったはずです。「真実の念仏」を唱える以外にそこから逃れるすべはない。そうして、そこから逃れようとしても、五位の入道ほど専心の思いをこめて唱えることもできない自分に気づいていたのではないか。 以上、長くなりましたが、何らかの参考になれば幸いです。

noname#96295
質問者

お礼

ありがとうございます。お礼が遅くなりまして失礼しました。 山田晶さんのご著書に親しまれているのですね。ご一門でしょうか。『アウグスティヌス講話』のご紹介をありがとうございました。 『蜘蛛の糸』で芥川が「地獄の世界」を描くことに主眼を置いたというご指摘、 『孤独地獄』『往生絵巻』と結んで充実した作家論の骨子となるものだと思います。たいへん面白く拝読しました。 中村光夫が芥川をめぐって、白鳥の言質をとって短文を紡いでいたとは存じませんでした。 ご指摘をいただいて触発されるところがありました。 『蜘蛛の糸』を地獄語りとして考えますと、額縁仕立てが見えてきます。 額縁という前景を眺める作家の視点が感じられます。 極楽絵を彫り出したこの額縁も、五位の入道の口に咲く白睡蓮も、 観念と現前を二重に有しているようで、作品を象徴派めいたものにしています。 それは、白鳥が不満をもらすように浅薄なスタイルであろうはずはなく、 筆一本の観念から花が結び、地獄(煉獄)から念じて繋がれる外側があるということへの 芥川の希求があったのではないかなと思います。 カンダタのいる地獄は、仏を念じない世界ですね。 芥川は、仏がいない、仏を念じても通じない、自己の内に発する地獄を、 禅超を借りて孤独地獄と呼んだのかもしれません。

その他の回答 (26)

回答No.17

前回の回答は、両者の記述を一回読んだ後、読み返さずに思うところをまとめたのですが、よくよく読み返してみると、芥川氏が「わざと」ストーリーを変えたのは、まさに「誰が・何を知り得ないのか?。知り得たならどうなるのか?」というところを深く考えた末の操作だったのでは?という思いを強くしました。 ===以下の引用では、カンダタの字が文字化けでうまく表現されないため「カンダタ」に統一しています。=== ポール・ケーラスの「蜘蛛の糸」から引用 >>> (御釈迦様が大覚の位に昇った時に光明が地獄の底にも至った折に、カンダタが救って欲しいと叫んだ後からの、引用)http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/memb/hayashi/akutagawa.html かくて仏は地獄の中に悩めるカンダタの熱望を聞き給ひ宣ふやう「カンダタよ汝は嘗て仁愛の行をなしたることなきか、之れあらば今また汝に酬い来り汝をして再び起たしむるに至らむ、(中略)一切の我執を脱し、貪瞋痴の三毒を洗ふにあらざれば、永劫解脱の期あるべからず」 カンダタは黙然たりき、(中略)生来嘗て一小善事をも為さずと思惟したればなり、されど如来は知り給はざる所なし、この大賊の一生の行為を見給ふに、(中略)彼は「小虫何の害をもなさず之を踏み殺すも無残なり」と思惟したることありき 仏はカンダタの苦悩を見て慈悲の心に動かされ給ひ、一縷の蜘蛛の糸を垂れ蜘蛛をして云はしめ給ふよう「この糸を便りて昇り来れと」蜘蛛去れるときカンダタは力を尽して糸に縋りて上りたるに、(後略) <<< 芥川龍之介が書き換えた同等の部位の引用 >>> http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html するとその地獄の底に、カンダタと云う男が一人、(中略)御眼に止まりました。カンダタと云う男は、(中略)たった一つ、善い事を致した覚えがございます。(中略)「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗(むやみ)にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。  御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、このカンダタには蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。(中略)側を見ますと、翡翠(ひすい)のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮(しらはす)の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下(おろ)しなさいました。 (中略) この糸に縋(すが)りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。 <<< ケーラス氏の記述の場合、糸が「なぜ」自分の下に降りてきたのか、そうして「なぜ」切れたのかは、カンダタが知り得る立場にいることが示唆されています。 一方、芥川氏の記述の場合、カンダタは上述のことを知り得る状態であったかどうかすら、定かではなく、「なぜ、糸が降りてきたのか」を知り得ない状況に「わざと置かれている」ように思われます。 もっと、端的に言えば、ケーラス氏の「蜘蛛の糸」では、(蜘蛛を含めて)多くの登場人物に「語らせて」います。 しかし、芥川氏の「蜘蛛の糸」では、情景の記述に重点が置かれ、かんだたの最後の叫びを除いて、(蓮の花を含めて)登場人物は、一切「語って」いません。無論、「因果の小車」にて摩訶童多に対し僧が「語った」という段も省かれています。 なお、ケーラス氏の記述では、 >>> http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/memb/hayashi/akutagawa.html 一小善と雖も其裡には新しき善の種子あるが故に、生々として長じて已まず、三界に輪廻する間と雖もわが心を養ふこと限なく、遂に一たびは万悪を除きて涅槃の域に至らしむるものなり <<< と記述されていることから、三界※に輪廻する間(すなわち地獄の中でも)「善」を為すことの重要性(さらには地獄でも我執などからの解脱の重要性)が説かれています。 ※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%8C しかし、芥川氏の記述にはそういったことも出てきていません。 蓮の花がケーラスの記述にはなく、芥川氏の記述にある点については、ghostbuster氏(No.13)にて詳しく記述されていますが、背後に地獄と煉獄といった概念と、輪廻する三界との概念の差を許容する記述になっていることも判ります。 ますます、芥川氏の「蜘蛛の糸」というものが、「サリーとアン課題」を「蜘蛛の糸」にて複雑に織り込んだように思えてきました。

