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けんかをしては 何故 いけないのか

 ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し 思想や行動を憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。

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noname#82450
noname#82450
回答No.100

 ここで100をとらせていただきます、仁科です、  おじさんお久しぶりです、  口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ましですし、  競いあうようなスポーツは嫌ですが、  絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、  自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。自身との絶縁ですから、  自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと思います。  自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対象です。  口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになりそうなので。  自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かないかもしれません。つつましいでしょうし。  けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己批判するスキルがないということなのでしょうか、  互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開示しあうのが良いのかもしれません。  互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。  ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。  頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、  自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、  自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、  ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれませんし、  思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や集団や情報ばかりが満ちていますし、  私はかなりパラノイアっぽいせいか自己批判という言葉ばかり記述しますが、    きっとブラジュローヌさんは自己批判してきたでしょうし、しているでしょうけれど、  他者に対して自己批判よりも他者批判を多く示しがちなのかも知れません。  対話において剛と剛とでは互いに警戒しあい心の耳を閉ざしあいます、たぶん、  なので、すきを見せるとよいと思います、  弱みや、くよくよしている感じ、自信のなさを、垣間見せるとよいと思います、  そうすりゃいちころです、不完全なものに日本人は弱いかもわかりませんすら、  あえて、おやおや、おじさん負けちゃったようだ、というのは余裕なのですが、  そういう嘘や演技じゃなりません、  子どもの水準は大人よりも上です、たぶん、  大人なんか、いないのです、こんな分業ばかりの社会に一人前の人なんかいません、  狂おしい社会に順応してしまった大人は、完成度の高い狂人ばかりです。  交換券(貨幣)や労働や国などの、反アナーキーでヒエラルキアなものがひとびとを不出来な生きものにしています、  部品になっている社会人より、まだ分裂していない子どもたちのほうが個体としてはまだまともで、  未熟な大人、すなわち子ども、つまり私は健やかなのかもしれません、  私は不完全で、自信がなく、それゆえにとても謙虚で、謙虚でもなく、なんだか正しいようで、  正しいというか健やかです、不完全であるがゆえにか健やかです、  今日も私は健やかです、おはようございました、  私にとり他者一般は狂人で、ひとびとの心は壊れていて、  もう大破しているものならいっそ全壊させたいという思いがあるのか、  他者の心をすきあらば壊したがるのは私の癖としてあり、弱いものいじめは面白く、    子どものざれごとは、狂いっぱなしの大人らのたわごとより健やかなのかもしれません、そう信じます、  大人はペニスも汚ければ組織の汚い秘密をも隠すので否定の対象です。

bragelonne
質問者

補足

 ni_shi_naくん――《おぢさん》呼ばわりしたので くんづけ―― めっちゃ 冴えてるやん! どうしたの? ここで悪友どうしだと 何か変なものを食ったんっちゃうか? と突っ込むところですが 冗談は それくらいにして ご回答をありがとうございます。  もう少し長引かせるなら どこで勉強して来たん? 三日見ないうちに しゃれのめしていますではないですか。  と言っても 爪を隠していたのですかね。片鱗のみを見せていたのですかね。  まぁ おぢさんとしましては 最後の最後の一文が まだ練れていないね。あとは かがやいています。  ★ 大人はペニスも汚ければ組織の汚い秘密をも隠すので否定の対象です。  ☆ 《否定の対象》を持ち出してくるようぢゃ まだまだだね。持っていても いいのですが 表現するときには 否定形で言いきらないほうがよいでしょう。  むろん 自己否定をするのですが しかも とことん するのですが 表現は おおむね 肯定の形で出してきたほうが よいでしょう。  ★☆ 対話において 否定形で命題を提出すると 警戒しあい心の耳を閉ざしあいます、たぶん。  ☆ 一般に 肯定形にすると  《すこやか》ですし 《安心》をもたらします。  やっぱり 《おぢさん》気取りになってしまいますね。  では よけいに えらそぶって行きましょう。  ★ 交換券(貨幣)や労働や国などの、反アナーキーでヒエラルキアなものがひとびとを不出来な生きものにしています、  ☆ この箇所は 読み取りにくいですよ。表現の未熟が 思想の未熟として見られかねないのが 上に示した一箇所で そして表現じたいが読み取りにくいのは この一箇所です。  ということは わたくしも 否定形から入っていますね。肯定するところから始める ほめて育てるというぢゃないですか なんですが ここは 鬼になりましょう。もう育てる段階ぢゃないようですから。(ちょっと ほめすぎ)。  〔わたくしなんか 三十歳になるまで 世の中の 西も東も分かっていたけれど なぜ 南が西になり 北が東になるのかを 考え続けて ちんぷんかんぷんだったんですから。なぜ ひとは 平気で 東を西と言い 聞いているわたしが そのことをいぶかっているのに なお平気で そのウソをつき通しているのか まったく分からなかったのですから〕。〔《悪は存在しない》という命題を聞いて すべては 空が晴れ渡りました。分析は そのあと おこないました〕。  ★☆ 頭と言葉を使い陰気〔* であり〕な〔* がらも 前向きでたくみな〕精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  ★ ブラジュローヌ → ☆ (改名)ブラジュロンヌ  (cf. Sorbonne:ソルボンヌ; Catherine:カトリーヌ; Francine: フランシーヌ; Cannes:カンヌ〔 -s は発音せず〕)  ★ 狂おしい社会に順応してしまった大人は、完成度の高い狂人ばかりです。  ☆ 歴史知性の分類としての《ヨリ・イリ・ヨセ・コギト》に関連させ さらにくわしく その《発狂》の状態や社会情況のありさまを 分析せよ。(宿題だよん)。  あとは やはり 人びとのためになる仕事を もくもくと やっている人びとへの敬意と感謝の意を述べることを忘れずに触れていれば 百二十点満点です。  ミサイル発射に対応するため準備している人たちも おおぜい いますから。

