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幕末の攘夷派と開国派について
幕末の思想には、大きく分けて尊王攘夷派と佐幕開国派があったと理解しています。 以下の疑問について、大まかにご教授いただければ幸いです。 1.薩摩藩や坂本竜馬は尊王攘夷から尊王開国派に変わったと理解して良いか? 2.長州藩はどんな思想だったのか? 3.朝廷はひたすら攘夷だったのか? 4.「佐幕攘夷」などの思想を持つ藩や人物は存在したのか? 以上、よろしくお願いします。
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No5です。 最初のご質問からかなり踏み込んだ質問に変わりましたので私の回答では説明不足だったと反省しています。 大政奉還は徳川慶喜が打った大芝居で世上の予想を超えたものでした。 これは徳川幕府の発達した官僚制度を頼み、大政奉還しても朝廷は実務上徳川幕府に頼らざるを得ないと予測していたのです。 そこで政治総裁(首相のような地位)を維持できると期待していました。 一種の徳川幕府存続の奇手であったわけです。 しかしこれが討幕という事態の引き金に進んでしまったわけです。 その手段としてはその意思をもつ有力諸藩の結集が必要でした。 坂本はこの情勢を見て勤王の意思が強い長州と、軍事力は強大な薩摩の結合を図ることが必要と考え両者の仲介に乗り出したのです。 確かに坂本の現状打破の思想からして当然の帰結とはいえその政治力はすぐれていました。 しかし彼には内戦にまで進むのではなく平和裡にことが進む希望があったのではないかと私は考えたいです。
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- komes
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No4の回答者です。 坂本の倒幕思想は陸援隊長であった中岡慎太郎に啓発されたものときいています。 船中八策も中岡の考えを踏んだらしい。 また彼は幕臣の勝鱗太郎によって啓発されて開国思想になったのでその時々により流動的な思想でした。 また後の明治維新功臣となった連中から同志に誘われたとき政治には興味がないと断ったと聞いています。 これを見ても政治がらみは他にまかせ、海援隊の経済活動にのめりこんでいったのではないでしょうか?
お礼
度々のご回答ありがとうございます。 拘るようで恐縮ですが大政奉還と薩長同盟を考慮すると、 >経済活動にのめりこんでいったのではないでしょうか? とは言い切れないと考えます。 この大政奉還と薩長同盟における坂本竜馬の政治的手腕について、見解をお聞かせいただければ幸いです。 (私は、大政奉還は坂本竜馬が最初に考えた案でないことを理解していますし、竜馬を"幕末最大の英雄"と過大評価もしてはいません)
- komes
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幕末の思想を2つに分けて理解するのは少し短絡的ではないかとかんがえます。 尊皇開国派も佐幕開国派もいました。 いろいろな思想が混在し、また流動的でした。 薩摩藩も同様で藩主は佐幕派に属しましたが攘夷、開国についてはどちらかといえば中立といえましょう。 坂本は郷士身分からの上昇を狙い明確な思想は持っていませんでしたが、現状打破が彼の思想でした。 しかし種々の交友から次第に成長し、どちらかといえば政治よりも経済活動の方向に進路を定めていった様です。 したがって分類するとすれば公武合体開国派といえましょう。 長州は公武派と尊王攘夷派が混在していました。 後に後者が主流となりましたが外国との戦争に敗れて開国派に鞍替えしました。 朝廷はなんの定見ももたず、右往左往するだけでした。 ただ孝明帝は強固な攘夷思想でしたからこれに引きずられて尊王攘夷を叫んでいました。 諸藩では佐幕が多かったし、攘夷を唱えるほどの武力はありませんでした。 長岡藩や佐賀藩は国産や輸入による近代武装を初めていましたが思想的には開国派でした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >しかし種々の交友から次第に成長し、どちらかといえば政治よりも経済活動の方向に進路を定めていった様です。 私の知識では、坂本竜馬は薩長同盟や大政奉還をすすめた経緯を踏まえれば、彼のとった進路は経済活動かもしれませんが、根底にあったのは政治というか「日本の将来」であった考えます。
- caesar-x2
