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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:長州藩の力)

長州藩の力を知る

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.5

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 質問を少し整理して解説してみましょう。 >>なぜ長州藩は幕府を牛耳るだけの支配権をもっていたのでしょうか? これには、長州藩の歴史にも関わりがあるのですが、 (1)天保2年(1831)に、長州で飢饉が発生し、民衆蜂起による「天保大一揆」が起こります。さらに、天保8年(1837)にも飢饉となり、「一揆」が起きました。 (2)藩主となったばかりの毛利敬親(たかちか)は、村田清風(せいふう)と坪井九右衛門(くうえもん)を交代で登用し、藩財政等の立て直しを図りました。 (3)村田と坪井は、全く「対照的」な政策を展開しましたが、安政年間(1854~)に入ると、村田の政策を受け継いだ周布政之助(すふまさのすけ)は「尊皇攘夷」を唱え、木戸孝允(たかよし)や高杉晋作らを登用しました。反対派としては、坪井はもちろん、坪井に登用された椋梨藤太(むくなしとうた)などがいましたが、弱藩であったため、当時の揺らぐ政治に対して、どちら(朝廷か幕府か)に付いたら存続できるかが話し合われ、 (4)安政5年(1858)、長州は、ついに、「朝廷への忠節」、「幕府への信義」、「祖宗への孝道(祖先を敬う)」という「藩是三大綱(はんぜさんだいこう)」を定めました。その後、「公武合体」を模索していましたが、 (5)文久元年(1861)に長井雅楽(うた)が「開国を前提とした公武合体」を唱え「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」が、朝廷にも幕府にも都合が良かったため、長州藩は一躍、政治の表舞台に登場するようになりました。 (6)そして、「尊皇攘夷」「公武合体」を唱える公家の三条実美(さねみ)らと行動を共にするようになりました。 (7)当時の孝明天皇も三条実美らを側近に付けており、長州は一弱小国から、天皇の後ろ盾があることで、朝廷に対しても幕府に対しても「物申す」存在へと力をつけてきました。 (8)その後、和宮が文久2年(1862)2月11日に14代将軍家茂と結婚。「公武合体」(政略結婚)は成功しました。ますます、長州は発言権や行動を強化していきました。 (9)一方、孝明天皇は「攘夷」の約束の基で和宮を降嫁させたにもかかわらず、幕府が一向に動かない、さらには、米国や仏国と「通商条約」まで取り交わしたことにしびれを切らし、文久2年(1862)10月に幕府へ勅使を派遣し、家茂を咎めました。 (10)そこで、家茂は、「釈明」のため、文久3年(1863)2月13日、実に家光以来230年振りの上洛をしました。 ※これが、あなたの言う「家定(正確には家茂)を京都に呼んだ??」でしょうね。 (11)しかし、家茂は孝明天皇に押し切られる形で、 「5月10日をもって攘夷をする」 と、約束してしまいました。 (12)それを聞いた長州藩は、5月10日に攘夷が決行されたもの、と思い、関門海峡(馬関海峡=ばかんかいきょう、とも呼ばれた)に停泊していた米国商船ベンプローグ号に長州側砲台と庚申丸(こうしんまる)および葵亥丸(きがいまる)から砲撃。突然の砲撃に驚いたベンプローク号は危機一髪で周防灘へ逃避。 (13)初めての「外国船打ち払い」で、長州は沸き立ち、すぐさま、朝廷からも「褒勅(ほうちょく=祝いの言葉)」が寄せられた。 (14)続いて、5月23日には、同じく関門海峡に入った仏国のキャンシャン号を砲撃、周防灘へ撃退。 (15)5月26日にはオランダのメジューサ号を砲撃。メジューサ号も同じく周防灘へ非難。 (16)長州藩は大いに盛り上がりましたが、やがて、孝明天皇自身も、長州藩の余りにも過激な行動に「憂い」を感じ、文久3年(1863)8月18日、「公武合体派」の中川宮朝彦親王や近衛忠房らを参台させ、「攘夷論」一辺倒の毛利敬親(たかちか)やその子の定広親子、そして、三条実美、三条西季知(さんじょうにし すえもと)、四条隆謌(しじょう たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、壬生基修(みぶ もとおさ)、錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)、澤宣嘉(さわ のぶよし)らを朝廷より排除しました。 これを「8月18日の政変」と呼び、7人の公家が京都を追われたので、これを「7卿落ち」と呼ばれるようになりました。 (17)当時は、御所の警護を薩摩藩と会津藩で行っていました。 (18)まだこの頃は、長州は薩摩と手を組んでいなかった。 (19)京都を追われた長州藩は、巻き返しを計るため、後の「池田屋事件」「禁門の変(蛤御門の変=はまぐりごもんのへん、とも呼ばれた)」などへ拡大していきました。

suns
質問者

補足

詳細に回答していただきありがとうございました。 補足ですが、長井雅楽が<開国を前提とした公武合体」を唱え「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」が、朝廷にも幕府にも都合が良かったため>と書かれてましたが、都合が良いというのは具体的にどういったことなのでしょうか? また、長井が開国を唱えることで長州藩の攘夷派の怒りは高ぶらなかったのでしょうか?実際、周布政之助や高杉晋作、井上馨、伊藤博文などの開国派たちは、表では攘夷派というものでしたが、裏では開国派だったような、、、後に高杉晋作は四国艦隊砲撃事件の後、開国派として長州藩の攘夷派から目をつけられますよね?

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