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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:倫理を勉強することの意味)

倫理を勉強することの意味

このQ&Aのポイント
  • 倫理を勉強することの意味とは?善悪の判断に有効なのか?
  • 倫理の勉強は他律的ではなく、自律的な判断力を養う
  • 倫理の勉強は社会的なポピュリズムを防ぐために必要

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.5

日本は宗教によるしばりがない世界でも数少ない大国です。なので一般のひとのなかでは法律だけを守っていれば道徳なんてくそくらえという考え方も出てきます。実際は、日本でも社会のなかで昔からなんとなく伝わっている道徳的な考え方、社会倫理(主に江戸時代の儒教からのものが多いのでしょう。)といったものがあってそれなりに人々の中で守られているのですが、法律のようにそれでしっかり取り締まるということができないので守らない人間も出てきます。それは西洋やアラブのような厳しい宗教で教条的に監視されている社会でもありうることでしょう。 教育で宗教学や倫理学を学ぶのは、歴史や地理との関連で純粋にそれらのなりたちの理解を促進するためのツールとしての意味合いが強いと思います。それらを深く研究することで人間と社会の真理を追究するひとも少数ですがあるでしょう。一般のひとたちはそういう研究者がその学問で得た結果から現代の様々な新しい問題についての考え方や選択をマスコミや書籍などで知り、見習って間違いの少ない生活をしたり、政治参加をするときの判断に利用するということになります。 本来、国の憲法やそれに付随する法律の体系では、そういった哲学的倫理額的な考えが大いに関係しているものです。ですから特に政治や司法にたずさわるひとたちはしっかりとそういった学問を修めてそれらをつくったり判断したり変更したりする場合に誤った行動をとることがないように、国民をミスリードしないようにしてもらわねばならないわけです。 私たち野にある蒙昧な市民を啓蒙していく役割と責任が彼らにはあるのです。

noname#209756
質問者

お礼

>教育で宗教学や倫理学を学ぶのは、歴史や地理との関連で純粋にそれらのなりたちの理解を促進するためのツールとしての意味合いが強いと思います。 おっしゃるとおりです。 >それらを深く研究することで人間と社会の真理を追究するひとも少数ですがあるでしょう。 おっしゃる通りの解説かと思います。 やはり積み重ねてきた規範はやはり意味があるんですね。 ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (7)

  • kurinal
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回答No.8

「勉強」とは「study」、「理解」とは「understand」 「マーケティング」とは、また別の話、でしょう。 >「社会的に一定数勉強している人が必要なのかもしくは全員やはり勉強すべきものなのか。どうなのでしょう?」 人権を侵害しないでね。

noname#209756
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

回答No.7

 こんにちは。  ★ [・・・]過去に考えられた道徳、倫理を一通り最低限ではあるものの知っていることにはなると思うのですけど、これってどの程度善悪判断には有効なのでしょう。  ☆ 《ひととおり最低限》において有効なのでしょう。  問題は   ★ 他律的にムードや空気で多数決で善悪など決めていく[・・・]。流されている陪審員のみで決めている裁判のよう[・・・]  ☆ という《日本教 またの名を クウキ教》による影響をどのように捉えるか? にあると考えます。  したがって そうなると  ★ 〔* 学校教育つまり教科書について〕社会的に一定数勉強している人が必要なのかもしくは全員やはり勉強すべきものなのか  ☆ の問題ではなくなります。  クウキ教は 日本語の通じる範囲においておしなべて《有力》です。これは その思想や措置・施策が有効かどうかにかかわりなく社会力学的にチカラがあるか無いかによって決まります。  昨今は マチガイがあったなら やがてそのことが明らかにされ或る程度は片寄りのないアマテラス普遍語(科学語)において認識され批判されるべきは批判されるようになって来たでしょうか どうでしょうか。  それでも いわゆる時間稼ぎとして実質的な効果はあったであろうしそのぶん実害もあったと考えられます。つまり はっきり言えば――人間の意志行為の自由を踏みにじり(あるいは うまく丸め込み)人の意思表示をないがしろにするということにおける――無効の行為が その場で当座のあいだ《有力》になる。  つまり一口で言って 《無効の行為が社会力学的に――クウキ教の為せるわざとして――有力になり 人びとの有効な意志自由がふみにじられる》ことがあり得る。悪貨が良貨を駆逐する。  ですから 結論としては 教科書や常識としての倫理をまなぶだけではなく 一般に目に見えないクウキの蔓延としての倫理形式をもきちんと捉えこれを マチガイがあればそれを見抜き わたしたちは一人ひとりそれぞれがおのれの交通形式――倫理――をかたちづくって行かねばならない。でしょうね。

