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「蜘蛛の糸」

ghostbusterの回答

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回答No.13

先日、山田晶先生の『アウグスティヌス講話』(新地書房)を再読する機会があり、以前は気にもとめなかった箇所がひどく気になりました。それが芥川の『蜘蛛の糸』で、以来、とつおいつ考えていました。ご質問を拝見して、質問者さんが求めておられる回答となるかどうか不明ですが、奇縁ということで。 『アウグスティヌス講話』を質問者さんはお読みになっておられるかもしれませんが、一応ここで話の筋道をご紹介しておきます。 山田先生が言及しておられるのは「煉獄と地獄」という章です。 聖書にははっきりと述べられていない「煉獄」という場所が果たしてあるのか。あるとすればどのようなところなのか。それは地獄とはどうちがうのか。地獄へ堕ちるというのは、いったいどのような罪がそれにあたるのか。そこからキリスト教における罪と罰、というふうに話は展開していくのですが、ここでは簡単に、煉獄に行った魂は、非常に苦しんでいるけれども、それは絶望的な苦しみではなく、浄化の苦しみである、あるいはまた煉獄に行った魂に対して、われわれは祈ることができる、それに対して地獄とは、全くの絶望であり、地獄に堕ちた魂にたいしては、われわれの祈りも届かない、と、非常に荒っぽくではありますが、まとめておきます。 やがて仏教に話は進んでいきます。 仏教においては、キリスト教におけるように、煉獄と地獄の区別がない。それでも、地獄についての記述のうちに、煉獄の思想と地獄の思想が混在している、と指摘されます。 「 仏は摂取不捨といわれますが、それには、「もし仏を念ずるならば」という条件がつきます。仏を念ずるならば、いかなる極重悪人も仏の功徳によって救われないことはありません。その条件なしに、何もかも救うというのであれば、念仏しなくても救われることになり、念仏の意味もなくなります。のみならず、救いも意味がなくなり、地獄も極楽も無意味となります。これらのことがらが切実な意味を持つためには、地獄は実在しなければなりません。また、その実在する地獄を「見た」人にしてはじめて、真実の念仏をとなえることができるのであると思います。そして地獄が実在するということは、仏さまにもどうすることのできない魂が実在するということです。これは恐ろしいことですが、真実です。この真実をみつめないと、センチメンタルな仏教観になります。」(p.80) その上で、芥川はこの真実をみつめた文学者であった、として、『蜘蛛の糸』が出てくるのです。もう少し引用を続けます。 「この話(※『蜘蛛の糸』)は、仏の慈悲はいかなるものであり、地獄とはいかなる場所であり、そこに墜ちるのはいかなる種類の人間であるかを、端的に表現しています。  この男は、仏さまによって地獄へおとされたのではなくて、自分で墜ちていったのです。…煉獄と区別された地獄の世界を、仏教の中に明確に読み取ることのできた芥川は、素晴らしい作家であったと思います。」(p.81) 芥川が「地獄の世界」を描くことに主眼を置いたとすれば、カンダタがどうしていれば救われたか、カンダタがどこで誤ったかについて述べられた、教訓にあたる箇所を削除した理由も非常に納得ができるかと思います。 わたし自身は、芥川というと、ご質問の『蜘蛛の糸』や『芋粥』あるいは『トロッコ』や『白』、『魔術』や『アグニの神』などを通じて、かなり幼い時期にめぐり合った文学者のひとりでした。当時親密な関係を結んだ作家たちの多くは、成長する過程で別れていきましたが、芥川とは「つかず離れず」といった体で、折に触れては繰りかえし読んできました(なにしろ短いですからね。『夜明け前』だとそんな具合にはいきません)。 かといってすきだとか心酔しているとかいうのともちがう。かなり長い間、芸術家生活について饒舌に語る「芸術家作家」という印象を持っていたのです。ざっと思いつくだけでも、『地獄変』や『戯作三昧』『不思議な島』『枯野抄』『河童』などが即座に浮かんできます。しかも、「ジアン・クリストフの中に、クリストフと同じやうにベエトオフエンがわかると思つてゐる俗物を書いた一節がある。わかると云ふ事は世間が考へる程、無造作に出来る事ではない。」(『雑筆』)という一節などにも典型的に見られるように、「世間」と「芸術家」を対比させ、、自分はまぎれもなく芸術家の側にあると自覚して(あるいは選び取って)いた。芸術家の一員であることを自覚しつつ、芸術家であることが関心の中心を占めるという、一種の自家撞着を起こしている作家である、というふうに。 それが、あるとき見方が変わった。中村光夫が芥川を論じたごく短い文章があるのですが、そのなかに正宗白鳥と芥川のやりとりが紹介されているのです(以下は『中村光夫全集 第五巻』筑摩書房 p.18-21によるものです)。 まず白鳥は、作家生活をスタートさせたその年(大正五年)に芥川が書いた『孤独地獄』と、大正十年に書いた『往生絵巻』を結んで、「芸術としての巧拙は問題外として、私には作者の心境が面白かつた。孤独地獄にくるしめられてゐる人間が、全身の血を湧き立たせて阿弥陀仏を追掛けてゐると思ふと、そこに私の最も親しみを覚える人間が現出するのであつた」と書く。 さらに、「五位の入道の屍骸の口に白蓮華が咲いてゐたといふのは、小説の結末を面白くするための思付きであつて、本当の人生では、阿弥陀仏を追掛けた信仰の人五位の入道の屍骸は、悪臭紛々として鴉の餌食になつてゐたのではあるまいか。古伝説の記者はかく信じてかく書きしるしてゐるのかも知らないが、現代の芸術家芥川氏の衷心からかく信じてかく書いたであらうかと私は疑つてゐた。芸術の上だけの面白づくの遊びではあるまいかと私は思つてゐた。」と「白い蓮華」を本気で信じているのか、信じていないのならなぜ書くのかと問いつめるのです。 芥川はそれに対して手紙を書いて「白蓮華を期待し得られるらしく云つてゐた」という。けれどもその手紙に白鳥はたいそう不満だったらしく、そこからこう断定します 「氏は、あの頃(※この文章を書いた時点は芥川の死後)「孤独地獄」の苦をさほど痛切に感じてゐた人でなかつたと同様に、専心阿弥陀仏を追掛けてゐる人でもなかつたらしい。芥川氏は生れながらに聡明な学者肌の人であつたに違ひない。禅超や五位の入道の心境に対して理解もあり、同情をも寄せてゐるのに関はらず、彼等ほどに一向(ひたむ)きに徹する力は欠いてゐた。」 この白鳥の指摘に対して、中村光夫は 「芥川が、ただ「聡明な学者肌」といふだけの人であつたら、彼はあのやうな死を選ばず、晩年の作品も生まれなかつたでせう。彼自身の言葉をかりれば、「見すぼらしい町々の上に反語や微笑を落しながら」気のきいたまとまりのよい小説をかいて、天寿をまつたうすることができたでせう。  しかし彼の裡には、正宗氏がその文学的出発にあたつて見抜いたやうに、ひとりの「孤独者」がすんでゐたのです。それは芥川自身が、その人生とむかひあふとき、彼の生活を破り、芸術を破壊するはずであり、その時期は思つたより早くきたのです。」 としています。遺稿となった作品群は「彼自身が禅超になり五位の入道にならねばならないとき」が来た芥川が、必死のあがきを見せたものである、と。 さて、まとめに入りましょう(笑)。 山田先生の「実在する地獄を「見た」人にしてはじめて、真実の念仏をとなえることができるのであると思います。」というご指摘に即していうなら、芥川はまさにその「地獄」を「見た」人であったのだろうと思います。そうして、それは「孤独地獄」というものとしてあった。 『孤独地獄』と『往生絵巻』を結んで、その脈絡のなかに『蜘蛛の糸』を置いてみると、おもしろいことに気がつきます。カンダタは、五位の入道のそっくり裏返しなのではないか。だとすると、カンダタがどうしようもなく地獄に墜ちていくように、五位の入道の口には「まつ白な蓮華が開いてゐ」なければならなかったのではないか、と思うのです。 もし芥川がカンダタのなかに、救われない自分、自ら孤独地獄のなかに墜ちていく自分を見たのだとしたら、どうすれば助かったか、という教訓など、蛇足以外の何ものでもなかったはずです。「真実の念仏」を唱える以外にそこから逃れるすべはない。そうして、そこから逃れようとしても、五位の入道ほど専心の思いをこめて唱えることもできない自分に気づいていたのではないか。 以上、長くなりましたが、何らかの参考になれば幸いです。