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その他の回答 (127)

回答No.47

maimaisusです。 大切な事書き忘れていましたね。   >存在を愛し 思想や行動を憎むことです。 に私が拘った理由です。 その欠陥もまた、その人の構成物の一つだと考えているからです。 私たちから見て、欠陥でも、その人の人格に大きく影響している場合、その人格の最大の良い面の、側面である場合があったりするからです。 もちろん、その逆も、ありますけどね。 そうやって、考えていくと、正直、理解ようとするのが大変で、憎む余裕がないと言うのが、私の思う処なんですがね。 いや、正確に言えば、理解しようとすればするほど、感情の入り込むよちが無いと思うからです。 そう意味において、すぐに、感情的な話しになってしまうという事は、相手を理解していない、しようとはしていない、と言う見方もあるかもしれませんね。

bragelonne
質問者

補足

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  おっしゃっている内容は ひとつの思想だと思います。  ただ 細かいところを捉えると 扱い方も 具体的になってくるようにも考えます。  (1) 《欠陥》というとき ( a )思想として 考え方における非妥当性と ( b ) 気が早いとか しゃべり方がのろいとか くせのごとく 愛嬌だとも見なされうる欠点とで 違うのではないでしょうか。  ★ その欠陥もまた、その人の構成物の一つだと考えているからです。  ☆ という場合は ( b )のほうを取り上げておられるのではないかと思うのですが どうでしょう。  (2) そして ここでの問題は つぎの場合とは違うように思われるのです。  ★ 〔欠陥について〕そうやって、考えていくと、正直、理解しようとするのが大変で、憎む余裕がないと言うのが、私の思う処なんですがね。  ☆ 《理解しようと》しても出来ない場合には たしかに 上の( a )のような思想の非妥当性の問題ではないと思われるのです。  (3) そして 《憎む》というとき 《感情を交える》と言いましたが それは 次の中の《感情的な話しになる》ことと どうも 違うように思うのです。  ★ そう意味において、すぐに、感情的な話しになってしまうという事は、相手を理解していない、しようとはしていない、と言う見方もあるかもしれませんね。  ☆ そして また きわめて細かいことを言いますが  ★ 相手を理解していない、しようとはしていない  ☆ かどうかは 《思想の欠陥を憎む》という《批判》とは 別だと考えられるのです。つまりは  ○ 相手の思想および行動について 非妥当性があれば それを 認識し これを 自己の主観の内において 憎む。つまり その内面において 棄てる。  ☆ ということと 《相手を 人物として 理解する・しない》こととは 微妙に違うように思うのです。また こちらの《相手を理解する》というのは むしろ《存在を愛する》ことのほうと 対応していると考えられるのですが どうでしょうか。  ですから 相手を その弱点をも合わせて 全体として・存在として 受け容れ理解しようとすること これは おっしゃるように ひとつの思想を成すと思われるのですが それは この質問での《欠陥を憎む》=《批判》をするときにも 保つことができる こう 思いましたが どうでしょうか。

