• ベストアンサー

時間は相対的なのか?

nisekantの回答

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.1

批判だけなら誰にでも出来ますし、科学者は批判だけでは成り立ちません。

関連するQ&A

  • 哲学・懐疑論の人たちは科学や芸術をどうとらえているのでしょうか??

    哲学初心者です。 哲学はある意味、主観と客観の一致の問題を考えてきたと捉えています。 (真理は存在するか??客観視は可能か??など) そこに近代哲学批判のニーチェが出てきて・・・ 「真理などはない、すべてあるのは解釈だけだ」と述べ、その考えが現代思想の根本にある気がします。 ポストモダン思想などは懐疑論状態に陥ってしまったと思っているのですが、懐疑論の人たちは、ある程度法則が見つかったとされる物理学(運動が説明できる)や生物学(遺伝子など)などをどう捉えているのでしょうか?? また、最近は「人それぞれ」というのが流行っていますが、何処までが人それぞれなのか?? 美しさや善悪の判断など、微妙にそれぞれといえないものがあるのはどのように説明されるのでしょうか??(芸術や道徳がなぜ存在するのか?) 気になったので質問させていただきました。よろしくお願いします。

  • 哲学・現代思想は科学や芸術をどうとらえているのでしょうか??

    初心者です。 哲学はある意味、主観と客観の一致の問題を考えてきたと捉えています。(違ったらすいません) (真理は存在するか??客観視は可能か??など) そこに近代哲学批判のニーチェが出てきて・・・ 「真理などはない、すべてあるのは解釈だけだ」と述べ、その考えが現代思想の根本にある気がします。 ポストモダン思想などは懐疑状態に陥ってしまったと思っているのですが(すべては差異だとか戯れだとか)、哲学・現代思想は、ある程度法則が見つかったとされる物理学(運動が説明できる)や生物学(遺伝子など)などをどう捉えているのでしょうか?? また、最近は「人それぞれ」というのが流行っていますが、何処までが人それぞれなのか?? 美しさや善悪の判断など、微妙にそれぞれといえないものがあるのはどのように説明されるのでしょうか??(芸術や道徳がなぜ存在するのか?人それぞれだと存在している意味がない) 気になったので質問させていただきました。よろしくお願いします。 あと、根本的に解釈が間違っていたらご教授して頂きたいです。

  • 時間と空間━その2

    http://kikitai.teacup.com/qa3586268.htmlにおいて、 himara-hus様とHusky2007様から、教えていただきました。有難う御座いました。  長く締め切らないままに地方に出かけるわけにいかないので、お礼と共に締め切りました。 《戴いたお教えの要約1.》:物が無ければ、空間があることもわかりませんし、物も何も無ければ、空間が仮にあっても意味が有りません。時間が無ければ、物があることもわかりませんし、何も無ければ時間が有っても意味が有りません。 《このお教えへの再質問》:客体物や事象があることがわかるかどうか、意味があるかどうかではなく、そういうものがなくても、  (1)時間とか空間とかはありうるのか。  (2)時間と空間は客体物や事象の存在形式なのか、それとも知覚や経験側の形式なのか 《戴いたお教えの要約2.》:空間と時間は物質の容器というようなものではない。そのようなものは存在しない。物質の存在形式の反映である。であるしかない。相対性理論的認識が絶対的な真実かどうかを問うのは余り意味がない。物理的・科学的認識の確かさを更に、理論的・実験的に探求すれば良い。 《このお教えへの再質問》:  (1)日本語の語義的質問ですが、『反映』というのは、光が『reflect』している『状態』という意味なのか、『存在性格の見え方・側面』ということなのでしょうか。  (2)相対性理論的認識も絶対的認識も、このことでは私には関心のないことなのです。ですからこのこと問題にしてお教えを乞うてはいません。  私には、物理であろうと科学であろうと、宗教であろうと、信仰であろうと、真理であれがいいだけのことです。  そういう脈絡の中で、  (2)-1客体物質や事象の起源や基盤というのは、今後の限りない探究でしょうか? 探究のゴールというものはあるべきものと、予測しておいででしょうか?  (2)-2客体物質や事象の存在の開始する以前というのは、探究の対象問題にはなりえないのか、しないのか。 (意味のない事というのだと、それは何にとっての意味がないのかの問題となると存じます。意味や価値・目的性、ないし何かの有用性は別の事だと存じまして?)

