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仏教・老子の哲学について良書を教えてください。

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回答No.6

釈尊のさとり 増谷文雄 講談社学術文庫 この本が悟りとは何かを考えるきっかけになりました。100ページ足らずの本です。 スポーツ選手が同じ動作を反復することによって、その動作を身につけることができるように、正しく見、正しく話し、正しく行動し、正しく考えるという八正道を実践することによって脳の思考の枠組みを変え、正しく物事が認識できるようになる。その結果得られる苦の滅失した状態が悟ったということではないでしょうか。八正道を実践すれば、自然に煩悩や執着は消滅するような気がします。 しかし、言うは易く行なうは難しです。八正道の実践、これが一番難しい。なぜなら正しさの絶対的な基準がないからです。何が正しいかはその人の置かれた状況によって変わってきます。何が正しいかを的確に指摘できる人。それが本当に悟りを開いた人なのでしょう。 私はいつまでも、久遠人です。

Wunderlich
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 八正道ですか…正に釈尊の教えの「実践編」といった 感じですね。一つに八正道といっても色んな捉え方があり、 ストイックに解釈し、実践しようとすると私のような俗物では なかなかに難しいものがありますね。 悟りを開くには八正道の実践しかないとはいえ、 八正道の教義を完全に貫こうとするなら普通の日常生活を 維持していくのには色々と支障が出てきますので、 そうなると最終的には出家して仏門に入るしかないのかなと思います。 また八正道の教えを守ろうとするあまり、返って余計な思考に とらわれ、苦悩してしまうのは本末転倒な気がしますし、 八正道を実践したい…というものも良く考えれば「欲」ですよね。 その他にも色々考えたのですが、結論を申し上げますと、 やはりこれもまた釈尊の仰る通り「中道」を行くのが 良いのかなと思いました。 あまりに俗物的方向に偏り過ぎてもいけないし、かといって余りに ストイックな苦行に偏り過ぎてもいけない。その時その時の 自分にとっての「中道」を実践するのが良いのかな…と 思いました。 とても参考になりました。 ありがとうございます。

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