noname#96295
質問者

補足

ケーラスの記述を書き下してくださり、ありがとうございます。 比較すると面白いですね。 もういちどゆっくり読ませていただいてから、お礼は後日に書かせていただきます。お許しください。

  • owlsjp
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回答No.16

 ここは博識な方が多いようですので、逆に訊きたいのですが、仏教に六道輪廻という言葉があり、その中に 天上界 があるのは非常に意味深いことだと思いませんか.  雪や水の結晶は六角形であり、自然界の循環を表しているとすれば、蒸発した水が雨となって落ちるがごとく、その 極楽とやらが 上のほうにあるのだとすれば、 上がれば落ちる という自然の理が顕すように、また落ちるのではないですか.  あるいは 極楽にいる釈迦も、地獄をその瞬間その場所で下のほうに見ているなら、すでに地獄にいると考えられるのでは.  もし著者が何らかの光景を観て 書いたのだとすれば、それは極楽もどき、釈迦もどき だったのでは...

noname#96295
質問者

お礼

ありがとうございます。 六道輪廻についてはご質問をおたてになってみられては。 六芒星(ダビデの星)はまさにそういう天地の水の循環をあらわしていますね。 どこにあっても水は水、ただし天にあるか地の底にあるかで、形がかわります。 人の心もこれと同じように、そのものは同じでありながら、 良きにつけ悪しきにつけ周囲になじむ心は極楽を感じ、周囲になじまない心は地獄を感じると、わたしは教わりました。 極楽や天上界が落ちるというのは斬新なお考えと思います。 仏教ではこれらを場所とも実体ともとらえないように思いますので、 これらの実質そのものを相対的と考えることも、上がったり落ちたりすると考えることもないと思いますが、 たぶんおっしゃろうとしていることは、どこも極楽であり地獄であることを言わんとしているのかなと思いました。

回答No.15

No.6,No.12で回答したものですが、この話題を考えるに辺り、「サリーとアン課題」(心の理論、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96)の状況に基づき、さらに深く見る必要がありますよね。(といっても、皆様は既にそうされているでしょうけれど。。。) 以下、芥川氏が考えたであろう内容を勝手に想像してみました。。。 少なくともカンダタは、「彼の行為によって糸が切れた」ことに気がつかないままいる可能性が非常に高い。 カンダタのみならず、一緒に落ちた者達も、「彼の行為によって糸が切れた」ことに気がつかないままいる可能性が非常に高い。 カンダタが「後から昇ってきた者達が原因で糸が切れた」と思うならば、そのことはさらなる罪に繋がりかねない。 もし、そう思い続けてしまったならば、彼はさらなる地獄の苦しみを味あわねばならない。 「彼の行為によって糸が切れた」ことを、いったい「誰が」おしえるのか? 「後から登って落ちた者」は、どのように考え、どのように感じるのだろうか? No.12では、私は、彼らが「理由を知ったとき」の可能性を書いたが、そのような視点は、御釈迦様から伝達されなければ判らないはず。ところが、「この話を知った」人たちが地獄に赴いた後、皆が知ることになり、同様の事柄が生じていた、ないし生じたならば、疑心暗鬼が生まれることになる。 もし、「誰も」教えなければ、御釈迦様の行為は、その後のカンダタに対する一連の「罪」を引き起こす「悪行」になりはしないか? もし、「皆が」知ることになれば、「カンダタが叫ばなければ」として皆はカンダタを攻めること(罪)を引き起こす「悪行」になりはしなか? ポール・ケーラスは、いわば「カンダタと御釈迦様と蓮の花と蜘蛛とを含む世界」の外側からの視点で、すなわち「サリーとアン課題」を出題する側の視点で書いている。 しかし、それぞれの視点でしか問題を把握し得ない者達(この物語中の御釈迦様をも含む)の視点から、問題を見直してみると、様々な可能性が含意されたまま、それぞれの視点からの複数の因果関係の糸が縺れ合っているようにすら見えてしまう。 本当にカンダタが叫んだ「から」糸が切れたのか? 御釈迦様に「意図的行為」をさせた途端に始まった不思議な世界。。。 いったい誰が「御釈迦様に意図的行為」をおこさせたのか??? 蓮の花の立ち位置こそが、本来の御釈迦様の視点に思えるのは、そういった理由からです。。。

noname#96295
質問者

補足

このあとにもいただいているk_jinenさんのご回答をまとめて読ませていただこうと思います。なかなか時間がとれませんで、お一人の思考を辿って併走しながら対話をこころみることが困難です。後日あらためまして。