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回答No.46

 bragelonneさん(回答番号:No.34)  ロマン・ロランの魅せられたる魂は、ご存じではないということで、軽く払われました。  つまり平安・平和、至福、祝福というあり方は、この明暗的創造の世界では、決して自然のままではない、ということなのでしょうね。  闘いや内部的口論ですか、自己批判など、そんなものがなくしてありうるものではない。価値というものの必然性だということですね。  バガヴァッド・ギータの文章や解説は多くの方が為されていますが、やはりその方の、おこがましくもその方の高さで全く異なるものとならざるを得ないものですね。  私は、Self-Realization Fellowshipの Paramahansa Yoganandaの著述で勉強しております。私の信仰団体です。  どんな思想も、bragelonneさん、連続でありながら、個人としてはどうしても、それを現代にどうすればいいのだ、という問題はありますよね。それは個人個人の会得なんでしょうね。  現実生活にかみ合い、責任的に生かしていくにはどうしたらいいか。  世間なんて知るか、ばか者共め。とはいきませんよね。  価値への牽引の面を可視と不可視の中でもちながら、なお可視と不可視の中で、俗生、俗性と、そして安易にいく、或いは価値に対して反発や無為無策のままいく。  そういう二面のなかでの相克の現場から逃げないで、取り組んでいくことなのでしょうが、常に悲喜、哀楽、苦楽さまざまなのではないでしょうか?  だからといって、二面のいずれかだけで貫徹することの出来ないのが、凡俗さんの、衆生の現象的本性でしょうね。  まぁ悟った如くな文章作成ですが、これもbragelonneさんのおしゃれなことば表現を誤解した、独り相撲かもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。No.34のほうですね。  ロマン・ロラン 返す返すも 致し方ない思いです。にわかに対処しうるすべも ないでしょうし。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり平安・平和、至福、祝福というあり方は、この明暗的創造の世界では、決して自然のままではない、ということなのでしょうね。  闘いや内部的口論ですか、自己批判など、そんなものがなくしてありうるものではない。価値というものの必然性だということですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この箇所が 魅せられたる魂に関するものであるかどうかも 測りかねています。そしてしかも このご文章のままですと まだ 反応を持ち得るには到らないと 正直に 申し上げざるを得ません。ただし  ○ 批判としてのけんかは 避けられないものだ。  ☆ というふうに 賛同を寄せていただいたとも受け取られて来ますけれど いかがなんでしょうか。  アルジュナの苦悩をともなった思索の問題については 軽く――こんどは わたしが―― いなされてしまいました。  直前のご回答ともども 合わせて ご批判の焦点となるところを さらに明らかにしていただけると――と 何度もお願いすることになってしまいますが―― わたしにとって 問い求めがすすむのではないかと思ったりしますが いかがでしょうか。

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回答No.45

 bragelonneさん(回答番号:No.23)  ご質問の文章がおしゃれで、余韻を残したものでしたので、憎むということの意味が、俗人には伝わらないかったようですね。  おかげでとんちんかんな投稿をして、「練り上げて行ってください」というご注意を賜りましたね。  この字面に直面したとき、それだけで小胆の余輩は度肝をぬかれ、平伏した、昨日から逃げておりました。  要するに、価値的な反発と牽引のことなのでしょうね。  そうなら、私も、 bragelonneさんとともになるかどうかは別に、反発と牽引はありまして、これがいけないとは少しも思っていません。  すばらしいタームの駆使のようで、戸惑ったのか、或いは又、更に誤解なのか。  多分ご質問の真意を誤解しているのでしょうが、私の理解であれば、bragelonneさんがご質問する必要もないことですものね。