noname#96295
質問者

お礼

ありがとうございます。お礼が遅くなりまして失礼しました。 山田晶さんのご著書に親しまれているのですね。ご一門でしょうか。『アウグスティヌス講話』のご紹介をありがとうございました。 『蜘蛛の糸』で芥川が「地獄の世界」を描くことに主眼を置いたというご指摘、 『孤独地獄』『往生絵巻』と結んで充実した作家論の骨子となるものだと思います。たいへん面白く拝読しました。 中村光夫が芥川をめぐって、白鳥の言質をとって短文を紡いでいたとは存じませんでした。 ご指摘をいただいて触発されるところがありました。 『蜘蛛の糸』を地獄語りとして考えますと、額縁仕立てが見えてきます。 額縁という前景を眺める作家の視点が感じられます。 極楽絵を彫り出したこの額縁も、五位の入道の口に咲く白睡蓮も、 観念と現前を二重に有しているようで、作品を象徴派めいたものにしています。 それは、白鳥が不満をもらすように浅薄なスタイルであろうはずはなく、 筆一本の観念から花が結び、地獄(煉獄)から念じて繋がれる外側があるということへの 芥川の希求があったのではないかなと思います。 カンダタのいる地獄は、仏を念じない世界ですね。 芥川は、仏がいない、仏を念じても通じない、自己の内に発する地獄を、 禅超を借りて孤独地獄と呼んだのかもしれません。

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