noname#91067
noname#91067
回答No.14

#7です。 >ふつう権利と義務は、一者の上に負わされる表裏一体の要素ではありませんでしたか。 カンダタの権利と釈迦の義務、と分けてはずるいです。 「権利や義務は形式的な存在でしかないこと」カンダタ一者に負わされ る要素ではない(という私の認識の)ことを説明すると、権利は何者か によって保証されなくては意味がない。保証とは権利を実行出来る状況 を付与することで、行使出来ないような権利を幾ら与えたところでありがたいものでない。 例えば「透明人間になる権利を与える」「空を自由に飛ぶ権利を与える」 「神でも亀でも変身できる権利を与える」など誰かが成果を保証してく れる魔術を教えてくれたり、特異体質(?)などで自然に出来る場合な ら別で、執行の義務も生じようものですが、自分から実行出来ない権利 が幾ら与えられたところで自由には思えませんよね。 保証しているのは神仏や自然が現象させてくれるものではなく、人間が こしらえたあたかも存在しているかのように振舞って従っている形式だ けのことで、人間の要素に権利と義務が存在してもその価値を認める人 間が居なければ権利や義務だけが人間に先立って存在して人間に負ぶさ っているのではないからです。 この世で保証者、責任者、支援者とするのは、人間以外にいないこと。 そして人間は悪意の限りに限界はなくても、善意には限界があってしまう。 >「我万法を証するにあらず。万法来りて我を証す」という感じでもあり ますので (道元)何か取り除こうと競争してじたじたするより、降りか かること起ることすべてありのままに受け入れられるところに迷妄晴れ て突破口があるかもしれないのも人間の世でございましょう。 優しさに限界が来て(糸が切れても)運命の戯れか、本質を告げる教 示なのかと悩むことあります。悩みは悩むことで解決しませんね。悩み なんて大きすぎるブレスレットで(?)(宇多田ヒカル/リスク)通過 点で突破してこそ。道元がいうようになんでしょうね。

noname#96295
質問者

お礼

ありがとうございます。 まあ地獄も極楽も人間が集まることになっていますから、 形式が出現する可能性もなきにしもあらずですが。。。 この世の話に戻しますと、 相互扶助や他者への奉仕が、自己と神仏の結ぶ関係から生じるという、一筋縄ではいかない点が 仏教にもキリスト教にもあって、 その自己と神仏の関係というところに焦点をあてると、 義務も権利もない、つまり形式の問題ではないですよね。 しかもひたすらに自分の問題として処するのであって、他者の問題というのが一切ない。 これは道元的な世界にも通じるように思うのです。

回答No.12

No.6です >>> カンダタは、糸が切れないこと、全員が上にあがれることを想定しなかったのですが、 いただいた「視点の推移」でお釈迦様側からみると、 >「一度に多くの衆生を救う・救わない」という二者択一 < であった。ということでわたしはご回答を正しく読めていますでしょうか。 <<< そうですね。 糸を垂れたとき、カンダタ一人だけを救おうと思っておられたのなら、カンダタが捕まった途端に引き上げても良かったわけです。ただし「ゆっくり」と。。。カンダタにとって永遠とも思える時間をかけて引き上げ、カンダタの心境に応じて、引き上げる速度を上げたり、逆に下ろしたり、あるいは切ったりするのもいいでしょう。。。 そういった「カンダタの小さな善行に対してのみへの関与」をせずに、単に「糸を垂らして放置」といった行為を選択した以上、カンダタを含めて「多くの衆生」の考え方如何では、全員を救い出してしまうかも知れない選択肢なわけです。 おそらく、多くの衆生が昇りはじめた途端、「おら、お前らは昇るな」とばかりに蹴り落とそうとする輩も混じっていることでしょう。その途端、その人の直前で「糸は切れる」わけですから、多くの衆生が昇ってきているという事実は、そういったことを彼らが学習し、「相互に助け合って」いることを暗黙裏に物語っているわけです。 (たとえもし、そのような「想いによって自動的に切断される仕組み」になっていなかったとしても、)カンダタのところで切れて落ちたという事実は、途中まで無事に昇ってきた多くの衆生にとって、不満やるかたない状況を作ってしまうかもしれません。であれば、彼は「多くの衆生」達に対し、結果的に悪行を為してしまうわけですが、「多くの衆生」達が、その不満をカンダタにぶつけるならば、「多くの衆生」達の「他者を助ける」という善行は消し飛んでしまうかもしれません。。。 地獄が反省の場であり、来世にとっての相互扶助という小さな善行を芽生えさうる場であるならという前提条件を含んでいますが、「落ちること」も「落ちた後」も放置するということの背景を考えるにあたり、そういった状況も考えられるのでは?と思った次第です。。。 >>> > 小さな蜘蛛を救ったという小さな善行の積み重ねこそが求められていたとすれば、「一度に多くの衆生を救う・救わない」という二者択一を迫られたカンダタが「結果的に救われなかった」こと自体、大して影響がなかったかも知れません。< <<< とは、そういったことを暗に含んでおり、生前の小さな善行が「多くの衆生を救うという」大きな善行に繋がりかねない状況で、糸が切れたとき、彼は「大きな悪行」をおこなったのか?という疑問があったのですが、御釈迦様の判断とのからみと、「その後」を考えるなら、やはり「生前の小さな善行」が消えたという「小さな悪行」のみになるのだろうと思ったからです。 >>> 影響がないというのは、一匹の小さな蜘蛛を救ったことがですよね? すると、そもそも多くの小さな命を助けたわけでもなし、衆生を救うことができないとて当然ではありますが、、、 因果応報としては、かつて蜘蛛を救った善行は、蜘蛛の糸を極楽から降ろしてやるという結果ですっかり消化しているのではないかと。 あとはカンダタの自力の問題で、糸がぷつりと切れた結果には、先の善行は及んでいないのではないかと思われます。 <<< もしそうであるなら、昇ってきている他の衆生達において、生前に蜘蛛の命を救ったものがいなかったなら、カンダタの直前で糸が切れなかった場合、直後で切れることは決まっていたことになります。 であれば、落ちた彼らが、因果応報について正しい認識を持ち得た後、「助かったかも知れないのに、糸が切れるという因果を作ったのは『誰だ』」と考えるかも知れません。そのことが後々の彼らの状況に影響を与えるとすれば、御釈迦様の行った行為(糸を垂らす以外は無作為)という行為には、果たして「悪行」は全く含まれていないのであろうか? 。。。いろいろと考えてしまいます(笑)。。。 芥川氏も、そういったことをあれこれ想像して楽しんでいたのかも知れませんね。。。

