昭和20年代の住宅難時代に行われた「余裕住宅の開放」の記録とは?

このQ&Aのポイント
  • 昭和20年代の住宅難時代に行われた「余裕住宅の開放」とは、戦災で家を失った人々や引き揚げてきた人々に対し、焼け残ったゆったりした住宅を利用する提案でした。
  • 政府は昭和21年6月に「余裕住宅の開放」という政策を実施し、昭和22から24年までの3年間に5069戸が開放されました。
  • しかし、具体的な詳細や体験談、文学作品や映画、地域史などの記録は限られており、詳細な情報が欠落しています。
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昭和20年代敗戦すぐの住宅難の時代に行われた「余裕住宅の開放」について

戦災で家を失った人々や外国から引き揚げて来た人に 住宅がないため,焼け残ったゆったりした住宅を使うべき ではないか,ということで昭和21年6月に政府は「余裕住宅 の開放」というのを行っています。昭和22から24年までの3年間に 5069戸が開放された,という記録が残っているのですが, 今ひとつ,どんなことがあったのかピンと来ません。 -いったいどんな人が家を開放して -どんな人がそこに一緒に住んだか -どんな生活が行われたか -同居向けに改造を行ったようだがどんな改造だったか -どんな間取りの住宅があったか 体験したことがあったり,話できいたことがあったり, あるいは文学作品や映画,地域史等々で 記録があったら,教えていただけませんか。

  • uzo
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Eivis
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回答No.1

 戦後進駐軍が来て洋間のある住宅は接収されたため、超大邸宅は接収され、塀で仕切られる家はうまく洋間だけの接収で 済みましたが、庭が続いていたりすると和室部分も接収されたのです。 (返還時になって和室を見たら床柱にピンクのペンキが塗ってあったり問題を残した)  ~で、目ぼしい住宅が摂取された残りで大きめの住宅はありましたが「余裕住宅の開放」は強制的だったかどうかは知りません。  戦前の住宅には、表向きを洋館に造り、奥に裏向きの部屋として隠居所として和室で作った家を造り廊下でつなぎ、 杉の板戸などで境をした家が多かったのです。  規模も表向きが(80~120坪)、裏向きが(30~40坪)で隠居所のほうにも女中部屋は付いていました。  東京と横浜で2,3の例を知っていますが、大邸宅が多く改造はしていません。 1)横浜の例  このケースは、御母屋が進駐軍、別棟が家主さん、車庫の付属住宅が新婚さんでした。  家の持ち主は旧代官の家で、運転手の住い(6、6、4畳半、3)に改造せずに、知り合いの新婚家庭が借りて住んでいました。 2)成城の例  この家は、隠居所の和室が空いていたのですが大き過ぎ、ある法人が借りました。   3)武蔵野市の例  ここは一棟の家の一部がハナレになっていたので、それを貸していました。 悲劇はその後で、借家人が居座って昭和30年を過ぎても明渡さず結局裁判で解決しました。  私の知る限りでは、家を改造してまで開放したと言う事例は知りません。  まして他人が一緒に住んだ話は聞いた事もないのですが、住んだのは戦争復員者、引揚げ者中心の若い年代でした。  当時の最小住居単位は12~15坪程度で間取りで云うと「6(6)、4半、3(板)、トイレ」で浴室なしが理想でしたから、あったとしたら そのような規模だったと思います。 *私自身は疎開から帰って後、8、6+αのハナレに住み借家人が母屋を4年ほど空けないので親が苦労していた事を思い出します。  

uzo
質問者

お礼

もう回答もこないでしょうので、とりあえず閉めることにします。 Eivisさん、ありがとうございました。 どうやら、専門はいっしょですね。 また、ひょっとしたら居住地も近い。 リアルな世界で、お会いすることがあるかもしれませんね。 では、また。ありがとうございました。

uzo
質問者

補足

いきなりヘビー級の情報をいただきました。 ありがとうございます。なるほどそういう 状況なのですか。 さらに 手元にあるデータは5000件「改造」と書いてあるので、 改造しないケースはもっと多いのか、という新たな 疑問もでてきました。 いずれにせよ、有用な情報でした。ありがとうございます。 (もう少し、このまま質問を開いておきたいと思います)。

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