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日本開国後の攘夷思想

幕末に興味があり、現在少しずつ勉強中の者です。 『幕末の日本では大抵の人は外国を撃ち払おうという攘夷の考えを持っていた』と様々な本やサイトで見るのですが、明治新政府の人物というのは攘夷思想は持っていなかったのでしょうか?持っていたのだとすれば、その後の日本の外交に少し疑問を持ってしまうのです。 幕末に出てきた人々は、例えば桂小五郎等の尊皇派にしろ新選組等の佐幕派にしろ、「攘夷」という点では目指すところは同じだったのですよね? 明治新政府のメンバーの中には勝海舟のように外国に良い感情(?)を持っていた人も居たのかもしれませんが、大半はそれまでは攘夷思想の持ち主だったはずです。なのに明治になってからは「攘夷」という言葉はほとんど出てこないのです。それは一体何故なのでしょうか? 私の考えられるところは… とりあえず、国を外国から守るためには逆に外国の技術を自らの物にし、国内の戦力を高めなければならない。(坂本龍馬の思想が確かこんなだったはず…) →そのために政府上部により「攘夷」の考えを削がれた。 →その結果、攘夷思想は薄れていった。 といったところなのですが、勉強不足で本当のところはどうなのか良く解りません。 長文になってしまい申し訳ありませんが、明治新政府の思想について詳しい方、少しでも情報をお持ちの方は是非回答お願いします。

  • si-no
  • お礼率69% (37/53)
  • 歴史
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  • ベストアンサー
  • umigame3
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回答No.3

幕末における攘夷思想とは「鎖国を国是」とした場合に成り立つ発想だと思います。 江戸期には「鎖国」とは日本開闢以来の「国是」と思われていたようです。 単純なところでは、「この国是を破って開国した幕府はケシカラン!!」となったわけです。 この世論をうまく利用して政権転覆を狙ったのが長州などの「倒幕派」。 今風に言えば、「郵政民営化」は必然としては必要な事だが、現自民党政権を転覆させたい民主党あたりがこぞって「悪法」と唱えているような状態。 一方、長州や薩摩などは「攘夷派」に薩英戦争や下関戦争をやらせ、結果的にボコボコにやられる事でその無力性を痛感させ、藩論をイッキに「尊王開国」へと向けて行ったとも言えます。 明治以後に直面する最大の危機は「ロシアの南下政策」であったと思います。 これを排除した日本の思想は「夷を排する」という思想より「日本こそNo1」という思想へ変化していったと思います。これが「国粋主義」への変化であると思います。

si-no
質問者

お礼

同じ藩の中でも攘夷派と西欧受容派が居て、受容派は攘夷派に実際に外国と戦争をさせることで、現状での攘夷は不可能で逆に外国の力が必要だという考えを攘夷派に持たせたのですね。 ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • pupipo
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.5

明治新政府にとって重要な思想は、まず今まで鎖国によって外国に遅れをとってきた日本という国を先進国並みの国力をつける事にそそがれていました。幕末、徳川幕府が一番危険に感じたのはヨーロッパやアメリカがおこなっていた植民地政策です。隣の国の中国(当時清)はイギリスの植民地下でひどい状況でした。何も隣に限った事ではないんですが。とりあえず明治政府が早急にしないといけなかったのが、先進国並みに国力をつける事です!明日は我が身を恐れたのです。「攘夷!」「攘夷!」と叫びたいのは山々なのですが、なんせ国力が無い。武士の魂日本刀!を振りかざしても、ポルトガル伝来の火縄銃を撃っても、その頃の最先端、鉄の戦艦や大砲、ヨーロッパ製のピストルにはかなわなかったのです。ルパン三世のゴエモンがいていたら別なんですが...。 まず、徳川政権下ではそのような大改革は実現できません。今の小泉政権に似た印象を持ちます。「自民党をぶっ潰す!」当時の最後の将軍、徳川慶喜は、諸外国の実情や国内の情勢をハッキリと考えることが出来た人のようです。「徳川政権をぶっ潰す」ニュアンスは違うかもしれませんが、大政奉還です。無血改革をしようとしたのですが実際は多くの血が流れました。 その後、歴史の時間に習ったように、廃藩置県や版籍奉還、議会を作ったり、大日本帝国憲法を作ったり、先進国に負けないように、強い国を作るために明治政府はがんばったのです。植民地化されないためにも!  その後国力をつけた日本は、帝国主義時代に突入していく事になるのです。攘夷どころか、日清戦争、日露戦争にも勝利し、60年前の戦争では、アメリカと互角とも言える戦いをするまでに至りました。実際負けましたが...。  現代の私たちが考えると、「攘夷」とはまたバカげたことを...と考えてしまいます。だって勝てないし、追い払うだけなら良いのですが、上陸されて戦争になったら日本国は滅びてしまうかもしれない。  si-noさんが言うように攘夷思想はその頃の日本人、佐幕、尊王に関係なく誰しもありました。明治維新後には、「攘夷!」(外敵を追い払う)ではなくて目標が、「外国と対等に渡り合う」に変わったから言わなくなったのではないでしょうか?  それを考えれば、先の戦争(第二次世界大戦)(大東亜戦争)も私に言わせれば、何も日本人は卑屈にならなくてもいいように感じるのですが。

si-no
質問者

お礼

「攘夷」も「外国受容」も、いずれにせよ自国を想うが故の行動だったんですね。 薩長等は攘夷不可能と知ったから、外国の力を直接知っているわけではない幕府とは戦わなければならなかった。新政府と幕府の戦いは外国から国を守るためのものなのに、それによって日本人同士で血を流しあったとなると何だかやりきれない気持ちになってしまいます…(-n-) 皆さんの意見は大変参考になりました。ありがとうございました。