noname#96295
質問者

お礼

ありがとうございます。 後にもまたご回答をいただいておりますが、とりあえずこちらから。 うーん。考えさせられますね。 はたして「多くの衆生を救う」という「大きな善行」が期待されたのか。 もしくは、善意と優しさがあったなら、こういうことも考えられたのではないでしょうか。 「自分がここから出たい以上は、みんなもここから出たいだろう。自分が昇ればみんなも昇りだすだろう。  こんな細い糸で自分一人さえどうにかなるとも思えないが、うまくいっても自分一人が限界だ。  しかし自分だけ抜け出すわけにはいかない」 積極的な善行ではありませんが、地獄にいるのが自分の報いだと自覚していれば、 垂れてきた糸を見て、奇跡を思うとか、仏心を思うとかそれだけ。あさましく掴まらない。笑 お釈迦さまは、掴まれ、と思って糸を垂らしたとは限らない気がしてきました。 お前の善行は忘れていませんよ、と、役に立たないんですが、そういうしるしだったのかもしれないではないですか? (わたしは無信仰です)

noname#96295
質問者

補足

> もしそうであるなら、昇ってきている他の衆生達において、生前に蜘蛛の命を救ったものがいなかったなら、カンダタの直前で糸が切れなかった場合、直後で切れることは決まっていたことになります。< これは言えませんでしょう。芥川の物語で、 糸が垂らされること、糸が強靭であること、これらはカンダタの善行により生起し、 糸が切断されることは、カンダタの「俺のものだ」の叫びにより生起したのですから、 いったん垂らされた糸が切断される契機は、「俺のものだ」と叫ぶことが条件であるとしかわかりません。

