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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:長州藩の力)

長州藩の力を知る

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.9

こんにちは。 NO5.です。 私への質問のみお答えします。 >>長井雅楽が<開国を前提とした公武合体」を唱え「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」が、朝廷にも幕府にも都合が良かったため>と書かれてましたが、都合が良いというのは具体的にどういったことなのでしょうか? >>また、長井が開国を唱えることで長州藩の攘夷派の怒りは高ぶらなかったのでしょうか?実際、周布政之助や高杉晋作、井上馨、伊藤博文などの開国派たちは、表では攘夷派というものでしたが、裏では開国派だったような、、、後に高杉晋作は四国艦隊砲撃事件の後、開国派として長州藩の攘夷派から目をつけられますよね? 上記をまとめてお話します。 長井雅楽の「航海遠略策」は、藩内の反対はあったものの、藩主の毛利敬親が受け入れ、文久元年(1861)3月より長井を江戸と京都へ「遊説」に派遣しました。 (1)嘉永6年(1853)6月、ペリーが浦賀に入港すると、ただちに、幕府は諸藩に対して「海防」を打ち出し、長州藩は相模を守ることとなった。 (2)さらには、安政4年(1857)6月19日の「日米修好通商条約締結」の際は、幕府にとって重要な武器庫の警備につく。 (3)安政5年(1858)、この「通商条約」が孝明天皇の許可なく調印されたため、幕府への不満を長州藩などへ伝えた。(「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」事件)。 (4)万延元年(1860)3月3日の「桜田門外の変」が起きて、井伊直弼が暗殺される。 (5)こうしたことを背景に、長州藩は、文久元年(1861)、朝廷に直接「航海遠略策」を受け取らせることに成功する。 (6)朝廷では、何とか徳川幕府と調和が取れないかを模索中でしたので、「公武合体」という部分で打開策が見出せると、考えました。 (7)長井は、その足で江戸へも向かい、幕府にも「航海遠略策」を提出する。幕閣の中にも「開国」を前提とする・・・という文言に、賛成意見が出され、長井は大いに喜ぶ。 (8)朝廷にも幕府にも「喜ばれた」と言うのは、朝廷も幕府も共に「自分たちの都合の良い部分」だけを受け止めた、ということになります。 (9)勢い勇んだ長井は、翌文久2年(1862)3月18日、再び入京するも、薩摩藩の「公武合体論」が大勢を占めるようになっており、長州藩は「蚊帳(かや)の外」の存在となってしまいました。 (10)文久2年7月、藩主毛利敬親が上京し「御前会議」が開催される。 (11)その結果、周布政之助や木戸孝允(桂小五郎)らが主導権を握り、「破約攘夷」へと転換した。つまり、「開国をしない攘夷」という、極端に言えば「攘夷一辺倒」に変更したのです。 (12)その後は、先にお話したように、「8月18日の政変」が起こり、長州藩は京都を追い出されます。 (13)もちろん、長井が「航海遠略策」をまとめた時やその前後でも、村田清風(せいふう)に登用された木戸孝允や高杉晋作、周布政之助らの派と坪井九右衛門(くうえもん)が登用した椋梨藤太(むくなしとうた)や長井雅楽の派と意見は、たびたび衝突をしています。 >>後に高杉晋作は四国艦隊砲撃事件の後、開国派として長州藩の攘夷派から目をつけられますよね?<< (14)その通りです。その辺については、あなたも良くご存知のようですので、(13)で述べた通り、長州藩は、常に、「攘夷派」「開国派」の藩内部での対立があり、攻守交替が後々まで尾を引きました。 (15)しかし、その後は、「池田屋事件」「禁門の変」などを経て、後には薩長連合へと変化していきました。 (16)藩主の毛利敬親(たかちか)やその子の定広親子らも、もう、時代の流れで、藩士たちを押し止めることができなかったのでしょうね。

suns
質問者

補足

ありがとうございます。つまり長井雅楽が唱えたこの策には、開国派側にも攘夷派側にも満足させることができる、いわばどっちつかずの文章ということでしょうか?海外と貿易をするけど、完全に受け入れてはいけない、、というような、、・ 現に、彼は暗殺されましたよね?なので、こういうあやふやな表現に攘夷派がやっぱりお前も開国派か!と憤慨したと読んでいるのですが、、 また、最後に高杉晋作についてですが、四国艦隊砲撃事件の後、私がいったように、彼は隠れ?開国派だったので、開国派と知った攘夷派はいかり、井上、伊藤、高杉(現に井上は斬られて瀕死の状態になりましたが)が逃亡しますよね、その後彼がやったクーデターというのは長州藩の攘夷派を全部抑えるために行った。でも長州征伐で幕府は長州藩(高杉)と戦って勝ち?ましたが、なぜ開国派の高杉は幕府と戦う必要があったのでしょうか?表上、長州藩=攘夷派というこの藩を幕府は倒そうとしたのでしょうか?それとも、長州藩を今倒さなければ、幕府の力が弱まると思って、長州征伐をおこなったのでしょうか? すいません、またまたの補足でしかも長いですが、お答えできる範囲でよいのでお願いします。

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