noname#209756
質問者

お礼

「クウキ教」ってよい言葉です。 本当ですね。 ご回答ありがとうございます。

回答No.6

pkoube99さん こんにちは。 倫理というと、pkoube99さんの投稿にあるように、善悪を考えることと考えがちになり、また、それは相対的なものかもしれません。 しかし、善悪を考えるにあたり、絶対的真実があります。 それは人間は「誰でも死ぬ」ということです。 私の世代の中年くらいになると、私の恩師であった先生の方々が、少しづつなくなっていく年になりました。 人が死ぬのが悲しいのはなぜでしょう。ジャン・ジャック・ルソーが言った「いと優しき心こそ、自然から人間に贈られたもの。涙を与えられたのが、その証拠」というのは真理かもしれません。 なにを言わんとしてるかというと、倫理・道徳は人間の理性ではなく心の感情面に働きかけ、また心からはき出すものでなければならないと思います。 たしかに、大学入試などで、倫理のテストが行われ、解答すると、自分の知識を理性によって文章とすることが、出来ないといけませんが、私は理性だけではいけないと思います。感情が伴わなければいけない。 映画とかで、ものすごい理性的知能をもった冷めた殺人者という人が出てきますが、先の中学生を殺人し、逮捕された18歳の少年ら3人のように、現実に、人の死をなんとも思わない若者が増えてきている傾向を憂慮してます。 これは、デジタル化した現代において、バーチャルの世界だけで知識を得て、情操教育が出来ていないのではと考察します。 そういう意味では東日本大震災において、親をなくした子供は、その痛みはなんとも申し上げられませんが、死というものに幼い頃から接することにより人間として命の大切さを学び、復興に尽力する人達に触れ、優しい心を持った大人に成長するのではと思っております。 しかし、自然豊かな福島において、壊れた原子力発電の放射能漏れの中で、子供を人工的に造られた、遊具の中で遊ばせながら、情操教育を行わなければならないというのは、かわいそうに思います。 私が子供の頃は、団地にカブトムシやクワガタが飛んで来て、それを育てたり、秘密基地を作って遊んでいましたが、近くに高速道路が出来て、少年の時のような環境ではなくなりました。 私は、自然をこよなく愛し、現在、野に咲く、普通の人が見向きもしない、野の花のスケッチを趣味としてますが、時期が来ると、雑草として刈られます。 しかし、そのような雑草とされる花がなぜ美しいと私の感情にうったえかけるのか? 生物学的に、理性で考えると、種を保存するために虫を呼び寄せるためと解釈するでしょう。 しかし、人間が花を見て美しいと思うのはなぜか?人間によって品種改良されて種を保存するという意味の解釈では不十分と思います。 キリスト教では、自然は神が造りました。被造物に神の神性が宿るとローマ人の手紙第一章に書いてます。また、仏教においても一切衆生悉有仏性というすべてのものに仏が宿るという考えです。 自然から教わることは、たくさんあります。例えば、先の誰にも見向きされない雑草扱いの花も、生命が宿り、精一杯生きている。これは、人間においても同様で、不要な人間はいないのではないでしょうか。 まとめると、人間は感覚器官である五感を研ぎ澄まし、理性的判断だけでなく、感性や感情にうったえかけるものも大切であり、そこから倫理や道徳がうまれる。だから、子供の情操教育は大事である。 相対的で人間の多様性から生まれる最大公約数の善悪の判断も、上述したような人間の在り方において、最小公倍数として善悪の価値観は濃縮され、そこから何が人間として大切かを真理として見出していくべきと私は考えてます。

noname#209756
質問者

お礼

死ぬというのは無になるともいえますよね。どれだけ過去に成功や繁栄しても。 変わらないものはやはり軸にはなりますね。 そうですね。 >まとめると、人間は感覚器官である五感を研ぎ澄まし、理性的判断だけでなく、感性や感情にうったえかけるものも大切であり、そこから倫理や道徳がうまれる。だから、子供の情操教育は大事である。 おっしゃる通りです。合理性では特に人についてつかめないものって多いです。 ご回答ありがとうございます。

