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けんかをしては 何故 いけないのか

noname#117439の回答

noname#117439
noname#117439
回答No.39

オコリザルです。 おこられる前に謝罪です。 A38で「結して報われない」ことの悟りと言いましたがそれならば「欲望は報われない」の意味です。 戦う姿勢がおありならこれは激励ですが、とりすがる姿勢であれば「お前さんの本質は欲望である」との屈辱です。 この屈辱はお金に変えられないプライドをお持ちの方にとっては平謝りの暴言でして、実際に「本質」(の類)にとってはそれでしかるべきです。 ところが世の中馬鹿が多いからお金に換金できるニセモノのプライドしか自覚できないカワイソーなお方ばかりなんですよね。 このように言い放ったばかりであれば私は悪です。 救って見せてこそ善性の証明なのですが私に言わせれば愛は無償ではありません。 報われてこそ自らが愛であると証明できます。 それから >殺人未遂宣告を明白に出すべきでしょう。 この物言いは娑婆臭いのでその程度としてあしらってください。 悪が存在しうる世界(娑婆)ならば殺意です。

bragelonne
質問者

補足

 オコリザルさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  今回は いろんな場合があるという これまた 月並みな内容の応答になると思います。  ★ 欲望  ☆ でも 一たんは それが 報われる場合があります。あるいは 本人は 自分のちからで その結果を獲得したと言うという場合でさえあるでしょうけれど。  ★ 救って見せてこそ善性の証明なのですが私に言わせれば愛は無償ではありません。 / 報われてこそ自らが愛であると証明できます。  ☆ これは 微妙な問題をはらむように思います。まづ  ★ 救って見せてこそ善性の証明なのですが  ☆ この《救って見せる》という表現じたいから 微妙な問題をはらむのではないでしょうか。  人間は 救いのお手伝いをしますが 救うのは 人間ではないはづです。強いて言えば――無神論に立って 強いて言えば―― 自然治癒のごとく 本人が自分を救うのでしょう。自己責任と言うのと同じように 自己救済なのでしょう。そういう事情のもとに 《救って見せる》と《善性の証明》とがあるのだと思います。  ★ 私に言わせれば愛は無償ではありません。 / 報われてこそ自らが愛であると証明できます。  ☆ そうですね。実践論としておっしゃっているようですので 理論の問題を出して来ても すれ違いでしょうが いちおう 述べてみておきます。  人間の成す愛の行為は 基本的に言って 無償ではありません。そういう心を 意図せずに思わず持っていたと あとから 気づくことがあるかも知れませんが 無償の愛をかかげていることと それが 出来るということとは 別だと考えます。  そうなのですが つまり そこまでの基本を言った上でなのですが 愛は やはり 無償です。と考えます。  その意味は もし愛を成し得たという実感と理論性があるならば そのときには その愛は もはや 償いを求めませんし 報われることをも求めてはいません。  償いについては 相手が 出してくれば 相手の事情や心に応じて 受け取ったり受け取らなかったりするでしょう。報いについては むしろ 何ものかなぞの存在からの報いでしょうから あとは もし報われることがあったなら そのまま ありがたくもらうことになるのではないでしょうか。  たぶん 実践論としてのねらいは そうではなく――上のような理論の問題であるよりは―― 相手が その後 どういう状態になるか 相手のその後の結果を問題にしているのではないでしょうか。こちらが報われるかや償いを受けるかではなく 相手が ほんとうに どうなったのか このほうに 目が向いているのでしょう。  そして その気づかいは 正当なものだと思いますし しかも それは 他者には 分からないというのも たぶん ほんとうのことだと考えます。感覚として分かるように思うことがあるでしょうが だからと言って さらにその後 どうこうすることが出来るかと言えば やはり お手伝いをするという基本姿勢でいるしかない こう考えます。  要するに 相手が こちらの側の お手伝いとしての 広く一般に愛の行為を 受けたあと その後の状態の推移や結果は やはり こちらの側から どうこうすることは出来ない こう 思います。仮りに振り出しに戻ったとしても それで ふつうだというくらいに思っておけば いいのではないでしょうか?  たしかに こういう経過をたどるような行為関係が けんかには あるかも知れませんね。競うほうには です。

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