bragelonne
質問者

補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。おもに No.23のほうで ご回答を継いだ内容として受け取りますが そのご趣旨は つぎのようになるでしょうか。  ○ 〔存在を愛し〕 思想や行動〔の欠陥〕を憎むこと  ☆ は  ★ 要するに、価値的な反発と牽引のことなのでしょうね。  ☆ ただし  ★ 〔この《価値的な反発と牽引のこと》という〕私の理解であれば、bragelonneさんがご質問する必要もないことですものね。  ☆ という理由で  ★ 多分ご質問の真意を誤解しているのでしょうが  ☆ と受け取っておられるということだとなるでしょうか。  わたしのほうも 言葉の定義が分からないと感じられて あいまいになりますが 《批判》ということについて 補足してみます。  ☆☆ 憎むというのは その思想ないし思惟の形式を 批判しつつ 遠ざけるという意味です。批判が 主要な作業です。  ☆ というときの《批判》についてです。  まづ  ★ 反発と牽引  ☆ というときには おそらく あたかもNとSの両磁極が互いに反応するかのように 感覚的な動きのことだと考えられます。ところが  ★ 価値的な反発と牽引  ☆ と言えば それは 磁極の相互反応といった知覚の問題を超えて おのれの価値判断をはさんで 意志表示をおこなうことだと捉えられます。もし そうでしたら このことが 評価であり 批判という行為だと捉えて 差し支えないと 理解しております。  つまりは   ○ 思想ないし思惟の形式について 《わたし》が 妥当ではないと判断した箇所に対して 《価値的な》反発をおこなうというかたちで おのれの内面において《憎む》。  ☆ こう考えております。  ○ 憎むとは 認識したあと それを棄てるという意味です。  ☆ しかも これを どこまでも 内面において 棄てます。  そうして 批判という行為であれば このことを 相手に 伝えるという表現行為をともなうということになると考えます。  以上のような理解になりますが もしそうだとすれば  ★ 質問する必要もない  ☆ となるでしょうか?  このあたりは まだ わたしには 読みが行き届かないところです。補足していただければ ありがたいと存じますが いかがでしょうか? ここまで鈍い読解力に対しては 腰が引けるのも むべなるかなとおっしゃらずに ご説明をいただければ さいわいこの上ないと存じます。

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  • sakusya
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回答No.44

 回答を投稿した後、「ああ、言葉が足りなかったな~」とか、「ちゃんと伝え切れていないかもな~」と、考えていました。返答もなかったですから、少し不安でもありました。  いや、別に喧嘩を意固地になって毛嫌いしているつもりで書いたわけではなかったのです。喧嘩によって起こるマイナス面をどれぐらいの重さで認識して、プラス面を唱えているのだろうかと疑問に思ったので、書いているうちにそこに批判的な文章になってしまいました。なので、質問者様が返答で書いたようなことを、俺は意図していないはずです(多分)。  喧嘩のプラス面にはほとんど同意しますが、かといって意図的に扱うことは非常に難しいし、ヘマをすれば取り返しのつかないことにだってなる危険なものです。例えるならニトログリセリンでしょうか(あまり妥当な例えとは自分でも思いませんが)。そういう点で質問者様はダイナマイト程度には加工できていると思います。それでも爆発の可能性は捨てきれないわけですが。 そのように加工して扱えるのならまだいいですが、加工はおろか、そうそううまく扱える人もいないでしょう。そういう点で、やはり一般的に駄目だという考えは変わりません。 喧嘩は確かに捨てたものではないでしょう。でも取り扱いには気をつけたいものです。注意すべき点を心がけた上で望み、マイナス面によって起こりうる大きなリスクを覚悟してまで、喧嘩をするというのならそれは自由だと思います。  喧嘩を爆弾に例えたかったのですが、イマイチうまくいっていない気がします。昔のフグ屋を例えに使ったほうがよかったかもしれません。「美味しいのは分かるから、死を覚悟しているのなら食べるのは勝手だけれど、それで死んだときに墓を作ってお前を埋めて、お経を読んだりするのは他の色んな人なんだぞ」みたいな感じでしょうか。 フグが美味しいものであるとはいえ、そうポンポン死なれてしまっては困ります。そりゃあ、豊臣秀吉だって禁止にします。今でこそフグは普通に食べられていますが、喧嘩はまだまだその域に達していません。今日び、質問者様のような調理師も出てきましたが、やはりまだまだ安心して食せるレベルに、喧嘩というフグは達していないと思うわけです。 質問者様のフグの捌き方は中々に綺麗だと個人的には思いますし、食欲もそそります。ただ毒があるかないかに一抹の不安を感じました。これを捌いた人は、毒がどこにあるかちゃんと分かっているのだろうか、と一般客は不安になって尋ねるわけです。「だいたい分かっています」と言ってきたら、「しっかり理解していないのに、大っぴらに店を開いて、客に食わせようとするな」となりますし(この反応が前回の俺の回答になってしまったわけです)、「しっかり心得ております、安心してお召し上がりください」と言われれば、客はその後何も言わずにおいしくフグを食べます。 その点で、質問者様はどちらなのだろうかと疑問に思って尋ねるわけですが、そこは批判的な文章になってしまい、ちょっと心苦しい限りです。とはいえ、調理師が自分はフグの毒の在り処と捌き方を心得ているからといって、一般人に「フグは美味しいですよ」というのは危険ではないかと思うわけです。そもそも美味しいことを分かっている人からすれば、「うまく捌けないんだから食べられない」となりますし、知らない人はフグの美味しさを知ったことに喜び、捌き方も知らないのに自分で捌き、それを食べて死んでしまうということになるわけです。ちゃんと捌ける人が、捌けない人より少ない以上、やはり喧嘩というフグを気軽に食べるのは難しいですし、危険でしょう。 フグを食べたい人全員が毒のありかと捌き方を心得て、調理師の資格を取るなんて現実的ではありません。なので一般的に「できるのならしないほうがいい」という考えなのでしょう。それに、仮に食べられるとしても、フグが不味くて元々嫌いだという人もいますからね。 ちょっと例えの話を引きずりすぎましたが、意図は伝わりましたでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 sakusyaさん なかなか 泣かせる文章をお書きなのですね。打って変わってとは もう申しません。ありがとうございます こころのこもったご回答を。  このわたくしめも こころに省みておりまして ふたつ前の応答では つぎのように書いたところです。  ☆☆ (No.42お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あとは どのように対処するか この質疑応答の場で どうするか になりましょうか。  第三の道が あるかも分かりません。相手と しっかり 向き合い しかも けんか ないし 批判に ただちには 入らずに その対峙の姿勢を じっくりと保ちつつ 少しづつでも 言葉を発していく。あぁ 頭は使わなければいけませんね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なかなかの調理師だとお褒めにあずかり この反省のことを思うと 冷や汗ものです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ毒があるかないかに一抹の不安を感じました。これを捌いた人は、毒がどこにあるかちゃんと分かっているのだろうか、と一般客は不安になって尋ねるわけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 舞台裏の話をしますと 実際問題として わたしは 一対一の対話に ぶっつけ本番で 入っていくのが つねです。次の場合は つねでしたと言わなければなりません。つまり けんかは その延長線上にあります。むろん 受けて立つ場合のみです。  ですから その場面のさ中には 《毒がないかどうか / どこにあるのか / いったい どういう毒か》 こういうことに 言ってみれば無頓着でした。  やや そのための前提理論としましては  ○ 麦の中に 毒麦が 混じって 生えてきていても ただちに 引っこ抜かない。  ☆ という方針ではあります。で いまは 関白sakusyaさまの いましめの甲斐があって No.42お礼欄のごとく 考えております。  まづは めでたし めでたし と言って いいでしょうか。いいのではないでしょうか。  ありがとうございました。こういうすがすがしいご回答に接しては 言葉が多すぎてはいけないでしょう。ではでは。