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幕末思想は大きくわけて、国体問題で尊皇と佐幕、公武 そして外交問題で攘夷と開国がありました。 この組み合わせ、つまり6パターンで、だいたい幕末の志士の立場は分類されます。 これは基本的なことなんで覚えておいたほうがいいでしょう。 1: 坂本竜馬は、国体問題ではあまりはっきしてません。 一時期、尊皇攘夷に傾いたこともありますが、 尊皇派とは袂をわかっています。武力倒幕で民衆が苦しむのを嫌ったので、 師匠の勝海舟と同様、公武派とみなされることもありますが、 単に開国派だったというのがじつのところでしょう。 薩摩藩は、佐幕開国(斉彬)→佐幕攘夷(久光)→公武攘夷(久光上京)→公武開国(薩英戦争後)→尊皇開国(久光公武断念後)と 幕末の動乱の進む過程で立場を変えています。 2: 長州藩は、強烈な尊皇攘夷派でしたが、下関戦争の敗北後、 尊皇開国派へ変わって倒幕へと推し進んでいきました。 人物でいうと、吉田松陰、久坂玄瑞から、 高杉晋作、桂小五郎への移行ということです。 3: 朝廷の人々は、そもそも内裏の外のことですら疎くて、 京都の情勢もよく把握してませんでしたから、 攘夷といっても何の根拠もない主張でした。 彼らはまったく浮世離れしていて、いうことは考慮する必要はありません。 4: 佐幕攘夷はけっこういます。代表はやはり新撰組でしょう。 新撰組は、攘夷のために集められた浪士隊のなかの佐幕グループです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 とてもわかりやすい解説に感謝いたします。
- dulatour
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幕末では、小中学生に分かるように教科書で言うような「尊皇攘夷派」と「砂漠開国派」がきっぱりと別れていたわけではありません。 教科書的な二者択一の分け方をするのではなく、特に激動期の思想は常に変化するというように柔軟に考えたほうがよいと思います。 今やっている、亡国鋭鋒層の『篤姫』では、そのあたりを小中学生にも分かるように説明しています。 1 脱藩するまでの竜馬の思想は単なる反発分子であって、よく分かりません。後年は、民主主義・経済主義てきなものを求めていたので、開国は当然のように望んでいたとしても、尊皇派かどうかはその範疇に入りません。 2 いろいろな階級の人がいて、状況に応じてころころと変わっています。最終的には攘夷は無理、天皇という後ろ盾を頂いて、自己保身の道を行ったのではないでしょうか? 3 孝明天皇は、日本が江戸時代以前に海外と交流していたいたという歴史認識のない人間だったという話がありますが、真相はどうでしょうか。水戸や長州、薩摩なりにいいように操られた公家衆がどういう思想を持っていたかは分かりません。 4 「佐幕」とは幕府の政策を是認する立場ですから、幕末のそれも末期では、多くの人が討幕までは考えなくてもなんらかの改革を望んだことでしょう。そういう意味では幕府の体勢を信じ、外国からの脅威を打ち払うべきだと考えるのは、現在はあまり注目されませんが、一般平民は皆そうだったでしょう。ペリーの顔が鬼のように書かれた絵が残っていますが、あれが民衆の現状の捉え方です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よくわかりました。
- notnot
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佐幕というのは、倒幕思想が出てきてから、倒幕に反対する勢力の事ですね。それまでは公武合体。倒幕思想が出る前は、幕府も外様雄藩も「天皇を敬って幕府を改革して幕府とともに外国に立ち向かう」という意味で思想は一致していたはずです(井伊大老などは幕府改革の必要無しという考えだったのかもしれませんが)。水戸徳川家の尊皇攘夷も有名です。 なので、幕府も薩長も朝廷も最初は攘夷で途中から開国に変わったわけでその時期に前後があるだけです。 0.長州は八月十八日の政変で京都を追われてから倒幕になります 1.薩摩は幕府・会津と長州を追い払いましたが、薩長同盟で倒幕になります 2.吉田松陰の教えを受けた高杉晋作らが自らを正義派、対立する対幕府協調派を俗論派と呼び、藩内で勢力争いをしますが、最終的には高杉らが藩の主導権を握り、倒幕開国へと進みます 3.孝明天皇は最後まで攘夷・公武合体派だったと思います。死後は倒幕開国派の公卿が主導権を握る 4.当初の幕府内は一部を除いて攘夷のはずです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >幕府も薩長も朝廷も最初は攘夷で途中から開国に変わったわけでその時期に前後があるだけです。 こちらがポイントのようですね。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 仰りたいことがわかりました。