  • veradico
  • ベストアンサー率44% (11/25)
回答No.4

 学校教育には,もちろん,それなりの意味(価値)はありますが,倫理を勉強すれば「善悪の妥当な判断ができ,それを守り行う人となる」かどうかは,また別でしょう。どんなに「さまざまな宗教的価値観や哲学的思索」に関する知識を取り入れても,「結果」すなわち,世間一般や世界にどのような「価値観」や「行ない・振る舞い」が見られるか,要するに,(やや厳しいかもしれませんが)学校で「教科としての倫理」を学んだはずの人が,どんな「実」を生み出しているかが,一つの答えになると思います。    「さまざまな宗教的価値観や哲学的思索」に関する知識・学識が,おっしゃるとおり「有効な善悪判断」につながっているとは言い難いのはなぜでしょうか。これは,難しい問題ですが,答えが得られないわけではありません。  一つには「善悪に関する規準」の「定め」の問題と,もう一つは,各人がその規準に従う,同意して遵守するか,という問題があります。  要するに,「善悪とは何か」です。この価値基準の点で,人類は長期間分裂しており,迷走しています。これは,人間は人間だけの力で「善悪に関する規準」を持つ,もしくは決定することができないからではないでしょうか。  ちょっと話しが大きくなったかもしれませんが,「倫理を勉強しても。善悪判断にどの程度有効なのか」を問わなければならない状況にあることは,まったくそのとおりであり,もっともな問いかけです。そして,その疑問の本質は,そんなに簡単ではないということです。しかし,人間はどこから来たのか,自然界はどこから来たのか,なぜ存在するのか,人間が知覚できる事実と正しい筋道に照らして,追及する価値は大いにあると思います。

noname#209756
質問者

お礼

学んでさらに行動としてできるかって大事です。 おっしゃる通り。実際の行動が悪ければ意味が少なくなりますね。 ご回答ありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.3

"宗教系の大学や哲学科などで勉強するということは、物事の善悪や真善美 (主に真理など)判断を他律ではなく、自律で一定の判断力があると いうことになるのでしょうか?過去に考えられた道徳、 倫理を一通り最低限ではあるものの知っていることにはなると思うのですけど、 これってどの程度善悪判断には有効なのでしょう。"  ↑ 大学で勉強するのは、学生に道徳を守らせるため教育では ありません。 道徳とはなんぞや、道徳の歴史、などです。 だから善悪の判断に有効かどうかなどは関係ありません。 教育で道徳は身につきません。 だから、英国などでは小学生の頃から宗教教育を やっているのです。 新渡戸稲造の武士道より。 「お国では、宗教教育をやっていないと聞きましたが  ホントですか?」 「ホントです」 「お~、それでどうやって子供達に道徳を教えることが  できるのでしょう?」 ”もし、あくまで善悪の基準は相対的であって他律的にムードや空気で 多数決で善悪など決めていくと、ヒトラーの演説といっていいのか? 刺激を与えてその場の人など支持を多数得て、悪が正しいということにも なりうるものなのかとも思えます。流されている 陪審員のみで決めている裁判のようにも思えます。”     ↑ こういう疑問がそもそもギリシア哲学発祥の原因です。 無実の罪でソクラテスが処刑されるのを目にした プラトンは、人間は間違えることを知りました。 それで間違えないようにするには、真理を探究すべきだ、 と考えたのです。 真理を見いだし、それに従えば間違えないだろう。 これが哲学の発祥です。 その後、一神教たるキリスト教とギリシア哲学が 融合し、客観的で普遍的な善悪の概念を求める 戦いが始まったのです。 だから、西洋哲学では、正義論が今も盛んなのです。 ”上記のポピュリズムの傾向が悪いとすると社会的に一定数勉強している人  が必要なのかもしくは全員やはり勉強すべきものなのか。どうなのでしょう?”      ↑ 全員が勉強する、なんてのは不可能です。 だからエリートが必要なのです。

noname#209756
質問者

お礼

エリートもしくは保守派というのは伝統など既得権益もありますが、既存の価値観も大事にはしますよね。 ご回答ありがとうございます。

回答No.2

文字など社会的二次情報(常識、お金etc.)を真に受け る人間は、歯車として体制(庶民を犠牲にしがち)に 利用される事になる。 スタートにおいては、間違いを含む多様な考えを学び、 批判力を身に付ける事も必要だ。

noname#209756
質問者

お礼

批判力はおっしゃる通りです。 ご回答ありがとうございます。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5529)
回答No.1

宗教が戦争に絡む事が有ったりします 一向一揆とか、天草四郎の乱とか ジャンヌダルクなんてのも、宗教が絡んだ戦争の指導者でしたっけ? 宗教は、善悪というよりも 「その先に有る救い」を求める事だと思います だから オウム真理教なんてのも出てきたのでしょう キリスト教だって、魔女狩りをやったのではありませんか? 救われる為なら、何をやっても良いか? という話になるのです 何をやっても良いと考える輩は 世論に潰される事になるのでしょうね 自分を救ってくれる物が、世間からどのように評価されているか? それを把握もせず、闇雲に信じるだけでは 自分を滅ぼす物を信じてしまいかねません そういう意味で 宗教について学ぶ事は大切なのではないでしょうかね?

noname#209756
質問者

お礼

宗教も良い点悪い点は判断できるように勉強したほうがいいということですね。 ご回答ありがとうございます。

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