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回答No.11

本質を無視した理想論をいっくら言っても、意味が無いと思うんですね。 例えば人間努力すればアメンボウのように水面をスイスイ歩行できるようには な り ま せ ん。 努力すれば人間はピカチューや鳥のように自由に空を飛べるようには  な り ま せ ん。 で、自然淘汰ってものがある。 キリンは体を進化させることに成功したので、地面が枯れていて、他の動物が食料を求めてかけずり回っているさなか、高い木の上のハッパを食べ生き延びることができた、とは私思っていません。 たまたま長い首を持つ動物だったので、地面の草も高い木の葉っぱも食べれた。 だと思うんですね。 自然淘汰の理論。 昆虫で大きな手を持つ種が、そうではない種より繁殖する。 なぜかというと大きな手を持った種の方が食料をかき集め一回で大量に巣まで運べるから。 で、人間の場合、他の動物に比べて軟弱。 従って集団で暮らす動物。 お互いが助け合うことで、自分も助けられる確立が増すので、子供の頃から、「他の人にもお菓子を分けてあげなさい」って教えられるわけです。 これは通常食料が豊富にある場合、気兼ねなく分け与えるが、戦争などが起こって生きるか死ぬかの時、自己犠牲を払って自分と自分の子供ではなく、見ず知らずの人に食料を分け与えたら、自分と自分の子供が食べる分が減るわけです。 そんな気のいい種は、当然繁殖しない。 人んちの畑に入り食料をまんまと確保できた種が生き残る。 あらゆる智恵を使って、食料を確保する種が生き残る。 で、戦争とか災害が起こると、日ごろの体裁が見事にはがれる人が続出する。 バーゲンセールなど、「ああ 浅ましい・・・」と思う私は、いつも収穫ゼロなので、災害にあったとき絶対に一番に死ぬと思う。 人を押しのけてでも「芋ようかん一パック売って」って言えない。 いや ほんと ズケズケ言うように見えると思うが、競争が嫌いなので、言えずにちゃんと並んで、直前で「はい終了」ってなり、「あの女が途中で割り込んで大量に買わなければ~ 」と恨みつつ、自分の意地汚さが無いのをうらみつつ、空腹のまま家にかえるたち。 絶対戦争になったら、買出し頼まれても一つも食料げっどできず、「この役立たず」といわれそう。 で、結局 そういう追い込まれた状況の時、どれだけがっつり食料や必要なものをつかめる能力があるかが生存の鍵だと思うんですね。 世の中は能力において差がある。 だから貧富の差もあるわけです。 で、仁義とかいうのは非常事態には働かない。 だけど、裕福な人々がいる社会だと、「おすそ分け」とか頻繁に起こるわけです。 時々金持ちの人がチャリティーパーティーを開く。 パーティー券1枚10万円を下限として、それ以上払えばいいそうです。 そして、オークションでどう見てもトイレとしか思えないものを1000万とかで落札するわけです。 いや 実際テレビで落札した老女がいて、インタビューの人が「本当に1000万出して欲しいんですか?」って聞いたら、その老女「はい」とキョトンとしていた。 このクラスになると、まず服を買うときに値札を見ない。 それが50万だろうと100万だろうとはした金なので。 そのような人々が慈善事業に出て、便器を1000万で落札して「すばらしい 1000万のうちの何割が今回のチャリティーで恵まれない人々に寄付されます。彼女に拍手を」ってなるわけです。 このようなクラスの人々は、労働の必用が無い。 だって利子と貸している土地代の収入で十分暮らしていけるから。 物に執着が無いので、バッグを取られても気にならない。 また買えばいいし、一回しかそのバッグ使用しないので、別に盗まれてもいいわけです。 従ってカンダタのように、人から奪ったもので生き延びるなんて人生とは無縁なんです。 年間慈善事業に費やす金は相当ですので、利己主義とは言われない。 じゃんじゃん 金ばらまくので。 寄付するたびに、尊敬を集め、名誉が高くなるわけです。 こんな盗まれても痛くも痒くもない人種と、家なし親なし生きるためにはなりふりかまってなどいられない ってのが災害に遭った場合、当然なりふりかまわない種が生き残る。 ただしこういうことも考えられる。 あまりのも頼りない大金持ちがいて、世話焼いてやらないと死んじゃうってがさつだが同時におせっかいな人が近くにいた場合、おせっかいで生存本能の高い人が、頼りない金持ちを見ていられなくて、「おら 盗ってきたから食え」って与える。 こうなると手を汚さすに生存を果たせるわけです。 ふと思ったのですが、あくまで作者のこの作品の狙いは、「自分だけじゃなくて皆も連れて天国に行きましょう」ってキリスト教の思想が強いですよね。 パウロの洗礼名をもらってくることからも、この元の作者はキリスト教徒だと思う。 金持ちとラザロにカルマ的な要素があるが、ユダヤ教ってかなりインド方面の宗教の影響を受けている。 例えばイエスの出生の時に3賢者がやってきたとか、ナザレ人ってのはインド方面の宗教が元。 当然カルマの思想も新約聖書に入ることになるわけです。 で、インドってカースト制度がある。 他の方面から来た民族が、もともと住んでいた民族を、カーストの最下位にした。 本来なら侵略した側を、元からいた側が排除するはずですが、現世で主人に逆らうと来世もっとひどい人生になるって強迫観念を飢えるけることに成功したため、いつまでもカーストの上位の人は極楽で、カーストの下位の人は貧しいわけです。 カーストの上位の人は、カーストで最下位の人に情けをかけない。 当然の報いであると身にしみさせるために、情けをかけないのだそうです。 釈迦ってのは釈迦族の出身だから釈迦ってされたんだと思います。 カーストの上層の人 おぼちゃま 王子さま、値札を見ずに服を変えるクラスの人だったわけで、カースト制度に反対する余裕があった。 物質的に豊かな人は精神面も豊かになりたいと贅沢な悩みを抱えるものです。 お坊ちゃまは極楽にいながら、地獄に堕ちたカンダタを眺めた。 「おぼちゃま 上界から眺めているだけじゃ地獄がどんなものかわからないので、一度行ってみましょう」ドン! って誰も釈迦の背中押して突き落とさないんだから もぉ。 不親切ですよねぇ。 そこで蜘蛛さんが、釈迦が行かないのなら俺が行ってやる なんたってカンダタには恩義があるからね~ ってするするって降りていった。 「かーーんーーだーーーたーーー 覚えてる?」「おお あのときの蜘蛛ちゃん」「そそ、君に助けられたから、今度は僕が君を助けるよ 捕まって ひっぱりあげるよ」「おおサンキュー」 ってことで、カンダタの蜘蛛に対するカルマが発動し、カンダタは蜘蛛を助けた報いを受けるはずだった。 ところが、「おや カンダタ お前1人で助かるつもりは そうはさせんぞ 俺もいく」って蜘蛛に対するカルマが無い人まで捕まり出した。 「無理 カルマがある人は重力ゼロになるけど、僕に対するカルマが無い人は重すぎて糸きれちゃうから降りて~」 カンダタも「だってさ 俺は蜘蛛に対するカルマがあるから蜘蛛の負担にならないけど、お前らだと重すぎる、俺限定で均衡が取れるのだから、今回は俺だけだ。ま ここはひでえとわかっているから、上に登ったら救済方法を考えてやるから待ってろ」と言ったのに、頭が悪すぎて理解できない人が目白押し。 「お前ら今説明したこと聞いとらんのかぁ~ おりろーー さもないとお前らをたすけられん。蜘蛛さんの糸が、、、あ、、、」 ぷっちん・・・・ ざっぶーーん 「だぁぁぁぁ お前らのばっかーーー お前らが報いを受けるのは勝手だが俺までまき沿い食わせたら、救済もできんじゃないか」 「蜘蛛さん もう一回頼む」 「カンダタごめん、 全部の蜘蛛の糸使い果たしてしまった。もう僕は蜘蛛の巣を張って食料をとることはできない。でもいいのさ 君を救おうとしたことで、満足して餓死できる」 「うわーーー 蜘蛛さん ごめんよぉ うおーーーん 俺なんかのために お前だけだよ 省みずこうやってここまで降りてきて助けようとしてくれたのは その気持ちだけで十分さ」 その会話を聞いていた釈迦。 「さてとぉ みなかったことにしよっと」 結構 赤頭巾ちゃんとか白雪姫の原作ってすっげー残酷らしい。 だけど それだと子供に聞かせられないから、優良とされる内容に変更されたんですって。 原作の方が現実に即しておりリアル。 改変されたものは現実に即していないのであくまで妄想内容で、子供に妄想 違った夢を与え、正義は絶対に勝つって嘘を教えることになる。 その大人のついた嘘を見破るのに結構年月かかるんですよね。