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.4

人間は経験から学ぶものです。 日本は長い鎖国の時代を経て海外の事情は一般に疎いものでした。 しかし長崎からの海外情報に接する事ができた幕府官僚の中には正確に事態を理解していた人もいました。 その他の諸藩でも英明な藩主がいた薩摩、鍋島藩などは積極的に外国の技術を取り入れていました。 しかしそれは一部で、大多数は知らないまま外国嫌いでした。 特に長州藩は、吉田松陰が外国渡航に失敗した為海外の情勢に接することなく国粋論的教育を受けた人材が多かったのですが、それでも海外視察の機会を持った高杉晋作は、開明的な攘夷論者に変身し奇兵隊のような国民軍思想を持つにいたりました。 そこへ攘夷の戦争にいずれも壊滅的な敗北を喫した長州、薩摩藩は一転して開国が急務であると変身したのです。 しかしそれとても外国の侵略から日本を守ろうという富国強兵の考えが先の、形を変えた攘夷論的な思想によるものでした。  従って攘夷思想は消えたわけではなく、形を変えて存続した事はその後の歴史をよく見れば判ると思います。 その意味でNo3の御意見は卓見と思います。

si-no
質問者

お礼

やはり実際に相手と接しないと相手の力量、そして自分の力量もわからないものですよね。事件が会議室ではなく現場で起きているのと同じように(って古いし、なんか引用するモノ間違えた感が…;) ありがとうございました。

  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.2

富国強兵 和魂洋才という言葉に尽きると思います。 和の魂でありながら、服装も食生活も西洋化し、西洋化された軍隊で、西洋に侵略されないようにがんばるということです。 これは勝の思想の延長線上にあります。 攘夷というのは、元々中国の発想で、日本では言葉だけが一人歩きしました。 欧米人を夷(えびす)として、下等な人間として打ち払う思想ですから、火力によって一瞬で負けるわけです。 現実に、清はイギリスに負けましたし、明治日本が朝鮮を訪問して開国を要求しても、洋装をあざ笑って、和服に着替えたら話をしてやってもいいと言ったそうです。 攘夷思想を支えたのは、幕末に流行した尊皇思想です。カルト風神道原理主義というものでした。 吉田松陰によって洗礼を受けた長州藩士は、明治以後、陸軍や、関東軍として朝鮮半島や満州で過剰防衛的戦争を繰り広げ、日本を亡国へと導きます。 明治の日本では長州藩士によって尊皇攘夷思想は国家のベースとして国家の機軸になりました。 が、洋装で欧米と戦うという意識(勝の思想に近い)は、下関戦争で負けたことで、大きく変わりました。 日本刀で大砲と戦えば気付くのです。

si-no
質問者

お礼

政府首脳部のほとんどは薩長土肥出身者で、この辺りの藩は外国相手に直に戦ってますからね。その時に「攘夷」の無意味さを思い知ったんですね。 ありがとうございました。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

攘夷派といってもコチコチの攘夷派と、そうでないものがいました。 特に薩摩や長州は攘夷を唱えて外国船を打ち払ったり、外国人に切りつけたり(生麦事件)で最初はコチコチの攘夷派でしたが、両藩とも実際に外国の艦隊と戦争をしてみて攘夷などと言っていたのでは日本の国がもたないということを身に染みて感じました。 その後も幕府に対抗するために攘夷は唱えていましたが、実際には外国から兵器をこっそり輸入していたりして、本音は開国やむなしでした。 そういうわけで、幕府を倒したあと実験を握った薩長勢力は攘夷などは過去の遺物とばかりに捨て去って開国の方針にしたわけです。 ただ、長州については藩主は自己主張のない人でしたので藩をあげてそれで問題なかったのですが、薩摩については少々ややこしいことに藩主の父である島津久光はコチコチの保守派で開国にも反対だったのですが、西郷・大久保等が島津久光をなだめすかせたり、だましたりしてそういうほうこうにもっていったのです。そのため島津久光は後年「西郷・大久保にだまされた」といっていたようです。

si-no
質問者

お礼

やはりどの時代、どの場所にも頑固な者とそうでない者がいたんですね。この考えに至らなかった私はきっと頭が固かったのでしょう(^^; 何事も頭を柔らかくして先入観とか無しに考えないといけませんね。ありがとうございました。

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