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noname#81313
noname#81313
回答No.43

 けんかを自己批判に限定してみます。それがいけないのはきっと、知ろうとする自分には神の痛みを愛せないからだと思います。「ローマの信徒への手紙」にてパウロは、「すべて人を裁く者よ」と言いますが、すべての人には自分も含まれるでしょう。あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。

bragelonne
質問者

お礼

 (4:1)こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。  この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。  (4:3)わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。  (4:4)自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 4:3および4:4が 上で捉えたものと同じ思想を表明しています。と同時に 4:1が 《神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです》とも言っています。  つまり これに基づけば 何がしか 《さばく》に似た判断と表現行為を ひとに対して パウロはおこなうと言っているようにも思われます。  パウロに倣うならば さらにその内の何分の一の何がしかのことを わたしたちも 人間の身分でありながら おこなうということになるかも知れません。どうでしょうか?  ここまでを ご返答としてよいでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 passcardさん ご回答をありがとうございます。  ★ けんかを自己批判に限定してみます。  ☆ ここからの突っこみですね。  ★ それがいけないのはきっと、知ろうとする自分には神の痛みを愛せないからだと思います。  ☆ 《神の痛み》またそれを《愛する》  むつかしいところを出して来られますね。後回しにしまして  ★ 「すべて人を裁く者よ」と言いますが、すべての人には自分も含まれるでしょう。  ☆ 《裁く》とは何ぞや? になるでしょうか。  ▲ ( ローマ書1:29-2:1)~~~~~~~~~~~~~~  すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、  そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、  無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。  彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。  だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは 《自己批判》をするとしても 自己批判によってさえも 《弁解の余地はない》はづなのだから そのように《さばく》ことは いけないことだ。となるでしょうか。  ▲ (ローマ書2:2) 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。  ☆ のなら 他人をも みづからをも さばくことはならない と。  ▲ (2:3) このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。  ☆ 逃れられるとは思っていないけれども 《さばき》は 任せるべきだとなるでしょうか。  ▲ (2:4) あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。  ☆ 直前と 同じようなことでしょうか。任せないとすれば 《神の痛みを愛せない》ことになる と。  ▲ (2:5、11) あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。・・・ 神は人を分け隔てなさいません。  ☆ というふうに 続いています。  うううーん。どうでしょうか。  ちょっと 神学に傾きますが 次の文章を参照します。  ▲ (パウロ:コリント前書3:16-4:4) ~~~~~~~~~  あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。  神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。  だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。  この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」(ヨブ記5:13)と書いてあり、  また、「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」(詩編94:11)とも書いてあります。  ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。  パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

