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座禅せば 四条五条の 橋の上 往き来の人を そのままに見て

noname#88701の回答

noname#88701
noname#88701
回答No.9

不親切なお答えになってしまいすいませんでした。 簡潔に、という事でしたので 最初と最後だけを言ってしまったような感じです。 ご参考までにお話します。 聞こえる、のと「聞く」では違います 見える、のと「見る」では違います。 眼をつぶって「聞く」と、実に様々な音や声があるのが分かります。 鳥の声にしても、朝などは五、六種類はあります。 その声も、嬉しい声や淋しく仲間を呼ぶ声があります。 また、鳥によっては縄張りを知らせる声や威嚇する声もあります。 声では無く言葉なのだと感じさせられます。 都会の喧騒の中でも、眼をつぶれば 沢山の車の音や人の声が聞こえるはずです。 それを「聞く」ことが出来れば、どれほど得るものがあるのかは、想像がつきかねるくらいだと思います。 「見る」にしても 全体的に見たり、部分的に見たり、時間的に見たり 或いは、繰り返すように見たりする事もできるはずです。 「耳で見て、眼で聞く」という感じだと思います。 五感の働きを研ぎ澄まして外界に対すれば、常に新鮮な発見や驚きがあるものだという事です。 「六根清浄、お山は晴天」というやつです。 五感と意識を働かす事によって知る世界から、逆にそれらの働きを滅して知る世界に入って行く事もできます。 いわゆる座禅の世界です。 感覚も心も滅した、或いは滅してゆく、超感性的ともいえる智慧の世界であると思います。 そこにあるのは意識を超えた感性とその対象そのものです。 そして、対象と言えるものが消え去ったところに到達するはずです。 禅でいうところの「無」です。 無ではあるけれども全くのゼロではない、境地です。 この境地から、感覚の世界へ降りてきます。 再び、賑やかな世界へ戻って来てみるのです。 そして観察するならば、全てはより確かに、鮮明に見えるはずです。 色も形も音も声もです。 あるがままに、既成概念なしに重く確かに見えるはずです。 「見る」がさらに深まるものと思います。 そして、見て、いる自分自身を凝視している智慧にも気付かされるはずです。 その智慧を観音とも呼ぶのだと思います。 禅の世界は体験の世界でもあり、人それぞれに様々な解釈をされています。 それでいいのかもしれません。 正直言って、私の解釈も浅いものです。 浅く恥ずかしくもある解釈ですが、ご参考にして下さい。

noname#106800
質問者

お礼

>感覚も心も滅した、或いは滅してゆく、超感性的ともいえる智慧の世界であると思います。 >そこにあるのは意識を超えた感性とその対象そのものです。 感覚を滅しても感性は残るのですか? ありがとうございました。

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