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量子力学?実験@ヒト 2

shiaraの回答

  • shiara
  • ベストアンサー率33% (85/251)
回答No.2

どういう実験だったのか、その説明がなければ、何を目的にしたのかを推測することはできません。

noname002
質問者

補足

早速の御投稿、有難うございます。返事が遅れ失礼しました。 質問本文に挙げた >両者の衝突を故意に仕組んだりなどした ということです。 要するに、こちらの気持ちなどを無視して無理やり争い状態に持っていこうとしたわけです。(たとえば男女の三角関係的な) どこからが実験で、どこからその範囲外なのか私は正確には知りませんが、その場において、かかわっていた人たち、それぞれの思惑が錯綜していたもようです。そのため互いの意思疎通に齟齬が生じ、失敗したらしいです。 ヒントとして舞台は、とある哲学系掲示板 登場人物は、科学分野の専門家にして記号論理学の信俸者である男性一人(及び傍観者としての男性一人)に女性二人(一人は古参、抑圧傾向の顕著な文章を書く。一人は男性に勧誘された新入り) なお、以下は哲学カテゴリーでのスレ 『人間にとって物語って何なのでしょう?』No.8御回答からの抜粋です。(この御回答者は間接的に関係がある人です) 「二、三歳くらいの女の子が電車に乗っています。初めて電車に乗りました。「電車」という言葉も初めてです。だからこの子は「デンシャ、デンシャ」と嬉しそうにつぶやきながら外を眺めています。ところが突然妙なことを言い出しました。 「ママ、デンシャってにんげん?そえとも、おにんぎょう?」 …… この子の内面では、それまで以下のような「世界の分節化」(世界の整理棚)があり、それで何ら不都合なく生きていられたのです。すなわち    「柔らかくて、暖かくて、動くもの=人間」    「固くて、冷たくて、動かないもの=人形」 です。 ところがこの日、初めて電車に乗った。「固くて冷たいけど、動くもの」に遭遇したのです。それで「どっち?」ということになったわけです。 …… この女の子が上記二項からなる整理棚に拘泥しつづけるかぎり「電車」は未知のものであり続けます。実際にはそうではないでしょう。いずれ彼女なりの「物語」を経て    「固くて、冷たいけど、動くもの=機械」 という第三の棚を「析出」させることでしょう。彼女に与えられた世界そのものには何の変化もありませんが、彼女の中で、この世界を整理する仕切りが一歩、細かくなるのです。すると…「電車」なるものは彼女の言語体系の中に「安らかに収まる」ことになります。 ここで言えることは、彼女は世界に新しい区切りを投げかけている(分節化している)と同時に自分自身の内的言語体系の中にも新たな区切りを刻んでいる(分節化している)ということです。世界の分節と言語体系の分節は同時的なのです。 …… 「真理」と「方法」とは単純に並置されているのではありません。 …… つまり「方法」なるものによっては「真理」は見えない、ということです。 「方法 method」という言葉は語源を遡るとギリシャ語の「meta hodos」になります。「道(hodos) に沿って(meta)」ということです。 …… 先入観は、テクスト理解に必要な「解釈者自身の持つ意味連関」として積極的に評価されます。「なければならないものである」ということです。 …… テクストそのものは元々解釈者のそれとは異なる意味連関(歴史的背景)に支えられて成立しているわけですから当然、解釈者が自分の意味連関に、言い換えれば「先入観」に閉じこもるかぎりは理解に限界が生じます。この限界は「テクストの側から」解釈者に投げつけられます。「わからない」という事態です。「意味が通じない」「一貫しない、矛盾する」などなどです。この事態に立ち至り、解釈者は「問」を立て、その答をテクストの中に模索し、答を見出すという形で自分の先入観から歩み出すことを余儀なくされます。 …… ここでは「先入観」という言い方をしていますが、これは「自分の持っている言語体系」と同じものと考えて差し支えないでしょう。すると、ここでは「別の物語」との出会いの中で「自身の言語体系を乗り越える作業」が進行すると同時に「自身の言語体系を自覚化する作業」もまた、行われていることになると言えます。 …… 要するに、異なった言語体系同士が接触し、ぶつかりあうところに「問いと答えの弁証法」は生じうるわけですから、同じことは異文化理解の場面でも起こるでしょうし、あるいは一人の人間と他者との出会いの中でも起こりうることでしょう。別の育ち方をし別の価値観を持ち、別の言語体系を持つ者同士が触れ合えば、そこには必ず互いにとって未知のものが見出されるはずです。それは両者を「それまでの言語体系」から超脱させていく契機になるでしょうし、いわばそれを鏡として、自身のもつ「それまでの言語体系」を自覚化できるでしょう。手短に言えば、他人との関わりを通じて他者を媒介として自己を認識する、ということです。」 ちなみに私は彼らから「未知」の物体と見做されていたようです(苦笑

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