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noname#155689
noname#155689
回答No.42

お返事ありがとうございます。 近頃珍しく時間が空きましたが お変わりございませんか。 > ★ これ以外の所 > ☆ が さらに 明らかになれば いいと思います。どうでしょうかねぇ。 今回のご質問はいつもよりと形而下の何らかの出来事との関わりが 深いのではないか?と少々勘ぐって 先のような回答を致しました。 もし下衆の勘ぐりがそんなに的外れでなければ 形而下の問題を形而上で解決しても 有効性はあまりないのではないでしょうか、というようなことが お伝えしたかったのです。 それというのも 形而下(経験世界)で言う「けんかをしては いけない」なんていうのは 建前であることが多いと思っているからです。 本音は 「ここで喧嘩をすると私が迷惑するのでやめてください」とか 「私の目の前で喧嘩をするのは目障りです」とか そんなことが多いのではないでしょうか? つまり、形而下では > けんかをしては 何故 いけないのか という問いは ・誰がそんなことを言っているのか ・どういう背景や文脈でそんなことを言い出したのか を明らかにする作業だと思います、ということです。 形而上の問いでしたら すいません、私も理由が分かりません。 他の方の回答を、私も参考にさせて頂きます。

bragelonne
質問者

お礼

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。  なるほど 野暮――という表現が適当かどうか 分かりませんが――を言っていても始まらない といったところでしょうか。じっさい 事件は起こっているのだよということですよね。  あるいは こうでしょうか。好きも嫌いもなく けんかは するときには するのだ。したいと思う者は 理由も関係ないというほどに するものだ。でしょうか。  そういう観点から捉えておくことも 大事――と言いますか 現実的――になるでしょうね。  あとは どのように対処するか この質疑応答の場で どうするか になりましょうか。  第三の道が あるかも分かりません。相手と しっかり 向き合い しかも けんか ないし 批判に ただちには 入らずに その対峙の姿勢を じっくりと保ちつつ 少しづつでも 言葉を発していく。あぁ 頭は使わなければいけませんね。  ありがとうございました。

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回答No.41

こんばんは、bragelonneさん。 【~世界を視野に入れた花き経営の展開に向けて~】 http://www.n-nourin.jp/oh/kakikyou/menu/topics/H17/09sisetuseminer.html 【菊の高騰】 http://blog.goo.ne.jp/koikeblog/e/50a6f54f69e57c46759b6d005565bc2c 【菊の栽培法】 http://www.afftis.or.jp/kiku/kiku05.htm 【黒斑病・褐斑病】 http://www.epcc.pref.osaka.jp/afr/zukan/009.htm 【秋葉原通り魔事件 献花台に群がるマスコミ】 http://blog.livedoor.jp/geek/archives/50671810.html 叩き台

bragelonne
質問者

お礼

 littlekissさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 叩き台  ☆ ということのようですが どうでしょう。  ううーん。いま一たびのほのめかしを !!!  というのが 正直なところです。  ○ ここは 献花台になっていて 野次馬がうようよしている。  ☆ ってことですか?  ○ 菊を みんなで育てましょう。そのような花卉類を 世界を視野に入れて 育てましょう。  ☆ というようなことでしょうか?  残念ながら 今回は お手上げです。さらに 進めてください。

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noname#117439
noname#117439
回答No.40

