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シモンのその後は

先日はありがとうございました。 また聖書の質問なのですが、イエス様の十字架を代わりに担いだシモンはその後使徒たちの仲間になったのでしょうか。何か伝えられれいる記述などあるのでしょうか。聖書のあの箇所を読むたびに思います。みなさまはどうお考えになりますか?

みんなの回答

noname#149752
noname#149752
回答No.4

福音書を読み比べて驚きました。 ヨハネ福音書だとキレネ人のシモンは登場すらしていません。 ルカ福音書 田舎から出てきた マルコ福音書 アレクサンドロとルフォスとの父 マタイ福音書 シモンという名前のキレネ人 キレネはアフリカだそうです。 アレクサンドロとルフォスとの父。。。 とりあえず。 聖書に記述されてないことを考えることになります。。。

evangel4
質問者

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みなさま、ありがとうございました。 ご回答に優劣などつけることはできません。どうしてもポイントをつけなければいけないのでしょうか。人を裁くなとイエス様はおっしゃっています。感謝の意を込めて。 evangel4

  • taco8ch
  • ベストアンサー率7% (11/146)
回答No.3

またまたはじめて聞く話だ。神話ってのは際限なく膨らむもんだな。   「兵士たちは」出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、   イエスの十字架を「無理に担がせた」。マタイ27:32   シモンというキレネ人が、田舎から出て来て「通りかかった」ので、   「兵士たちは」イエスの十字架を「無理に担がせた」。 マルコ15:21   「人々は」(中略)田舎から出て来たシモンというキレネ人を「捕まえて」、   十字架を背負わせ、イエスの後ろから「運ばせた」。 ルカ23:26 って、明らかに兵士や野次馬が、嫌がるシモンに無理やり担がせとるじゃないか。 しかも、彼、いわゆる「おのぼりさん」。可愛そうに。 まあ、他人に必要のない善意は売りつけても、他人から義務や慣習を強制されることを毛嫌いする、 いわゆるボランティア=クリスチャンが横行する昨今なのかもしれないが。 神の恵みはしばしば強制的な苦痛としてしょわされるとか、なんかそういう古風で逆説的でクレオパトラみたいなの、 ないんだろうな~。平和だもんなあ。眼が輝いてるもんなあ。きらきら。ちょっと怖いけど。 シモンにしてみれば預かり知らない大迷惑なはず。何処の馬の骨とも知れない極悪人の科刑を肩代わりだろ? それでも担がざるを得なかったのは、内気でナイーヴな田舎者という以外に、 刑の執行にそれなりの手順があったからだろう。磔刑はローマ式極刑。 汝、ローマにいなくてもローマ人に従へ。 では厳かに福音書を―― らい病人――あ、話の腰をさば折りするけど、今どきの聖書って「らい病」って使ってるの? そのへんの今日的事情よく知らんけどさ――のシモンと同一人物 説だけど、あんまり賛成できない。 だってそのシモンはベタニヤの住人だろ?ベタニヤはマリヤやマルタの他にゾンビのラザロもいて、 おそらくはイエスの活動拠点&エルサレムへの前線基地となっていた村だけど、 マルコの福音書15:21にはわざわざ 「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」って書いてある。 彼の「田舎」って何処のことだ?出身地(あるいは住民登録地)のキレネか? あるいは出身はキレネだが、住んでいたのはイスラエル国内の田舎ってことか? そもそもこのひと何人だ?文字通りキレネ人(アフリカ人)か? それとも、キレネ在住(キレネに住民登録している)ユダヤ人という意味なのか? この人、ぶっちゃけ海外出生者ちゃうの?(あ、海外は日本人向けか) 仮に(想像力をたくましくして)外国人だったとしたら、 パウロならともかく、教祖イエスはそもそも外国人への癒しには慎重だったはず。 悪霊憑きのカナン人の女が助けてくれとせがんだとき、イエスはひとまずは断ってる。「外国人お断り。」マタイ15:24 キレネ在住のユダヤ人という意味だったとしたら、田舎者シモンは都に何をしに来ていたのか? イエスが心配で見に来てもいいんだけど、なんせ折悪く過越祭だからね。 もし宗教上の巡礼とか、商売上の買い付けで上京したなら、用を済ませたら帰らなきゃ。 帰る先は、どこか?ベタニヤじゃないだろう。イスラエル国内か?それとも? ――質問者にゴマをするつもりで、 その後のイスラエル国外に同じ名前の信者は出てきてないかな?   仮説1 ローマ書16:13「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。   彼女はわたしにとっても母なのです。 」のルフォスとシモンの子供ルフォスは同一人物説。 その後、あーだこーだあって一家総出で信者になったシモン一家は、あーだこーだあってローマに移住した。 そうそう、一家の大黒柱が回心して、妻や子供もってよくある話。 イエスの死亡年齢を30前後と仮定して、同程度の体力をもつ同年代の若者シモンははや初老もしくは死亡。 末の子供(ルフォス)はロマ書が書かれる頃は青~壮年期?ばっちりじゃないか。 ただ、「選ばれた」のは子供のルフォスではなく父親のシモンだし、ちょっと飛躍があるなあ。 そもそもアフリカならともかくどういう顛末でローマにいるんだか?   仮説2 使徒11:20 「彼ら(エルサレムを脱出した人々)の中に   キプロス島やキレネから来た者がいて(中略)福音を告げ知らせた。」のキレネ人説。 その後、あーだこーだあって、信者になってはみたものの、あーだこーだあって、 まあ、ステファノ殺害かなんかを機にアンティオキアへの都落ちを余儀なくされた。 のちヘレニズム的な国際感覚を生かし、パウロのブレーンとして、ギリシア・ローマ方面への布教に貢献した。 う~ん。田舎者の国際感覚っつーのも、いまいち現実味に欠けるか。   仮説3 使徒13:1 「アンティオキアでは、(中略)ニゲルと呼ばれるシメオン、   キレネ人のルキオ(中略)たちがいた。」のキレネ人=シメオン説。 聖書記者らしく、例のごとく、シメオン→シモンと、キレネ人ルキオの名前と出身地を混同?なんちゃって。 そして仮説4 「いや~、まいった、まいった。都じゃとんだとばっちり食っちまった~。都会ったら、おっとろしーところだぁ~」と、 土産話をもって、途中、エルサレム観光なんかもして、名物のカエサル饅頭なんかも買って、田舎に帰り、 その後平穏無事な田園生活で余生を送りましたとさ 説。 ・・・などなどが考えられると思う。

