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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:長州藩の力)

長州藩の力を知る

nogul2nの回答

  • nogul2n
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回答No.2

 歴史に大変詳しい方が多くいらっしゃる中、関連情報でちょこっとおじゃまいたします。ご質問の内容そのものでなく、関連情報です~。  毛利氏(長州藩)は、関が原の戦いで豊臣方だったので徳川幕府からは外様大名にさせられてしまい、領地も今の中国地方5県&大分県の一部にまで持ってたのを防長二洲(ぼうちょうにしゅう、今の山口県)だけにさせられました。そのためたくさんの家臣たちも領地を失い、生活水準がガクッと落ち、お殿様についてトボトボと山口へ引っ越しになりました。藩の土地自体が狭~くなってしまったので今までちゃんとした領地をもらってた武士もわ~ずかな領地しか与えてもらえず、役職がもらえる武士も大幅に減り、相当数の武士が形だけの武士で事実上農民と変わらない生活になりました。郷士(ごうし)ってやつですね。  吉田松陰の実のお父さんの日記を見たことがありますが、ほとんど農業日誌です。お父さんは下級武士で、役職をもらってた時期ともらってなかった時期がありました。石高23石(26だったかな)で、役職をもらってないときは早朝から農業です。家も、武士なのに草葺きの家でした。松陰も今の年齢で幼稚園児のころ、お父さんの農業を手伝って働いていました。松陰は6歳(7歳だったかな)くらいで上級武士の家へ養子に行きましたので、ま、ほんの2年程度のことですが。  藩主がいるお城も、長州藩は本当は昔、奈良時代に国府が置かれて海・陸交通の便が大変良い防府(ほうふ、現 防府市)に置きたかったのですが、江戸幕府からは許可がもらえず日本海側のちっーちゃな漁村、松本村(まつもとむら、現萩市)に置くように命令が出て、萩に築城します。この松本村と山陽道側の間は山ばっかりでほとんど、けものみちのような道しかありませんでした。お殿様が参勤交代などで通らないといけないのでけもの道はその後整備され、萩往還、もしくは萩往還道と呼ばれますが、今も山の中です。  藩の政治の中心地を山陰のへき地でなく山陽側に持ちたいという思いは消えることなく、幕末に幕府弱体化のスキを突いて一時、山口市に移したりなんてこともやってます。  「なんでワシらぁが、こんな山奥の道を通らにゃいけんのか。」「かつては西国の覇者やったのにのぉ。」「大内氏の跡を継いで天下を取るために打って出ることもできたのにのぉ。」「なんで武士たる者がこんな農業をやらんにゃいけんのか。」  長州藩は徳川幕府を恨んでいました。もちろん表面上は従順なふりしてましたが。その反徳川の思いは、ほぼ農民化して藩内各地に散らばった下級武士を通じて一般民衆へも伝わっていました。それが幕末の非武士階級による武装組織、奇兵隊へつながります。武士であった高杉晋作の呼びかけに、あれよあれよという間に「奇兵隊、及び諸隊」が結成されました。一般民衆の政治への認識度が高かったとでもいいましょうか。  また、朝廷に対する思いですが、毛利氏はその昔天皇家の血を引く家系から出たらしいです。先祖が朝廷からもらったのが正三品の官職で、そのため毛利氏の家紋は上が横「一」で、その下に点点点と丸が三つあります。(というのは、研究者の人の講演を聞いた時のうろ覚えです。) そのため、朝廷に対する気持ちが元々強くあったようです。そこへ反徳川の思い、さらには戦国時代あの時に「我われ毛利氏だって天下を取って今の徳川のように日本を支配できたのに!」 の思い。  天下支配の権力欲をずっと持ち続けていたわけです。 明治維新でその望みはかないました。  ま、関連情報として反徳川の意思が長らくいっぱいあった、ということですわ☆  経済的な事についていえば、長州藩は白いものを増産することで収入を増やしました。白いものは、米、蝋(ろう)、コウゾ・ミツマタ(紙の原料)、塩 です。  米の増産の為、湿地・海を盛んに埋め立てて農地を拡げ、江戸勤務の武士は最新の農業技術の取得に努めました。その他の白い物も盛んに奨励しました。  結局江戸中末期には、公称37万石が実質は100万石あったようです。  武士の給料を何度も減らしたりもしています。減らしたうえに更に藩へいろんな名目で強制的に寄付させもしました。その一部が英国から武器買ったりするお金に回ったわけです。  でも単なる外様が政治的にえらい強く出てましたよね。肝心のそこの部分の理由はわからないのですが、要するに徳川幕府が弱体化してたってことじゃないかと思うのですが。詳しいかたにお願いしたいです。

suns
質問者

補足

詳細い回答していただいて誠にありがとうございます。!とてもおもしろかったです。元々長州藩は広い領地を持っていたとは以外ですね、外様ですもんね、、、譜代大名というのは徳川家についた人たちでしたっけ?、、すいません。 ちょっと補足なのですが、公家について質問なのですが、公家というのは武家政権になってからも実際存在はしていたのでしょうか?実質は武士のみが支配権をもっていましたが、ただ横にいる存在ということだったが、長州藩がいきなり公家を担ぎ出し、政権に再びでてきた? というより、初歩的な質問なのですが、公家って天皇ですよね、、??

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