  • 何が知りたいのか

    こんにちは。僕は、知るということや考えるということが大好きです。その対象は様々で、主に哲学的、科学的(特に宇宙)、倫理的な知識、問題や真理を考えるのが好きです。またこの世界の解明されていない謎、たとえば超古代文明などのことを考えるとワクワクします。最近はパラドックスの問題にはまっています。 そうしているうちに、ふと自分は何が知りたいのかわからなくなりました。燃えていた欲求の炎が小さくなったみたいに、とてもすべてのことがつまらなく感じてしまいました。 前までは、世界がなぜ、どのように存在しているのかを知りたかった気がするのですが。 大学で英語を勉強しているのですが、それすらもつまらなく感じます。 ほんとに何に対しても意欲がわきません。 ぼくは、好奇心、知への欲求のない状態は本当にただのダメ人間になってしまいます。早くこの状態から抜け出したいのですがどうしていいかわかりません。助けてください。お願いします。 それと、皆さんの人生で最も知りたいこと、今探し求めていることがあれば教えてください。

  • NHK杯戦の結果を放送前に公表してしまう愚

    史上最年少で棋士になった藤井聡太四段が快進撃をつづけて、デビュー以来13連勝の新記録を達成したことが4/18(火)の各紙の朝刊で報じられました。(将棋連盟のホームページでも公表されている)。これ自体は、嬉しいニュースで、快挙を祝福したい。問題は、この連勝のニュースは4/23(日)の10:30-12:00AMでNHKEテレで放送予定のNHK杯戦将棋の千田―藤井戦の結果を放送を待たずに公表したことです。実は、この試合の観戦を非常に楽しみにしていたのです!藤井四段は、一昨年のこの棋戦の準優勝者で、今年度の棋聖戦の挑戦者であった若手の棋士の中で最も輝いている一人である千田七段にどこまでせまれるのか、接戦になったら詰将棋の名手である藤井四段は詰むや詰まざるやの緊迫した終盤戦をどう戦うのだろうか、と。それなのに、将棋連盟は、勝敗を放送前に公表するという愚を犯したために、私たち将棋ファンの期待を打ち壊してしまった!勝負事は将棋にせよ、サッカーにしろ、およそ、結果が分かっている試合を観戦することほど、面白くないことはない。だいたい、NHK杯将棋は不測の事態に備える(たとえば棋士が事故のため定刻までに到着しないといったことを防ぐ)目的で、「生」の中継ではなく、何日も前に対局を録画し、それを日曜日の午前中に放映しているのだ!それを、いくらニュース価値があるからといって、放送もしないうちに公表してしまうとは!三浦問題で大失態を演じた将棋連盟執行部は、新執行部に代わったばかりなのに、将棋ファンを怒らせるような愚を再び犯したのではないか!皆さんは今回の処理をどのように思われますか?

  • ヨーロッパ人の真理論は成っていない

     ヨーロッパ人の真理論は成っていない。という見解を示して問います。  ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86  § 1 西洋哲学における真理論  真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。  (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。     アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッド・タルスキ、カール・ポパー  (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。     中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル  (3) 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。     ルネ・デカルト、エトムント・フッサール  (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。     フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ  (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。     チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス  (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。     フレーゲ  (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。     フランク・ラムゼイ  (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。     アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。  ☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。  (い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。  (う) 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によれば 真理は そのような・人間に理解しうる整合性から自由であるのだから。善悪の彼岸であり 或る意味で人間の判定する真偽をも超えている。  (え) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。  ☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並列させても それらから真理は自由であるのだから。  (お) 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問うている。絶対としての真理ではない。  (か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが  ▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。  ☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことである。  (き) すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。  (く) そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が成る。  (け) この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえば民主制なる理念など―― これは 共同主観(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。  (こ) 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。    (さ) 民族(≒言語)文化をさらにその独自性において重く見る立ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。  (し) この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでもう一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば それが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。  (す) それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたたびのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理の桃源郷にのがれる。:  ▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。  ☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり (あ)に戻って 真理を《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として想定すればよい地点に戻っている。  (せ)  ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • この場合の相対性理論の正しい間違え方は?

