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善悪と善行悪行とは違う

bananasandの回答

回答No.7

イメージし易い例示としては、 アウシュビッツのガス室担当看守(ドイツ人)は、 良き夫であり、二人の男の子の良き父親であり、 かつ、自らも国のために疑いなく尽くしていた ということでしょう。 (ドイツ人戦犯の話をTVでやっていたと記憶してます。) 鬼畜の行為も本人にとっては崇高な思想による善行でなされるということですね。 ・・・そういえば・・・http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4407292.html​ を覚えてますか。 qsxdrfvgyhさんが基準を明確にしろと口火を切ってますね。 ごもっともです。 家畜の屍肉を食らいながら、家畜の命の重さを平気で語る逆立ちしたくなるような 自己分裂 も善意の在る悪行なんでしょうかね。 この本人達さえ気が付かない善悪の内部共存が対存在の典型例なのかもしれませんね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

さらなる投稿、ありがとうございます。 そうですね。 罪無き者など、何処にも居ないということだと思います。 罪とは無関係だと誰もが思いたいにもかかわらず、皆罪びとです。 ご回答いただいた悪行の二例が、「善なる意思」と言えるかどうか、僕には分かりませんが、ただ、独善的であると言えそうではあります。 リンク先の質問の件は、種別の命の比較とか優劣とかは、誰も決定できないでしょうと言いたかったわけです。ですから、絶滅収容所の行為は集団的で独善的な悪行だと思いますし、肉食でも草食でも独善的で罪ありと言わざるを得ないと思うのです。ただ、もしかすると善悪を超越していたり、善悪判断不能なのかも知れず、発言に自信がありません。 bananasandさんに限らず、今後の回答・投稿で教えていただけたらと思います。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

少しだけ、補足します。 >本人達さえ気が付かない善悪の内部共存が対存在の典型例なのかもしれませんね。 そうだと思います。 罪びとでありつつ、善行もなしている者でもある。 対存在という以外に、適切な表現が思い付きません。 決して、純然たる「罪びと」だけと思ってはいけないのだと思います。

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