noname#96295
質問者

お礼

やっと読みました。ありがとうございます。  おお あのときの蜘蛛ちゃん が妙に頭に焼きついてしまいましたが なんでしたっけ、戦中戦後の買出しはkigurumiさんに頼まないほうがよろしいんですね。了解です。 直感ですが、カンダタは、闇市で小賢しく食物調達したり換金したりするのは不得意だと思います。 せいぜい強盗するしか能がなく、混乱の世では警察機構がいっそう張り切りますし、世間の互いの目も厳しくなりますから、 早々に処刑される手合いと思います。 それにしてもジャン・バルジャンといい、貧しさと無教育という問題はカルマの喩えにもってこいですね。 ハックルベリー・フィンはお金持ちの養子縁組から逃げるんでしたっけ? 忘れましたけど。 しかし、傲慢さという点から人間存在に関与するのがお釈迦様なんじゃないでしょうか。 裕福と貧困とにかかわらず、傲慢な者と傲慢でない者がいます。 傲慢な者は、改心が難しく、自覚にもいたらず、他者を傲慢呼ばわりしてとかく騒ぎを起こし、世に憚り、困りものです。 たぶんお釈迦様の観点からいくと、人が生き残れるかどうか、生存とか生殖ということに意味や価値はなくて、 傲慢な者が長生きしようが解脱なんかさせてやらないみたいなところがあるんじゃないでしょうか。(わたしは無信仰です) http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Carus ケーラスはプロテスタント家庭に育って、信仰を離れ、神を愛する無神論者を自認するようですよ。 改変されて流布している赤頭巾や白雪姫やシンデレラ、子ども心に面白かったですか? わたしは、絵が綺麗なので好きといったレベルで、お話に惹きつけられるところはなかったように思うのです。 それにしても、現代の無菌教育が滲みた後では、味わうべきものを味わえないところもあるわけで、 あれらの説話の原典のスプラッタシーンもそうですし、ティル・オイレンシュピーゲルみたいな糞尿譚もそう、 昔の人の無垢な興奮や笑いだったんだろうな、と思います。

  • taco8ch
  • ベストアンサー率7% (11/146)
回答No.10

結び部分の教訓の削除の理由は……分かりませんw しかし、もし芥川の「蜘蛛の糸」が教訓で結ばれたら、 なんとなく作品が饒舌に過ぎてしまうような気もする。 そも近代小説に「めでたしめでたし」の一句は必要なのかしら。 にしてもだよ。このお釈迦様は、実に、お釈迦様らしくないではないか。 強盗・殺人・放火の凶悪犯罪と、気まぐれで蜘蛛っかす一匹を逃がした程度じゃ、 善悪の天秤に載せたとしてもイカサマでもしないかぎり釣り合い取れないぞ? 「(蜘蛛を逃がした)報に」は芥川の場合、救済の方便ちゃうんか。 このお釈迦様に因果応報の要素はあまり見えてこないという、 率直な無駄話でした。この先の回答を楽しみにします。

noname#96295
質問者

お礼

ありがとうございます。 まあ、教訓を削除しただけではなく説法を始める導入も省いて、 そのかわり頭と尻尾のお釈迦さまの様子を創作しているのですが、 まとめた形は芥川龍之介らしく端正ですね。 釣り合いについては、お釈迦さまの考えはこういうことらしいです。 ケーラスの作品のリンクです。 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=41016165&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 「一小善といえどもその裡々は 新しき善の種子あるが故に(以下略)」 マイクロフィルムの画像取り込みの悪さもさりながら、わたしには難しくて読めないです。