    相対性理論の正しい間違え方として、次の疑問はどのように理解すべきでしょうか。 双子のパラドックスに関係するもので疑問点は実に簡単なものです。 今から宇宙へ高速運動する人が宝くじを買いました。  その宝くじは静止系の時間での有効期限である 2010年1月1日まで使用できると書かれています。 また、宝くじには精巧な薄型時計が組み込まれており、 それによって宝くじ表面には “ 有効日数は残り○○日 “ と表示されます。 高速運動する人はその宝くじを持って宇宙へ向かい、そして帰還しました。 そうしたら高速運動した人の、静止系との時間差異はちょうど1年だけ遅延しました。 静止系の今の時間は2010年1月3日です。 静止系に元々在った宝くじの有効期限は切れています。 しかし高速運動した人は宝くじの有効残り日数の表示を指して、異なる時間リズムから静止系の時間に再び同期 したとしても、高速運動による時間遅延は引き続き維持されており、それによって宝くじは有効だと主張しました。 宝くじの主催者はそれに対して宝くじの有効期限の記載を指して、静止系において時間遅延は維持されると言うが、 高速運動した人とそれに同行した宝くじは、今現在は“ 静止系と交流している “ ように、 静止系から独立している訳ではなく、今現在は “ 静止系の時間に属している “ から宝くじは無効だと主張しました。 .      *** マクロ系での高速運動による時間遅延は、始めから生じないのでは? *** 上記の設定は、高速運動によって時間遅延が生じるという仮定の下では、実際に起こりえるものです。 私が指摘したいのは、この宝くじが有効か無効かということではなく、高速運動によって時間遅延が 生じるのであれば、その場合には上記したことに類似する問題が、” 際限なく起きるのではないか “ ということです。 光を微細粒子あるいは光量子とみなす場合は、粒子加速器での高速運動では時間遅延が認められます。 しかしその場合でも光が、空間内に明確な独立領域を持っているのか否かはかなり疑問な問題であり、 マクロ系でも高速運動によって時間遅延が生じるという考えは、アインシュタイン博士が光は空間に局在する粒子と考え、 その空間での独立性をそのままマクロ系にまで発展させたからです。 しかし光速度測定時に測定側の運動状態とは無関係に、光速度は一定として測定されるということから、 光は空間において完全な独立性を持たず、他の状態と何らかの連続的関係性を持っていると私は考えます。

  • 相対性理論・・時間の相対にあたり

     私は、30歳で子供を授かりました。 私はその子が生まれた年に宇宙船にのり、地球に対して秒速15万kmの宇宙旅行に出ました。  それで、子供が60歳になった年に地球に帰還した場合、相対性理論上、私は地球の年齢ではいくつになっているのでしょうか!? 90歳ではないですよね!?  よろしくお願いします。  

  • 倫理を勉強することの意味

    たとえば、センター試験などもしくは現在は高校などに教科書があるのかもしれないですけど。 あるその内訳みたいなものを見ると ・大きな宗教 ・西洋哲学 ・日本の価値観 ・現代の問題 などで編集されてました。 他にも宗教系の大学や哲学科などで勉強するということは、物事の善悪や真善美(主に真理など)判断を他律ではなく、自律で一定の判断力があるということになるのでしょうか?過去に考えられた道徳、倫理を一通り最低限ではあるものの知っていることにはなると思うのですけど、これってどの程度善悪判断には有効なのでしょう。 もし、あくまで善悪の基準は相対的であって他律的にムードや空気で多数決で善悪など決めていくと、ヒトラーの演説といっていいのか?刺激を与えてその場の人など支持を多数得て、悪が正しいということにもなりうるものなのかとも思えます。流されている陪審員のみで決めている裁判のようにも思えます。 マーケティングのゴールデンアロー戦略のブラックアロー版ではないですけど、刺激で周囲の陶酔を誘うのがうまい人っていると思います。 上記のポピュリズムの傾向が悪いとすると社会的に一定数勉強している人が必要なのかもしくは全員やはり勉強すべきものなのか。どうなのでしょう?