オコリザルです。 さらに、さらにです。 報われてこその愛。 この表現は十分に娑婆臭いです。 確かな答えが響いてこその愛。 この表現が忠実です。 娑婆に世話を焼くなら、確かな答えが響いてこそお互いが愛であるとわかると、表現します。 この僅かな表現の違いに見え隠れする「欲」なり「悪」があります。 全てが愛。 欲望は何らかのへそ曲がり。 又は優柔不断ゆえの無自覚。 無自覚は深刻な病理です。 自らが判ったつもりでいるだけで、実は何も判っていないことです。

bragelonne
質問者

お礼

 オコリザルさん ご回答をありがとうございます。  さらに さらにです。  ★ 確かな答えが響いてこその愛。 / この表現が忠実です。  ☆ たぶん こういうふうだと わたしも 考えます。  直前の応答の中にも書きましたが しかも このとき 相手の状態に そのことが現われているかと言えば そうではない場合が 多いのではないでしょうか。  でも こちらの側としては けっこう 感覚として その《答えとしての響き》が分かることがあります。一たんとしてだけの場合も あるでしょうし 基本的に響きが成ったという場合もあるでしょう。どうでしょうか。  けっきょく まわりまわって 愛は その結果を 一つひとつ 出していくというふうにも 予感します。予感のままに終わったとしても 予感は 現在のものですし 現実だと考えますが どうでしょう。

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noname#117439
noname#117439
回答No.39

オコリザルです。 おこられる前に謝罪です。 A38で「結して報われない」ことの悟りと言いましたがそれならば「欲望は報われない」の意味です。 戦う姿勢がおありならこれは激励ですが、とりすがる姿勢であれば「お前さんの本質は欲望である」との屈辱です。 この屈辱はお金に変えられないプライドをお持ちの方にとっては平謝りの暴言でして、実際に「本質」(の類)にとってはそれでしかるべきです。 ところが世の中馬鹿が多いからお金に換金できるニセモノのプライドしか自覚できないカワイソーなお方ばかりなんですよね。 このように言い放ったばかりであれば私は悪です。 救って見せてこそ善性の証明なのですが私に言わせれば愛は無償ではありません。 報われてこそ自らが愛であると証明できます。 それから >殺人未遂宣告を明白に出すべきでしょう。 この物言いは娑婆臭いのでその程度としてあしらってください。 悪が存在しうる世界(娑婆)ならば殺意です。

bragelonne
質問者

補足

 オコリザルさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  今回は いろんな場合があるという これまた 月並みな内容の応答になると思います。  ★ 欲望  ☆ でも 一たんは それが 報われる場合があります。あるいは 本人は 自分のちからで その結果を獲得したと言うという場合でさえあるでしょうけれど。  ★ 救って見せてこそ善性の証明なのですが私に言わせれば愛は無償ではありません。 / 報われてこそ自らが愛であると証明できます。  ☆ これは 微妙な問題をはらむように思います。まづ  ★ 救って見せてこそ善性の証明なのですが  ☆ この《救って見せる》という表現じたいから 微妙な問題をはらむのではないでしょうか。  人間は 救いのお手伝いをしますが 救うのは 人間ではないはづです。強いて言えば――無神論に立って 強いて言えば―― 自然治癒のごとく 本人が自分を救うのでしょう。自己責任と言うのと同じように 自己救済なのでしょう。そういう事情のもとに 《救って見せる》と《善性の証明》とがあるのだと思います。  ★ 私に言わせれば愛は無償ではありません。 / 報われてこそ自らが愛であると証明できます。  ☆ そうですね。実践論としておっしゃっているようですので 理論の問題を出して来ても すれ違いでしょうが いちおう 述べてみておきます。  人間の成す愛の行為は 基本的に言って 無償ではありません。そういう心を 意図せずに思わず持っていたと あとから 気づくことがあるかも知れませんが 無償の愛をかかげていることと それが 出来るということとは 別だと考えます。  そうなのですが つまり そこまでの基本を言った上でなのですが 愛は やはり 無償です。と考えます。  その意味は もし愛を成し得たという実感と理論性があるならば そのときには その愛は もはや 償いを求めませんし 報われることをも求めてはいません。  償いについては 相手が 出してくれば 相手の事情や心に応じて 受け取ったり受け取らなかったりするでしょう。報いについては むしろ 何ものかなぞの存在からの報いでしょうから あとは もし報われることがあったなら そのまま ありがたくもらうことになるのではないでしょうか。  たぶん 実践論としてのねらいは そうではなく――上のような理論の問題であるよりは―― 相手が その後 どういう状態になるか 相手のその後の結果を問題にしているのではないでしょうか。こちらが報われるかや償いを受けるかではなく 相手が ほんとうに どうなったのか このほうに 目が向いているのでしょう。  そして その気づかいは 正当なものだと思いますし しかも それは 他者には 分からないというのも たぶん ほんとうのことだと考えます。感覚として分かるように思うことがあるでしょうが だからと言って さらにその後 どうこうすることが出来るかと言えば やはり お手伝いをするという基本姿勢でいるしかない こう考えます。  要するに 相手が こちらの側の お手伝いとしての 広く一般に愛の行為を 受けたあと その後の状態の推移や結果は やはり こちらの側から どうこうすることは出来ない こう 思います。仮りに振り出しに戻ったとしても それで ふつうだというくらいに思っておけば いいのではないでしょうか?  たしかに こういう経過をたどるような行為関係が けんかには あるかも知れませんね。競うほうには です。