回答No.9

 ご質問のご文から、回答の意図ではなく、自分の教えの修行のこと、そういう次元からの思い付きを投稿します。  結び部分の教訓を省くことにより、疑問と想像の余地、そして余韻という効果が創られました。  それにまた、もしそれを省かなければ、精進の人や精進に気の向かう人しか呼び止められませんでしょうね。  精進者は文学者や文学の読者とは違い、どうしても心的には狭隘な面を否定できないかもしれませんね。  そういう精進のものから見ますと、ここの釈尊(私自身は仏道の精進者ではありませんので)も、そしてカンダタも一人の意識のありようとして受け取ることもあります。  カンダタ意識を放遂していこうとする修行方法でもあります。  そして更に、修行の指導者としての釈尊は、一度なりとも蜘蛛の細い糸を上ろうとした人を、置いていくことはありえないし、切れる前、切れた後のことも対処するのが、修行の道だと存じます。  また、天国や極楽というのを私たちは思いませんが、そういうところや地獄や地上界の話で捉えることを不十分な状況とおもっています。  そんなのがあろうと、どこであろうと、それはどうでもいいのだという事なんです。  極楽の蓮池がどうの、という釈尊のこの話は、充分に存じ上げない部外者から見ると、結論的には意味のないことであります。  そして次には第三、いろんな世界ということですが。  私もヒンドゥの修行精進を拙く歩いております。  自分が歩いているつもりはありませんが。(主格体として歩いていないという意味です。進歩のことではありません。またそれに、他力という意味でもありません。他力・自力の区別は無意味なカテゴリと存じますし。)  そういう歩くものとしては蓮池もあろうし、その底もあろうし、それが神と人の意識、織り成す世界だと存じております。  それはなくなるものでもないし、どこにいても同じであるという事です。  必死によじ登るものでもないけれど、登らないでいいものでもない。  あってもいいものでもなく、なくならなければいけないものでもない。  すべて、どこでも。という事になると存じます。

noname#96295
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり子ども向けの物語は、厳密な精進ではうまくまいりませんね。 せいぜい、日中に見る小さな蜘蛛などを無闇に殺さないという程度のことを、たったひとつずつ、 強制の柵の設けられていない世界から学ぶのが子どもなのでしょう。 精進者は、のらりくらりとした表現を介さずに、地道を歩く人であるのでしょう。 心が軽く穏やかであることがいちばんと思います。 すると難しさというものが現象として寄ってきませんから。 つまり、型や知識でなく、心のしつけを身に付けているという事態ですが、 親にも祖先にも伴侶にも友人にも負うていることがらで、 そういうものによく恵まれ、なお指導に能う人の存在が必要なのでしょうね。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.8

 どうしてあなたはamaguappaなのか知りませんが、だからかどうか、表現的にあの糸は『河童』に出てくる糸と同じだろうと僕は思います。引用してみますと、  ――「ではあなたはほかの河童のように格別生きていることに執着を持ってはいないのですね?」年をとった河童は僕の顔を見ながら、静かにこう返事をしました。「わたしもほかの河童のようにこの国へ生まれてくるかどうか、一応父親に尋ねられてから母親の胎内を離れたのだよ。」 「しかし僕はふとした拍子に、この国へ転げ落ちてしまったのです。どうか僕にこの国から出ていかれる路を教えてください。」「出ていかれる路は一つしかない。」「というのは?」「それはお前さんのここへ来た路だ。」  僕はこの答えを聞いた時になぜか身の毛がよだちました。 「その路があいにく見つからないのです。」  年をとった河童は水々しい目にじっと僕の顔を見つめました。それからやっと体を起こし、部屋の隅へ歩み寄ると、天井からそこに下がっていた一本の綱を引きました。すると今まで気のつかなかった天窓が一つ開きました。そのまた円い天窓の外には松や檜が枝を張った向こうに大空が青あおと晴れ渡っています。いや、大きい鏃に似た槍ヶ岳の峯もそびえています。僕は飛行機を見た子どものように実際飛び上がって喜びました。 「さあ、あすこから出ていくがいい。」  年をとった河童はこう言いながら、さっきの綱を指さしました。今まで僕の綱と思っていたのは実は綱梯子にできていたのです。 「ではあすこから出さしてもらいます。」 「ただわたしは前もって言うがね。出ていって後悔しないように。」 「大丈夫です。僕は後悔などはしません。」  僕はこう返事をするが早いか、もう綱梯子をよじ登っていました。年をとった河童の頭の皿をはるか下にながめながら。(『河童』第十六)  後に芥川もまた、この糸をたどるようにして、この世から退場しましたよね。ずっとむかしに初めてこの作品を読んだときは、どうも健全とは言えない末路だなと思いましたが、彼はまじめな男だったし、よく考えてみれば、妥当な生き方だったようにも思いました。まじめな男だから、嘘をつくわけにはいかない。教訓というか評論というか――ケーラスの余分な嘘は、あの男の性格からして、決して書くわけにはいかないものだっただろうと思います。  生前は生活と芸術は無関係だと公言していた人物ですが、その末路を見ると、どうも口ほどには無関係でも無かったのだなという気がします。師匠の夏目漱石があまりに現実世界から外れた人間だったからかもしれないですが、同期の鈴木三重吉さんにせよ、弟子たちの思想は必要以上に現実世界の本質に寄り過ぎたのではないでしょうか。だから、『蜘蛛の糸』の題材として釈迦や極楽が語られても、そこに宗教観が述べられているとはあまり思いません。  現実世界は、薄ぼんやりとしたよく見通せない世界なのです。    ちょっと『蜘蛛の糸』からは外れてしまいますが、作家の描く垂直に伸びる糸や、槍ヶ岳の峯、河童のお皿とでも呼ぶべき円い天窓のイメージは、個人的にとても納得のいくものです。  剣と皿、そして一本の糸。長年取り憑かれてきたこのイメージは他人事ではなく、どうしてこうも自分を束縛するのかわかりませんが、あるいは何か理由があるのかもしれない。でも、こういうイメージを分析できる能力は、amaguappaさんのほうがあるでしょう? きっと、有料なんでしょうけれど。  

