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尊王攘夷運動について。(中二

教科書に、 1863年、尊王攘夷運動の高まりをおそれた幕府は、 天皇や薩摩藩の支持を取りつけ、京都から急進派の公家や長州浪士を追放し、 翌年には、長州藩を攻めて屈服させました。 と書いてありましたが、どうして天皇は、自分と開国反対派の長州に攻撃したんでしょうか? 意味がわかりません。

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  • webuser
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回答No.1

>天皇は、自分と開国反対派の長州に攻撃したんでしょうか? 天皇は攻撃などしていません。 する為の兵力も保持していませんでした。 攻撃する許可(長州征討の勅命)を与えただけです。 1863年に政変に敗退した長州の一部の積極派は 翌年に御所を攻めるクーデターを起こして失敗し、逃げ帰っています。 京都御所へ向かって発砲した事で、長州は朝敵となりました。

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