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シモンのその後は

kigurumiの回答

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.2

確か、、、万能の神 なんでも かんでもできちゃう神だとほざく男が、すってんころりん ってしたところにたまたまシモンさんが通りがかって、 「あーーも 軟弱な男だなぁ。。。 しょうがない そこの男、一緒にかついでやれ。 ちゃっちゃと処刑して帰りたいんだからもぉ」って思ったのかローマ兵に手伝えって言われて、嫌嫌ながらイエスとともに丸太を担いだんだったと思います。 当時の十字架刑において死刑囚は、横木をかつがされたのだそうです。 縦の木は既に処刑場に打ち立ててあり、短い横木だけ死刑囚は担がされていたのだそうです。 従って、木の両端をお互い肩に乗せて「えっさ ほいさ おさるのかごやだほいさっさ」とやれば、重量が半分になり楽チンなのです。 で、思い十字架じゃなくて 実は軽い横木をかつげなくて、手伝ってもらったってことです。 史実にすると 全然 感動的なものじゃないですよねぇ・・・ でも、実際は横木だったんだもん・・・十字架じゃなかったんだもん。 で、もう一度いいますが、これ 創作文学。 イエスってのは太陽のこと。 12月22-24日当たりに太陽が十字星とクロスしてたんです。 だから 太陽が十字架刑になるって物語ができたんです。 しかも これって紀元前何千年も前の神話の内容。 冬至あたりに太陽である神が十字架にかかるってストーリーは、イエス神話が作られるより何千年も前からあり、それがイエス作家によって再度復元されたんです。 12使徒、12星座のことです。 地球が動いていると知らない時代、太陽は12の星座とともに動いていると思われていたんです。 だから太陽は12星座と旅をした→イエスは12使徒と旅をした って物語になったんです。 すいません・・・ でも、事実だからしょうがないでしょ? あくまで映画や漫画の世界のことで、現実など関心が無いってのなら、、、まあ 創作文学イエス物語ってことで、、、 でも、現実を拒絶して妄想で人生を補完しても結局妄想は妄想でしかない。 何も無いものでは補完できませんよね?  永遠に埋まらない心の隙間になっちゃいますけど。 その路線だと補完できないので、永遠に苦しむことになりますよ。 おせっかいだけど、目を覚ましましょうよ。 「夢の終わりは現実。」 (新世紀エヴァンゲリオンのレイの言葉) 自分の欲望を裏切って、本来の自分を取り戻してください。

evangel4
質問者

お礼

みなさま、ありがとうございました。 ご回答に優劣などつけることはできません。どうしてもポイントをつけなければいけないのでしょうか。人を裁くなとイエス様はおっしゃっています。感謝の意を込めて。 evangel4

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