evangel4
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  • kigurumi
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回答No.2

確か、、、万能の神 なんでも かんでもできちゃう神だとほざく男が、すってんころりん ってしたところにたまたまシモンさんが通りがかって、 「あーーも 軟弱な男だなぁ。。。 しょうがない そこの男、一緒にかついでやれ。 ちゃっちゃと処刑して帰りたいんだからもぉ」って思ったのかローマ兵に手伝えって言われて、嫌嫌ながらイエスとともに丸太を担いだんだったと思います。 当時の十字架刑において死刑囚は、横木をかつがされたのだそうです。 縦の木は既に処刑場に打ち立ててあり、短い横木だけ死刑囚は担がされていたのだそうです。 従って、木の両端をお互い肩に乗せて「えっさ ほいさ おさるのかごやだほいさっさ」とやれば、重量が半分になり楽チンなのです。 で、思い十字架じゃなくて 実は軽い横木をかつげなくて、手伝ってもらったってことです。 史実にすると 全然 感動的なものじゃないですよねぇ・・・ でも、実際は横木だったんだもん・・・十字架じゃなかったんだもん。 で、もう一度いいますが、これ 創作文学。 イエスってのは太陽のこと。 12月22-24日当たりに太陽が十字星とクロスしてたんです。 だから 太陽が十字架刑になるって物語ができたんです。 しかも これって紀元前何千年も前の神話の内容。 冬至あたりに太陽である神が十字架にかかるってストーリーは、イエス神話が作られるより何千年も前からあり、それがイエス作家によって再度復元されたんです。 12使徒、12星座のことです。 地球が動いていると知らない時代、太陽は12の星座とともに動いていると思われていたんです。 だから太陽は12星座と旅をした→イエスは12使徒と旅をした って物語になったんです。 すいません・・・ でも、事実だからしょうがないでしょ? あくまで映画や漫画の世界のことで、現実など関心が無いってのなら、、、まあ 創作文学イエス物語ってことで、、、 でも、現実を拒絶して妄想で人生を補完しても結局妄想は妄想でしかない。 何も無いものでは補完できませんよね?  永遠に埋まらない心の隙間になっちゃいますけど。 その路線だと補完できないので、永遠に苦しむことになりますよ。 おせっかいだけど、目を覚ましましょうよ。 「夢の終わりは現実。」 (新世紀エヴァンゲリオンのレイの言葉) 自分の欲望を裏切って、本来の自分を取り戻してください。

evangel4
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  • zatousan
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回答No.1

こんにちは! >イエス様の十字架を代わりに担いだシモンはその後使徒たちの仲間になったのでしょうか。 「一説」によると、 あのシモンは、 マルコ14章3節(マタイ26章の6節)のシモンと同一人物であり、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3)イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ このシモンはイエスにらい病を治して貰った事があり、 マルコ1章40~42節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 40)ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 41)イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。 42)すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それを恩義に感じていた為にイエス一向を家に招いたりしていたと言われています。 十字架刑になった時も心配になって、見に来た所、イエスが十字架を背負うのに苦労していたので、変わりに担ぐことにしたのではないかと言われています。 ご参考までに

evangel4
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質問者

補足

こんにちは ご回答ありがとうございました。おもしろいですね。「みこころでしたら」とイエス様にすがったあの男性がシモンでその恩を感じてあの場面に現れたわけですね。はじめてそういう読み方に接しました。 わたしはベタニヤの挿話はラザロと重ねて読んでいますので、ちょっと意外ですが、関連付けは面白いと思います。いろいろな方からお話をお聞きするのは楽しいですね。またよろしくお願いいたします。

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