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言葉は真理を伝えない

tumaritou1の回答

回答No.17

面白い話ですので参加させて下さい、心理と言う事がテーマなのか、言葉の持っている力のことなのか?それは置いておいて、感じた事を書いてみます。 貴方の言いたい事は「人間の到達出来て得られる真理」と言う事かと思います。この事を伝えたいと思うのなら、例えば砂糖の味を、砂糖を知らない人に説明するという試みを考えてみた場合に、創造出来ると思います。この為に聖書があれ程厚くなっています。又仏教の経典があれ程、多くなっています。 仏教の経典においては、時代が相当古くなっています、同じ国の言葉であっても、1,000年も、2,000年も昔の言葉は分からないと思います。まして言葉を翻訳に次ぐ翻訳と言う事で伝えられています。分かり難い事、この上ないと思います。 そのために、お釈迦様は、お経によらない教えを残しました。是が禅と言うものです。それで、本当は禅については門外漢ですが。鈴木大拙博士の著作したものを学ぶうちに、禅問答が解けた経験から「人間の心の秘密」を書いてみます。 人間の心は二つ在ります、この事が人間を悩ましくしています。子供のうちは脳が未だ発達していないために、心は未だ二つになっていません、是が聖書による「天国に一番近い存在は幼子」と言う意味になります。 処が成長してゆく時に、脳の機能の分化が完成に近くなります。この事が人間を悩ましくさせます。すなわち分別が出来るようになると言う事です。是は「意識をして」世の中を見る、と言う事です。世の中を論理的に、分析したり、反省したり、比べたりする事になります。この意識をして世の中を見る、と言う事が「アダムとイブが知恵のリンゴを食べて、天国から追放された」と言う意味になります。 どういう事かと言いますと、是は心の分裂を意味するからです、物事を二元的に見ると言う事です。二元論の始まりと言う事です。目の前の出来事を二つにして、天国と、地獄と言う風に二つにして見てしまう事です。それだけならまだよいのですが、地獄に落ちて、這いあがれなくなってしまう場合が出てくる事が在ります。 何も無い処に自分自身を、自分自身が縛り付けてしまうと言う事です。これほどではないにしても、子供のようには心は自由にはなれなくなってしまいます。子供のようには楽しめなくなってしまう場合が在ると言う事です。 子供の時には親に抱きしめられただけで、安心しきっていられました。大人になって、どこか不安が頭をもたげてくると言う事が在ります、漠然とした不安です、安心できなくなった心持が在ります。是は自我意識が意識をしたせいですが、この意識が持続した場合には大変つらい気持が待ち受けています。 この心の違和感を体に向けた場合には「自律神経失調症」心に向けた場合には「精神疾患」自分の行動や社会生活一般に向けた場合には、広い範囲での「ノイローゼ或いは神経症」と言う事になります。この事が、お釈迦さまが言っていた「一切皆苦」という世界です。 一切皆苦と言う事は「意識地獄」と言っても良いと思います。意識した事が症状名になっていて、さらに、又意識してしまって、意識から心が離せなくなってしまう事だからです。この事が生き難さとして現実に起こっています。 この事の解決が本当は宗教の本来の目的かと思いますが、余りこの事には気が付いている人が居ないように見えます。 是は脳の機能が分かっていな事から起こっている問題です。人間の脳には二人の人格が存在しています。スペリー博士の研究成果が物語っています。一人は自分を認識している左脳に在る自我意識です。 もう一人は右脳に在る意識です。是が仏性と言うものです。無意識界、或いは潜在意識界の主人公です。命の働きそのものです。体の機能まで変化させる事が出来る者です。意識と無意識が常に入れ替わっています、ですが自我意識には、はっきりとは認識できない、或いは認識し難い、とも言えます。ですが出会った感想は「今更、お前は誰かと聞く必要はない」と誰もが見性した時の事を言っています。 悟りを開くと言う事の意味を書いてみます。 一つ目は、自我意識を不安にさせていたもの、そのものと出会うと言う事になります。不安は仏性が自我意識に加えている圧迫です。自我意識が「意識をして苦しんでいるのを見かねて、助けたいと言うアピール」是が、精神疾患の元になっています。是は心の矛盾と言う風に置き換えても良いものです。出会う事によって、心の矛盾が解消すると言う事になります。 二つ目は、お互いの機能が違っていると言う事を認識し合うと言う事になります。自我意識は割り切れる事を専門に行うと言う事です。割り切れる事とは有限の事と言う事になります。言い方を替えたならば「割り切れない問題は、専門外で在って、能力オーバーな問題と言う事になります。 割り切れない問題と言う事は、永遠に属する問題是には宗教問題や人生問題など、他には感情や感動など、情緒に関係している事になります。是等は、全てが矛盾に満ちていて計算では割り出せない問題と言う事が言えるからです。 従って悩みや、苦しみや、精神疾患などで生き難い思いをしている事は、問題を、問題の解決能力のない方の脳で処理をしようとしていると言う事になります。この事が判らない事から心の病は「完治」と言う事を言う事が出来ないでいます。 禅問答の中にはこの解決方法が在ります。禅問答が解けた時には「生死の問題が解決した」と言う風に言います。どうしてかと言いますと、右脳の意識は「神、仏」そのものと言えるからです。簡単に言いますと「神に会って和解した」と言えるからです。二度と心が騒がない。心の分裂が無くなってしまうからです。 禅問答を解く事は、人間の隠れていた脳の機能を再発見する処に在ります。この機能こそ人間に安心と自由と、創造を与えてくれるものです。 自分自身が分からなくて苦しい想いをしている事を「無明」と言います。自分自身を知ると言う事が本当の人生の始まりになります、心が自由に働くからです。自分自身を知るのには、大変参考になるものが在ります、先に書いた鈴木大拙博士の書いたものです。自分自身を知ると言う事が出来たなら、精神疾患の完治となります。心に在る「恐れ」と言うものが「安心」に替るからです。

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