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noname#117439
noname#117439
回答No.38

オコリザルです。 今回のご質問とは無関係にお知恵を拝借です。 無神論の立場として、(これは存在至上主義とも言いえますが、)ない物は無いと悟りきる(弱者にとっては諦めですよな)ことは、有神論の立場にとって、いわば「結して報われない」ことの悟りでしょうか? これは明らかに一致していますが、哲学的に説明できますでしょうか。 今回のご質問は論理を戦わせるルール作りにおいて意義がありますが、争うことと競うことを明白に区分するだけだろうと思います。 哲学カテにおける論議を愉快にするためには、自らが争って不毛の大地を作るためなのか、それとも競うことによってお互いに切磋琢磨するためなのか、各回答者様は今回のご質問に対する回答によって間接的に(無自覚に)自らの姿勢を表明しているはづです。 bragelonneさんの張ったそのような罠に対して確かな答えを出すべきでしょう。 争う姿勢は心に対する殺意です。 殺人未遂宣告を明白に出すべきでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 オコリザルさん 遅くなりました。ご回答をありがとうございます。  簡潔にまいります。  ★ 殺人未遂宣告を明白に出すべきでしょう。  ☆ なかなか勇ましいお言葉をいただきました。  前半については まづ  ○ 報われるとは どういうことか?  ☆ この問題があります。話を端折りますし またまた ええかっこをして述べます。  或る時点で からだも こころも あたかも たも(網)で掬われたかのように感じたとき(つまり 信仰を与えられたとき) この生 じたいが 恩恵を受けたそのものであり すべてが賜物であることになったということかも知れません。そこが 出発点だったのではないでしょうか?  その上で――しかしながら―― 願いがあれば その願いをかなえて欲しいと 露骨に すがることも 信仰者として あると思います。そのための努力も むろん するわけですから 実際に 報われるか否かという見方も 持ちます。  けっきょく――ところが 今回は ちょっと 無難にまとめようとしているようですが―― 同じく出発点において 《みこころのままに》とも言っており 思っているわけですから 残念だったなら 残念だったということです。  また それに ものごとは どれか一つのこととして 独立しているわけではなく ほかのものごとと関連し 連絡している場合さえあると思われます。そういう理由で 一つが叶えられなかったからと言って 問題が起きるというふうにも 見ないのが 正解だと考えています。  また――同時にですが また―― 叶う叶わないは 一般に 相手のあることでもあります。相手の情況や問題点にも 実際には かかわっていると考えられます。自分の願いが叶えられなかったことは 相手の情況に応じて そういう結果となった要素もあるでしょう。  さらにそして 自分の願いというとき その願いの中身にもかかわっているかと思います。もう少しその願いをめぐるあなたの思いを練ってからにしなさい ようく練り上げてみなさい というメッセージをもらっているのかも知れません。  そんなふうで 願いと諦めとにかんしては さまざまな要因がからんでいるのではないかと――けっきょくこれは 一般論ですが―― 思ったりは します。  ですから  ★ 悟り 悟り切る  ☆ についても 一概に それが いいか悪いか 正解かどうか これは よく分かりません。  そのひとの主観としては 悟りが成ったというなら それは 悟りであるだろうか? これも 願いの問題に関する限り よく分からないのではないでしょうか。  問題は 一たん 叶えられなかったときに どういう判断を下すかというよりも――という意味は 確信をもって 判断をくだすのが よいと思うのですが そのこと自体よりも さらに――重要なこととしては 次の一歩をどう取るかです。  次の一歩の内容を 報われなかった願いと関連させたものとしてもよいでしょうし させなくても よいでしょうから あらたに どう自分は踏み出すか これに 言ってみれば 悟りの悟りたることは かかっているのではないでしょうか?  一応 自分の経験に即して 考えていることを述べてみました。  さらにさらに自由な発想において もっともっと自由なかたちの突破口が おのおのに あるかも知れません。わたしの体験は 旧いかも知れません。そういうふうに捉えていくのが よいと考えますが いかがでしょうか。  そういうときに けんかが 起きたとすれば どうするか これも 問題になっているようです。競えばよい 争う必要はない ということになるでしょうか。

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