noname#96295
質問者

お礼

ありがとうございます。 オンフルールのレストラン、雰囲気と料理と主人からして違う店だと思います。 わたしの入った店のあるじは明るい女性でした。 > どうしてあなたはamaguappaなのか 雨風をよけられない人々が濡れないようにと願ったからです。また雨風を知らない人々は脱いで濡れるように。 『河童』は初めて読みました。引用ありがとうございます。 そうですね。。。綱は、蜘蛛の糸にくらべるとイメージには乏しい素材ですね。 蜘蛛は天蓋を張り巡らせる宇宙の創造主ですから、道具としての存在ではなく思索的な存在と思います。 > ケーラスの余分な嘘は、あの男の性格からして、決して書くわけにはいかないものだっただろうと思います。 激しいお言葉を頂戴しました。 芥川は、おっしゃるように現実の渦のなかに居付いた人なのでしょう。 説話を、描き割りのようには語れない次元で、語ることになるのでしょうね。 摂理のはっきりした説話の世界と(アラビア、インド、中国)、真理を深遠なものと感じる心は馴染まないようにも思われます。 > 有料 うーんなんでかな。過去履歴のいずれも分析しますなど言っておりませんでしょう。 わたしは分析家でも分析医でも批評家でもないですよ。 精神病は、一方で「遺伝から」、もう一方で「心身の経験から」ないし「薬物等の化学的な作用で」脳に瑕がつく出来事 と、わたしは見做しています。そのため、習慣的な経験のレベルに達しえない分析療法についてはあまり有用とは考えていません。 わたしがあなたのイメージをどう考えるかについて。 絶対的なものとの接触不可能 -- HOLE これだけです。手許のメモには、複数の円い環が、 手前から奥へと連続する点線で、お団子状に貫かれています。 ひとつの環の面が具体的なものだと思います。それらの間を移動することにより、いずれもその面で具体的な限界を定着するシステムです。 隣接する環は絶対的ではなく、システムが絶対的です。 可触な領域として繋がれ貫かれているにもかかわらず、具体的に受容すると同時に絶対的に不可触であることになるような隣接です。 異質で近似する複数の限界のあいだで、要素が同化して同質になるシステムをご存じなら教えてください。 わかりづらければそのまま放ってください。

noname#91067
noname#91067
回答No.7

極楽界(?)は高度な自由(不労所得)世界。 それに対して現世の人間界は不幸も喜びも入れ替わり立ち代り訪れる競争社会。 地獄界(?)は安らぐことのない不自由(無償労働)社会。 ということをあらわしているとします。 人間界より高い低い世界がある、というのは人間からそう見える、 人間だけが持つ概念であると思うのですが、あったとして、 極楽と地獄に於いて個人としての生き方は全て世界に帰属され、 権利や義務という形式的な存在がない。 人間界でないところで、権利を独占しようとすると(自分さえ良ければ) の前では卑しい心も同情というのもないので 、義務も生じないということだと思います。 つまり神仏など気まぐれで絶対者としか言いようがなくなるのですね。 不幸因子を可能な限り取り除こうと競争するのが人間の本質ですね。

noname#96295
質問者

お礼

ありがとうございます。 二段落目までふむふむと読みました。世界に帰属され、まで、とてもよくわかります。 権利と義務 で立ち止まりました。 新しい切り口だと思います。そして、そのじつ、個人はない、という話であり、 没我や滅私という仏教らしい壺にはまりそうな、いや、はみでそうな。 ふつう権利と義務は、一者の上に負わされる表裏一体の要素ではありませんでしたか。 カンダタの権利と釈迦の義務、と分けてはずるいです。 人間界は入れ替わり立ち替わりのある競争社会だから、だれしも成長し幸福になるチャンスが得られるということですね。 それもそうですし、まぁでも、 「自己を運びて万法を修証するを迷とす。 万法すすみて自己を修証するは悟りなり」 もう少し易しい訳のこちらのほうが好きですが 「我万法を証するにあらず。万法来りて我を証す」 という感じでもありますので (道元) 何か取り除こうと競争してじたじたするより、降りかかること起ることすべて ありのままに受け入れられるところに迷妄晴れて突破口があるかもしれないのも人間の世でございましょう。

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